イデア・シュラウドが目を開けると、目の前にはイデアの低い目線に合わせるようにかがみ込んだ知らない男がいた。
「シュラウド、俺のことが分かるか?」
男が問う。イデアは見覚えのない格好に首を傾げた。
「誰……?
警備班カローン、技術班ヒュドラー、研究班ニュクス。父母と弟以外に、イデアの知る人間はそのいずれかだった*1。白と黒の大縞の上衣はどの班の制服でもなかったけれど、微かな薬の匂いからすれば、化学系統の
「いや、『ニュクス』が何を指すのかは知らんが違う。俺はクルーウェル。ここナイトレイブンカレッジの教員だ」
「ないとれいぶんかれっじ」
イデア・シュラウドは、その校名を知らなかった。そればかりか、学校に通うという概念自体、この時始めて触れたものだった。デイヴィスとて、伊達にこの混沌の学び舎で教職、それも魔法薬を担当していない。この少年が己の言葉に全く見当もつかないのだと察しが付いた。
「なんだ、その……この場の責任者だ。とりあえずはそれでいい。おいダイヤモンド!この仔犬に魔力中毒の様相は見えん。お前で面倒を見ておけ」
デイヴィスはまともに失敗作を被ったイデア・シュラウド以外にも暴露者がいるのを思いだして、教室端の薬品庫に向かっていた実験パートナーを呼び戻すことにした。決して、この無駄に頭のいい仔犬に一から説明するのは面倒だなと思ったからではない。ないったらない。
「初めまして、オレはケイト・ダイヤモンド。けーくんって呼んでほしいな」
「けーくん……さん?」
「っふふ。それでいいよ」
「イデア。イデア・シュラウド。それでけーくんさん。ここ、どこ?」
「星砂の海、賢者の島、ナイトレイブンカレッジ、第二校舎地階、薬学実験室。十八歳のイデアくんが通ってる学校」
「【生育データとの照合を完了しました】……おかしいな」
ピピ、という電子音は決して大きいものではなかったが、その瞬間周囲の生徒は一斉に彼の方を見た。それにつられてついと顔を上げ、イデアも発言の主を見る。そう遠くはないところに浮いている、青色の炎髪の少年。きっと
音もなく自分の下に飛んでくる少年型の機械の名前を、イデアは知らない。
オルト・シュラウドが──今のオルト・シュラウドが製造された時には、既にイデアの髪は長々と燃えていた。色濃く隈を張り付かせた十一歳のイデア・シュラウドが、彼の見た兄の最初の姿だった。
「……僕は、」
イデアの目の前に降り立った
「僕は、『オルト・シュラウド』。あなたの『弟』、です」
オルトは、目の前の幼い兄が知っているだろう「オルト・シュラウド」のことを、データでしか知らない。ステュークスの管理記録に蓄えられた膨大なデータ、外側から見る映像記録でしか。それでもこの頃、兄が七歳と三ヶ月だった頃には、まだ致命的なことは何も起きていなかったことは知っている。統計的には半数よりも低い確率の未来でも、二人で大人になることを信じていられる状態ではあった。その未来のために、あるいはその日をめいっぱいに楽しむために、奮闘していた頃の背丈を、兄はしている。
「おると。……オルト・シュラウド」
「うん」
「僕の弟」
「うん」
七つの子にしても幼い口調で復唱する自分を、遠くから見ている気分だった。
イデアにとっての弟はまだ生きている。魔力循環異常症という、全面を魔導機に囲まれる嘆きの島ではあまりに致命的な病を負って、それでもなんとか、生きているはずだった。けれどそれは、「現在」から見れば十一年も前の話なのだ。
「……それは、僕の髪が燃えてるのと関係ある話?」
イデアは、ヒトから吹き出す熱なき炎を知っている。グレースケール近くに色薄れた肌を知っている。ヒトが自我と命を容易く失うことを、無軌道な魔法と指向性のない幻想とが生み出すものを、この世のどんな七歳児よりもよく知っている。
「【禁則事項です】あ、えーと……【情報クリアランスを満たさない人物が周囲に存在します】……ごめんなさい、ここでは言えないみたい」
「いいよ。分かったから」
「……そっか。僕は間に合わなかったんだ」
このアンドロイドが、もし正真正銘イデアの知るオルトと連続の存在なら、堂々とそう言えばいい。確かめるのに使えそうな秘密のやりとりだって沢山ある。その内のいくらかは監視カメラだって誤魔化してのものだ。でも、この「オルト」はそうは言わなかった。イデアのことを「お兄ちゃん」と呼びもしなかった。それなら、イデアの手は届かなかったのだろう。積み上げた本や論文の山と、作りかけの機材でいっぱいの部屋と、尚更取り返しの付かないところまでイデアが追いやった
「オルトくん、いいかな。さっき言ってた『おかしい』って何の話?」
オルトの身長に合わせて身をかがめたケイトがそう囁くと、別段隠すことでもないとばかりに返答が返った。
「今の兄さんの肉体年齢は七歳の二月頃を示しているんだけど、その頃の生育記録とは決定的に違う部分があるんだ」
「そっか。……あー、先生にだけ報告しておいたら?」
ケイト・ダイヤモンドは、イデアの過去を知らない。出身国さえ聞いたためしがないのを不思議にも思わない。聞こうとも思わないし、ケイトだって広い広い輝石の国のじゃあどの辺りなのかと言われたら「どこだと思う~?」と笑ってお茶を濁すのが精々だ。一学期だけクラスにいたよね、とか言われても困るので。
「そうだね。……【メールを作成】【デイヴィス・クルーウェル先生宛に送信します】」
「ダイヤモンド」
「はーい」
「その仔犬は解除薬の精製まで複数の人目に触れるところに置いておけ。どうしても負担が多いようならシュラウド弟共々サムに預けるように」
「りょーかいです。行こっかイデアくん」
「うう……誰か助けて……」
ぺそぺそと余り気味の袖口で涙の溜まった目元を擦る少年にそう言われると、なんだか誘拐でもしている気分になるが、ケイトは決して未成年略取犯ではない。本当に。本当だってば。ケイトがこの少年の手を引いているのは
イデアの「決定的に違う部分」とやらが、体格だとしても、魔力だとしても、精神的な反応や、あるいは全然違うものなのだとしても、ケイトには全く関係の無い話だ。たとえ数日間も面倒を見るよう仰せつかったのだとしても、十一年前のイデアがどんな風だったのかを知らないケイトには、本当に全く関係の無い話なのだ。うん。
「ねえ、オルト」
「なあに、兄さん」
「上、青いね」
「晴れの日だからね」
「晴れ……」
「ああ、そっか。二月だもんね。『青空』だよ、兄さん」
「そら?これが、そら?」
「うん。嘆きの島で見えるのとは違う、
「……眩しいね」
イグニハイド寮の副寮長は空席である。したがってオルト・シュラウドは寮長代理としてやらねばならないことが山積みで、四六時中兄に張り付いているわけには行かない。仕方ないから、と(本当にこう言われた)小さな
「寮長なら庭っすよ」
後輩がそう言う通りに前庭へ出たケイトは、明らかに茶会の準備をしている上役二人にぱちぱちぱちと三度瞬いた。ハーツラビュル寮としては正しい。正しいのだがナイトレイブンカレッジの名前も知らない幼子に何でもない日のパーティーは辛い。
「ハーツラビュルへようこそ、イデア先輩」
ほら!連絡の不備か伝言ゲームか知らないけど見知らぬ児童に対する態度じゃないんだよ。いかにも声が硬いもん。
「けーくんさん、このひと誰?」
す、と隠れるようにケイトの背後に移動したイデアが、ケイトの耳までもぎりぎり届くかどうかという小声で聞く。内緒話というよりは獣人同士が話しているときの声の使い方が近いように思えた。ケイトは獣人ではないので根拠はない。
「うちの寮長。なんだろ、オレの上司的な?」
「班長さんだ」
「まあそんな感じ。たぶんだけど」
班長さん、かあ。隊長さんとか将軍さまとか言わないだけ安心なんだろうか。でも店長さんとか所長さんとかではないんだね。イデアくんのおうち、よく分かんない。
なんとなく億単位の研究資金をさくっと出せるらしい気配はあるが、実際は何かのきっかけでパトロンでも付いたのかもしれないなとケイトは思っている。二週間に一度駄菓子を(たぶんまとめて)買って貰えるのが楽しみで、生菓子の類はほぼ出なくて(これは偏食の所為かも)、誕生日とクリスマス*2に評判のゲームを買って貰えるから必ず二人で遊べるものを頼んでいて、そういう家庭らしいので。やっぱり研究費用の出本はパトロンでもいるんだろうな、うん。
ちょっと入学直後の噂とか鑑みるとアレなとこありそうだけど、噂は噂なので。ケイトが頑張って集めたそこそこ信憑性ありそうな友人の話だけど、噂は噂なので。今日の言動見てると地下室か何かに軟禁されてたっぽさがあるけど、噂は噂なので。無理筋なのは知ってる。でもケイトは世界の裏側みたいなものには関わりたくないのだ。カリム・アル=アジームとだってただの部活仲間なように、イデア・シュラウドはただのクラスメイトである。
ケイトの後ろでぴるぴる震えるイデア(態度の硬いリドルと最初に挨拶したきり動き回っているトレイとオルト公認の友人*3であるケイトとだとケイトが一番マシなのだろう)をなんとか宥めてお茶もタルトも万全のテーブルに着かせる。
リドル・ローズハートがこの席を設けた理由のうちにはきっと、依然イグニハイド寮長宛てに招待状を出してにべもなく断られた何でもない日のパーティーのこともあるのだろう。ケイトだってせっかくのトレイ・クローバーの新レシピが流れるのは惜しかった*4。
人見知り(推定)のゲストに配慮してか参加者は四人、テーブルは一つきり。ミルクにはちみつ、ジャムにお砂糖、香りの違う紅茶のポットが三つ*5、それからトレイ・クローバー作の美味しいタルトが1ホールと一年・二年合同で挑戦中のクッキー色々が大皿に一枚分*6。薔薇は色変え魔法でみんな赤。本当に何でもないお茶会だから眠り鼠はいないけれど、たぶん今日のゲストにはその方がいい。
結論だけ言えば、七歳のイデアは十八歳のイデアより余程人慣れしていたが、それ以上に薔薇の王国の生活様式に不慣れだった。
「……?」
たっぷり五分も掛けてイデアに紅茶*7を淹れて、正副寮長へ一通りの説明を終えたケイト・ダイヤモンドは、隣席のタルトが一欠片も減っていないのに気が付いて、首を傾げた。イデアもほとんど同じように首を傾げて、ようやっとデザートフォークを手にしたリドルを観察している。
「イデアくん、もしかしてケーキ食べたことない?」
ケイトはリドルの受けた
「これがケーキなの?」
ケイトへ訊ねられたその言葉への反応は、けれどリドルの方がずっと早かった。
「どういう意味だい?イデア先輩」
「みゅっ」
大切な幼馴染の
そして頼れるトレイ・クローバーは本当になんとかしてくれた。副寮長万歳。
「落ち着いてくれリドル。イデア、ケーキを見るのは初めてか?」
こくり。小さなイデアが控えめに頷いたことに、リドルは大層驚いた。嘘を吐くなとさえ思った。リドルの育ったローズハート家でさえ、(甘くてきらきらして美味しい
「……ねえトレイくん。けーくん嫌な予感がするなあ」
ケイトもリドルとほとんど同じことを思った。シュラウド家は誕生日にプレゼントをくれるのに、ケーキは出さないらしい。やはり食文化が全く違うのだろうか。極東*10みたいにチョップスティックが主だったり、あるいは熱砂の国や夕焼けの草原の一部のような手だけで食事をするのが一般的な地域の出身なのだろうか。そうだといいな、とケイトは現実逃避気味に思った。
「奇遇だなケイト。俺もだよ」
トレイ・クローバーは、イデア・シュラウドのカトラリー使いに思うところはない。七歳ならまだ順手でも逆手でも好きに持っているのをぎりぎり許される年頃だろうし、十八歳でも本人がそれでいいならまあいいんじゃないかと思う。ただケーキを一度も、
「……イデアくん、クッキー食べる?こっちは手掴みでいいやつだけど」
「たべる……」
小さなゲストがケイトの勧めでクッキーを手に取るのを見て。トレイは心を持ち直した。とりあえずのところは自分の疑問よりも優先すべきものがある。紅茶とお菓子の組み合わせが美味しいのだとイデアが帰るまでに覚えてもらうこととか。
「冷凍のスコーン、取ってくるよ」
手で割って食べられるものなら問題ないだろう。ジャムとクリームは見本を兼ねてケイトが塗ればいい。クッキーを作るのにも向かなかった生徒の練習台に焼かれたスコーンは大方の予想に反して絶賛され、ケーキ班やクッキー班とは別にスコーン班が正式に結成されるに至っている。
「お願い」
ケイトは大喜びで頷いた。ハーツラビュル仕様のスコーンはジャムをたっぷり付けるのが前提なので、本体の甘みはほぼ付けない。ケイトはトースターで温め直したこれにバターをたっぷりと載せるのが好きだった。ジャムなしのクロテッドクリームだけでもいい。そのためにもまずはじっとケイトの手元を見ている小さなクラスメイトのためにゆっくり丁寧にフォークの使い方の手本を見せておこう。別にケイトが甘さ控えめ生地のタルトを待ちきれないからではない。本当に。
「イデアくん、何か見たいものとか食べたいものとかある?」
「そんなこと言われても……本読んでも持ち帰れないんじゃ意味ないし……」
「んー、じゃあオクタの海とかどうかな。貸し切りは無理でも席の予約くらいなら受け付けてくれると思うけど」
「うみ」
「うん。海初めて?内陸の出なの?けーくん普通にオクタだと海の中から見れるからと思ったんだけど」
「内、いや違う、けど。海は初めて」
「……そっかー。オクタヴィネルは海、スカラビアは砂漠。地形だとこの辺かな。ポムフィオーレとディアソムニアはお城だよ。サバナクローは……ステップ寄りの砂漠、や、逆かな?で……なんだろ、夕暮れとか星が綺麗とは聞くね」
「ゆうぐれ……」
「……レオナくん、いや、ラギーくんに明日の日没あたり寮行っていいか聞いとくね」
「う、うん。戻ってなかったらね」
「うんうん。で、今日の夜は折角だしオクタで食べよう」
「え」
「海、見たくない?」
「え、ん……見た、いけど……」
「じゃあ見ればいいの……っと、予約したよー。けーくん天才!」
就寝時こそオルト・シュラウドに引き渡してイグニハイドに戻す予定だけれど、この際だから十八歳のイデア・シュラウドが死んでも行かなそうなところをめいっぱい巡ってみたらいいんじゃないかとケイトは思っている。具体的に言うとハーツラビュルのお茶会のテーブルとか、モストロ・ラウンジの大水槽前とか。
「おやイデアさん。話には聞いていましたが、随分可愛らしくなりましたね」
「けーくんさん……」
もうケイトの後ろに隠れるのが恒例になったイデアがぎゅうぎゅう押しつけてくる不思議な感触の頭を撫でつつ、何故か(大体察しは付くが)楽しそうな後輩を紹介する。
「アズールくんだよ。アズール・アーシェングロット。オクタヴィネルの寮長で、イデアくんともそこそこ……いや結構、仲良かったと思う」
「そうなんだ」
「うん。ところで店長さん、予約してたダイヤモンドですけど」
ケイトの影から顔を出す気のなさそうなイデアを庇うように、ほんの僅かだけ声を硬くする。このまま話していたら厄介な方のウツボ*11までやって来てイデアを囲んだりしかねない。ケイトは彼にストレスを掛けるために連れてきたわけではないし、いつものクラスメイトならともかく七歳のイデア・シュラウドのことは守る義務があるだろう。なにより、万が一にも強いストレスで魔法薬の効きが変わったりした時のデイヴィス・クルーウェルの反応が怖い。
「ああ、失礼しました。今ご案内いたします。店内でも一等海のよく見えるテーブルにね」
大水槽の目の前のテーブルは、指定して予約するなら(
「ホタルイカ先輩マジでちっちゃくなったんだね」
メニュー表を手にやって来たモストロ・ラウンジのナンバースリーにケイトは軽く手を振る。
「あ、フロイドくん。……イデアくん、この人──や、人魚なんだけど──はフロイド・リーチ。ここのナンバースリー、かな。靫の人魚」
「
自分を見ないままに落とされたイデアの呟きをフロイドは聞き咎めた。
「何?なんか言いたいことでもあんの?」
「
端からこちらの言葉など聞こえていない、とばかりのイデアの態度に、流石のフロイドも鼻白んだ。フロイドでさえ周囲の言葉には(相手の望んだものではないことが多いが)反応を返す。イデア・シュラウドが自分の世界に潜り込んで反応を返さないのは初めてのことではなかったが、こんな歳からそうだったのか。
「……ハナダイくん」
「無理無理。イデアくんだよ?」
処置なし、とばかりにケイトは首を振った。考え込んでいるイデアを引っ張り出したかったら、必要なのはケイトではなくオルトだろう。
「はぁ……ごちゅーもんどーぞ」
「んー、手で摘まむ系か、せめてスプーンで食べれるやつが欲しいんだよね。子ども舌でもいけるやつで……最低限主食は食べて欲しいけど……」
「ホタルイカ先輩がまともに食べるとは思えないもんねえ。んじゃブルスケッタと、ミネストローネに押し麦入れたのと、」
「生ハム食べたい」
「いいよー。ハナダイくんカルパッチョ食べる?今日の鯛は人間でも生食おっけーのやつだよ」
「食べる。あとオレくんペンネ・アラビアータのハーフサイズ、辛さマシマシで」
「ハーフサイズなんだ?注文付けるなら割引ないよ」
「最悪頼んだ前菜全部食べないとだし……」
「持ち帰り詰めたげるよ。そん代わりオレここで賄い喰うから」
「取引成立。あ、ミステリードリンク二つ」
「いえーい。んじゃ行ってくんね」
フロイドが席を立ったことにすら、イデアは気付いていないようだった。ぴりぴりと警戒しているように見えるのは、軽い探知魔法でも使っているのだろうか。イデアは特段魔法石を取り上げられたわけではないし、普段から髑髏型のガジェットは使ったり使わなかったり初手で召喚したり色々なのでブロットの心配はあまりしていないが、慣れない環境にいるのに魔法を積極使用するのはどうなのだろう。
「海、見に来たんでしょ」
「あ、……うん」
そう言って、イデアと一緒に大水槽に向かって顔を上げた。モストロ・ラウンジはオクタヴィネル寮の、ひいては寮用に創られた魔法位相にある海中の只中に存在するが、大水槽の向こうがそのまま寮の外の海に直結しているわけではない。
装飾性を大いに考慮され、三日に一度は人魚の
「イデアくん、スプーンの持ち方分か……それどころじゃなさそうだね」
揺らめく水面は遙か上方であるにも関わらず、水槽は魔法具を用いて空間そのものが均質に照らされている。暖海の魚の鱗がこれといって源のない光を照り返し、水槽を臨むこの席からは底で蠢く軟体に合わせて流れる砂の動きさえ容易に見通せる。従業員の全てが魔法士として一級の才を持つ
「海、すごいね」
「そうだね」
ケイト・ダイヤモンドは目の前のスープとドリンクに温度保持魔法をかけた。優しいので。
「……イデアくんってもしかして、鉛筆より先にキーボード触った人?」
「けーくんさんは違うの?」
「違うの」
「だって文字書くのってめんどくさくない?鉛筆だってもったいないしさあ」
「判断と入力の間に書く手間が挟まるのって大変そうだよね……その中なら打鍵の方が早い分、キーボードがおすすめかな」
「手書きの方が早い層もいるんだなこれが。てかイデアくんほんとどんな環境で育ってるの??」
「えっとね、」
「【禁則事項です】」
「……ひ、秘密」
「ごめんね、ケイト・ダイヤモンドさん」
「いや、まあ別にいいけど」
夜に鏡舎でオルトとイデアを見送って、(珍しく)朝に鏡舎まで出てきた二人と合流して、並んで一日授業を受けて、調薬に必要らしい素材を購買から錬金術教授室まで届けて。小さなイデアとの二日目はそうやっていればすぐに過ぎた。
「サバナクローにようこそ!ちっちゃい子が来るとこじゃないと思うんスけどねえ」
鏡を抜ければ、後輩はすぐそこに待っていた。ドーナッツ1ダース(イデアのおやつ込み)であっさり釣られたラギー・ブッチの苦情のことは忘れて、例によって例の如くケイトの後ろにひっついているイデアを前に出す。
「あ、ありがとねこさん……」
告げられた言葉にラギーはそうだよな、と俯いた。身近に獣人がいなければ獣人の種族差など分かるわけもない、が、ラギーは断じて猫でも犬でもない。
「俺はハイエナっスよー」
「えっ。ごめんなさい」
「これから覚えてくれればいいっス」
軽く釘を刺せば普段のイグニハイド寮長とは打って変わって素直に謝られてしまい、ラギーはそれ以上何か言い募ることはできなかった。イデア・シュラウドのことだから絶対煽ってくると思ったのに。何がどうなったらこの素直な子どもがああなるんだ。
「空が見たいって?」
「うん。雲と、夕焼けと、月と、あと星の瞬くそらと、」
きらきらした金色の瞳でラギーの青灰色をじっと見つめながら、栄養不足のラギーよりももっと小さなイデアが捲し立てる。見た目相応までの記憶しかないとは聞いているが、よほど大気汚染の酷いところにでもいたのだろうか。空気の澄んだ郊外にでも邸宅を構えていそうなお金持ちではなかったのか。
「落ち着いてください」
まあ今日のラギーはドーナッツに相応の働きをするだけなのだが。具体的に言うと絡んできた自寮生に「オルトくんに蒸発させられたくなきゃ手ェ出さない方がいいっスよ」と忠告するだけの簡単なお仕事。
「うん……」
「んじゃ、オレは本当に後ろで見てるだけのつもりだから基本はラギーくんよろしく」
待て、とケイトに顔を向けるが、いっそわざとらしく逸らされた。下手なことしてオルト・シュラウドの機嫌損ねるのは御免だぞおい。
小さなイデアときたら聳える木々から空を流れる薄雲まで高いところにばかり目をやるので、ラギーは寮生の素行云々より前にこの小さな客人が石に蹴躓いたりしないよう気を配る羽目になった。寮のある異界位相はそれなりに住みよく調整されているが、いかにも鈍くさい子供を想定されているわけではない。それでも運動部の何処かしらが毎日のように活動する辺りはまだ石やら枝やらがどけられているのでよかったのだが、このちびときたら荒れ野の方へ出ても足元を疎かにするのに変わりはなく、最後にはラギーばかりかケイトさえ呆れて交代で軽量魔法をかけながら抱え上げる羽目になった。
「きれいだね」
ケイトはそう言って目を細めた。輝石の国中に引っ越して回ったとはいえ、ケイトの父が務めるのは輝石の国でも三本の指に入る
「そっスね。今日日夕焼けの草原でもここまで空が澄んでるのは珍しいんで」
夕焼けの草原の近代化はこの十年ほどで急速に進んだらしいが、ラギー・ブッチの知る空はおおよそが煤のかかったものだ。汚れの出ない動力は金のある方から順に買われていくので、ラギーのところでも手に入るのは毎度拭いてやらなければ周り中煤と油で使い物にならなくなるような代物ばかり。そうでなくたって緯度が低く日差しの強さが洒落にならない夕焼けの草原では、空は日避け布で遮られるものだ。国名に反し、広い空と地平の果てへ落ちる夕陽を眺めていられるのは、実際は比較的緯度の高い一部地域の、その中でも僅かな部類だけだった。
「色が重なって……大気の層って分厚いんだなあ……」
サバナクロー寮の異空間は、夕焼けの草原で最も住みよい地域の、工業革命以前の様相を写している。空高くに薄い雲が何層にもかかり、地下の貴石を数多砕いて撒いたようなグラデーションが入り交じる。
窒素と酸素とその他幾らかの分子。イデアの故郷が臨む
「イデアくん、あっちに月だよ」
半分を過ぎて満ち始めた白円が茜紫の空に浮かんでいるのに気がついて、ケイトは左手を指した。
「月……あれ?あの白っぽいの?」
「うん」
空の青も、木々の緑も、苺の赤も知らないイデア・シュラウドが、どこから来たのかそろそろケイトにも想像が付いた。月に女の横顔を見出すことのない場所。ホリデーに帰る場所を聞かれていたときの返答を思い出す。最短で一時間半*12。この宇宙の何処か。
「……思ったより、小さいんだね。太陽はともかく……」
「がっかりしてる?」
「いや別に」
言葉に反してむくれるイデアの目線は、専ら群青と紫紺が混ざるようになった空を見上げている。一番星という概念を、彼は知っているだろうか。月の輪郭が僅かに広がって見えることを、(魔道位相であるここでは見えないけれど)星だと思ったものが点滅しながら移動するのに気付いて飛行機かと肩を落とすことが、彼の人生で一度でもあるのだろうか。せめて、プラネタリウムに夢を見る日くらいはあっただろうか。
ケイトが数ある占術でも占星学にのめりこんだのは、星が輝石の国のどこでも平等に見えたのが大きい。ある街では誰もタロット占いの存在を知らなかった。数秘術は数を使う時点で受けの悪いことが多く、夢占は個人の感性が影響するために交流の摑みには向かない。魔力伝導率の良い水晶玉は手に入れば一生ものだが、小中学生の手が届くものではなかった。星には、そして星にだけは、どこでも皆関心があった。
「そういやさっき気になったんスけどイデアさん、星の瞬かない夜は知ってるんスか」
等身大のランプのような少年があんまり熱心に空を見上げて動かないので、ラギーは揶揄うように言った。曇り空だけは知っているのだろうか。あるいは作り物の、なんだったか、そう、
「……展望所は滅多に入れなかったけど、
「……SFかよ」
「へーお貴族様……ってわけじゃないんだっけ。金持ちでも不自由はあるんスねー」
飢えないものには飢えない者なりの不満や鬱屈があることを、ラギー・ブッチは知っている。贅沢なことだとは思うけれど、確かに何をやっても誰一人「凄えな」とも「ありがとよ」とも言ってくれない世界に生まれるよりは、明日の水にも困る今のクランの方がましだった、のかもしれない。金があればあるだけ、どうすることもできないと突きつけられるだけなら。綺麗な水さえあれば、腐っていない食糧があれば、まともな医者にかかる金を工面できれば、なんとかなると信じて藻掻けるだけ、気は楽なのかもしれない。だからといってラギーが「贅沢者」の声を潜めることもないが。
「……家に帰りたい?」
夜空の東端を見ながら発された言葉の脈絡の無さに、ラギーは首を傾げた。ラギー・ブッチにとっての空は、箒で届く高さかそれよりも外側かの二択だ。実際、どこまでも広がってはいないさして寮位相では間違いでもない。ラギーは、十年後には月に人が降り立つという噂を何かの冗談だろうと思っている。魔法士には珍しい考えではない。月の神秘が薄れるのを恐れない、大馬鹿者の発想だからだ。遍く神秘を技能に、そして機能に、引きずり落とさんとする異端者らを除いては。
「……別に。でもオルトには会いたい」
ケイト・ダイヤモンドにはそれが、ケイトの知らないオルト・シュラウドを指すのだろうことが理解できた。その彼がきっともうこの宇宙のどこにもいないのだろうことも、たぶんそのことを、この小さな天才が解っていることも。
「イデアくんらしいなあ。望遠鏡くらい借りてくればよかったかもね」
人工衛星だって見えるんだし。続けられた言葉にイデアは口を尖らせた。別に、嘆きの島の所在がバレたところで、言いふらされても戯言だと思われるのが落ちだ。確認しようと思ったら大がかりな準備がいる。
「見えないよ」
「サイズの問題?」
イデアはゆるゆると首を横に振った。そうではない。確かに肉眼で見えるサイズではないけれど、嘆きの島の軌道には気を遣っている。
「向こう側、影の側だからここからじゃ無理。夜は尚更」
「プルート?」
「ジュピター」
「オレが死ぬ前までくらいに、遊びに行けるようになったらいいね」
今日の夜には中和剤の届くだろうクラスメイトに、きっとこの会話も覚えていないだろうと踏んでそう言った。その時には個人の魔法よりも工学の方がずっと便利になっているだろうし、そうしたらケイトの取り柄なんて
「来る気もないくせに」
「いいのいいの。オレたちじゃなくても、子供やら孫やらが仲良くなるかもしれないでしょ」
星の巡りの大半から、神秘が失われた後のことになるだろうけど。ケイト・ダイヤモンドが全球をきらめく星々に囲まれてみたいと思ったのは、
ケイトだって、子供の頃の夢が一つぐらい叶っても良いと思うのだ。
「そうかなあ……そうなってたらいいな」
来るだろうか。
「兄さん、楽しかった?」
「……まあ、そこそこ」
「……オルト、は」
「うん」
「オルトは、今しあわせ?」
「うん!とっても」
「……そっか。それならいいんだ」
君が、