『例の部屋』から始まるTS偽いあちゃんとゆかりさんの話 作:Sfon
話を聞く気になったと分かったゆかりさんは、オレをリビングに案内した。家族でも住めそうなほどに広く、ダイニングテーブルに二人掛けのソファー、大きなテレビを置いてもまだ広々としている。
壁沿いにある棚にはCDと雑誌がいくつか並べられていた。どれもゆかりさんの参加したもののようで、許可をもらって手に取り、CDのジャケットを眺めたり雑誌をぱらぱらめくったりしてみる。どのゆかりさんもクールにキメていてかっこいい。
雑誌にはゆかりさんと合わせて見知ったメンバーが一緒に載っていた。初音ミクを筆頭に鏡音リン、鏡音レン、バックバンドには弦巻マキらしき姿も見える。この雑誌には載っていないが、この調子だと他の『ボーカロイド』メンツもいそうなものだ。
ゆかりさんはキッチンで何か飲み物を作ったようで、マグカップを二つ持ってソファーに座り、目の前のローテーブルに並べた。隣に座れということだろうけど、さすがにまだ抵抗がある。むしろ、なんで彼女はあの部屋で襲い掛かってきたオレに恐怖心を抱いていないんだろうか。
そうして渋っていると、『ほら、ここに座ってください』と隣の席をポンポン叩いて催促される。それでもやっぱり気が進まずに迷っていると、ゆかりさんがソファーから立ち上がり、オレの手を取り、ソファーの席まで強制的に連れていかれた。
渋々、それこそ、借りてきた猫みたいに座る。長い髪を背中に敷いたまま背もたれに寄りかかっていいとは思えず、くつろがせようとしてくる柔らかな座面に反抗して姿勢を正す。
目線は目の前に置かれたマグカップに向けた。ゆかりさんの方を見られるほど心臓は強くないし、どこも見ていないと落ち着かない。目線だけ落ち着けても手持ち無沙汰で、両手でマグカップを手に取った。
部屋の中は涼しい。オフショルダーとミニスカートを着ているせいか、ちょっと肌寒くって、暖かいマグカップが心地いい。
ちょっとだけ飲んで、苦さにびっくりしてしまう。記憶では飲めないこともなかったはずのブラックコーヒーだが、今は一口飲んだだけで体が拒否反応を起こしているみたいだ。まるで初めてコーヒーを飲んだ時のように。
「砂糖とミルクもありますよ」
何も言っていないのにシュガーポットとミルクポットを差し出してくれた。随分と察しがいい。一言お礼を言って、遠慮なく砂糖とミルクを入れる。ちょっと入れて、まだ飲むにはキツくて、ほとんどカフェオレと言っていいくらいに入れてようやく飲める味になった。体に合わせて、舌まで幼くなったのだろうか。
甘くて暖かいコーヒーを飲んで、肩と顔から力が少し抜けた。それと同時に、なぜか、このタイミングで、ここが夢ではなく現実なのかもしれないと真剣に思い始める。
振り返ってみれば、視覚も、聴覚も、触覚も現実同様で、ここにきて味覚と嗅覚も現実同様だと分かった。マグカップの中からはコーヒーの香ばしいにおいが漂い、一口飲むごとに苦みと甘みが口の中に広がる。
五感が現実同様で、意識もはっきりしている。これでは、夢であっても現実のようなものだろう。
夢と現実、この二つのワードから連想されるものとして、胡蝶の夢なんてものがあったのを思い出した。男の頃のオレと今のオレ、どちらが夢でどちらが現実か分からないなら、今を確かに過ごすしかない。そんなことを言っていた気がする。
気持ちはだんだんと、これからどう生活するか、どう生き延びていくかといった、前向きなものに切り替わっていく。一番楽なのはゆかりさんの言うことに従うことだけれど、オレがアイドルをするなんて考えられない。何か勝算があって言っていることなんだろうか。
思考に一区切りついたのを見計らったように、ゆかりさんが口を開いた。
「さっき読んでいた雑誌に書いてあったと思いますけど、私、歌手をやってるんです」
机の上に開いて差し出された雑誌の記事には、『対抗馬登場、初音ミクの一強時代に終焉か!』なんて見出しがついていた。
「初音ミクが現時点ではトップで、彼女と同じグループの歌手たちもそれに続いています。私は絶賛売り出し中なんですが、なかなか現実は厳しくてですね……。さすがに一人で活動するのは難しいって、プロデューサーも言ってました。だから、あなたの力を貸してほしいんです」
「オレを、ゆかりさんと同じ舞台に立てようとしているってことですか?」
「可愛らしい見た目に魅力的な声、それだけが必要で、あなたは既にそれを持ち合わせているんです。そこにあなたが思う『かわいい』を反映すれば、もう向かうところ敵なしですよ」
「中身は男ですけど」
「宝塚だって、中身は女の人なのに男役をあれほど見事に演じれるじゃないですか。逆があったっておかしくありません。しかも見た目に関しては元から完璧なんです。なにも、起きてから寝るまでずっと演じていてほしいわけじゃありません。仕事をしている間だけなんです。男の人だって、仕事中は自分のことを『わたし』って言ったりするでしょう? それの延長線上みたいなものなんです」
不安材料を一つ上げると、圧倒的な熱量を返される。一体、何がゆかりさんをそんなに突き動かすんだろうか。
「どうしてそこまで……」
そう零したら、体をずいっと前のめりにして、顔を寄せてきた。急にされたものだから、思わずのけぞってしまう。
「わたしが、あなたのファンになったからです。あなたを世界に羽ばたかせて、可愛さを知らしめないといけないって思ったからです」
もう、ゆかりさんの気持ちは決まっているらしい。これだけ熱意をもってくれているなら、彼女に少しでも罪滅ぼしをするために頑張ってもいいのかもしれない。
ストッパーになっているのは『前の世界のいあちゃんのファンに対する後ろめたさ』だ。偽物のオレがいあちゃんとして生きていくなんて、許してもらえそうにない。でも、もうなってしまったからしょうがないと割り切ってもいいんだろうか。
このまま何もせずに死ぬのと、アイドルとして成功するために努力するのと、どちらの方がマシなんだろう。そう考えて、ゆかりさんの存在を思い出す。
この世界にはいない、どこかにいるかもしれないいあちゃんのファンと、目の前にいるゆかりさん。そのどちらを優先したいか。そんなものはすぐに決まった。
ただ、気持ちは決まっても、現実問題として非常に大きいハードルの存在はなくならない。この世界にとって、オレはいったい何者なのか、それを証明するものなんて存在するんだろうか。
「働くなら身分がはっきりしていないといけないですよね。少なくとも住民票とかないといけないと思うんですけど」
「ありますよ、あなたの戸籍」
とてつもなく高いハードルだと思っていたのに、あっけなく飛び越えてしまう発言がぶつけられた。思わずゆかりさんを見ると、目の前に書類を突き出される。それは確かに戸籍謄本で、一番上には「結月ゆかり』の名前と本籍、そしてその下、配偶者氏名の欄には、『いあ』の文字があった。その下には『いあ』についての戸籍の内容が記載されている。
思わず手に取って、なんとも見返して、全く理解できない。
「いや、女同士が配偶者ってどういうことですか」
もしかして、ゆかりさんは配偶者の意味を知らないんだろうか。それとも、そこまで細かいところを見ていなかったんだろうか。今の今まで触れなかった理由が全く分からない。なんだか、オレよりもゆかりさんの方が狂人なんじゃないかとすら思えてくる。
朝起きたら隣にほぼ見知らぬ人がいて、部屋にはそれが自分の配偶者になったと示す書類があって、それなのに取り乱しもせず振舞っていたなんて信じられない。
配偶者って何ですか、とか、そんなセリフが出てきたら、よっぽどマシだっただろう。しかし現実は正反対だった。
「え、別にいいじゃないですか。男女じゃないと配偶者になれないなんて法律もないですし」
「ありますが?」
「無いですよ。……もしかして、あなたが元々いた世界ではそうだったんですか?」
頭が痛い。素晴らしい世界ではあるが、ギャップに振り落とされそうだ。というか、論点がそこではない。いや、オレにとっては女同士で配偶者になれるのも驚きだが、そうではなくて、勝手に配偶者の欄が埋められているのを、『別にいいじゃないですか』だって?
「そりゃ、まあ、そうです。というかこれ、なんですか?」
「朝起きたら、さっき見せたあなたについて書かれてる紙と一緒に置いてあったんです。ついでに保険証とか、年金手帳とかも一緒に」
ゆかりさんから次々に渡されるものそれぞれに、『結月いあ』の文字が書いてある。変な冗談はやめていただきたい。
「そういうことで、あなたがどこかで問題を起こしたら私にも降りかかってくるので、変なことは考えないでくださいね。……で、改めてお願いするんですが、私とグループを組んで、アイドルになってくれませんか?」
「いや、アイドルうんぬんよりも先にあるじゃないですか。ゆかりさんはいいんですか」
「いいって、何がですか?」
「オレがゆかりさんと結婚してるなんてふざけた紙を信じるんですか? 絶対そんなの偽物ですって」
唯一あり得るのは、ゆかりさんがオレを説得するために、これらすべての書類を偽造した線くらいだ。狂人的な熱意でそれをやり遂げたのだとしたら、全くもって理解しがたいが、少なくとも筋は通っている。
そうだったらまだよかったのに。そうだったら、騙されたということにしておけば、まだよかった。しかし、ゆかりさんはまたしてもとんでもない提案をする。
「じゃあ、これから役所に行って確かめてみますか。それでこれが本当だったら、アイドルになってくれますか?」
どうしてゆかりさんはそんなに執着するのだろうか、全く分からなくてどこかにヒントが無いだろうかと考えを巡らせて、一つだけ、手掛かりになりそうなものが見つかった。手に持っている、戸籍謄本のゆかりさんの欄だ。
彼女の父・母の欄は埋められていなかった。
「……わかりました、それでいいです」
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