ソーンズはエリジウムから通信機を受け取り、危険地帯とされる海辺の洞穴の奥地へと進んで行った。洞穴の外で待機するエリジウムは定期的な通信を報告書に纏め、逐一ドクターへ報告していく。
しかし、とある地点まで進んだ所でソーンズからの通信が途絶。洞穴の中で彼に何かがあったのは間違いないが、通信が途絶えたのを報告した段階でエリジウムには待機命令が出されていた。
親友の身に危機が迫っているかもしれない状況で何も出来ない歯痒さにエリジウムは唇を噛むが、ふと微弱なシグナルが端末に届いていることに気付く。それを確かめた瞬間、前触れもなく立ち上がった波がエリジウムを飲み込んだ。
友とも判らぬモノに手を引かれ、遠ざかる水面に目を遣りながらエリジウムは懸命に唇を結ぶ。眼前には鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌な既知の顔があれど、その薄気味悪い笑顔に見覚えもなければ、絡められた指の尋常ならざる力にも心当たりがまるでない。けれど、彼が"こうなった"理由にだけは僅かながら覚えがあった。
深海からの呼び声なる、"彼ら"にのみ聴こえ訪れる狂気。恐らくはそれが原因となり、いま彼は狂気に侵されているのだろうとエリジウムは推測するが、刺すように冷たい海水は容赦なくエリジウムから抵抗する体力を奪い、溜め込んだ肺腑の空気を吐き出さずにいられる時間には限りがある。更にはソーンズに繋がれた手は常の彼のものとは違い、骨が砕けるのではないかと思うほどの力が込められている。これを振りほどくことが出来なければ活路はないとわかっていても、込められた力故にそれが叶わない。手詰まりと言っていい状況に加速するエリジウムの焦燥を他所に、ソーンズは何処か虚ろな笑みで深度を下げてゆく。
深海へ近付くに連れて下がる光度と反対に上がる水圧。そして耳鳴りにも近い、正体不明の歌が鼓膜を震わせる。同時にびりびりと指先から痺れるような感覚が走り、その痺れの既視感にエリジウムは目を見開いた。
(これ、ソーンズの神経毒…っ!)
親友の毒を使ってまで沈めようとしてくる虚ろな笑みに鳥肌が立つ。しかし、友が培ってきた力を、彼が決して望まぬ形で使われたことへの怒りがエリジウムを突き動かす。麻痺し始めた全身に精一杯力を込め、繋がれた指が折れるのも構わずどうにか身体の向きを変えると、冷たい海水と毒によって最早感覚が失われた脚にありったけの力を込めてソーンズであったモノを蹴る。…もちろん、その抵抗が実を結ぶことはなく、蹴ろうとした脚を掴まれ引き寄せられてしまったが。脚から離れた手がエリジウムの背中を捕らえ、ばらばらの方向に揺蕩う五指を痛ましそうに見つめる。その視線がかつて作戦で大怪我を負った自分を背負って帰った時の友に重なり、走馬灯じみた黒髪と砕けた骨が神経に触れる痛みに空気が口の端から漏れた。
そんな泡を見逃さない深海の使者は嬉しげに笑い、エリジウムを両腕でしっかり抱き締める。しかし、尋常ならざる膂力を持つ現在の彼にそのようにして抱き締められれば当然、骨は音を立てて軋み肺は圧迫される。増していく水圧のみならず圧迫までされた身体は限界を迎え、とうとうエリジウムの唇からは悲鳴に代わって水泡と化した空気が吐き出された。沈む自分と反対にのぼっていく泡を視界の端に捉え、エリジウムは自分より先に沈んだ端末に届いた微かなシグナルを遠ざかる意識の中で思い出す。
『-・--- --・ --・-・ ・・ ・・- - ・-・-・- -・-・ -・-- ・・ ・-・-』
やがてエリジウムの肺腑が海水で満たされた頃、彼の親友だったモノはさっきより緩めた力で大切そうに冷たくなった身体を抱き締め、岩に引っ掛かった端末を横目に光の届かない深海へ希望に満ちた表情で進んでゆくのだった。
『-・--- --・ --・-・ ・・ ・・- - ・-・-・- -・-・ -・-- ・・ ・-・-』
エリジウム、逃げろ