文月とブラック鎮守府と新米提督   作:トマリ

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もうすぐ終わりが近づいていて、起承転結なら「転」、1クールアニメなら9話ぐらいのあたりまで来ています。
今回、色々と初めて描写したようなシーンもあるので、ちょっと描写とかが下手クソかもしれませんが、生温かく見守っていただけると嬉しいです。


沈む月

 

 

 暗い。

 一寸先も見えない、とはまさにこの事か。私はもう瞳孔が開ききっているから良いが、この部屋に入ったことがない者からすれば、手前にあるテーブルや今もたれかかっているベッドの位置を把握することにすら手こずるくらい、この部屋は暗いだろう。

 

 

 以前───といってもかなり前のことだが───私は部屋(ここ)が好きだと言ったことがある。理由は、何もないから、と。

 楽しいことが起きない代わりに、悲しいことももう起こらない。最初から生まれなければ、死ぬこともない。

 その考えはもちろん、今の私でも変わっていない。

 

 ……でも、じゃあ。

 じゃあどうして、新月(あの男)の誘いに素直に頷いたのかと聞かれると、少し困ってしまう。

 

 困ってしまうの、だが。

 最近、昔のことを思い出す回数が増えた。もう何十年も前のことのように思える、初めて鎮守府(ここ)に来たときのことを。

 あの時と比べると、随分と変わってしまった。

 鎮守府も。私も。

 もうあの頃の鎮守府はない。取り戻す方法もない。

 

 だけど、なんとなくその頃の雰囲気を思い出せるようにはなってきたのだ。

 私がそうなった一番の要因は、こんな自分にも毎日律儀にご飯を届けてくれる……アラツキという提督。

 どことなく彼は……あの初代提督に似ている。当たり前だが、顔立ちが似ているという意味ではない。

 なんというか……纏っている雰囲気というか、ふとした拍子に出る表情や仕草が、だ。基本的に気弱なのに、変なところで頑固だったりするところとか、特に。

 

 

 ……そんな、彼からの誘いだからなのだろうか。

 昨日の私は、半分無意識にうなずいていた。

 答えた後、もう半分の意識で後悔もしかけたが、既に明日提督がここへ呼びに来るという約束も取り付けられてしまったため、今さら取り消すことはできないだろう。

 

 だから私は一人、約束の時間を待つ。

 ……闇が晴れるかもということを、どこかで願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マルロクマルマル。まだ朝日がギリギリ登って来ていない時間帯。

 新月がこの鎮守府に来てから、九日目となる朝。ここまでで初めて、新月は目覚まし時計よりも早く起きた。普段なら目覚めてすぐ朝日の眩しさに目を細めることになるのだが、今回はその心配は無さそうだった。

 ……というか今更になるのだが、新月がここに来てもう一週間が過ぎたということに驚愕せずにはいられない。なんだか、軽く一ヶ月は過ごしたんじゃないかと思えるほど濃密な日々だったような気がするのだ。

 

「よっこら……しょっと……」

 

 執務室に敷いた布団から抜け出しつつ、新月はゆっくりと腕を伸ばした。ついに、この日がやってきたか。

 あくびを噛み殺しながら執務机の方に目をやってみると、そこでは四コマ漫画みたいな頭身の少女がいて、どこから取り出したのかわからない折り紙をいじっていた。

 新月は、開いたばかりの目をさっそく丸くする。

 

「……妖精さん?」

 

『ア、オハヨウ!アラツキー!』

 

 声をかけると、妖精さんは嬉しそうに折り紙の上でピョンピョンと飛び跳ねた。体の大きさの都合上、妖精さんにとって折り紙は座布団みたいな感じになっている。

 

「……何してるの?」

 

『ンー……ナンテイウカ、「おまじない」ヲシテタッテ感ジカナァ?』

 

「おまじない?」

 

 うん、と妖精さんは答え、いつの間にか隣に置かれていた一羽の赤い折り鶴を手に取る。人間サイズの折り紙で作った折り鶴を、小さな妖精さんの体で持つと、まるでバスケットボールでも持っているような格好になっていた。

 しかしそんなサイズ比にも関わらず、鶴は驚くほど丁寧に折られていた。もしもどこかで『全国折り鶴選手権』的なのが開催されていれば、コレを提出すれば予選突破は確実にできるだろう。

 

「鶴を折ってたのが……おまじない?」

 

『ウン。前ニモ言ッタケド、僕タチハ睡眠ヲ取ル必要ガ無イカラサ、夜ニ折ッテタンダ』

 

「……なんで折り鶴?」

 

 何気に最大の疑問点だったところを聞く。

 

『ウーン……特ニ深イ意味ハナイケド……デモホラ!「折リ鶴」ッテナンダカ、幸運ヲ願ウ、的ナ意味ガアリソウジャン!?』

 

「まぁ、言わんとしてることはなんとなくわかるけど……」

 

 『深い意味はないけど』なんて思いながら折ったモノにご利益もクソもあるのか?というツッコミはこの際封印しておこう。

 

『テナワケデ、新月ノ武運ヲ祈ッテ、コノ鶴ヲ贈ルヨ! 「千羽鶴」ホドデハナイケド、キットゴ利益アルサ!!』

 

「千羽鶴の千分の一かぁ……」

 

 なんかそう言うと途端にこの鶴のご利益度が怪しくなってきた。

 とは言え、妖精さんの気持ち自体はすごく伝わってくるので、まぁこれでもいいだろう。実際お守りタイプの贈り物は、そのお守りの効力よりも贈る人の気持ちそのものが大事だと新月は思っているし。

 

「気持ちは受け取れたからいいよ。その折り鶴は机の上に置いといて」

 

『ワカッター!』

 

 気持ちを届けられたのが嬉しかったか、妖精さんは笑いながら新月の肩に乗った。

 

「さて……。じゃあ、ちょっと早いけど朝ごはん食べに行こうか」

 

『オー!飯ヲシッカリ食ッテ、来ル(昼飯)ニ備エルゾー!』

 

「言いたいことはわかるけど改めてそう言うと文章おかしすぎるでしょ」

 

 第三者からはまったく意味が不明な会話をする二人を、赤い折り鶴はジッと見つめていた。

 

 

 

 約束の時間は昼飯時である。

 なのでその日の午前は、新月はなるべく執務にだけ集中するようにした。新月と同じく早起きしていた三日月を遠征に行かせ、妖精さんと共に期限がまだ一週間先の書類をこなしていく。

 ちょっとでも楽な時間があると、なんだかお昼の約束についてネガティブな予想ばかりしてしまいそうなので、新月は意図して今やる必要のない書類までどんどん取り掛かっていった。それこそ所謂「考える余裕がない」というようなほどに。

 幸いというか、暇な時間がなければ、後ろ向きと自負している自分の脳もあまり余計なことは考えなくなるようで、思ったよりもリラックスして時間を過ごせた。……どうでもいいが、こういう場合、時間は「早く感じる」のと「遅く感じる」のどっちが正解なのだろうか?

 

 

 

「さて……」

 

 床をギシギシ言わせるほど足取り重く廊下を歩く。溜まってた書類がほとんど片付き、二息ほど精神統一の時間を取ったあとのことだ。

 現在時刻はヒトヒトサンマル。これで、今の彼がどこへ向かっているのかは大体察しがつくだろう。

 

『アンマリ緊張シスギルノモ、良クナイト思ウヨアラツキ』

 

「そうは言ってもさ……」

 

 無理な話だと思う。

 あの文月を、初めて自主的に外に出そうとし、更に会食をしようとしているのだから。絶望してた一日目あたりの自分が聞いたら、「世界線間違えてんじゃないの?」ぐらいは言ってしまいそうなほどの大きなイベントである。

 

「事前に約束取り付けてるとわかってても、どうしても不安になっちゃうよ」

 

『気持チハワカルケドネ』

 

 口を開かず苦笑いする妖精さんは、どこか懐かしむような目を虚空に向けた。

 

『アラツキガコノ鎮守府ニヤッテ来テ、アノフミヅキト出会ッテカラ、色々アッタネェ、ホント』

 

「……そうだね」

 

『ナンカ、アラツキトハマダ九日程度ノ付キ合イナノニ、モウ一年グライハ共ニ過ゴシタヨウナ気ガスルヨ』

 

「奇遇だな、僕もだよ」

 

『ヤッパリ「共ニ過ゴス時間」テノハ、長サヨリ密度ナノカナ』

 

「わかんないなぁ」

 

 ただまぁ、創作界にはたった一週間共に過ごしただけで恋人になったりするキャラもいるので、あながち間違っていないような気もした。

 

「……って、こんなこと話してる暇ないね。三日月が料理とかの準備してるし、早く文月を呼びに行こう」

 

『モウ心ノ準備ハ大丈夫ナノ?』

 

「妖精さんもいるし、もう覚悟完了したよ。当たって砕け散るさ」

 

『地味ニ嬉シイ事言ッテクレルネェ。アラツキ、天然タラシノ素質ナイ?』

 

 適当に言い合いながら文月の部屋へ向けて歩いていく。

 いつの間にか、窓の外の空には黒い雲がかかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……来たよ、文月」

 

 新月は文月の部屋へとやってきた。

 相変わらず部屋は暗く、空気は淀んでいたが、それでも文月の顔はすんなりと見ることができた。

 

「…………」

 

 文月は黙ったまま、顔だけを上げる。相変わらず髪の毛はボサボサのままで、まだ負のオーラも残っている。

 その真っ黒な瞳と、正面から目が合った。一瞬怯みかけたが、しかし新月もソレを見つめ直す。

 なんとも言えない奇妙な間が数秒過ぎたあと、

 

「……わかった」

 

 文月はそう言った。言ったあと、文月はゆっくりと体育座りにしていた体をほどき、ベッドにもたれていた上体を起こしていく。

 

「……手、貸そうか?」

 

 まるで寝たきり少女のような文月の様子に(ある意味間違ってないが)新月は提案してみたが、文月は「いらない」と首を振った。

 そしてその言葉通り、彼女は独りでに立ち上がると、

 

「じゃあ、連れて行って」

 

 と新月の傍らに立ってくれた。

 一気に心臓が脈打つ。空気が喉に詰まったのがわかった。

 あの文月が、ついに。独りでに新月(自分)の元へと来てくれた。その事実に、体が飛び上がってしまいそうになったが、なんとか意志の力で耐えた。

 

「わ、わかった」

 

 思わず声が震えてしまったが、これは恐怖や不安によるものではない。

 どちらかというと、武者震いだ。ようやく、文月が明確に更生への第一歩を踏み出したのだということの。

 

 

 文月を連れて、部屋の外に出る。

 廊下から入ってくる電灯などの光に、文月は僅かに目を細めた。一応今までにも彼女が部屋の外に出たこと自体はあったのだが、こんなに光があるような朝のうちに外に出たのは初めてだったのだろう。

 

『アラツキ、気ヅイタ?』

 

 部屋の外に出た新月の隣に文月が並んできたあたりで、妖精さんがコッソリと告げてきた。

 

「何に?」

 

『フミヅキノコトダヨ』

 

「文月の?」

 

『ウン。前々カラ、頬ノ痩セ(・・)ガ治ッテキテタッテアラツキハ言ッテタケド、ソレダケジャナイ。目元ニアッタクマ(・・)モ、カナリマシニナッテキテルヨ』

 

 言われてみて文月を見てみると、確かにそうだった。当初は墨のように濃かったクマが、今は少し水で薄めたぐらいの色になっている。

 出会った当時が「引きこもり一ヶ月目ぐらい」だとするなら、現在は「引きこもり三日目あたり」と言ってもギリギリ誤魔化せそうである。

 

「……ほんとだ。……睡眠も、ちゃんと取るようになってきたってことなのかな?

 

『タブンソウダト思ウヨ。考エテミレバ、キチントシタ時間ニ食事ヲ摂ルヨウニナレバ、オノズト睡眠時間モ改善サレテイクヨネ』

 

「確かにそうかも……」

 

「……どうしたの?」

 

 思わぬ副産物に感心していると、文月がそう問いかけてくる。その問いかけも、痩せとクマがマシになっているからか、初日ほどの威圧感はなかった。

 

「いや、なんでもないよ。それじゃあ、行こうか」

 

 質問に首を振って答え、新月は開けていた彼女の部屋の扉を閉める。

 バタンという音が、やたらと大きく感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 歩くのが遅い文月に合わせて歩いたので、食堂につくまでには十分ほどかかった。

 テーブルの前へ行くと、三日月と他の妖精さんたちが、料理が乗ったお皿や食器をいそいそと用意していた。皿から漂う香ばしい匂いが遠慮なく鼻孔をくすぐる。

 

「あっ。司令官に、文月……姉さん。もう用意はほとんどできてますよ」

 

 二人を見つけると、三日月はお茶を淹れる動き止めて手を振ってくれた。

 文月の名前を呼ぶときに若干ギクシャクしたような間があったが、それは仕方ないだろう。三日月にとっては、これが『壊れた文月』との初対面であり、『艦娘になった姉』との初対面でもあるのだから。

 

「その……姉さん、お久しぶりですね。三日月です。今日は、よろしくお願いします」

 

「…………」

 

 ペコリと頭を下げる三日月だが、文月はササッと新月の影に隠れてしまった。自分を頼ってくれたのかと新月は一瞬舞い上がりかけたが、単に遮蔽物扱いされただけだろうと考え直す。

 

「ほら、文月もさ。あいさつぐらいは、返してあげよう?」

 

 なるべく深く触れすぎないように、新月は文月の体を撫でるようにして自分の前へと押した。

 

「…………っ」

 

 コチラからでは表情は見えなかったが、文月の肩が強張ったのは感触でわかった。とは言え、逃げようとはしなかった(単に固まっていただけかもしれないが)。

 しばらく、言葉をしっかり脳で選んで、そして口の中でしっかりと形にしているような時間があってから、やがて文月はいつもの『普通の文月』よりも半トーン低い声で言った。

 

「……こちら、こそ。久しぶり……三日月」

 

「はい! 会えて嬉しいですよ!文月姉さん!!」

 

 たどたどしい言葉に、三日月は笑顔で答える。その様子に、文月はひどく驚いたような表情を見せた。

 だが、次第にその表情は変化していく。驚愕から、なにか、別のものへと。固まっていた雰囲気が少しずつ溶けていき、目に光が戻っていったのがわかった。

 

「さぁ、食べましょうか。司令官さんも」

 

 三日月の呼びかけに「うん」と答えて新月はテーブルの席へとつく。

 そして、

 

「ほら、文月も」

 

 と彼女へ声をかけた。

 文月の瞳が一瞬だけ揺れたような気がした。

 

 これでいいのか、と。

 こんな私が、歓迎されていいのかと。

 

 瞳で、彼女がそんなことを問いかけているような気がした。

 だから、新月は最大限安心させる笑顔を浮かべて手招きした。

 

 

「大丈夫だよ文月。おいで」

 

 

 文月がこちらを向く。

 新月の言葉を、彼女がどう思ったのかはわからない。

 

 だが、その言葉を受けた時の彼女は───ほんの少しだけ、笑ったような気がしたのだ。

 

 

「……うん」

 

 

 頷きながら言う文月。

 そうして彼女が、新月たちの元へと踏み出そうとしたとき───

 

 

 ガシャン!!と

 

 

 何かが割れたような、鼓膜に響くタイプの音が食堂に鳴り響いた。

 その音に文月だけでなく、座っていた新月まで驚く。

 

「な、なになに!? どうしたの!?」

 

 右へ左へ視線を回すと、音の主は三日月のようだった。

 

「ごっ、ごめんなさい!つ、掴み損ねてしまって……!」

 

 見ると、三日月の足元にバラバラになったコップが散らばっていて、中に入っていたお茶もこぼれてしまっていた。

 どうやらコップの位置を整えようとし、誤ってて落としてしまったというのが真相らしい。

 

「本当にごめんなさい!今っ、片付けますから……!!」

 

 良いムードだったのを邪魔したという罪悪感からか、三日月は激しく頭を下げ、すぐに片付けようとかがむ。

 その行動を見て、危険を察知した新月はすぐに叫んだ。

 

「いいよ三日月、僕がほうきとかで片付けるから───」

 

「痛っ!」

 

 

 ……遅かった。

 

 

「あー……三日月、大丈夫?」

 

「あっはい……ちょっと指を切っちゃったみたいです……」

 

「ガラスを素手で触ったらそうなるよ……」

 

 傷を見せてもらうと、かなり綺麗に(この表現も変だが)切っているようで、人差し指の腹に「1」の字型の切り傷ができて血が漏れていた。

 とは言え、それほどザックリいっているわけではなさそうなので、絆創膏さえ巻いていれば大丈夫だろう、たぶん。

 

「ササッと絆創膏取ってくるよ。待ってて」

 

「はい……申し訳ありません本当に……」

 

「……三日月、だいじょうぶ?」

 

 新月が絆創膏を取りに行くため席を立とうとしたとき。不安よりも元来の心配が勝ったのか、驚いて固まっていた文月も三日月のもとへとやって来た。

 

「あっはい……心配かけてごめんなさい、姉さん」

 

「うん───」

 

 

 その時だった。

 

 

「───あ」

 

 

 文月に、異変が起きた。

 三日月に近づいたときに、文月の目が大きく見開かれる。その体が、わなわなと震え始めた。

 

 

「文、月……?」

 

 きょとんとした様子で問う新月。

 自立稼働してたロボットが突然バグり始めたような、それぐらい突拍子もない出来事だった。

 

「……血」

 

「血?」

 

 震える声で言う文月に、新月はオウム返ししかできない。

 いや、待てよ?

 そういえば、さっきから文月の目は三日月の指の傷に釘付けになってるな───。

 

 と思った瞬間だった。

 

 

 

 

「あ、ああああああああああッッ!!!」

 

 

 

 さっきのコップが割れた音の、何倍もの大きさの悲鳴が聞こえた。「耳をつんざくような声」を現実で聞いたらこんな感じなのかなと思うほどだった。

 その声をあげているのは、

 

 

「文月!? ど、どうしたの!? 」

 

 

 文月だった。

 目を見開いて、まるで亡霊にでも会ってしまったかのように文月は……怯えていた。

 

 

「いやっ!いや、やっ、やめてよ!! 私はっ、私はどれだけ傷つけたっていいからっ!!」

 

 

 突然に、なんの脈絡もなく、そんなことを言う。

 さっきまでの、ぎこちないながらも一歩を踏み出そうとしていた姿は、もうどこにもなかった。ただ、涙を浮かべて何かに対して怯える少女がそこにいるだけだった。

 

 

「────」 

 

 

 新月は、その現象を知っていた。いや、正確には知っているというよりも。「新月のような家庭環境にあったものが陥りやすい症状」として記憶していた、というべきか。

 

 フラッシュバック。

 

 過去の強烈なトラウマが、ふとした拍子に鮮明に脳裏に蘇るあの現象。

 それが今文月に起きているのだと、本能的に新月は理解した。

 

 

「ああっ、あっ!!ごめんなさい、許してっ、許して、許して許して許して許して許して許して許して!!!」

 

 

 文月は完全に錯乱していた。念仏のように言葉を紡ぎながら、両の手で激しく頭を掻きむしる。

 その様は、まさに「発狂」と言ってよかった

 

 

「ちょっと、大丈夫!?」

 

 

 彼女が具体的にナニ(・・)にフラッシュバックを誘発されたのかはわからない。

 だが、とにかく急に怯え始めた文月をなんとか宥めようと、新月は彼女の肩をつかもうとする。

 

 だが、

 

 

 

「いやっ、私に触らないでっ、近づかないでよぉっ!!」

 

 

「っ!?」

 

 

 

 まるで、いつかの再現のようだった。

 途方も無い力に体が浮く。文月に振り払われる形で吹っ飛んだ新月は、テーブル席の椅子のいくつかを派手に巻き込みながら地面を転がった。

 

 

 

「傷つけないでよ!!血がっ、血が、もうやだっ!もう、みんなもう、嫌だ───」

 

 

 叫ぶ声は更に大きくなる。近くにいた三日月までもが、恐怖からか姉の名前を叫びながら泣き出し始めた。

 

 

 ダメだ、早く、止めてあげないと。

 

 

 痛む体を、また新月が無理やり起こそうとしたとき。

 

 発生が突然なら、止まったのもまた突然だった。

 不意に、髪を掻きむしる文月の手が止まる。

 

 

 

「……もういやだ。誰か、早く助けてよ」

 

 

 

 その言葉を最後に。

 糸が切れた人形のように。スイッチが切れたロボットのように。

 文月は目を閉じて涙を流しながら、その場に倒れた。

 さっきまでの騒音が嘘のように、静寂が食堂に帰ってくる。

 

 

 

 新月も、三日月も、妖精さんも。しばらくの間、誰も動くことができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全部とは言わなくても、少しずつでも。

 物事は確実に良い方向へと進んでいるはずだった。

 

 

 

 

 だけど一つだけ、新月が思い違いをしていたことを、強いてあげるとするならば。

 

 

 

 

 人が人を救うというのは、そんなに簡単なことじゃないということだった。

 

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