ぼんやりと、虚空を見つめる。
ヒトキュウマルマル。
黒い雲がかかっていた空からは、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。道路が水滴で強く叩かれており、付近の川が増水してしまうのではないかと思うほどの大雨だった。
……昼に起きた文月の『発狂』から、かなりの時間が経つ。あのあとは、もう……色んな意味でメチャクチャだった。
涙を流したまま気を失った文月を抱え、新月と三日月は急いで医務室へと駆け込んだ。
本来、艦娘用のドックがある鎮守府には医務室は必要ないのだが、軽い擦り傷などのドックを使うまでもないケガ、もしくは提督自身がケガをしてしまった時の為に、最低限の設備と道具は揃っている(……らしい)。一先ず熱などの精神面以外での異常がないことを確認し、なるべく刺激を与えないようにベッドに寝かせる。
まだ起きる様子は無さそうなので、妖精さんの一人を近くにつけて、目覚めたらすぐテレパシーで伝えるように指示を出した。
とりあえずは、新月にはそうすることしかできなかった。
あれから、三日月は何度も新月に対して謝ってきた。「自分があの場を壊してしまった」「自分のせいだ」、と。
だが、これを三日月のせいにするのは筋違いというモノだろう。三日月の、あんなちょっとした行動のせいで文月がおかしくなるなんて、誰にも想像できない。
むしろそんな可能性を考慮せず───言い換えれば、「まだそのようなトラウマが残っている可能性がるにも関わらず、こんなイベントを行おうとした者」に責任の所在はあるべきだろう。
つまりそれは、
「……失敗した」
今回のことで責任を被せられる人物がいるとすれば、それは新月だろう。
文月を運び終え、割れたコップを片付け、食材を無駄にするわけにもいかないので、用意していた昼飯を最悪の気分のまま食べた。何も考える気になれず、しばらく泥のように執務室でうずくまり続けた。
だがそれでもも喜ぶべきか悲しむべきか、日が沈む頃には多少気分もマシになってきており、新月は頭を抱え、ただ後悔だけをしていた。
『アラツキ……』
肩の妖精さんが心配気な声を上げるが、正直今の新月に一々対応できる余裕はない。朝に折ってくれていた折り紙も、知らぬ間に(さっきまでの意識が虚ろだった時にナニかしてしまったのだろうか)クシャクシャに潰れていた。
泥の中に沈んでいるような、最悪の気分だった。今の新月は。
『……大体のコトの流れは、聞かせてもらったぞ』
自分でもどうやったのかは覚えていないのだが、いつの間にか手に握り込んでいた電話からは先輩のヤマダの声がしていた。一応久しぶりに聞く声ということになるのだが、その声は最後に聞いたときと同じような、いつも通りのちょっとヘラヘラしてる感じの声だ。
……あれ。確かヤマダからは、この前に『戦争が激化し始めているからもうお前にはあまり構ってられなくなる』的なことを言われていたのだが。今電話をしていて大丈夫なのだろうか?
……まぁ、大丈夫になったのか、それとも今の自分がよほど哀れだったか、のどちらかだろう。
なんにせよ、またヤマダに貸しを増やしてしまったな、と新月はぼんやり思った。
『おい、新月?新月? 電話越しで聞くのもおかしいが、お前ちゃんと生きてるか?』
「……ええはい、まぁ、生きてますよ。残念と言うべきかなんというか」
『……了解。かなりキテるみたいだな。不謹慎だが、若干懐かしいぞその雰囲気』
ホントに不謹慎ですね、とツッコむ気力はなかった。
とはいえ高校時代にヤマダに気にかけてもらっていた頃の新月は、事実こんな感じだったのだろう。そして、今また新月はヤマダに助けを求めており、そして恐らく今回も、ヤマダは口八丁に色んなことを言って新月を助けてくれるのだろう。……ヤマダには自分と違って、そうできるだけの人心掌握術がある。
その事実が、また新月の心にカゲを落とした。
「……浅はか、でした」
『ん?』
「浅はかでした、僕は。自分が思ってた、何倍も」
心のカゲが、思わず口をついて出てきてしまう。
こんなこと言ったってどうにもならない。ヤマダも嫌な気持ちになるだけで、誰も得にならない。
「こんな……高校を上がったばかりの、まだ社会に出たこともないようなガキがっ……いっちょ前に、誰かを救ってあげたいと思ってたんです……」
しかしそれでも止められなかった。一度門を開けてしまえば、もう中身を吐き出し切るまで閉めることはできない。
「早く、どんな形でもいいからっ、文月の笑った顔が見たかった! 僕がヤマダさんにしてもらったみたいに、自分の手で、誰かに笑顔を取り戻させたかった! だからきっと……無意識のうちに焦ってしまっていたんです」
そうだ。本来心の傷の治療なんてのは長い時間をかけて行われるもの。『はいこの行程クリアしたなー、よしじゃあ次ー』みたいに軽く進めていっていいモノじゃない。
なにより自分は、まだ文月のことを真に理解していなかった。他ならぬ彼女の口から話を聞くような、対話を試みようとしなかった。
じゃあなぜそれをしなかったのかと言われると、それは『自分の手で誰かを笑顔にさせたかった』というどうしようもなく自分勝手な理由によるモノ。
なんと救えないヤツなのだろう。あの結果はもはや、そんな自分への報いなんじゃないのか───
『吉田新月』
新月のカゲを振り払うように、ヤマダの声が鼓膜に届いた。日常生活において意外と呼ばれることがないフルネームを、上司にあたる人物から呼ばれたことに無意識に背筋が伸びてしまう。
「は、はいっ」
『いいか?よく聞け』
その時のヤマダの声はいつものヘラヘラしたものではなく、泣く子供に言って聞かせる父親のような声音だった。
『まぁ……無理とは思うが、あんまり自分を責めるな。極端な話、失敗ってのはどうとでも、いくらでも取り返せる。だけどそうやってウジウジしてたら、取り返せるモノも取り返せなくなるぜ』
そしてもう一つ、と通話の向こうでヤマダが息継ぎする。
『いいか。今のところお前は、自分の失敗点や原因を意外と自己分析できてる。なら、あとはそれをやるだけでいいだろ?』
「えっ。で、でも……」
『でも、なんだ?』
ヤマダに見られているわけでもないのに、涙を飲み込みながら新月は言った。
「僕にはもう……文月を助ける権利なんて……!」
『権利ってなんだよ? 人が人を怒るのに権利はいるだろうが、人が人を助けるのに権利はいらねぇぞ』
息が詰まった。
心の中に手を突っ込まれ、泥や靄を力づくでかき出してもらっているようだった。
『どんな理由や形であれ、お前が誰かを助けようとしたことは事実だ。なら、最後までやり切れ。どんな形であれ、一度救うと決めた物事を途中で投げ出す方が、俺は偽善とかよりも嫌いだ』
「ヤマダ……さん……」
『……んまぁ、俺もあんまこう強く言える立場ではねーんだけどな。どんな形であれ、俺が途中で降りてお前の手綱を離しちまって、孤立無援にしちまったところもあるからな』
「いやっ、そんな、ことはっ!!」
それはヤマダさんが気にするようなことじゃない。そう言おうとしたのだが、
『……っと悪ぃ、ここまでだ。コッチはそろそろ「始まる」んでな』
「……始まる?」
『こないだの電話で言ったろ。深海棲艦の大部隊がコッチに向かってるという情報が入ってたって』
「は、はい」
『アレ、どうやらマジだったみたいでな。俺はこれからヤツらの迎撃をしなくちゃいけない』
「えっ!? そ、それは───」
こんな電話してていいんですか!?と新月が問うより先に、通話の端から小さな砲撃音や爆発音が届いた。
『───てなわけだ。話の続きは、この戦闘が一段落してからだな』
「あ、あのっ!死なないでくださいね!?」
『当然だ。まだ艦娘とケッコンもしてねぇしな』
死亡フラグとわかった上のような声で言ったあと、ヤマダは最後に、
『いいか。やり直すチャンスはまだあるんだ。お前の心に従って、お前が最善と思う手を打てばいい』
それだけ言って、ヤマダとの通話は切れた。
ツーツー、と愛想のない電子音だけがその場に残る。
「自分が思う……最善手を」
言葉をゆっくりと反芻し、新月はまた考え込んでしまう。
肩でまた妖精さんが何か言っているようだが聞こえない。それほど、新月は集中していた。
「……やっぱり僕はまだ、文月のことをちゃんと知れてはいなかったんだ」
執務室の引き戸を開ける。そこには、いつぞや物置で見つけた日記があった。
「……もう一度、文月と向き合おう。それで……」
『ソレデ、ドウスルノ?』
「うわっ!?妖精さん!?」
急に声が耳に入って、つい新月は飛び上がってしまった。
『ヤッパリ、聞コエテナカッタンダネ。ドーリデ無視サレ続ケルワケダ』
妖精さんは腰に手を当て、怒ったような呆れたような声で言う。ごめんごめんと新月が頭を下げると『マ、イイケドネ』と妖精さんはすぐに矛を収めた。そして、
『向キ合ッテ、ドウスルノ? ソコ、ハッキリサセトイタ方ガ良イト思ウヨ』
「向き合って……」
『「救ウ」ノ? フミヅキを』
「……それは」
この問いは、軽はずみに答えてよいものではないと直感した。
再起するのはいい。
だが、再起して、自分は文月をどうしたいのだ?そもそも自分に……
文月は救えるのか?
「……まだ、わからない」
考えた上で、新月はこう答えた。
「ヤマダさんにはああいう風に言われたけど……正直、まだ迷ってるんだよ。救う権利とかそういう問題じゃなくて……そもそも僕に文月を『救うことができるのか』てことに」
『……?ドウイウコト?』
「わからなくていいよ。僕もイマイチわかってないし」
ヤマダのお陰でマシになったとは言え、まだ気持ちがやさぐれていたせいでつい突き放すような物言いになってしまう。
「もうなんか、ウダウダ考えたり悩む自分にも疲れてきたな……」
やさぐれ気持ちに任せて、適当にパラパラと日記をめくる。日記の真ん中ぐらいで、初代提督が綴っていた日記は終わり、そこからは白紙のページが───
「あれ?」
───白紙のページが、続いて、いない。
とあることに、新月は気づいた。
『ドウシタノ、アラツキ?』
「この日記って確か……最後のページまで到達する前に終わってたよね?」
『ソノハズダケド?全体ノ半分アタリノページデ、初代提督ガ別ノ鎮守府ニ移動スルコトニナッタッテ、ソウ書カレテ日記ハ終ワッテタハズダヨ』
「だよね、僕もそう記憶してた。だから日記を最後のページまで見てはいなかったんだけど」
まぁあの時は見つけたこと自体に興奮してたってのもあるんだけど、と新月は付け足したあと、
「最後の方のページに……まだ続きが書かれてる」
『エッ!?』
肩にいた妖精がすぐに降りてきて、新月の手元まで移動してきた。確か、先程も言ったが日記が終わっていたのは全体の半分あたりのページ。そのページから10ページほど間を空けたあとに、
『……ホントダ』
「しかもこの字、さっきまでの初代提督の字と明らかに違う」
さっきまでの初代の字が良くも悪くも達筆で特徴があったのに対し、今目の前で踊っている字はなんとも弱々しいモノだった。罫線もほとんど守られていないし、まるで人目を盗んで必死に書き殴ったようにも見える。
戸惑いながらも、新月はミミズが這いずり回った跡のような文字をゆっくりと追っていった。
「新しい提督が来た……みんな怪我してる……入渠できない……お姉ちゃんたちが泣いてる……睦月姉さんが帰ってこない……提督、たすけて……!?」
とにかく目に入った文字を読んでいく。明らかに提督が書くような内容ではないので、この日記を書いたのは艦娘で確定だろう。
日記の内容も、サッと流し読みしただけでもかなり凄惨なモノということがわかった。……おそらく、二代目提督の頃に書かれたモノなのだろう。
……問題は、誰が書いたのかと言うことなのだが───
『……ネェ、アラツキ』
手元の妖精さんが、何かを察したように声をあげる。
思わず直感した。同じだ。おそらく、今妖精さんと新月が思ったことは。
睦月を姉さんと呼び、そしてこれほど悲痛な様子で提督の名を書く艦娘は、ここでは絞り混むのはそう難しくない。
だが、仮にそうだとすると。
コレを読むのには、並大抵の覚悟では足りない。
コレはきっと、着任当初から新月を苦しめ続けた『闇』の、最後のピーズだろうから。
「…………」
しかし。
新月はページの文字に目を向けた。もう逃げるわけにはいかない。ここまで来たのなら、最後まで突き進む。
『ココカラ先ノ日記ヲ書イタノハ、キットフミヅキダト思ウヨ』
妖精さんの言葉を受けながら、新月はゆっくりと読み始めた。