次の日。
『上』が手配したらしいタクシーに揺られながら、新月は件の鎮守府へと向かっていた。高校生あがりの新月にとってタクシーに乗るのは何気に初めての体験であった。
タクシー内のラジオはどうやら朝のニュースの電波を拾っているらしく、昨日までと代わり映えのない不倫や脱税のニュースがスピーカーから発射されている。仮にも戦争中なのにニュース内容が戦争前と同じなのはある意味平和の証なのかな、と新月はぼんやり思った。
「…………」
昨日支給されたばかりの提督服に袖を通し、手元には替えのパンツだの私物だのを詰め込んだバッグ。そして隣には彼よりやや歳上と思われる男が無言でハンドルを握っている。……とてもじゃないが車内の空気は良いは言えなかった。
会話することも無いしする気分でもないので、新月は窓の外へと視線を移す。高そうな家や道で遊んでいる子供が高速で後ろへ通り過ぎていった。何てことのない風景だが、今の新月にはそのどれもが暗く荒んだモノのように見える。
景色というのは見る人の精神状態によって見え方が変わると聞いたことがあるが、どうやら本当のようだ。
「……そろそろですよ」
景色を眺めることにも飽き、そろそろ眠気が湧いてきたあたりでようやく運転手が言った。……この運転手、今日初めて言葉を発したんじゃないだろうか?
ともかく、その言葉で新月はバッグを肩に掛け直した。やがて、目的地でタクシーが減速し、地面と小さな摩擦音を響かせて止まる。
「……着きました。ここですよ」
「はい……はい!?」
思わず二回返事をしてしまった。
理由は簡単。目の前に広がる光景が信じられなかったからだ。
一応運転手の勘違いという可能性も考えて、新月はもう一度確認を取ってみる。
「あの……本当に、ここなんですか?」
「……はい、そうです」
「いやっ、勘違いとかじゃなくて?」
「……そんなに信用できないのでしたら、事前にもらった写真と照らし合わせては?」
「……勘違いであってほしかったです」
驚き、焦り、そして諦めた新月と対象的に、運転手はどこまでも棒読みの態度だ。いや、お前ももうちょい驚けよ、と口に出したくなったが『上』の使者なのでなんとか耐える。
新月と運転手が到着した『鎮守府』。
そこは正に廃墟と言って差し支えない場所だった。遠目からでも壁や扉がボロボロなのがわかるし、窓ガラスの一部には大きなヒビが入っている。室内の電気も当然付いておらず、庭の雑草も手入れがされていないのかぼうぼうのジャングル状態。
もはや『ここは鎮守府じゃなく、こないだ作られた鎮守府風のお化け屋敷です』とか説明された方がまだ信用できそうな外観だった。
「……ここが、これからのあなたの勤務先です」
「マジで言ってますか?」
「……冗談を言う趣味はありませんので」
運転手はめんどくさそうに返答してタクシーの運転席へ戻る。
新月としては、まだこの男に現実逃避にも似た詰問をしたかったのだが、無情に閉められた扉がそれを許さない。
「……それでは私はこれで。ご武運を」
最後に窓を開けて欠片も気持ちがこもっていない激励をかけると、運転手はさっさと走っていってしまった。タクシーはどんどん小さくなり、交差点を曲がって完全に見えなくなってしまう。
そして一人残された新月。
「……帰っていいかなこれ」
ポツリと呟く。今の彼の気持ちを100%凝縮した台詞だった。叶うなら今すぐここから回れ右して帰りたいのだが、そうは問屋と『上』と社会人としての義務が許してくれない。
ため息をはいて、新月は鎮守府に入るべく門に手をかけた。
「……? ふんっ……ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ!!!」
しかし
どうにか人が通れるスペース分開いた頃には、ぶつけてた肩の部分が早くも黒くなっていた。
そのことに元からマイナスだった気力が更に下がっていく。
それを生活のためと無理やり抑え込み鎮守府敷地内へと入る。バッタやらカマキリがうじゃうじゃいそうな雑草を踏み分け、どうにか扉の前へとやってきた。
入る前に、今度はため息ではなく深呼吸を一つ。
目を閉じて十数え、完全に心が落ち着いたのを自覚してから新月は扉のノブを捻った。
「しっつれーしまーす……」
怪物の胃袋に入るような気分で鎮守府内に踏み込む。
果たして、やはり中も酷い状態だった。
まだ朝だというのに廊下は薄暗く、夜の学校に来たような不気味さがある。床は歩くだけでギシギシと音が鳴り、通路の隅にある埃は溜まりすぎてもはや盛り塩のようになっていた。
「一週間……いや、三日いたら確実に体か頭のどっちかを病むな」
力無く笑い、落ち着いたらまずは掃除だ、と脳内メモ帳に最優先事項として書き込む。
「さて……」
状況把握が終わると、新月はなるべく埃を舞わせないようにしながら目につく部屋を一つ一つ開けては閉じる、という行為を繰り返し始めた。
突然の行動だが、それには理由がある。
昨日の会話の時。
『お前がこれから行く鎮守府には、一人の艦娘がいるはずだ』
ヤマダがそんなことを言っていたのだ。
『一人の艦娘?』
『ああ。二代目提督の恐怖政治が終わったあと、生き残った艦娘のほとんどがPTSDを発症したと言ったが、それは全員じゃない』
『らしいですね。まぁそれも二、三人てレベルらしいですけど』
『ああ。心の傷が軽微……て言い方もおかしいが、ともかくまだマシだった奴らは、他の鎮守府に移ったり演習の指導役になったりと別の道を進んだ。そしてその内の一人が────』
指で問題の鎮守府の写真を叩いた。
『ここに留まった』
『……留まった、というのは?』
『聞いて字の如く。その鎮守府から離れたくないとか言って、自分の部屋に引き篭もったんだと』
テコでも動かなかったらしいぜ、と言ってヤマダは乾いた唇を舐めた。
『「上」によれば、ちょうどいいからそれを初期艦として使えだとよ』
「昨日から思ってたけど……もしかして『上』ってバカ? それともこれは新手の新人イジメ?」
むしろ新人イジメの方が楽まである。
PTSD患いかけた艦娘に初期艦を任せろだなんて、一体どういう神経をしているのだろうか。
……だが、もうツッコむのは無駄なように思えてくる。いくら文句をつけたところで、目の前の状況は変わらないのだから。それよりは、今自分がやらねばならないことをちゃっちゃとしよう。
一歩大人になったような気がしながら、猫背気味の体勢で廊下を歩いていく。あまりにも床がギシギシ鳴るので、いつ地面が抜けるか気が気でなかった。
そして、気づけば鎮守府最後の部屋へとたどり着いていた。
(ここにいなかったら脱走か何かを考えるけど……)
だがそれはないなとすぐに直感する。
開ける前からドア越しに……なんというか黒いオーラのようなモノが立ち込めていたのだ。恐らく霊媒師でなくとも『この部屋にはナニカいる!』と叫ぶだろうほどに。
新月は無意識に服の襟元を正し肩に付いた汚れを払っていた。そして一度胸を叩いてから、数回のノックと共に扉を開けた。
扉を開けた彼を真っ先に襲ったのは、反射的に鼻を塞ぎたくなるほどの悪臭だった。物が腐り切ったような、ゴミ箱の中身を全部ぶちまけた部屋で過ごせばこんな臭いがするんじゃないかという感じだった。
そして実際、その部屋は今までと違ってモノが散乱し、換気もしていないのかえらく空気が淀んでいる。
そして壁際には備え付けベッドが置かれており、それにもたれ掛かる形で一人の少女が座り込んでいた。
部屋が暗いのとうつむいているのとで、顔は全く見えない。微かに見える若干黒と違う色から、もしかしたら茶髪の少女かなと推測できる程度だった。
覚悟自体はしていた光景のため、新月の顔に戸惑いの色はない。座り込んだ少女に向けて、新月はゆっくりと口を開いた。
「はじめまして、文月」
名前を口にすると、少女───文月の体が微かに動いて顔の上半分だけをコチラにのぞかせた。
闇に慣れた視覚が情報を伝えてくる。その姿を捉えた新月は、予めもらった『文月』の写真と目の前の文月を小一時間ぐらい見比べたくなった。
彼女の瞳は濁りに濁り、下には暗い中でもはっきりと判別できるほどのクマが付いていた。頬や体もかなり痩せこけているようであり、ポニーテールと聞いていたはずの茶髪は無造作に伸ばされ腰のあたりまで到達している。
荒んでいる。
それが真っ先に出た感想で、最も的確な評価に思えた。
文月からの返事がないので、仕方なく彼が引き続き喋ることになる。
「今日からここに着任することになった、新米提督の
今の新月が考えられる最大限のフレンドリーな挨拶がこれだった。
その言葉に文月は茶色の眼球だけで彼を見つめていたが、やがて興味なさげに
……駄目だ。第一に関心そのものを向けてくれていない。これなら出会い頭に大声で罵られる方が良い。
焦った新月は、次の瞬間には訳のわからないことを口走ってしまっていた。
「あ、あのさ、これからここの提督としてやらせてもらうんだけど、大丈夫だよ僕は君を悪いようにはしないからさ。ていうか、文月も『月』っていう字が入ってるんだよね? 奇遇だな僕もなんだよ。あ、口で言ってもわからないか、『あらつき』は新しいに月って書くんだ。新月の日に生まれたからそう名付けられたらしいけど、変な名前だよねホント。いや嫌いってわけじゃないんだけど。ともかくさ、同じ『月』として、提督的にも個人的にも、君とは仲良くさせてほしいんだよ」
しまった、と思う間もなかった。思った頃にはこの気色悪いマシンガントークが終わっていた。
一気に服の下から汗が吹き出てくる。
恐る恐る文月の方を見ると、相変わらず彼女はコチラを見ていなかった。見ていないまま、ただ言った。
「出てって」
氷のように突き刺さる言葉だった。
普通の『文月』らしからぬ抑揚の無い声に、はっきりとした拒絶の意思がある。
「……うんごめん、テンションを間違えた。出直すことにするよ」
新月は素直に引き下がり、即座に文月に背中を向けて出ていく。
部屋を出る直前、何か額縁らしきモノを踏みつけたような気がしたが、新月は気にすることなく部屋から出た。もう一秒でも早く、文月の視界から消えたかった。
あいさつもなく扉を閉め、扉の脇へと移動する。急速に肺に空気が戻ったような錯覚を覚えた。
そのまま壁に背中をつけ、新月は力なく座り込んだ。
「……マジか」
その発言は誰に、何に向けられたものか。
文月の姿か、彼女の言葉か、それともあまりに浅はかだった自分にか。……該当するものが多すぎてわからない。
「こんなの……僕どうすればいいんだよぉ……」
失敗した……いや、新月自身ががまだ事態を軽く見ていたことが明らになった。
結局この日、彼は情けなく泣き言を言いながらうずくまるしかなかった。
奇しくもその姿が、先程まで接していた文月と同じものだということにも気づかずに。
こうしてゼロどころかマイナスから、彼の提督道は始まることになる。