ありったけ落ち込んで気が済むと、新月は自分の私物と共に執務室へとやってきた。
「……うっわ」
執務室に入っての第一声はそれである。
それもそのはずで、執務室は埃や蜘蛛の巣の巣窟となっていた。マスクを持ってくればよかったと思うが後の祭り。きっと鎮守府が崩壊してからなんの手入れもされていなかったのだから、当然っちゃ当然だろう。
「まずは、ここの掃除か」
とりあえず汚れがまだマシな場所にバッグを置き、新月は掃除用具を探しに再び廊下に出る。何度も床をギシギシ叫ばせながら
幸いにも、密閉空間に収納されていた故か中のモップやほうきは問題なく使えそうだった(ロッカーの外装はズタボロだったが)。
「……ありがたく、使わせていただきます」
これをまだ楽しく使えていた頃の艦隊の様子を想像しながら、新月は掃除道具一式を拝借した。
ちなみにだが、新月はここの鎮守府の地図なんてもらっていない。本来なら案内役となるはずの
五分ぐらい道に迷った末にようやく執務室へとたどり着く。何度も咳をしながら、新月は掃除を開始した。
自前のタオルを口元に巻きつけて即席のマスクにし、ほうきで床を丁寧に掃いていく。
部屋に私物は少ない。初代、二代目提督の持ち込んでいた物は、彼らの異動、死亡に伴い回収されてしまったのだろうか。なんにせよ、モノが少ないのはいいことなのだが……代わりにまぁ出るわ出るわ。
何がかと言われると……まぁ、GやらGやらGやら、なんか名称わからん細長いムシとかである。新月はムシへの耐性はある方なので見つける度に適当に捕まえているのだが……全く減っている様子がない。奥の方で現在進行形で生産されてんじゃないかと思うほどだ。
Gは一匹いれば百匹はいると思え、とはよく言うが、なら百匹いれば千匹はいると考えたほうが良いのだろうか。
なんとか見栄えが付く程度にまで掃除が終わった時には、時刻は昼を回っており、新月の体は腕も腰もガタガタになっていた。
(執務室だけでこんだけ疲れるとか、全部の部屋をやろうと思えばどんだけ……)
本気の目眩を覚えながら、新月は額の汗を拭った。とはいえ、綺麗になった執務室を見ると多大な達成感と清涼感を得られる。達成感は物事を続ける上でもっとも大事な要素だ。
しかしそうして張り詰めていた糸が切れると、今度は
「やばい腹減った……」
急な空腹感がそれらを凌駕し始める。
足から力が抜け、綺麗になったばかりの床に座り込んでしまう。思えば、朝から何も食べていない。食べていないのにこの重労働だ。ある意味当然の摂理だろう。
生憎昼飯の類は持ってきていない。
買いに行くか、それとも食堂にはインスタント食品とかが残っているかもしれないが、どうにも足に力が入ってくれない。
力が入らないから昼飯を食って補給したい。しかし力が入らないので昼飯を食いにいけない。なんという無限ループ。世界よ、これが地獄だ。
なんてバカなことを思っていると、
『オーイ』
「ん?」
唐突に声が聞こえた。明らかに人間のような、抑揚に富んだ声だ。
新月は辺りを見回してみるが、誰かがいる様子はない。
しかし、声は確かに脳へと響いている。
「なに、なに? まさか……幽霊!?」
ムシはOKでもオバケはNOな新月。しかもここは元ブラック鎮守府なだけにオバケはシャレにならない。
『違ウッテモー。イイカラ手ヲダシテ!』
「ひいっ、なに!? 手!? 手が落ちるの!?」
条件反射で目を瞑りながら手を出すと、その上に何か三角形っぽいモノが置かれる感触がした。おずおずと目を開けて確認してみる。
それは、コンビニで100円で買えるようなおにぎりだった。
「……へ? 食べ物?」
『エヘヘッ、ビックリシタ?』
「うおっ!?」
相手の意図とは違うであろうびっくりをする新月。
それもそのはずで、おにぎりに続いて眼の前に現れたのは、小さな女の子だったのだ。四コマ漫画の世界からそのまま抜け出して来たような手の平サイズの女の子が四人ほど。それぞれに装いは若干違うみたいだが、今の新月には見分けが一切つかない。
だが、直感的に新月は察した。
「もしかして……君たちが『妖精』?」
『アッタリー!』
お気に召した態度だったか、四人の妖精がきゃっきゃと嬉しそうに笑う。
『ヨクワカッタネ? フツーハモット疑ウモノダト思ウケド?』
「いや……だってあなた達思いっ切り宙に浮いてますし……。もう反応に疲れてるってのもありますけど」
苦笑いを浮かべる新月に『ナルホドー!』と妖精は納得した顔をする。
……というこの妖精たち、さっきから口が一切動いていない。だが、言葉はなんとなくわかる。
なるほど、これが『聞こえる』ということか。なんだか手話で会話しているような気分だ。
『デモ、アラツキハ素質ガアンマリ無イカラ、スコシデモ他ノコトニ集中スルト、僕タチノ声ハ聞エナクナルミタイダケドネ』
「ふーん……」
素質の『質』によっても変化があるのか。
なるほど、素質が『上』の間で重要視されるわけだ。
「……っとそんなことよりも。このおにぎりは? どっから持ってきたの?」
『アラツキノタメニ買ッテキタ!』
『正確ニハ盗ッテキタ!』
『近クノコンビニから!』
よくぞ聞いてくれた!とばかりに妖精たちが自分たちの手柄をアピールする。
一言目と三言目はどうでもいいが二言目は無視できなかった。
「盗ってきたって……大丈夫なの!?」
『ダイジョーブ!オ金ハチャント置イテキタカラ!』
『ドノミチ気付カナイ思ウ!』
「……そっか。うん、もういいや。そんじゃあ、ありがたく……」
お前らその
包装紙を雑に破いてかぶりつき、飲み込んでいく。急な食物の投下に驚いたのか、胃が抗議するように騒いだ。それを上から押さえつけるようにさらに
数分としない内に平らげると、水の中に絵の具が染み込むように、全身にエネルギーが駆け巡って行くのを感じた。RPGで回復魔法をかけてもらった時ってこんな感じなのかもしれない。
新月がほどよい満足感を得ていると、傍らの妖精たちがニコニコ笑顔で見つめていたのに気づいた。
途端に恥ずかしくなってしまう。
「あー……助かったよ。ありがとう」
『フフフッ、ドウイタシマシテ。……トコロデ、アラツキハマダ掃除ヲスルツモリナノ?』
「そうだね。執務室は終わったから、ドックと食堂と……あと工廠は今日中にやっときたいかな」
『ソレハ丸一日使イソウダネ……』
うへぇ、という顔をする妖精。
「まぁ、それらは艦隊運用する上でどうしても使う場所だってヤマダさんから聞いたし」
『フーン……』
妖精たちは考え込む素振りを見せると、やがて親指を立てて言った。
『ワカッタ!ナラ、食堂ハ僕達ガヤッテオクヨ!』
「えっ、いいの? 悪いんじゃ……」
『イーノイーノ!僕達ハソモソモ提督ヲサポートスルタメノ存在ダシ!』
『道具サエ貸シテクレレバチョチョイノチョーイ!』
「……なら助かるけど」
正直こんな(文字通りの)少女たちを働かせることに抵抗はあったが、今は猫の手でも借りたい状況だ。『手伝わせるのは悪いよ』なんて台詞を言えるのは最低限の能力を持ってる人間だけだと言うのを、新月はよく知っている。
彼のような最低限未満の人間は、結局誰かの力を借りなければ何もできないのだ。
『デハ、妖精第一艦隊、出動ー!』
というわけで、廊下で食堂へと(文字通り)飛んで行った妖精を見送ると、新月はドックへ向けて彷徨い出した。相変わらず迷っている。
「ここの通路、どこもかしこも似たような光景ばっかなんだよなぁ……。はぁ、どこかに都合よく地図の入った宝箱が落ちていないものか」
ゲーム脳全開なことを言いながら歩く。
本来の鎮守府なら、通路を歩けばたくさんの艦娘が出迎え、挨拶をしてくれるから『通路の光景の違い』というものが出るのだろうが……生憎今は艦娘がいないので気になってしまう。
唯一通路を見分ける点があるとすれば、壁にあるヒビの形状と、隅に積もる埃の量ぐらいだが……そんなものを通路の識別信号にしなければならないなんて、ヘンゼルとグレーテルよりも寂しい。
(……いや、あと壁のシミもあるか。……壁の至る所にシミがあるなんて、二代目は何をしてたんだか。考えたくもないけど)
極力シミを視界にいれないようにしつつ、気合と男の勘でドックを目指す新月。
さて、突然だがここで一つ雑学を紹介しよう。
言葉として当たり前のように使われている『勘』だが、その意味というか原理を知っているだろうか。
ざっくり言うと『勘』とは、その人間が論理的分析的な思考に頼らず、完全な直感のみで物事を判断する能力……らしい。そしてその内容は、これまでの人生経験───所謂『〜な人は○○』や『△△したらーーが起きる』など───を脳が総合したことによって導き出される。
ようするに、『勘が鋭い人』とは『人生経験が豊富な人』とも言い換えられるわけだ。
そしてこの場面での新月の勘は、悪い予感をビンビンに受信していた。悪い勘、つまり彼がここまで積み上げてきた悪い経験はというと───
「っ」
空気が喉でつっかえる。
そうだ。新月はこれまで、出会いたくない相手と出会いたくないタイミングにピンポイントで鉢合わせるという嫌な特技があったのだ。
恐らく新月の脳は、彼に同じ轍を踏ませないように『勘』という形で警告してくれていたのだろう。結果としてそれは無駄になったが。
「文月……」
少女が、目の前に立っていた。いつからかはわからない。だが、それほど時間は経っていないように思える。
なぜ彼女が廊下にいるのか。それはわからないし、問いかけることもできない。蛇を見つけた蛙のように、新月は文月から目が離せなくなってしまった。
この廊下の光源は窓からの陽の光しかないが、ファーストコンタクト場所の部屋よりは遥かにモノがよく見える。
服装が普通の黒セーラー服なのを見るに、彼女は改ニではないようだ。部屋の中でもわかっていた長い髪は、相変わらず無造作で腰までかかっており、パサパサで一切手入れがされていないのが素人の新月でもわかった。
新月はほぼ無意識に眉根を寄せてしまう。鬼がいない間に洗濯をしようと家を出た瞬間に鬼に会ってしまったような気分だ。
……しかし、これは見方を変えればチャンスでもあるはずだ。どのみち文月の部屋にはもう一度行かなければならないと思っていた。
それが理由はわからないが向こうから来てくれたのだ。
さっきまで間接的に文月を『出会いたくない相手』としてしまっていたが、やはり新月個人としては彼女と良好な関係を築きたい。
どんな歪んだ形であれ、文月は彼が初めて出会った艦娘であり初期艦なのだから。
「あのさ文月、こんなところで一体───」
「まだいたの?」
意識して出した明るい声を、平坦な声が遮った。
今の新月からは、文月の瞳は彼女の前髪が邪魔して見えない。しかしその目に光がないことは簡単にわかる。ドロドロに濁った瞳は、何も映していないようだった。
「……うん。だって僕は提督だからね。ここにいなきゃ、いけないよ」
「……そう」
その問答だけで興味の全てを失ったのか、文月はコチラに向かって歩き始める。
元々文月は、どこかへ行こうとしていた途中にこの廊下で新月と出会って立ち止まっていた。なら彼女が再び歩き出すということは、新月との会話をこれで打ち切ることを意味しているのだろう。
新月のその推論を証明するように、一瞥すら寄こさずに文月は彼の横を通り過ぎていく。
「文月……っ!」
思わず呼び止めようとする。
ほとんど反射的な行動だった。
駄目だ。ここで彼女を行かせてはいけない。だってまだ自分は、彼女と何も話せていない。彼女に用がなくとも、自分には用があるのだから。
だが、新月の手が文月の肩に触れたとき、
「触らないでっ!!」
彼の視界が激しくブレた。
途方も無い力によって体が宙を舞う。自分の手を文月に振り払われたのだと気づいたのは、壁にしたたかに背中を打ち付けた後だった。
呼吸が止まり、一瞬意識が飛ぶ。後ろの壁に、また新たなヒビが入ったような気がした。
「いっつ……」
内蔵の配置が変わってしまったような錯覚を覚えながら、新月は上体を起こす。幸い痛みには慣れていたので、涙がこぼれたなどということはなかった。
顔を上げると、さっきまでと逆に彼が文月を見上げる格好になっている。
「……文月」
「────」
……さっきの振り払いは、尋常な力じゃない。明らかに艦娘のパワーによるものだ。
艦娘は、人間よりも遥かに強大な力を持っている。戦艦の主砲などを片手で振り回すことができるのがその証拠だ。
なので、基本的に人懐っこい駆逐艦などが提督とじゃれ合うときには、意識的に加減をする必要があると聞いたことがある。
だが、今の文月が自分に対して手加減したような様子はない。彼女は、自分を振り払うために手加減無しで力を振るった。
……つまりはそういうことなのだろう。
顔を上げると、目線自体が下にいったためか、先程は前髪に隠れて見えにくかった文月の目が少しだけ見えた。
その瞳に浮かんでいたのは嫌悪や……拒絶の意思……? いや、違う。
あの揺らぎは────恐怖?
「っ」
新月が判断しきる前に、文月は踵を返して歩き去ってしまった。ギシ、ギシ、ギシ、という音だけを鳴らして彼女の姿が離れていく。
「……文月」
その後ろ姿を、新月は呆然と見送ることしかできなかった。ぶつけられた背中は痛んだが、不思議と怒りは湧いてこなかった。
ただ、彼女が直前に瞳に浮かべていた『恐怖』のような色が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
……まるで、かつての自分のような色が。
歩き続けると、なんとか目的地であるドックにたどり着くことができた
他はどうだか知らないが、この鎮守府のドックは更衣室のような作りになっており、前方にある二つのドアが個別に銭湯のようにドックへと続いているはずだ。
しかし、ドックは艦隊運用の際には最も『使われた部屋』であるためか、今までに比べて内部の損傷具合が酷かった。コンクリートは所々亀裂が入って欠けているし、壁にある姿見は粉々に砕かれている。部屋の隅にはもはや標準装備と化した埃やシミが堂々と陣取っていた。
「…………」
とはいえ、もうこの程度では新月は驚かなくなってきている。もうこの一日で、彼の中での汚れに対する耐性はかなり鍛えられてきた。今なら多少の埃の嵐は、中に突っ込んでも二十秒ぐらいは咳せず耐えられそうだ。
「コンクリート部分の修理は、たぶんトンカチとかそのあたりの器具が必要なんだろうな……。今できるのは掃き掃除ぐらいか」
まさかここまで損傷しているとは思わなかったので、掃除は二回に分けることになった。タオルマスクを装備し直し、またほうきやらモップやらを手に持つ。
そうしてしばらく黙々と掃除をし、ゴミを片付け、個室に取り掛かろうとしたときだった。
最初に違和感を感じたのは、扉を開けた瞬間に視界の片隅に黒色らしきモノが見えたときだ。首を曲げて確認してみると、それはマジックで書かれた文字のようだった。
内側からの扉のすぐ横の壁に文字が書かれている(つまり、扉を開けてすぐ横を見れば見える)。あらかじめ知っていないと、見つけることは困難だろう。
わざわざそんな所に書くということは、恐らく提督に見つかっては不味いようなモノなのだろうか?
(ひょっとして、艦娘同士の秘密の情報交換所だったりして……)
そんな軽い気持ちで、新月はマジックで書かれた文字を正面から覗き込んだ。今までは視界の隅にあっただけで、ちゃんと『読んで』はいなかったのだ。
そこには、こんなことが書かれていた。
『 死ね 消えろ 絶対に許さない
もう嫌だ
帰りたい
助けて提督 消えてほしい
なんでこうなったの
皆死んじゃえばいい 嫌い
死ね 呪われろ
なんで殺すの
死ね
誰か助けて 』
「ひっ!!」
理解するより先に口が動いていた。本能的な恐怖に体が付いていかず、情けなく倒れ込んでしまう。
『尻餅をつく』という体験を新月は初めてした。
……これは、なんだ?
文字の大きさ、書き方のクセ、どれもバラバラだった。一致していたのは、すべて恨み言、助けを求める言葉であったこと、そしていずれも時間がない中で書き殴ったような乱暴な筆跡であったことだった。
……これを書いたモノたちが、ある特定の人物に恨みを持っていたというのは想像に難くない。むしろ恨み以外に何があるというのだ、この殴り書きに。
だが、問題は誰に対してかということだ。
一瞬、一瞬だけ、あの文月が自分に対して書いたのか、とも思ったがすぐに違うと切り捨てる。
理由はちゃんとある。
この文字通りの恨み辛みの群は、一人の人間が書いたにはあまりにも筆跡などが多彩すぎる。
それにそもそも、まだ自分と文月は
だとしたら誰が書いたのか。
……さほど脳ミソを働かせる必要はなかった。
「二代目提督がいた頃の……艦娘たち、か?」
補給も休憩もロクに与えられなかった当時の彼女たちにとって、この二部屋しかないドックは唯一心休める場所だったのだろう。そうして擦り減った心を休めるのと同時に、二代目への恨みを文字として表に出す。外に書くとバレる可能性もあるから部屋の中に、それもバレにくい位置に。
そうして願望のように壁に書いた憎しみを、他の仲間と共有して、心が折れるのを防ぐ。いつか二代目提督が報いを受けて、誰かが助けに来てくれることだけを、ずっと心の支えにしながら────
「うっ……!!」
その光景を鮮明に想像してしまい、新月は本気の吐き気を覚えた。駄目だ、これ以上はこっちのトラウマまで刺激されてしまう。
落ち着いていつもどおりの呼吸を心がけながら、ゆっくりと新月は立ち上がる。文字はなるべく見ないようにして。
これまで
ふと、脳裏に荒みきった文月の姿がよぎった。
もしかしたら、この文字の内のどれかを、彼女が書いたりもしたのだろうか?
……もし仮にそうなのだとしたら、このままでは駄目だ。
やはり、自分はこの鎮守府で起きたことをちゃんと知らなければならない。でなければ本当の意味で文月と接し、救うことはできない。
志を新たにして、ようやく新月は本格的に鎮守府問題へと関わっていくことになる。