どのぐらい、離れただろうか。どの位、時が経ったのだろうか。きっとそれ程離れられて無いのだろう。それに時間も少ししか経過していないと思う
それでも、メイザース辺境伯の屋敷から離れられたという安心感は、充分に得ることが出来た。笑いも興奮も大分落ち着いてきた。しかしながら、死への仮説が一つ潰れてしまったのは辛い。いや、結果的には選択肢が減り、正しい、正解を引く確率が高くなったとも言える為、良い。良かった筈なのだが
それでも、辛いのだ。苦しいのだ。肉体的にも精神的にも、痛みを苦しさも感じづらくなっていても、分からなくても。それは確かに辛いのだ
今回は、三周目。なにがあったか。いや、今は何も考えたく無い。何処か、近くに雨風防げる場があれば...あれ...? 何で、雨風を防ぐ必要があるのだろう?
「いや、そうだった。そうだったんだよ! そんな物は必要ない。意味が無い。故に探す行動すらが無意味! あはははっ! 」
冷静な頭で考えたら、別に雨風を防ぐ必要なんて無かった。無かったのだ。以前、川に流され、眠った時も、低体温症や風邪などにならなかったし、この身体はもはや病気とも無縁と言う事だろう。何も縁が無い。何もかもが無い。孤立した肉体だと、言える
それに寂しさを感じなかったといえば嘘になるが、虚実とて覆い隠せば真実になる。いや、違うか。ただ無意味な見栄を張り、剥がれ落ちるまでを怯えるだけか
喉から掠れ、曇った笑い声が自然と漏れ出す。そうか。そうだったよな
俺はなんてことない事実の再確認を終え、結果を基に問題は無いと判断した。全身の力を抜いて地面に転がり目を瞑って睡魔を静かに待つ
しかし眠気は訪れない。当然だ。そんな物をこの身体は感じない。必要としない。これまでなら眠ろうと思えば眠れていたが、それも深い眠りとは到底言えず、浅い眠りであったが、眠れてはいたのだ。しかし今は、先程まで興奮していたせいか、全く眠気は存在しなかった。けれども苦くて辛い、この幻のような痛みは、少したりとも消えちゃあくれない
何もわからない。だから何も出来ない。いいや、違うか。何もわかろうとしない。その上自分は無力だから、持たざる者だから何も出来ないのだと、逃げて逃げて、逃げ続けて。その結果が、それによってもたらされた現状がこの様だ。ヒクつく笑いが止まらない。しかし苦しみは一向に収まらない
辛くて痛くて苦しくて。子供が癇癪を起こすような動作を身体が勝手にしてしまう。それに呼応するように呼んでもいないのに忌々しい魔手が三十本展開され、周りの木々を手当たり次第に薙ぎ倒し、地面を抉り岩を砕き。壊して壊して壊して。それでもこの気持ちは収まらなくて
「──んぁ? 」
まだだ。まだ壊し足りない。そう思い次の八つ当たり先を探そうと辺りを見渡すと。どうやら数匹の獣に、囲まれてしまっているようだった
獣の姿は狼によく似ていて、角が生えていると言う事と異質なカラーリング以外は、ほぼ狼にそっくりだった。と言うかこれ、ウルガルムだ。ロズワール辺境伯の屋敷近くの村のすぐそば、森に住まう魔獣、ウルガルム
噛み付いた相手に生命力だかそう言う類いの物を吸い取る呪いの術式を植え付け、食事の際に術式を発動。呪いを刻まれた者は死に至る。だったか。何故だか知らないが考えが上手く纏まらない。それに記憶の精度も曖昧だ
眼前のウルガルムの唸り声には侮りの感情が込められた。狼風情が俺に侮りだと? 許さない。それは俺の権利の侵害ではないか
俺が考え事をしている最中に横から思考を乱しておいて、何か用があるのかと目を合わせればそんな態度を取るとは。あくまでも俺は友好的に接しようとしていたのだ。嘘? 違う。嘘ではない
そもそも俺が嘘を吐こうが吐くまいが、俺の自由だろう。それをとやかく言うのは俺の自由の侵害ではないか。やはり許さない。殺してやる
そこまで考えた所で、やけにウルガルムが近くに、まるですぐ目の前に居るかのように目に映っている事に気が付いた。なんだなんだと見てみれば。ウルガルムはどうやら、俺の喉に噛み付いているようだ
醒めた思考が再起動しようとする。しかし鳴り止まない興奮の所為か、それは不完全な物だった
馬鹿か俺は。狼風情? 相手は魔獣だ。精々一般人程度のの身体能力しか無い貧弱な俺の身体では、どう頑張ったって勝てる訳が無いではないか
数だって相手の方が上、力量も連携も、何もかもがウルガルムの方が上だ。それに対して、俺には何もありやしない。力が無ければ友も居ない。倫理も溶ければ愛も分からない。何も、何も残っちゃいないのだ
虚無感、苦痛すらも薄れて、世界から切り離されたような、孤独感が、俺を縛り付けて離さない
呪い。これはきっと、呪いだ。呼ばれてもいないのにこんな場違いな場所に来てしまった、何かの間違いで、勘違いで、すれ違いで、何もかもが噛み合わぬ、ズレたまま回り続ける歯車のような、いつ崩れるか分からない、そんな、単純で複雑な、簡単で難解な
名を、愛と言う呪いである
そんな事を、今更ながらに再確認しながら、俺の視界は。ウルガルムの口の中を最後に黒く塗り潰された
◆◇◆◇◆
微睡みに沈み行く中、消えゆく意識の外側で、小さな小さな声がした
『──死なないで』
愛してるとは言わなくとも、その言葉には優しい愛が込められていた
『──生きて』
ある人によれば、言葉とはナイフであり、またある人によれば優しさであったり。様々に形を変える、極めて不安定な物だ。だからこそ、彼女の愛は、彼を生きる事から逃がさない
歪な形に歪んでしまった、一つの愛がそこにはあった
◇◆◇◆◇
死んだのか? ただ喰われただけで? いいや、いやいやそんな訳が無い。その程度で死ねるような、死なせてくれるような、彼女の愛は、そんな温い物なんかじゃない
つまり俺は、死んでいないと言う事だ
気味の悪い、発生源の分からない、何処に仕舞われたかも分からない記憶が過ぎった。しかしそれは酷く現実的であり、それが事実であると認識を植え付けられるような記憶であった
事実を自覚した瞬間に、俺の身体はハッキリと形を整形する。蘇った視界が真っ先に映し出したのは、赤い液体溜まりと、返り血を浴びたような赤い斑点模様を付けたウルガルムと、赤く染まった自身の身体だった。何やら肉片のような物も体に纏わり付いているが、今は気にしない。今はそれよりも先に、目の前の標的を無力化する
「そら、犬っころ。唸るだけじゃなんも変わんねぇぞ? 早く俺を殺してみろよ」
本当に殺してくれたら良いなと無意味な希望を微かに抱きながら、俺は展開した状態で放置していた魔手を操り、ウルガルムの身体を拘束する。魔獣のツノを折れば、奴等は俺の手駒となる。ウルガルムは森の中等の悪路を速く移動するのに役立つ為、出来るだけ無傷で捕まえたい
俺の展開した魔手は何故か硬直し動かなくなったウルガルムをいとも簡単に拘束してしまった。拘束を緩めれば俺の肉を残さず喰らってくれないだろうか? いや、多分無理だろうな。悩む事すら意味が無い
俺は魔手で捕らえたウルガルム達の角を折り、自由に扱える手駒とし、その内の一匹のウルガルムに乗り森の奥へと逃げ去った
森の中を動き回り、辿り着いたのは少し開けた原っぱ。辺りを見渡してみると、頭は違和感を覚え、既に見ていると感じる既視感が記憶を呼び起こす。そうか、思い出した。ここは魔獣使いの女の子...メイリィが倒れたフリをしてナツキ・スバルを誘き寄せた場所だ
「だけど...なんだってこんな場所に......」
口が勝手に言葉を生み出し、思考に回す分のリソースを僅かに奪い取ったが、いくらなんでもその程度で状況を理解できなくなるほどの馬鹿ではない。何を考えてこんな行動を取ったのかは全く理解し難いが、状況の把握が可能であれば問題は無い
あの時俺は、ウルガルムに乗り、......何処か雨宿りができて、休めそうな。適当な場所に移動しようと行動を開始したが、相手は魔獣。行き先を伝える事はおろか、会話や意思疎通すらも成り立たない。種が違うとはそう言う事なのだが、何故かすっかり忘れていた。そのまま訳も分からない雄叫びを至近距離で聞かされながら、森の中を駆け巡り、それで、昨日の夜ここに着いた
......ん? 昨日の夜? と言うことは少なくとも既に一日は経過しているという事だ。不味い。不味い不味い不味い! 日時の把握を怠っていた。これは怠惰だ。非常に愚かしい、愚図の行い。これではいつ魔女が訪れるかすら分からないではないか。あぁ怠惰。実に怠惰。しかしこう嘆くだけと言うのももっと悪い行いだ
なればこそ挽回しなくては。俺にはそれを可能とする方法がある。なぁに簡単だ。ただ記憶を辿れば良いだけなのだから。力とは言ったが人間であれば殆どの者達が行える行為なので、明確に言えば人間に備えられた標準機能と呼ぶべきだが
朝、夜、朝、夜。記憶を辿り回数を数える。数えて数えて、今日が何時なのかを理解した。まぁ、それも無意味な事であったが
──愛して「うるさい」る
魔女の声が聞こえてきた。大体ナツキ・スバルでも数回に一度しか聞こえてこなかった声が毎回。こうも何度も聞こえてくるのは、俺がナツキ・スバルより優れている数少ない美点と言えるのではなかろうか? 全く嬉しく無いが
──愛してる。愛してる愛してる愛してる。だから、愛して
「ハッ、絶対に嫌だね。お前を愛すぐらいなら死んだ方がマシだ」
──? 愛してる筈。愛してる。愛してる。だから、愛して
無意味で無価値な愛の言葉を無作為に。本人であるか、認識すらまともに行わず嘆き続ける魔女の姿には、若干の殺意が芽生えるが、今はまだ、殺せない。力が足りない。知恵も足りない。あるのは死ねない身体と知識だけだ
だから
「残念だったな、時間切れだ。今日の所はとっとと失せろ」
ナツキ・スバルのような全てを救う英雄なんて、大層ご立派な評価が得られなくても、生きる意味がわからなかったとしても
覚悟なんて決まっちゃいない。信念は無いし、意地も根性も無い。そんな何も無い無価値な命でも、それでも、可能性に縋りたい。思い出したくない、二度と見たく無い
未来を変えて、全てを救うなんて、そんな事は出来やしないけど、少しのズレならぐらい作ってやれる。傲慢な考えだろうが何だろうが、知ったことか。それで何が悪い?
自分を騙すための言い訳の言葉を並べながら、俺の身体は二千の影に呑み込まれていった
◆◇◆◇◆
死んだような気がした。いや、俺の身体は死とは無縁だが
世界が巻き戻る感覚は、何度味わっても奇妙で、到底慣れなどしない。一定の日々を終わりの見えない中繰り返すナツキ・スバルはきっと、内心恐怖しているのだろう。それでも尚未来へと突き進む狂気には、多少の共感を覚えたが、それでもやっぱり、ナツキ・スバルを殺したい気持ちは変わらなかった
憎いのだ。羨ましいのだ。酷く嫉ましく、その立場を、肉体を、関係を。何もかもを奪い、成り代わりたいと思ってしまうのだ
俺にはこの
数多のナツキ・スバルにより生み出された屍山の上に成り立つ、英雄では無く、もっと、もっと──
生臭い。思考にリソースを注ぎすぎた。視界は黒く暗転し、ドロドロとした感触が身体に纏わり付く。あぁ、これは腹の中だ。また食われてしまったらしい。俺はウルガルムの体内から脱出する為に魔手を生み出し、強制的に体の膨張を引き起こす
内側から強制的に圧力を加えられたウルガルムの体は、赤い噴水を吹きながら弾け飛んだ。目新しいジャージには血や削げた肉が付着したが、瞬きをするとそれは消え去り元に戻る
異様に頭がスッキリする。悩みも恨みも何もかも。ちゃちな言い方だが、まるで別人に生まれ変わったかのような、それぐらいに真新しく、それでいて長年連れ添った半身と交わったような、手足を扱うように、記憶に無くとも覚えている感覚によく似た、ほぼ同一と言って良い程に似た、素晴らしい感覚だ
装飾を外し、端的に例えれば『しっくりくる』の6文字で収まる、簡単なものであるが
「さて、と。時間もあまり残っちゃあいないし。急いで準備しないとな」
上機嫌に口角を吊り上げ、音の外れた鼻歌を歌いながら、俺は準備に取り掛かった