梓弓 引けど引かねど 昔より 心は君に よりにしものを
ーー宮仕えに行く。
ある村で、男が女にそのようなことを言っていた。
叶えたい夢がある、そのためには金がいる。だから都に行くのだ。そう言って男はその場を立ち去ろうとする。
待って。女はそう呟くが、男の決意は固い。振り向き、女を抱きしめて、そしてその後振り返ることなく男は村を去っていった。
宮中で職に就いた男の日々は、充実していたといえるだろう。
同僚に恵まれ、上司に恵まれ、職場に恵まれた。なによりも、夢を叶えるという子どものような夢が一番の原動力だった。
しかし。そう言っていいのか分からないが、男は誰かと結ばれることは無かった。
好意を向けられたことはある。三日目の夜*1に誘われたこともある。しかし、そのような誘惑を受ける度に何故か男の脳裏にはあの、片田舎に置いてきた女のことがよぎっていた。
彼女は今何をしているだろうか。女性の結婚適齢期は短い。早く新しい人を見つけていて欲しい*2。そう思っているはずなのに心のどこかで しかしーーと思ってしまう。もうすぐ三年経つ。三年経てば夢を叶えるための金も溜まるだろう。
そう思うと心が踊る。村に帰ったら、いの一番に女の元へ行こう。そして言おう。待たせた、と。
やがて、その日がやってきた。男が村に帰る、その日が。
馬に乗り、腹を蹴り、普段の倍の速度を出して道を走る。ああ、彼女はどのようになっているだろうか。髪は伸びているだろうか。化粧の仕方なども昔より上手くなっているだろうか。ーー未だに、俺の事を思ってくれているだろうか。
普段より飛ばしたからだろうか。本来二日はかかるその道を、男は一日で駆け抜けた。着いた時はすっかり暗くなっていたが、まだ起きているかもしれない。そう思うと、男の足は自然と女の家へと向かっていた。
「この戸、開け給え*3」
中に人の気配はある。しかし、待てども待てども動く気配はない。もう寝てしまったのだろうか。そう思ったとき、中から詩が聞こえてきた。
ーーあらたまの 年の三年を まちわびて ただ今宵こそ 新枕すれ*4
遅かったのだ。もしもあと一日早く、いや、一時間でも早くついていれば結末は変わっていたのかもしれない。しかし、現実はいつだって非情だ。結果が変わることはないし時計の針が逆向きに回ることも無い。
空を仰ぐ。星々は見えない。月が煌々と輝いており、あたりの星は見えなくなっていた。
三年という時間は、男にとってはあっという間であったのかもしれない。しかし、女にとってはどうだろうか。
適齢期も終わりかけており、また、家の中で過ごす日々は退屈で、男と流れる時間は違っていただろう。
だからーーしょうがないのだ。
「あづさ弓 ま弓つき弓 年を経て わがせしがごと うるはしみせよ*5」
大人しく身を引こう。それが彼女のためにも新しい男のためにもなるだろう。そう思い、男は詩を残し馬に乗り立ち去って行く。
ーー梓弓 引けど引かねど 昔より 心は君に よりにしものを*6
その詩を聞くことなく。
ーー梓弓 引けど引かねど 昔より 心は君に よりにしものを
私の心はずっとあなたにありました。三年間、私はあなたの事を愛し続けていました。
少し意地悪なことを言ってしまったから、男の詩に合わせてそう返す。しかし、男から返事が帰ってくることはなかった。不思議に思って戸を少し開け、外の様子を見る。見えるのは、小さくなった馬に乗っている男の背中。
届かなかったのだ。
新しい男に断りをいれ、男を追う。待って、私はずっとあなたの事がーー
しかし、外に出たことなどほとんどない、まして運動なんぞした事の無い彼女は、すぐに体力の限界が訪れ清水の近くに倒れてしまった。
ああ、このまま終わるのか。ーーそれは嫌だ。そう思い、指先を噛みちぎり、近くの岩に詩を書く。正真正銘、最期の詩だ。
あひ思はで