多分その打ち続ける。
その怪物はブクブクと醜い贅肉に覆われている。
身の丈大樹ほどもあろう巨体は、その大半が贅肉でできている。
肉の固まり、貪欲の化け物。垂れ流す体液は膿のように濁っている。廃液のように毒を発し、沼のように溜まる。
鱗、鰭、体を覆うそれらは、蕩けた肉を入れた不定形の入れ物でもあるのだろう。
グレンデル、グレンデル。
醜い怪物。英雄の足場。姿無き端役。
だがな。いずれ知るだろうさ。
その贅肉は鉛だ。その鱗は鑢だ。
その鰭は、水の中であろうと生かし続ける生命力だ。
剛腕は唸り、遥か地平の彼方まで大地を抉り飛ばすだろう。
その血は英雄の詰めを殺すだろう。決して殺しきれぬ。罪人の血筋ゆえに。
グレンデル、グレンデル。
醜い化物。英雄の足置。語られない敵。
お前はまっこと、化け物だ。
醜い醜い、
***
――暗い。
辺り一面、何の光源もない。こんな場所があるのだろうか。新月の夜であろうが、星の明かりぐらいはある。
いや、そもそも街灯の明かりが無い場所なんてあるのか。そんな場所へ足を向ける気質ではないし、仕事上での予定もない。此処は何処だ。
手で足元を探り、だが何も分からない。寝起きのようなぼんやりとした触覚では、きっと錆びた剣で切りかかられても気づかないだろう。
無防備だ。体ではなく、心が。頭では緊急事態だと理解しているのに、心がまるで追いついていない。夢見心地で、布団の中に居る様に安穏としている。これではいけないと思いつつも、恐怖を抱けない。
脳が発する警鐘をよそに、思い付きの行動を起こす。立ち上がり、フラフラとどこかへ歩き出す。体が揺れているのか、居ないのか。茫洋とした世界ではそれすらも分からない。
五感の喪失、現実感の麻痺。
歩いているのは、自身の体がそういう反応を返していることからの推測だ。足裏から何かの振動を感じるわけでも、風が頬を撫ぜているわけでもない。体が報告しているのを聞いているだけ。
どこへ向かおうというのか。何処へ向かっているのか。
それは縮尺の狂った脳味噌に見えた。水っぽい匂いが鼻腔を通り抜ける。鼻がイカれているのか、体でヒリつく臭気を感じているというのに、鼻はそれを嗅ぎ取れない。
羊水に溺れているような温もりと共に、突然それが身動ぎをしていると気付いた。
生きている。動いている。
ぼやけた目に力を入れてよく見れば、それは頭と腕を持っているように見えた。輪郭があり得ないほどに大きいが、小人が机にうつ伏せになっている人間を見ればこう見えるだろう。
波打つ腕らしき部位は、腫瘍にも似た鱗で覆われていた。重なり、集まり、瘤のようになっているものがありふれている。その所為だとでも言う様に、鱗の禿げたところがある。白い、黄ばんだ脂肪が見えた。
もっとよく観察して、その腕が一本しか見当たらないことにも気が付く。
何なのだろうか、これは。
その疑問に答えるように、何処かから唄が聞こえ始めた。
__グレンデル、グレンデル。
__醜い怪物。悍ましい獣。英雄の敵。
__お前はまっこと、汚らしい。
聞き覚えがある。ふと、そう感じた。
駅前でサビ途中の歌が歌われているのに気付いたように、意識するより前から聞こえていた。
そんな気がした。
__垂れる蛆汁。溜まる泥沼。
__人を妬み、幸せを妬み、強きを妬み。
__誰よりも醜い、魔女の実仔。
言われてみれば、足元が濡れている気もする。足首まで浸かっているのか。波紋の中に立っていた。
それから、グレンデルと呼ばれている怪物を改めて見直し、片腕が欠損しているという事が分かった。肩口から引きちぎられている。ああ、だんだん思い出してきた。
自分はこれを知っている。
__水底に生き、水面を望む。
__勇士の巻き藁にも成れなんだ、お前は誰だ。
__べオウルフを母の下まで導いた、使えない子だ。
確か……『ベオウルフ』とかいう、イギリス文学の古い古い、伝承の英雄譚。そこに登場する、かませ犬のような怪物だ。
多くの姿に訳され、たいして重要でないと正されず、どうでもいいから興味を持たれることもない。そんな、良くある悪役。
ありきたりで、そこらに居る、小悪党。
__グレンデル、グレンデル。
__死にかけの悪魔。姿の無い怪物。泥と共に踏まれる悪。
__お前はまっこと、小さい器だ。
そんな感じだった。
ああ、そうか、という風に唄を聞き流し、内から湧き出る思索に耽り。
気が付けば自分までもが、その唄を口ずさんでいた。
「グレンデル、グレンデル。
醜い怪物。悍ましい獣。英雄の敵。
お前はまっこと、汚らしい
それは、英雄譚に拝される小さな悪役。
だれも見向きすることのない、どうでもいい木っ端。
「垂れる蛆汁。溜まる泥沼。
人を妬み、幸せを妬み、強きを妬み。
誰よりも醜い、魔女の実仔。
良くある、ありふれた小悪党。
大悪も為せず、小心者な木偶の棒。
他人の幸せを憎み、足を引っ張ることに命を掛けて、自分一人が落ち潰れる。
失笑すら値しないような、下らない悪。
「水底に生き、水面を望む。
勇士の巻き藁にも成れなんだ、お前は誰だ。
べオウルフを母の下まで導いた、使えない子だ。
プライドもなく、思慮もなく、周囲を巻き込んで落ちていく。
思い付きで行動し、尻ぬぐいに周りを巻き込む。
典型的な嫌われ者。
ああ、成程。
「グレンデル、グレンデル。
死にかけの悪魔。姿の無い怪物。泥と共に踏まれる悪。
お前はまっこと、小さい器だ。
だからこそ。
醜い醜いグレンデル。
お前はまっこと――楽し気だ」
こんな奴と、馬鹿騒ぎしてみたかった。
思い返すほど、自分の人生には面白みがなかった。
そこそこに努力し、そこそこの学歴を得て、そこそこの収入で生き、そこそこの死に様を晒す。
愕然とした。酒を飲んで酔って、周りと同じように自分の若い頃の話を聞かせようとして、何も口から出て来なかった。
山も谷もない、他人に語って聞かせるだけの物語もない。どうでもいい、二束三文ですら売り飛ばせない、無価値な人生。
老人ホームで初めて気づいた虚しさ。
そもそも、自分には友人と呼べるような人間がいただろうか。
死に間際になって漸く、自分が八十年以上を無為に過ごしていたことに気付いたのだ。
だから、せめて。
生まれ変われたら。
今度はこんな、小悪党でも友人に持つ人生が良い。
自分から踏み出せずとも、きっと華がある人生になるだろうから。
――。
目を覚ます。気怠い朝。
どうやら、夢だったようだ。
話のネタになる夢を見た。少し上機嫌になりながら、身を起す。
普段より少し強い朝日に目を細める。
目を擦ろうとして――妙に潤いのあるその手を止めた。
見覚えのない小さな手。自分のそれにしては張りがある。
まるで紅葉のような、小さな手。お手手。
ふぅ、と一息つき、見直せば見覚えのないという事に気が付いた天井を見上げた。
確か、こういう時はこんなことを言うんだっけな。
「夢だけど、夢じゃなかった……っ」