【過去作】
「マスター。恋とは一体なんなのでしょうか?」
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なにも無い夜に空を見上げる奴ってどんな気持ちなんだろう。
ふと、そんなことを思った。
仲秋の名月だとかスーパームーンだとかなら見上げたくもなるだろう。でも仕事の帰り道や少し落ち込んだ日の夜、好きな人のことを想って──なんて理由で夜空を仰ぐ奴はなに考えてるんだ? 空見上げてる暇があったら目の前の現実を見ろ。
「私の話、聞いてますか〜?」
トレーナー室に備えられた窓を開け放し夜空を仰いでいた俺は、後ろから聞こえてくる柔らかで優しげで背筋をそっとなぞるような恐ろしい声に振り向けないでいた。
「ふふふ」と笑っているのが余計恐怖心を煽ってきて足が震える。
いやあ、それにしても都会の夜空は美しくない。星だって全然見えないじゃないか。しかも真冬だから死ぬほど寒い。
でもあれだね。人間追い詰められたときは自然と上を向いちゃうもんなのかもしれないね。
目線を上に上に上げてね、なんとか恐ろしいものを視界に入れたくなくてね。
「トレーナーさん?」
あまりにおっとりとした声に、びくっと肩が震えた。もう誤魔化せない。ここで振り向かなければ殺されてしまうとさえ思った。
「ま、待って聞いて落ち着いてグラスちゃん! 怒らないで!」
俺は慌てて振り返り、両手を前に突き出してなんとか説得を試みた。
「あらあら、もしかしてトレーナーさんは私が怒っていると思ってるのですか? おかしいですね。それはつまりうしろめたいことがあるということですよね?」
左手を頬にあて、少し左に首を傾けたグラスは微笑んでいるが、声が冷たすぎる。
冷や汗が首筋と背中を伝って流れ落ちた。
「ないない! あるわけないじゃん! グラスちゃんに一目惚れしてスカウトしたあの日から、俺の気持ちは一切移ろってないよ!」
「ふふふ、ありがとうございます〜。ではこれの説明をして頂きましょうか」
そう言ってグラスは一歩前に踏み出してきて、俺は完全に追い詰められてしまった。後ろの窓を開け放しているせいで下手に抵抗すれば落ちてしまうかもしれない。
眼前に突きつけられた一枚の紙切れが異様に鋭く見えて、そんなものでも俺を切り刻むことができてしまうのではないかと錯覚させるほどの威圧感がある。
「そ、そそ、それはだね……」
「はい〜」
おお、顔は笑っているのに目が笑ってない。本当にこんな表情ってできるもんなんだ。
「キャバクラの……名刺ですね……」
一瞬、開け放たれた窓から吹き込んでくる風の音も、壁にかけられた時計の秒針の刻むカチコチという音も、なにもかもが消え去って静寂が訪れた。
でもすぐあとにグラスが「ふふふ」と笑ったので、俺も「あはは……」と笑った。
その瞬間だ。グラスは眼前に突きつけていたキャバクラの名刺をグシャリと握りつぶした。
「ひぃぃ……!」
「なぜトレーナーさんのスーツからこんなものが出てきたのかを訊いているのです」
もう目だけじゃなく顔も笑っていなかった。
俺は遺書を書かなかったことをすごく後悔しながら、心の中で両親に先立つ不孝を許してくださいと伝えた。
俺がバカだったのだ。先週、先輩トレーナー二人に強引に誘われ、断りきれなかった。そこまでは良い。いやよくないけど。
ただそのとき貰った名刺をスーツのポケットに仕舞い込み、すっかり忘れていたんだ。
トレーニングを終えて、グラスと別れてから残っていた事務仕事を片付けていた俺はつい眠気にやられてソファで仮眠をとることにした。スーツの上着を机の上に脱ぎ散らかして。
恐らく忘れ物でもしたのだろう。トレーナー室へとやって来たグラスが、俺が眠りこけているのを見て苦笑しながら、上着がシワにならないよう直してくれたことは容易に想像できる。……そのときに運悪くポケットから名刺が落ちてしまったことも。
いつの間にか膝枕されていた俺はさぞ良い夢を見ていたことだろう。目を覚まして最初に視界に入ってきた、こちらを覗き込んで微笑んでいたグラスの表情があまりに可愛くて夢の内容なんて覚えていないけれど。
起き上がって「オーダーメイドの枕よりぐっすり眠れたよ」なんて笑って冗談を言ったときの俺はこんなことになるなんて思ってもいなかった。
「それは光栄です〜」と柔らかく笑ったグラスが握りしめていたキャバクラの名刺に気づいて少し記憶を探ってから、すぐに青ざめた。
立ち上がってその場をあとにしようとした俺の背中に「どこへ行くのですか?」と声をかけてきて、それがまるで「逃げたら殺す」と言っているように聞こえたので、俺は震える足で窓の方へと歩いた。
「スーツのポケットに入っていた『これ』についてお聞きしたいのですが」と言われて、俺はおもむろに窓を開け放した。
「今日は月が綺麗だね」……そう言おうと夜空を見上げたが、生憎の曇り空で呆れるほどに真っ暗だった。
「言い残すことはありますか〜?」
そうは言われても、咄嗟に出てくるものはあの店のラーメン食っときゃよかったとか、彼女いない歴=年齢のまま死ぬのは悲しいなとか、くだらないことばかりだった。
あっ。あとひとつ──
「言い残すことじゃないけれど……最後にグラスの走りをこの目に焼きつけておきたかったかな……」
そう言って苦笑すると、何故だかグラスはしゅんと俯いて小さな声でぼそぼそとなにか言っていた。
「……言い訳があるなら、聞いてあげます」
なんとか聞き取れたのはそんな言葉で、これはもしかして生存ルートなのではないかと、飛び跳ねて踊りたい気分だった。
「あるある! めちゃくちゃある! まずキャバクラに行ったのは俺の意思じゃないということは知っていてほしい!」
「……それは、まあ、わかっています」
「え、そうなの? あっ、あとそれからキャバクラ行ったのは初めてだし、楽しくなかったよ。グラスと一緒にいるときの方が百万倍楽しい」
「本当、ですか……?」
「もちろん! 俺が話したいのはグラスだけだし、見ていたいのもグラスだけだ!」
……これでもかというほど、熱くグラスの魅力について語った。海外生まれとは思えないくらい大和撫子だし、おっとりしていて可愛らしいのに内に秘めた闘志は強く気高いだとか。あと背はちっちゃくて可愛らしいのに力強い走りだとか、勝負服の青もグラスのイメージとよくあっていてカッコいいしなにより可愛らしいだとか声も可愛らしいし顔も可愛らしいだとも。
途中から自分でもなにを言っているのかわからなくなって、極めつけは嫁に欲しいとも言った。
「も、もう十分です!」
目をきゅっとつむって、珍しく声を上げたグラスは頭から煙を吐き出している。
普段から褒められることには慣れていそうなのに、こういうグラスを見るのは新鮮でまた可愛らしいと思った。
「俺がグラスしか見ていないことが伝わったのならやめるけど……」
「伝わりました……!」
トレーニングのときよりも息を乱していたのが気になったが、しばらくすると落ち着きを取り戻し、すぅはぁと深呼吸してからじっと俺の瞳を見据えて柔らかく微笑んだ。
「今日のことは一生忘れません」
「えっ……」
なにそれ、ずっと根に持ってるってことなの?
怖。いつ後ろから刺されるかもわからない恐怖を感じたまま一生を過ごせということだろうか?
「グラスちゃ……」
「では、私は寮に戻りますね。……トレーナーさん、またあした。うふふ」
「…………」
まるで恋する乙女のような素敵な笑顔で手を振ったグラスが、部屋から出ていくのを見送って俺はソファに勢いよく座った。
なんだか胃がきりきりしてきたし胸が痛い。
別にキャバクラ行ったくらいでそこまで怒らなくても良いのに、と大きなため息をついてから、やりかけだった仕事の存在を思い出してもう一度ことさら大きなため息をついた。
× × ×
「あーん、してください」
翌日の昼休み、いつもならスペシャルウィークたちとカフェテリアで昼食を摂っているはずのグラスが、何故だかトレーナー室へとやってきた。しかも五重に積み重ねられた重箱を引っ提げて。
グラスのトレーニングメニューや出走レースについて考えをまとめていた俺をソファに座らせ、その隣に腰を下ろして目の前の机に重箱を広げていくグラスを目で追いながら、頭の上に疑問符を浮かべた。
重箱の中身は唐揚げや昆布巻き、カボチャの煮付けなどさまざまなおかずが詰められていて、その中からだし巻き玉子を箸で掴んでグラスは俺の口元に差し出してきた。
「あーん」と、笑顔で。
状況がうまくのみ込めず苦笑を浮かべて固まっていた俺を見て、グラスはだし巻き玉子をもとの位置に戻し、今度は筑前煮のれんこんを箸で掴んで俺の口元に差し出し、「あーん、してください」と言った。
「ちょっと待ってグラスちゃん」
「人参の方がよかったでしょうか?」
「違う、そうじゃない」
ぴたりと互いの肩がくっつくほど寄ってくるグラスから、人ひとり分距離を取り、箸で掴まれたれんこんをじっと見つめた。
昨日はあんなに怒っていたのに、今日はどういう風の吹き回しなんだ。
「迷惑、でしたか……?」
差し出された料理に一向に口をつけない俺を見て、グラスは耳を前に倒してしゅんと俯いた。
──バカか俺は。万が一にも無いが、例えこの料理に毒が盛られていようと、器まで残さず食ってこそグラスの担当トレーナーだろ。
しかもわざわざあーんして食べさせてくれようとしているのに、俺は一体なにを勘繰っているんだ。
やってみせろよ、トレーナー! なんとでもなるはずだ!
「あ、あーん!」
箸を持っているグラスの右腕を掴んで自分の口元まで持っていき、パクリと勢いよくれんこんを口の中に放り込む。
するとグラスは「まあ!」と嬉しそうに笑って、「次は人参ですね」と、耳をぴこぴこと動かしながら箸で人参を掴んだ。
「はい、あーん」
「あはは……」
気恥ずかしさが先行して正直勘弁してほしかったが、料理の腕前は絶品だった。
この娘まじで嫁に欲しいな〜、なんて考えながら次から次に差し出される料理を食べ続けた。
「ごちそうさまでした」
「はい。お粗末さまでした〜」
途中からはグラスも一緒に食べ始めて、全ての料理をふたりで平らげてから、グラスが淹れてくれたお茶を啜りながらちらと隣に座るグラスの方に視線を移した。
「めちゃくちゃ美味かったよ。グラスはなんでもできるんだな」
「なんでも……ですか」
笑顔で言った俺とは対照的に、グラスは少し落ち込んだ表情をしている。
「できないことの方がたくさんあります。……一番欲しいものも、きっと私は手に入れられません」
右手で口元を押さえて苦笑したグラスの耳はぺたんと力なく折れていて、なにか悩みでもあるのだろうかと気になった。
「なにが欲しいんだ? 俺にあげられるものならなんだって用意するぞ」
「それは……」
同じソファの上、隣に座るグラスは人ひとり分空いたスペースに両手をついて、身体をこちらに乗り出した。
そのままじっと見つめてくる上目遣いがなんだか気まずくて、目を逸らそうとした瞬間だった。
「グラス……?」
身を引いて、こてんと転がって頭を俺の太ももに預けてこちらを見上げてくる。
「……こんな行儀の悪いグラスワンダーは、嫌いですか?」
不安そうに訊ねてきたグラスがあまりに可愛かったから、俺は左手をそっと伸ばしてグラスの頭に触れて、きゅっと目を閉じたグラスの頭を優しく撫でた。
「驚いただけだよ。それに、どんな一面を見たって俺がグラスを嫌いになることはないよ」
「……すきにもなってくれないですよね」
そっぽを向いて、とても小さな声で呟いた言葉は聞き取れなかったから、聞き直そうとするとグラスはそれを遮るように「おやすみなさい」と言った。
ここで寝ちゃうのかよ……って思ったけど、きっと疲れているのだろうと思い、苦笑を浮かべながら「おやすみ」と返した。
しばらくして聞こえてきた寝息につられて重くなった瞼を閉じ、俺も少しばかり仮眠をとることにする。
ファンヒーターだけでは気持ち寒かったから、毛布をとりたかったけれどグラスを起こしてしまうので、ゆっくりと机の上に置いてあるリモコンに手を伸ばし暖房のスイッチを入れてから眠ることにした。
× × ×
どれくらいの間眠っていたのか、目を覚ますと膝の上にグラスはいなくて、暖房は消されていて肩から毛布がかけられていた。
左肩に乗せられたわずかな重みと、そこから香る髪の良い匂い、それからすぅすぅと小さな寝息が聞こえてきて、その全てが心地よくてもう一度目を閉じる。
ふたり毛布にくるまって過ごす穏やかな昼下がりに、明日は今日の分もあわせて厳しいトレーニングにしてやろうと、意地悪く小さな声で「おやすみ」と投げかけた。
続くかもしれないし続かないかもしれない