人間の頭の中にはスイッチがある。
殺しのスイッチだ。
普段はOFF。
いわゆる普通、日常の状態。
有事になるとONにする。
いわゆる非常時。
Dead or Alive――生存のために常識を捨てる。法律によるペナルティを忘れ、モラルに囚われない暴力を振るえるようになる。殺人をも許容できる心理状態にもっていく。
優秀な兵士は、このスイッチのON/OFFの切り替えがスムーズだ。
いつでもどこでも、ヤると決めたら数秒で、標的の急所へナイフを突き立てられるようになる。
秘密の部屋で行われていた実践を思い出す。
ステップと回数を積み重ねた結果、私のスイッチはとても軽くなっている。
瞬き一つで、躊躇いなく切り替える。
理由付けを行うまでもなく、息を吸うように標的の首を折ることができていた。
そんな私たちは一般人からみればきっと悪魔のように見えただろう。
事実、つい先日、とある公安職員にそう揶揄された記憶がある。
――ソ連が造った生粋の殺し屋ってんでな、ターミネーターみたいな奴だと思ってたんだよ。
まったく否定はできない。
確かにそう見えただろう。
けれど……これは言い訳でもなんでもなく、過大評価もいいところだと私は思う。
だって、私にも、そしてあの残虐だったヴェロニカでさえ、スイッチがあった。
どんなに軽かろうと、OFFの機能があったのだ。
もしも本物のターミネーターだったならスイッチ自体が無いはずだ。
それが人間という生き物の限界。どれだけ冷酷になろうと訓練を重ねても、実践で人殺しに慣れようと、殺戮機械にはなりきれない。
――で、あるはずなのに。
今になってもどうしても理解しきれない。かつて秘密の部屋には、例外の女が一人居た。
彼女は確かに人間だったはずなのに、スイッチ自体が無かった。
あるいは生まれたときからONに入りっぱなしだったのかもしれない。
彼女は秘密の部屋に連れてこられた最初期の段階からゼロ秒で生き物の命を奪う決断ができていた。
――私は無敵だ。
強がりではなかった。
意欲をアピールするための誇張でもなかった。
彼女の精神構造は初めから鉄壁で、身体能力に恵まれていて、何より技術をスポンジが如く吸収する柔軟さを持ち合わせていた。
任務遂行に向けて一直線に進むアルゴリズムを備えた戦闘機械。勝利のみを積み重ね、どんな過酷な戦場でも生き延びる。彼女は実際に無敵だった。
少なくともモルモットの全員がそう思っていたし、勿論私だってそうだった。
彼女が処刑されるその日まで。
「勝負アリ!」
模擬戦が終わり、鼻血を垂らした男が頭を下げる。
「ぐうう……。ご指導ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
涼しい顔で会釈した少女は無傷。華奢な体躯で屈強な男を圧倒した勝者の名は、レゼ。
この模擬戦の教官役でもある。
「さて……」
首を巡らせると、道場の壁際に居並ぶ公安のデビルハンターたちが目に入る。
渋面が半分、真剣な面持ちが半分。
意外だな、とレゼは思った。
いきなりヨソからやってきた小娘を教官に据えられて、しかも代表者の鼻っ柱を折られたばかりにしては反意が薄い。
「見ての通り、ルールに縛られた対人戦となんでもアリの対悪魔戦ではハナシが違ってきます。それが分かりましたか?」
「……へい」
模擬戦の前にレゼはこう言った。
「――どのぐらい本気で教えてほしいです?」
その言葉は公安のデビルハンターたちのプライドを逆撫でした。彼らとて日々命を懸けて悪魔と戦う戦士、いくら相手が軍事国家で英才教育を受けたプロのエージェントであろうとも聞き捨てならない。
「センセイの本気、見せて下せェよ」
指を鳴らしながらレゼの前に現れたのは、スキンヘッドの大男。
数ある対魔課のなかでも武闘派の筆頭で、空手の全国大会で何度もトロフィーをとったとか――つまり、レゼにとっては、実力を示すのにうってつけの相手だった。
「分かりました」
男の身長は190cmを超えている。対するレゼは傍目にはただの女子高生。親子に等しい体格差であり、2人が対峙する構図は常識にあてはめればたちの悪い冗談にしか見えない。
「模擬戦でいいです?」
「当たりめェだろ? っつーかよ、あんた、悪魔になンねえの? ボムの悪魔になれんだろ?」
「このままで大丈夫です」
「……舐めてんのか?」
「これは模擬戦ですから。技術の話なら人間同士のほうが分かりやすいでしょ」
「へぇー」
男のこめかみがぴくぴくと震えている。
レゼは平然としたまま。
「三本勝負にしましょうか。それぞれ2分間」
「無制限でもいいぜ?」
「違うルールで三本やりたいんです」
「ふゥん……。どんなルールだ?」
「一本目は空手のみ。二本目は体術全般を解禁、打つ・投げる・極めるアリ」
「三本目は?」
「なんでもアリ」
「……ま、いいや。さっさと始めようぜ」
模擬戦が始まった。
一本目は、レゼが防戦一方で時間切れ。
二本目は、ほぼ互角。決定打に欠ける展開が続いた。
よく捌くな、というのが観戦者たちの感想だった。体格差を鑑みれば技術の開きを充分感じさせる結果ではある。けれどデビルハンターは命を張る職業、悪魔は体格差なんて考慮してくれない。
互角程度の教官に敬意は抱けない。
道場の開始線に戻ったレゼへの視線は未だ冷ややかなまま。
三本目が始まる直前、レゼは一枚の紙切れを取り出した。
「決闘誓約書です」
それはありていにいってしまえば“どんな結果になろうとも文句は言わない”と誓う内容だった。
もちろんその紙切れの効力は法律を超越しない。重大な怪我を負わせてしまえば責任を問われる。
しかしレゼは武器人間。
折られようが、斬られようが、ピンを抜けば回復する――それが明示されており、かつレゼ側から訴えるような真似はしないとわざわざ書かれてある。更にご丁寧に連帯責任者の欄には“岸辺”の名も連ねられていた。
「なんだこれ」
「読んでそのままですけど」
「あんた、マゾなのか」
「やだなぁ、そんなわけないでしょ。これは共通の理解を得るための手順みたいなもんです」
「はあ?」
「なんでもアリって言っても口だけじゃ実感を持てないんじゃないですか? 今までの2戦で分かります。私のこと生意気な小娘としか思ってないでしょ」
「つまりなんだ……殺す気でやれってことか? いいのか? 俺ぁ人型の悪魔だって駆除したことがあるんだぜ」
「どうぞ、そう思ってやって下さい。これは実戦、私は悪魔、隙があれば眼とか潰しちゃいますよ」
「それでびびると思ってんのか? ……舐めんなよ」
そして三本目の2分間が過ぎた。
レゼの圧勝だった。
ほんのささいな関節の動き、つま先や目線の向きが、言葉よりも雄弁にレゼの意図を知らせていた。
眼を潰すぞ。
耳を引きちぎるぞ。
放たれた本物の害意に男が怯んだわけではない。それでも男が防御に回らざるをえなかった理由はただ一つ、レゼが相打ちをよしとする無茶な攻勢にでたからだ。
負けてもいいから不具にする。
死んでもいいから一生残る傷を負わせる。
……そんな愚かな駆け引きに、ただの人間が応じられるわけがない。ましてこれはただの模擬戦、絶対に負けられない戦いでも何でもない。
不死性を盾にした読み合いの放棄――はっきりいって比武においては外道の一手。
しかし公安職員たちは誰一人として不平を零さなかった。
こういった常軌を逸した攻撃性は一部の悪魔が備えるもの。デビルハンターとしては当然対応できなければならない。つまり――戦闘技術を備えた人間兵器が使ってきたから対応できませんでしたは通じないのだ。公安のデビルハンターはあらゆる魔の手から市民を守る盾なのだから。
「――というわけで、皆さん、もっと卑怯になってください」
「俺ぁ、どうすりゃよかったんだ? ……いや、よかったん、です?」
「今回に限っていえば、普段から武器を隠し持っておくべきでした。それでいきなり刺すなり撃つなりすれば勝率はあがった。もしくはそこで観戦してる誰かに参戦してもらって複数人で私をボコるとか」
「いやいや、だって、これは模擬戦だろ?」
「だから?」
「だからって、……ルールが……」
少なくとも私が教育された場所ではそのぐらいやる奴はいた、と彼女は言った。
そこでは教官たちも黙認したという。何事においても想定不足でやられるような奴は要らないから。
「なんでもアリですよ。少なくとも今回どうしても勝ちたいならそうすればよかった。……っていうぐらいの選択肢をね、いつでも持っていてくださいって話です」
「……」
「とにかく皆さんは全力で生き残ってください。その分だけ救われる市民が増えますから」
@
「手厳しいな」
階段を下ると、角刈りの巨漢が立っていた。
よく知っている男だった。
つい先日、東京のデビルハンター本部を案内してくれた男。
「まあ仕事なんで」
軽く会釈して、隣に並んで歩く。
歩幅は短く、私と速度を合わせてくれている。
彼は確か、高校の後輩の親友が私のせいで死んだと言っていたはずだけど。
ちらりと見上げると、目が合った。
「……恨んじゃいない」
それだけ言って、むっつりと黙り込む。
こつこつと2人分の足音が鳴り続けた。
……ふぅん。
前回の事件でなにか思うところでもあったのかな。
だとしたらチョロすぎる。
「今テレビで私のこといろいろ報道されてますけど……あんなのに感化されてちゃダメじゃないですか?」
「俺は、この目で見た」
「子ども一人助けただけですよ」
「そうだな。公安のデビルハンターなら誰でもそうする」
「だったら……」
「でもな、誰でも公安のデビルハンターになれるわけじゃない」
「……はあ」
男は硬い表情のままだった。何かを迷い、何かを恥じている。
ただこちらを見ないようにして隣を歩き続けていた。
「どうも」
居心地は悪くなかった。
男と別れ、指定された資料室に入室すると、岸辺さんが立っていた。
「お前ら、次の休みに旅行に行ってこい」
いきなりだった。
「金はだしてやる」
「いやいや、なんにも申請出してませんけど」
「もう通した」
「よく許可が下りましたね……」
私たちみたいな危険人物に。
さてさて、これは一体どういう流れだろう? 岸辺さんは部下の余暇まで率先して手配してくれるタイプではない。ではもっと上の人が命令したのだろうか? つい最近トラブルを起こしたばかりの元ソ連のエージェントと支配の悪魔、そしてチェンソーマンというセンシティブすぎる存在に、充実した休日を提供してあげなさーい、って。
ありえない。
怪しいと思ったからカマをかけてみた。
「あ、デンジ君が江ノ島に行きたいって言ってましたけど」
「ダメだ」
「どうして? 旅行していいんですよね?」
「江ノ島は神奈川だろ。俺ん管轄じゃねえ」
「だったら都内のレジャー施設とか」
「却下」
ふむふむ、なるほど。
リスク管理しやすい都内じゃないとダメ。
そして人がたくさんいる場所もダメ。
だったら答えは一つだ。
「刺客が来るんですね?」
「話が早くて助かる」
「どこから来るんです?」
「いろんな国からだ」
「アバウトすぎません?」
「しょうがないだろ。ろくな情報が入ってこない」
「マキマの情報網がなくなりましたからねえ……。もっとスパイとか育てたらどうです?」
岸辺さんは窓のブラインドを指で下げ、目を細める。
「東京にも田舎はある。奥多摩っていうだけどな、電車一本、山と川、田舎っていうより未開の地の一歩手前。斜面に家がへばりついてる感じだ」
「そこなら暴れられても問題ないってわけですね」
「キャンプだよ、キャンプ。デンジにはそう言っとけ」
楽しみを一つ与えておくだけでやる気が違うからな、と岸辺さんは言った。
お優しいことで。
「今回は公安も全面的にバックアップする。刺客を迎え撃ち、後顧の憂いを断て」
「了解です」