レゼのハートに火を点けて   作:シャブモルヒネ

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残り120時間


 

[アメリカ]

 

 

 

「お国からお仕事を貰った。今回はデビルハンターの仕事じゃねえ」

 

 痩せた成人男性が、説明を始める。

 背が高く、食卓の席についたままでも威圧感があった。

 

「おそらく人を狩る事になる」

「人を狩る~? ナンパか?」

 

 対面に座った太り気味の男が反応する。

 人をおちょくるように片眉を上げながら取り皿にスパゲティを盛っていき、そういえば、と口を開いた。

 

「日本と言やあ、女だよな」

 

 やれやれ、と首を振ったのは3人目の男。

 

「女? ふっ、興味ないね」

 

 小柄で、全身黒一色。

 演技かかった動作で大げさに肩を竦めている。

 ――男たちは、3人兄弟だった。

 長男は痩せ。

 次男はデブ。

 三男はチビ。

 アメリカでそれなりに活躍するデビルハンター。普段は協力してそこそこの悪魔を狩っている。しかし今度の依頼はいつもと違う、と長男は言った。

 食卓の端に置かれたノートパソコンを操作する。動画ファイルを実行してアプリケーションを立ち上げると、映し出されたのは、頭の真ん中から電動ノコギリを生やしている武器人間――チェンソーマンだった。

 

「このノコギリ男を殺してアメリカに連れてくる。そうすりゃ200万ドルくれるとよ」

「200~!? ケタ間違えてねえか!?」

「危ねえ仕事だ。おそらく公安と警察に守られてるトコをさらわなきゃいけねえ。俺達の存在が明るみに出てもアウトだな」

 

 黒ずくめのチビが大仰に立ち上がる。

 

「ふっ。僕は誰よりも黒が似合う《夜の剣士》――不可能はない」

「……はぁ~。お前は座ってろ」

 

 デブはいかにも白けたとばかりに溜め息をつく。

 痩せの長男に向き直って、愚痴をこぼした。

 

「なあ、ちょっと前に同じ依頼を受けた奴らがいたよな? 皮の悪魔と契約していた凄腕の3兄弟。あいつらがどうなったか知ってっか? 返り討ちにあったらしいぜ。……ビビってるわけじゃねえけどよ、リスキーすぎねえか?」

「だが、金が要る。分かってんだろ?」

 

 長身の男が顎をしゃくる。

 その先では、チビの三男が模造刀を左右に装備して駆け回っていた。「でいっ! せりゃーっ!」とリビングの隅でチャンバラごっこに興じている。いい歳をした大人がまるで子どものような振る舞いで、幼稚を通り越して不気味ですらあったが、長男と次男は深々と溜め息をつくだけだった。彼らにとってそれは見慣れた光景だった。

 

「……あいつは、悪魔の使いすぎで精神を汚染された。今じゃ現実と妄想の区別もつかない。だから、大金が要るんだよ。引退しても暮らしていけるようにな」

「分かっちゃいるけどよ、あいつ、もつのか? 次に悪魔を使ったらどうなっちまうか分からねえ。今回も連れて行くんだろ?」

「仕方ないだろう。俺たちは3人で1つだ。力を合わせなければ戦えない。だが、逆を言えば、連携をとればどんな相手だろうと対処できるはずなんだ。……なぁに、これが最後の仕事になるはずだ」

「俺らの悪魔はすんげぇからな。まあ使うとリスクもでかいんだがよ」

 

 次男が肩を竦める。話は終わり、というポーズだった。

 食事が再開される。2人の男が黙々とスパゲティを口に詰め込んでいく後ろでは、チビの三男が設置された撮影用カメラの前でふふんと気味の悪い笑みを浮かべていた。

 

「Hey Guys! この動画チャンネルを訪れた君たちは運がいい! なにせこれから始まるのは人類史に残る天下無双のデビルハンター、その活躍の第一歩目なんだからな! 気になるターゲットは……こちら! そう、皆も知っている、ジャパンの有名なノコギリ男、チェンソーマンさ! 愚かなジャパンのメディアは彼が銃の悪魔を倒したと宣伝しているが嘘に決まってる。この僕が証明してやろう――The strongest must be America! 君たちの応援とチャンネル登録を期待しているよ!」

 

 

 


 

[中国]

 

 

 

 少女が2人、港を走る。

 痩せぎすの腕と脚を振りながら、コンテナの隙間を必死の形相で抜けていく。

 彼女たちは追われていた。中国政府の手の者に。非常に危険なものを奪ったからだ。

 それは、悪魔。

 2匹の悪魔。

 その片方の名は――未来の悪魔。

 

「おい、早く逃げる道を教えろ、クソ悪魔! 追いつかれちまうっ!」

「お姉ちゃん、もう無理だよ……捕まっちゃう……!」

「ああ、くそっ! ――未来最高! 未来最高!」

 

「――イェイ・イェイ! 未来最高って叫んだね! イェイ!」

 

「出てくるのが遅ぇんだよ!」

「キミが未来最高しないからだろ」

「うるせえ! さっさと未来を教えろ! 次はどこに行きゃいい!?」

「あっち」

 

 言われた通りに角を曲がる。空き缶を蹴り飛ばし、全力で駆けていく。

 捕まれば、終わりだ。

 悪魔は奪われ、誓いは果たせなくなるだろう。

 だから姉妹は捕まるわけにはいかなかった。夜の港をただ駆ける。

 しかし、その先は……

 

「――!? 行き止まりじゃねえかっ!」

「そうだぜ、イェイ! ここが最適なんだ。キミが撃たれてくれるからね!」

「畜生!」

 

 コンテナの袋小路に追い詰められた。

 振り返ると、3人の男たちが追いついたところだった。逃げ道は塞がれた。もう逃げ場はない。

 ならばもう、戦うしかない。

 

「さぁ、もう何を言えばいいかは分かるだろ? いつものように口汚く罵るといい!」

「くっ」

 

 少女は唇を噛み締める。

 一瞬で、覚悟を決めた。

 

「来いよ、クソ野郎ども! 今から悪魔を使ってバラバラに引き裂いてやるぞ!」

 

 追跡者たちに怯えが走る。

 その手には拳銃が握られていた。

 こうなってしまえば道は1つ。恐怖に打ち勝つために撃つしかない。

 

 パンパンパン

 

 乾いた銃声が響いた。

 何発も、何発も。

 都合15発の弾丸が華奢な少女の身体にめり込んだ。

 国に歯向かう悪魔使いに人権は無い。身体中から血を噴き出して、ぺしゃりと糸が切れた人形のように倒れこむ。

 

「お、お姉ちゃん!」

 

 悲痛な声をあげながら、妹が縋りつく。

 姉は、白目を剥いていて、口の端から一筋の血を垂れ流していた。ぴくりとも動かなかった。呼吸は既に止まっていた。即死だった。

 

「そんな……」

 

 あまりにもあっけない終わり方だった。人間一人の人生が一瞬で消し飛んだ。理不尽、などという言葉では到底表現できない。数秒前までは確かに意思を持つ人間だったのに。

 2人の逃亡者、その片割れである姉の方は、ボロ雑巾になってしまった。

 それは数秒後に妹が辿るはずの未来。

 彼女を守る者はもういない。

 妹の方もまた姉と同じように撃ち抜かれるのを待つだけ――

 だが。そうはならなかった。

 少女は、少女たちは、悪魔使い。

 

「がっ」

「ぎ」

「あ……あ?」

 

 呻き声をあげ、追っ手の男たちが戸惑っている。

 身体中に、穴が開いていた。

 服のあちこちから赤い染みが広がっていく。

 誰にも攻撃されていないはずだった。ここは狭いコンテナ迷路の袋小路、対峙しているのは膝立ちで怯えている少女1人だけ。死ぬ理由なんて1つもないはずなのに……そんな苦悶の表情を浮かべて、追跡者である3人の男たちは倒れ伏す。

 血溜まりだけが音も無く夜のアスファルトに広がっていく。

 

「あ、ああ……」

 

 死んだ。死んでしまった。

 いいや、違う。殺したのだ。

 誰がそれをやったのか、この場でたった1人だけ生き残っている少女は知っていた。

 罪深き殺人者は彼女たち姉妹に他ならない。

 

「ううう」

 

 ぶるぶると身体を震わせて、業の深さを思い知る。

 妹は分かっていた。こうなってしまうことを。

 目の前で死んだ男たち――3人も! これを成したのは他でもない、自分たち姉妹のエゴだった。目的のためならば他の全てを犠牲にすると誓った過去もある、しかしそんな気概は既に冷えきっていた。誰かを踏みつけにしてしまったという認識は、回を重ねる度に確実に良心を蝕んだ。

 妹は、ただ嘆く。

 こんな悪魔と契約なんかするんじゃなかった、と。

 男たちを殺した悪魔――それは、この姉妹が契約した2匹の悪魔のうちのもう片方。

 名前は、復讐の悪魔。

 能力は極めてシンプル。

 あらゆる攻撃をそのまま跳ね返す。そして、契約者に復讐を誓う憎悪がある限り、その者の身命はけして途切れない。目的を果たすまで蘇る。何度でも。

 

『オ前ラノ、憎悪ハ、心地良イ……』

 

 復讐の悪魔が、鼓膜の内側で満足そうに呟いた。

 

「……う、ぐ」

 

 呻き声。

 漏らしたのは、姉の死体だった。

 喋った、だけではない。今度は指が動く。

 たった今死んだばかりの男たちの命を引き換えにしたように、ただの肉塊だったはずの身体が息吹を取り戻す。拳をぎゅうと握りしめると、コツンカツン、と小さな金属音が鳴った。撃たれた穴から弾丸がひりだされていく。逆再生のように穴も塞がった。

 少女は蘇る。地獄の淵から戻ってくる。憎悪を残す限り、何度でも。

 ゆらりと立ち上がった姿は、血塗れで、まさしく幽鬼のようだった。

 

「くっそ痛ぇ……」

「お姉ちゃん!」

「痛え! 抱きつくな!」

「もう、もう嫌だよ……。お姉ちゃんが酷い目に遭うの、見たくないよ……」

 

 姉は、忌々しげに引き剥がす。

 その眼には炎が燃えていた。何者にも消すことのできない怒りの炎が揺らめいた。

 

「甘ったれんな」

「だって……」

「あのな、もう何度も言ったよな? アタシらは本当ならとっくの昔に死んでたはずなんだって」

 

 肩を掴んで、静かに、だが力強く。歯を剥きだしにして吐き散らす。

 

「貧乏で、親無しで、学も無ければ、器量も無え。……見ろ! このトカゲみてえにガサついた肌を! 皮膚病にかかってるってだけで誰もアタシらを見なかった! アタシらはな、ドブネズミみてえに路地裏でくたばるしかなかったんだよ! ……それを助けてくれたのは誰だ? 優しくしてくれたのは、一体誰なんだよ!?」

 

 妹は目の端に涙を浮かべて、絞り出す。

 

「ク、クァンシさん……」

「そうだ! クァンシだ!」

 

 灼熱が湧いていた。

 

「あの人だけだ、こんなアタシらに優しくしてくれたのは。なのに、殺された。こんなのが許せるかよ? ええ? 許しちまったらアタシらはどう生きろってんだ? あの人の優しさをなかったことにできるのか? ……できるわけがねえ!」

「でも、でも……」

「でもじゃねえ! 決着をつけるんだよ! アタシらは、支配の悪魔をぶっ殺すまではまともに生きることもできねえんだ!」

 

 振り払うように踵を返す。

 震えている妹を置いて容赦なく進んでいく。復讐の道を往くために。日本行きの船に密航するために。

 

「ま、待って……」

 

 追い縋ろうと一歩踏みだした、その時に。

 

「ふふふふふ……」

 

 未来の悪魔が、妹の目の中で嗤っていた。

 

「キミの姉は、未来で最悪な死に方をする」

 

 びくり、と妹の肩が震える。

 

「どういう死に方をするか聞きたいか? キミの姉は……」

「やめて!!」

 

 耳を塞ぐ。そんなことをしても裡に棲む悪魔の声は届くのに。

 けれど未来の悪魔は予言を止めた。意味深に、楽しそうに叫ぶだけだった。

 

「もうすぐ来る未来。絶対に変えられない未来。……未来最高! イェイ・イェイ!」

 

 

 


 

[ドイツ]

 

 

 

 サンタクロースは死んだ。

 宇宙の魔人から精神攻撃を受けたせいで狂ってしまい、端末である人形ともども役立たずの木偶として処分されてしまった。

 

 ――と、デビルハンター業界の誰もが認識している。

 しかし、事実は違った。

 サンタクロース。

 彼女には、たった1つだけ保険があった。

 かつてドイツから報酬として受け取った4人の子どもたち。そのうちの1人。契約に使わなかった『趣味』用の少女。

 彼女に、自身の記憶を転写させていた。

 それは、世界中に端末を持つ人形の悪魔でも対処しきれない攻撃を受けたときのために用意した、一種のセーフティネットだった。

 

「……まさか使うはめになるとは思っていませんでしたけどね」

 

 少女は語る。

 ティーンにすら達していない少女の姿でありながら口調は大人びていた。佇まいも洗練されている。その頭には何十年もの人生で培った知識と人格が詰め込まれている。

 

「――と言っても完璧ではないのですが。この少女の身体は、あくまで保険。不定期的なバックアップ先でしかありません。……さて、私の本体はどのように死んだのでしょうか? “この私”には、件のマキマ抹殺任務に出発する直前までしか記憶が無いのです」

「テレビで放送されていただろう? 宇宙の魔人の攻撃を受けたんだ。その影響は君と繋がっていた人形全てに波及した」

「マキマは?」

「死んだ。だが君がやったんじゃない。あの悪魔を倒したのは、チェンソーの心臓を持つ少年だ。……それも君が死んだしばらく後の話だよ」

 

 言いながら、スーツ姿の男は紙の束を少女に手渡した。

 暖かな公園。湖の向こう側には歴史ある街並みが見えている。手入れされた芝生と木々のざわめきは余暇をすごすのに最適であったが、この日は殆ど人がいなかった。平日だからだ。老人しかいない。

 子どもは学校に、大人は職場に居る時間帯。

 しかし今は、少女が1人、大人が1人。親子のようにベンチに並んで座っている。

 少女はクリップで留められた紙の束をめくった。眼球を左右に素早く動かして情報を読み込んでいく。それは記録だった。バックアップである今のサンタクロースが知らない情報――

 

 

 サンタクロース本体が日本に渡った後に何をして、どうやって死んだのか。

 その後のマキマの動向。

 銃の悪魔の出現と終焉。

 唐突にパワーアップしたチェンソーマン。

 何人もの武器人間たちの登場。

 そして――マキマの死亡。

 

 

「……なるほど。大体分かりました」

 

 少女は艶やかに溜め息を吐く。

 

「やはり私は失敗したのですね」

「だが、君は生きている」

 

 男はサングラス越しに目を向けた。

 

「連絡がきたときは驚いたよ。幽霊にでもなったのかと思った。なにせ、世界中の人形が狂ってしまった後だったからね」

「幽霊の悪魔とは契約していませんよ」

「その口調! ああ、やはり君はサンタクロースだよ。不完全だと言うが、私は心配していない。君こそ我が国が誇る最強のデビルハンターだ」

「最強? そんな存在はいませんよ。幻想です」

「だが君は実際に世界中から恐れられて……」

「いいえ、私の本体にしたってそうです。人形の悪魔と契約し、限りの無い物量と擬似的な不死性を得ていたように見えたでしょう。しかし、結果はどうです? 宇宙の魔人の攻撃1つで滅んでしまったではありませんか」

「あれは特殊な事例だ。卑下することはない」

「事実はしっかりと認識しておかねばなりません。デビルハンターとして生きるなら当然です」

「……何か言いたそうだね。拝聴しよう」

「銃の悪魔の能力を思い出してください」

 

 少女は紙を叩く。

 そこに記載されていたのは、銃の悪魔が日本で発動した能力の数々、そしてその考察だった。

 とある条件を持つ者に対する必中狙撃。

 

 

 ・およそ1000メートル内の全ての男性に対する頭部への銃撃。

 ・およそ1500メートル内の全ての子供(0~12歳)に対する頭部への銃撃。

 ・およそ1000メートル内の誕生月1月・2月・3月・5月・6月・8月・9月・11月・12月の生物に対する心臓への銃撃。

 

 

 

「――これを人間に再現できますか?」 

「無理、だな」

「では理解はできるでしょうか?」

「字面だけは。そういうものなのだと、把握はできる。理屈はさっぱり分からない」

「そうでしょう。けれど悪魔にはできるのです。人間だけが持つ概念――定義や因果のようなものを辿って実現のとっかかりにできる」

 

 少女はそっと紙束を隣の黒スーツに返した。

 男はじっと資料を見つめている。

 銃の悪魔。世界の大国が所有する戦略兵器。……人間は、コントロールなどできていない。

 

「力のある悪魔は繋がりを辿ることができる。だから私はこの少女を保険として残しました。人形の悪魔の繋がりを辿って一網打尽にできるような敵が現れる可能性を考慮したからです。……分かりますか?」

「なるほど……」

 

 男はしみじみと呟いた。

 

「実に堅実なものの考え方だ」

「悪魔的、と言った方が正しいでしょう」

 

 サンタクロースのコピー少女は遠い目をする。

 

「悪魔と付き合い、悪魔と戦うならば、悪魔の考え方に寄り添わなければなりません。人間の尺度に固執していれば死ぬだけです」

 

 まあかく言う私も死んでしまったようですが、と少女は微笑んだ。

 男はなんと言っていいか分からない。

 言葉に困って周囲を見渡す。何か彼女との共通の話題は……と考え、1つ聞きたかったことを思い出した。

 

「――ああ、そうだ。最近のソ連での死亡事件は知っているか?」

「国家元首や要職に就いていた者たちが相次いで死亡している、というやつですか?」

「それだ。あんなに不自然な事件はない。あれも悪魔の仕業なのだろうか?」

 

 少女は即答する。

 

「十中八九、悪魔の仕業でしょう。それも、かなり強力な悪魔です」

「……やはり、そうか」

「最低でも、銃の悪魔級」

「何だと……」

 

 男は眉間に皺を寄せて唸る。

 

「ですが、攻撃ではないと思います」

「どういうことだ?」

「悪魔は、特定の個人を条件にして能力を使うことができません。理由はいくつかありますが……この場合は、判別できないからです。人間が蟻を区別できないのと同じ……。だから、「国家元首を攻撃しろ」という命令はけして実現されません。近づいて「こいつを攻撃しろ」と命じれば別ですが……ソ連の警備を掻い潜って何人も暗殺するのは現実的ではないでしょう」

「では、いったい……?」

「おそらく対価として寿命を取られたのではないでしょうか」

「対価だって?」

 

 思わず声をあげた。

 ソ連の高官たちは揃って自らの命を捧げたということか? 一体どんな見返りがあればそんな暴挙に至るのか?

 少女はさらりと解答を告げる。

 

「そんな見返りはないでしょう。国体を崩壊させてまで得るべき利益などありません。……ですので恐らく、この事態はソ連の者たちにとっても想定外だったのではないでしょうか」

「……だめだ、私には皆目見当もつかない。解説してくれないか」

「私の想像でよければ」

 

 そこで言葉を切って、少女は軽く息を吸い込んだ。

 

「先程も言いましたが、人間と悪魔は物事の捉え方が違います。契約を結ぶときは互いの認識が合致しているかをしっかりと確認しなければなりません。いいですか、例えばこんな契約を結んでしまうと大変なことになります――」

 

 ある人物に力を与えよ。対価は、力を得た者から奪ってよい。

 

 ありえる契約の仕方だ、と男は思った。

 例えば、デビルハンターが弟子に悪魔を紹介する場合。

 あるいは、組織ぐるみで悪魔を呼び出して、特定の悪魔使いと契約させる場合。

 

「……そのやり方で契約してしまうと、どうなるんだ?」

「1対1のやり取りでなければ誤解されてしまいます。始めにきっちりと主語を定めておかないと()()()()()()()()()()()()()毟り取ってしまう可能性があるのです」

「対象……全て……? 全て、とは何だ?」

「“誰から”対価をとるか、という定義の問題です」

 

 少女は軽く首を傾ける。髪がはらりと垂れ落ちていく。その隙間から、緑色の瞳が怪しく輝いている。

 

「この場合の“力を与えられる者”とは、“悪魔の能力を行使できる者”と同義ではありません。有り体に言ってしまえば、その契約者が悪魔の力を得ることで恩恵を得られるであろう全ての者を指します。つまり、契約者が所属する機関・組織・国の人間全て……」

「ちょっと待ってくれ」

 

 男は思わず手を伸ばしそうになった。

 

「恩恵だって? そんな曖昧な影響を受けるかもしれないというだけで、その全員から対価をとる……? そんなのは言いがかりにもなっていない」

「強力な悪魔ほど視点がマクロ的になります。“力”という概念の定義も変わるのです。例えば味方側に在るという安心感、あるいは敵対勢力へもたらす畏怖の感情と抑止力。人によっては庇護などと呼ぶのかもしれません。そんな実体のない影響を、彼らは“力”と認識するようです」

「……仮に、それが本当だとしても」

 

 男は腕を組み、ゆっくりと首を振る。

 

「いくらなんでも同意もなしに対価をとるなんて理不尽すぎないか」

「ええ、勿論」

 

 少女は否定しなかった。

 

「そこまでの無法は早々起こらないでしょう。人間側から言いだしたならまだしも、悪魔側からの一方的な認識だけで契約は成り立ちません。ですのでポイントは“互いに最低限の同意”があったか? となります。例えば――“その契約を知っていて、了承していた”、これならば認識に双方向性があります。悪魔も対価をもっていけるでしょう」

「そんな、それだけで……?」

 

 男は唖然とするしかない――そんな様子を見て、少女は上目遣いのまま、くすりと笑った。

 尺度の狭い人間を嘲笑っている。

 

「認識の、不一致……」

 

 ほんの些細な、文言の有る無し。

 それだけで、何十人、何百人もの人間がもっていかれるかもしれない。

 あってはならないことだった。

 

 

 ソ連の高官たちは、強力な悪魔と誰かが契約をすることを知っていて、了承してしまい、かつ恩恵に預かれる立場にあったという理由だけで、命をもっていかれた――

 

 

「その可能性がある、という話ですよ」

 

 サンクロースの少女はまさに悪魔のような瞳で男を見つめている。じぃっと動かずに、魂まで覗き込むように。

 頼もしさとは、裏返せば恐ろしさでもあった。

 

「君は……闇の悪魔と契約していたな」

「ええ。ですが勿論、その辺りは上手くやったはずです。ドイツに影響はないでしょう」

「そうか……。いや、気を悪くしたらすまない。少し、恐ろしくなってしまってね」

 

 少女はようやく佇まいを戻した。

 男は密かに胸を撫で下ろす。

 

「では、仕事の話をしようか」

 

 鞄から新しい資料を取り出した。

 少女はさっと流し読みしてから小さく嘆息する。

 

「……また、支配の悪魔ですか」

「今度はマキマじゃない。弱体化している。今の君でもやれるだろう。……ああいや、変な意味はないんだが、」

「生死は?」

 

 男は僅かにたじろいだ。が、すぐに意識を切り替える。

 

「生死は、問わない。目的は日本の弱体化だ。今やあの国の戦力は放置できない。アメリカが所持していた銃の悪魔の肉体がほとんど移ってしまったから」

「こちらに書いてあるチェンソーの少年は?」

「そちらも生死は問わない。日本が使えなくなればよい」

「さらってくるか、再起不能にするか……。不死身なのは、少し厄介ですね」

「細かい部分は任せる。……本当はこういうことを伝えるのは良くないんだが、実はどちらかを処理するだけでも充分だと上は判断している」

「どうして? それだけ難しい仕事だということですか」

「ああ、上の連中は、君以外にはできないと考えている。そしてその君でも……今の君では、達成できないかもしれないとも」

「……まあ今の私は、以前の私とは違いますからね。本体が契約していた悪魔たちからも見放されてしまいました。まだ残っているのは……」

「言わなくていい」

「お優しいですね」

 

 少女はベンチから立ち上がり、汚れを払うようにスカートの尻を叩いた。

 

「安心してください。今の身体には寿命も機能もたっぷり残っていますから。やりようはいくらでもあります。期待には応えてみせましょう」

「よろしく頼む」

 

 少女は踵を返す――が、すぐにぴたりと立ち止まり、

 

「――そういえば、報酬。追加してもいいですか?」

「何だ?」

 

 ふわりと振り返る。男を眺め、眼を三日月の形に細めた。

 

「孤児院暮らしは不便でして。財力と自由のある家に引き取られたいのです。……例えば、あなたの家はどうですか? 私は良い娘として振る舞えますよ?」

 

 パパ、と呼んでさしあげましょうか? と無邪気に少女は微笑んだ。

 

「冗談はよしてくれ」

「あなたも家族になれると思ったのですが」

「……君は頼りにしているし、尊敬もしている。でも四六時中一緒には居られない」

「残念です」

 

 瞬き一つで、情緒を拭い去る。もう人形の顔だった。

 

 

 


 

[ソ連]

 

 

 

 『悪魔』という単語は2つの意味を持っている。

 1つ目は、この世界に実在する生物を指す。

 その生き物たちは、名前にちなんだ力を持っていて、恐怖を抱かれるほど強くなり、死んでも別の個体として蘇る。超自然的生命体。

 2つ目は、いわゆる比喩。多くは良識を欠いた人間を指している。

 残虐非道で、人々に害悪をもたらし、呼吸をするように人倫を踏みにじる。

 

 彼女たちは、後者だった。

 

 モスクワ某所、早朝。

 存在しないはずの特務機関が管理する極秘の地下室に1人の悪魔使いが足を踏み入れた。

 男はソ連に所属する悪魔使い。デビルハンターではない。むしろ悪魔を利用する側の人間だ。ときには銃の悪魔の肉片を管理して、ときにはボムの心臓をモルモットに埋め込む、そんな公にできない仕事を請け負っている機関の人間。

 悪魔についてはよく知っていた。

 契約もしているし、戦ったこともある。

 歴戦の悪魔使い。

 しかし、この男は今、腹の底から怯えを感じていた。

 地下室へ一歩、足を踏み入れて、すぐに立ち止まる。

 部屋は、真っ黒に焦げていた。

 不燃性のはずの壁と天井、そして床、全てが変形し、どろりととろけて、亀裂を生じている。

 およそ生命が生き延びることができないはずの空間。その奥に、2匹の魔人が立っていた。眉から上の額の部分にびっしりと赤い竜を思わせるような異形の鱗が生えている。

 部屋の惨状を引き起こしたのは彼女たちだ。

 赤毛で長身のアナスタシア。

 銀髪で小柄なポリーナ。

 彼女たちについてはよく知っていた。

 秘密の部屋のモルモット。

 国家に忠誠を誓う戦士。

 アナスタシアはその筆頭であり、戦闘技能においては、かのレゼをも上回る評価を得ていた。彼女が武器人間として選ばれなかったのはひとえにコミュニケーション能力に難があったから。

 ポリーナはその真逆。多くの言語を修めて幾多の仮面を使い分け、誰とでもすぐに打ち解ける会話術をもっていたが、いかんせん体術と戦闘センスに陰りがあった。

 彼女たちに共通したのは、国家への忠誠心。だからこそ最終選考まで生き延びることができた。

 従順なモルモット。

 しかし、今はもう、魔人になっている。

 魔人になれば、中身は変わる。

 悪魔としてのカオスが混ざり、人の価値観に揺らぎが現れる。その証拠がこの地下室の惨状だった。彼女たちはその身に寄生した悪魔の力を使い、国の命令もないのに部屋を焼いた。

 何のために?

 分からない。何一つ。

 男は、悪魔については理解があった。

 モルモットについてもよく知っていた。

 けれど、それらが混ざった魔人となるともう分からない。

 人間特有の情緒を丁寧に取り除かれたモルモットとしての屋台骨に、奇妙な行動原理をもつ悪魔としての思考が組み合わさっている。目の前の生き物たちがいったい何なのか、男にはまるで理解できなかった。

 

「怖いんだ?」

 

 ポリーナが、喋った。

 棒立ちのまま、爬虫類のように縦に裂けた金色の瞳を男に向けている。

 人間の細かな仕草から心情を読み取る技能をもって男の内面を覗き込んでくる。人の技能に、悪魔の視力。逃れられる術はない。

 

「任務でしょうか」

 

 こちらはアナスタシア。

 相棒と同じく、金色の瞳で矮小な人間を見つめている。

 

「魔人となった我々が恐ろしいのですか。ご安心を。ポリーナはともかく、私には生前の記憶が残っています。我々はあなたを焼きませんよ、同志」

 

 男は唾を飲み込んだ。

 祖国はなんと恐ろしい生き物を造ってしまったのだろう。背筋を震わせるしかない。

 男は知っていた。

 彼女たちには力がある。その気になればこんなちっぽけな地下室などすぐにでも岩盤ごと融解させて脱出できる。その反逆を抑えこめるような強力な悪魔使いはこのソ連には存在しない。何故ならば、彼女たちに埋め込まれた悪魔の肉片は、地獄で最も恐れられる超越者たち、その1匹から賜ったものだったから。

 万物遍く塵へと変える、原初の恐怖を冠する存在。

 生命力と死の象徴。

 火の悪魔。

 もしも目の前の魔人たちに人間としての理性が残されていなければモスクワは文字通りの火の海となっていただろう。

 特にポリーナは危うかった。生前の記憶がまるで無い。元より極限まで薄められていた倫理観に、悪魔としての凶暴性が乗せられている。彼女の目についたという理由だけで焼き殺された人間の数は両手の指では足りない。

 男は密かに身震いする。

 こんな場所には来たくなかった。

 けれど祖国の命令に逆らえば、待っているのは確実な死だ。従うほかない。

 

「任務は……」

 

 言いよどむ。機嫌を損ねれば火刑に処される。なのに自分が持たされた任務は、少なくとも人間の倫理観に従えば口にするのも憚られるような代物だった。伝えたくない。

 けれど、

 

「任務は?」

「なんです?」

 

 2匹の魔人が目を細める。

 言うしかなかった。

 

「抹殺任務、だ。ターゲットは、貴様らもよく知る、秘密の部屋の、この、女」

 

 写真が手渡される。

 そこに写されていたのは――

 

「レゼ?」

「あ、ああ」

 

 銀髪のポリーナは不思議そうに首を傾げる。

 

「この人、だぁれ?」

「レゼだ。覚えていないか?」

「ぜんぜん。知らない」

「このレゼという女はな、私たちの同志だったんだ」

「ふぅん、同志?」

 

 そう、同志であり、仲間だった。

 同じ地獄をくぐりぬけた無二の仲間を、その手で殺せと命じる。

 反発して当然の命令だ。

 それでもモルモットだったら従うだろう。だが今の彼女たちは魔人。忠誠の道を選ぶかは言動からは判別できない。

 男の呼吸が乱れる。死を想像させられる。

 だが、アナスタシアは、ほんの僅かだけ口元を吊り上げた。

 笑った、のだと思う。

 

「了解しました」

 

 模範的な兵士のように背筋を正す。

 

「必ずや任務を果たしてみせましょう」

 

 一呼吸分の沈黙が行き渡り、男はようやく息をつくことができた。

 

「は――、そ、そうか。任せる」

 

 ポリーナは唇を尖らせて、

 

「ナスチャ! どういうこと?」

「任務だ、ポーリャ。抹殺任務。この女を殺すんだ」

「焼いていいってこと?」

「ああ、構わない」

「焼いたら、褒めてくれる?」

「ああ」

「やった! じゃあたくさん焼くね!」

 

 目元を歪ませた。

 何はともあれ機嫌は悪くない。この調子で続きを言ってしまおうと男は身を乗り出した。

 

「実は、も、もう1つ、任務がある」

 言いだしておいて、男は固まった。2組の視線に晒されて、今から告げようとしている命令がどれだけ残酷なものかを思いだしたからだ。それは、仲間殺しを命じるよりも業が深い。

 けれど伝えなければならない。

 

「この抹殺任務を達成したとき、貴様らは――自害しろ。けして死体が残ることのないように焼身自殺するのだ。機密保持の、ため、に……」

 

 もしも禁忌というものがあるならば、このような命令を指すのだと思う。

 口にして、本人たちに直接伝えて、改めて実感した。

 この国には人の心が無い。

 

「……」

「……」

 

 2匹の魔人が、男を見つめていた。

 金色の、竜の瞳が目の前の肉を見ている。人を見る目つきではなかった。食べるときの目。あるいは、虫けらを潰すときの目つき。

 唇の隙間から、ちろりと細長い舌が現れる。

 男はたまらず両手を突きだした。

 

「ま、待て!」

「了解しました」

 

 アナスタシアは、まるで動じていなかった。

 

「――え?」

「このアナスタシア、そしてポリーナ。任務達成の暁にはこの身を消滅させてみせましょう」

「あ、ああ」

 

 ポリーナも特に変化はない。傍らのアナスタシアの腕にからみつき、銀色の毛髪と頬を摺り寄せている。

 死ね、と言われて、抗いもしない。

 魔人の考えることなど分からない。男が胸を撫で下ろしていると、赤毛のアナスタシアが口を開いた。

 

「ところで、何故レゼなのです?」

「な、何がだ?」

「ああ、いえ、拒否するわけではありません」

 

 肩口にある銀の髪を撫でつけながら、アナスタシアは疑問を呈す。

 

「自害の方は分かります。我々は火の悪魔に寿命の97%を獲られました。もってあと数日の命でしょう。どうせ死ぬなら国家に貢献させて、最期はこの魔人の身体が他国に渡らないように灰とする……それは分かります。しかし、どうしてレゼなのです? 彼女は任務に失敗したのでは? まだ生きているのですか? 処分すべき理由とは?」

 

 本来ならば、答える義務はない。

 むしろ、戦士ならば質問するな、と叱責すべき場面だ。けれどアナスタシアはこう言った。

 

「我々はどうせすぐに死ぬのです。教えても問題ないかと存じます」

「ああ、そうだな――」

 

 哀れみがあったわけではない。

 ただ、気味の悪い魔人の機嫌を損ねたくないという理由で、男は咳払いをし、説明を始めた。

 

 レゼは武器人間として再起動したこと。

 日本に寝返ったこと。

 そして、秘密の部屋出身のモルモットたちを生かしておくわけにはいかない理由も。

 

「――知っての通り、火の悪魔との契約のせいで我が故国の組織体制は崩壊しかかっている。偉大なる指導層や高官たちがお亡くなりになられた影響だ。……だが、これを機に構造改革が行われることになった。組織の再編、時流に合わない旧機関の廃止。その一環として、秘密の部屋は閉室となる」

「終わる……?」

「元よりアメリカのジャーナリストに報道されてしまったせいで批判を浴びていたこともある。これ以上露見する前に、秘密の部屋は最初から存在しなかったことにする決定が下された。つまり、そこの出身者である貴様らもレゼも居てはならないわけだ」

「居ては、ならない? 我々は国家に尽くすための戦士ではないのですか?」

「だからこそ国家のために引き際というものを……」

「私、知ってる!」

 

 ポリーナが甲高い声をあげた。

 

「狡兎死して走狗煮らる、ってやつだ! ねっ、合ってる!?」

「な、なんだそれは? とにかく、貴様らはもう不要なのだから、」

「――」

 

 けして口にしてはならない言葉というものがある。

 ――仲間を殺せ。

 これは良い。彼女たちはそれを実行できるように育てられてきた。

 ――自害しろ。

 これも受容できる。必要性があるなら遂行してみせるだろう。

 だが、しかし。

 ――お前らはもう要らない。

 これだけは、絶対に言ってはならなかった。

 何故ならば、彼女たちは、特にアナスタシアは、魔人である前に国家に忠誠を誓う戦士だったから。

 

「もう一回、言ってみろ」

 

 アナスタシアの瞳孔が縦に絞られる。

 ごお、と前触れなく轟音が立ち昇った。男の背後、たった1つの出入り口に分厚い炎の滝が出現していた。それは火の点きようのないコンクリートを起点とし、天井まで隙間なく波打つオレンジ色の絶望だった。

 

「なっ」

 

 男は何も分かっていなかった。

 魔人についてを、ではない。

 それ以前の、秘密の部屋の戦士たちについて。分かっているつもりでいただけだった。

 モルモットとは、何か。

 一体どんな存在か。

 人として大切なものを奪われた。何も与えられてこなかった。教え込まれたのは、戦う術と、欺く手法、そして国家への忠誠心。

 それが全て。

 それしかない生き物が、唯一の拠り所である歪な存在意義さえ踏みにじられてしまったらどうなるか。

 分からなかったでは済まされない。

 

「止め――」

 

 発火した。

 容赦のない殺意が伝播して、アナスタシアの視界に収まる全ての範囲に火が点いた。

 悲鳴などあげる暇もない。

 極度の混乱状態に陥った男の口と鼻から火が生き物のように侵入し、あっという間に肺へと至り、末の末まで焼き尽くす。五体の関節は熱硬直により固まって暴れることさえ叶わない。

 超越者の加熱は天井知らずに勢いを増していき、周囲の大気が蜃気楼のように揺らめいた。

 アナスタシアは、何も言わなかった。

 無へと帰していく灰の塊を蔑むように見下ろしている。

 

「こいつは、同志ではなかった」

 

 赤毛の女は目を細める。

 

「反逆者は粛清しなければならない」

「う~ん? こいつが悪い奴だったってこと?」

「そうだ。だがそれだけじゃない」

「なぁに?」

「こいつは私たちの敵だった」

「ナスチャが嫌いだったってこと?」

「…………それでいい」

 

 唐突に、背を向けて歩き始めるアナスタシア。

 

「わ、ちょっと待ってよ」

 

 ポリーナは慌てて追いかけながら問いかける。

 

「ねえ、これからどうするの?」

「決まってる。任務だ」

「ええっと、さっき言われた抹殺任務? なんとかって人をやっつけるんだっけ」

「レゼだ」

 

 冷たい声だった。

 焦げた床を踏みながらドアを潜り抜けていく。

 焼けて真っ黒になった廊下を進み、その果てからぼんやり漏れている外界の光に目を細めた。

 こつこつ、と2人分の足音が響く。

 

「いいか、よく覚えておけ。私たちはそろそろ死ぬ。だがその働きは国家に還元されて永遠に残るだろう。つまり、私たちは死なないんだ。分かるか?」

「ん~~……。なんとなく」

「人は国で、国は人だ。私たちはその体現者だ。そのために生きてきたし、そのために死ぬ。だからこそ価値がある。なのに、あいつは、レゼは私たちの代表者であったはずなのに裏切った。泥を塗ったんだ。このままにしておけば私たち全てが愚かな逆徒として覚えられてしまう。それだけは絶対に避けなければならない」

「ええと、要するに、レゼって人が悪いってことだよね?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、ナスチャが嫌いだってこと?」

「だからそういう意味じゃ……」

 

 階段の前に来た。

 言葉が途切れる。

 アナスタシアはしばらく無言のまま黒ずんだ階段を一段ずつ上がっていった。非常灯が点っているだけの暗い階段。進めば進んだだけ周囲が明るくなっていく。小さな汚れや傷跡まで鮮明に知ることができた。

 

「――そうだな」

 

 アナスタシアはただ上る。

 

「じゃあ、あいつは嫌いだった。そういうことにする」

「そっか」

 

 ポリーナも並んで上る。

 

「だったら私の敵だ」

 

 最後の段を踏みしめて、最後のドアをくぐり抜ける。外に出た。

 一陣の風が頬を撫でつける。少し火照った身体が洗われていくようで心地良い、とポリーナは思った。

 ぐるりと周りを見渡すと、自動小銃を構えた兵士たちが弧の形になって自分たちを取り囲んでいた。殺意が充填されていて、その奥底には恐怖が揺らめいている。

 

「あは」

 

 ポリーナは笑った。

 総勢20名。武装は最新式の自動小銃。距離はおよそ10メートルで、半円状の配置になっていて、間には遮蔽物は1つもない。

 そんなので私たちをどうにかできると思っている。

 自分たちで育てておいて、自分たちで造り変えたくせに、どうして分からないんだろう?

 可哀想。これ以上可哀想になる前に終わらせてあげないと。

 “敵”のリーダーと思わしき男とアナスタシアが言葉を交わしていた。「攻撃した理由」「粛清」「待機せよ」「祖国のための戦士」「命令」「本物の同志」――ああ、やはりよく分からない。ポリーナは聞き流しながら瞳孔を絞っていく。

 わざわざ確かめるまでもない。自分たちに向けられた20もの銃口が敵味方識別信号よりもはっきりと彼我の関係を表明している。話せば分かるというのなら軍隊も兵士も要らないのだ。

 距離10メートル。

 それはポリーナにとって1センチに等しい。

 遠く広がるモスクワの街並みを見渡して、ポリーナは口元を歪めた。

 まず手始めに20人。

 一斉に火を点けた。

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