チェンソーがアスファルトに火花を走らせる。
振り上げた切っ先はどこまでも抜けていく初夏の空、伸びきった右腕は隙だらけの脇腹を晒させて、今度は相手側のチェンソーマンが交差するように獲物を水平に振るう。
ぶおん、と身の毛もよだつ空振り音。
追撃、さらに追撃。退き足と追い足をもつれさせながら剣戟は重なっていく。チェンソー同士がぶつかって金属が高速で擦り合う火花がアーチ橋に飛び散った。
「こンのパチモン野郎がよおお!」
「俺は俺からパクる奴を許さねええ!」
目の前で2人のチェンソーマンが激突している。
ひっきりなしに立ち位置を入れ替えて打ち合い、鍔迫り合う。
本物と偽者、見た目だけなら差異は無い。
背格好だけでなく身に着けている衣服も同じ、両腕から生えているチェンソーに粗雑に並んだ棘の鋭さまで測ったように変わらなかった。
アレはただの変装ではないはず。
悪魔の能力による変化のたぐいだろう。
つい先ほど山中の駐車場で轢かれて死んだコピー男たちが脳裏をよぎった。恐らくあの2人の仲間に違いない。だったらこいつは3人目、そして変身能力者なら……。かつて頭に叩き込んだ諸外国のデビルハンターたちの情報の中からアメリカで殺し屋まがいをやっている3兄弟が浮かび上がる。でもそれは不正解であると思いなおした。
あの3兄弟はすでにこの世界から退場したと聞いている。
だったらこいつは別口か。
背後にナユタちゃんを庇いながら周辺を警戒し、偽チェンソーマンを観察する。
肉を裂き、骨を割るチェンソーが互いの血を舐めていく。
チェンソーは怖気を生じさせる獲物だ。左右から容赦なく振るわれればどうしても生理的反応で身が竦む。それに抗うのは訓練を重ねた兵士でも難しい。そういった意味では、あえて大雑把に扱って戦いの主導権を握ってしまうのはあながち間違いではない。
しかしデンジ君には恐怖が無い。
踏み込みの深さが違った。
チェンソーを一合斬り結ぶたびに詰めていく。攻防の天秤が傾いて、偽者の姿勢が徐々に崩れていく。
一際重い一撃に、とうとう偽チェンソーマンの上体が大きく仰け反った。
「俺ん……勝ちだああアア!!」
チェンソー、一閃。
偽者の胸部から血飛沫が迸る。膝が折れ、うひぃうひぃと呻きを上げながら地に腕をついた。両腕のチェンソーはすでに破片となって砕けていた。
その首横に本物のチェンソーがぴたりと当てられる。
もはや逆転の芽はない。
あっという間の決着だった。
「ふう~~。てめえが刺客か? 何モンだあ?」
「あ、あう……俺は、俺はぁ……早川、デンジぃ……」
「そりゃ俺だっつーの!」
蹴り転がして、アーチ橋の欄干に押しつける。零れた悲鳴を意に介さずにデンジ君は電ノコのチェーンを伸ばして男を欄干に括りつけてしまう。
悪魔が恐れる悪魔、チェンソーマン。
だが打ち負かして動けなくしてしまえばなんてことはない、ただ頭にチェンソーを装着しただけのB級ホラー映画の怪人にしか見えなかった。
「……変身能力、ね。精度も完璧だ」
ナユタちゃんがどこか面白そうに呟いた。
本物と同じだったのは外見と武器だけじゃない。瞬発力と膂力――武器人間としての身体能力も互角だった。
「面白いね。使い道がありそう」
「……支配しようとか思ってない?」
「どうせ殺…………命は有効活用しなきゃ」
「言い換えても、ダメ。それに殺さないし。せっかく捕まえたんだから情報を引き出さないと」
「そんなヒマないでしょ」
「岸辺さんたちに引き渡してやってもらう」
「……」
「すっごい不満そう」
支配の悪魔は手駒を欲しがっている。自分からは言い出さないがバレバレだ。
使えるカードを増やしたい気持ちは分からないでもないけど公安に危険視されている彼女にとっては諸刃の剣。勝手に戦力を増やせばどうなるか。マキマの再来を恐れた上層部が逸らないとも限らない。それに、私の管理能力も問われるし。
「そんな目で見なくても分かってる」
「ほんとかなあ~?」
「私、人間、すき。支配しない」
「はいはい」
わざとらしさもここまでくれば清々しい。
……別にやるならやるで構わないけどさ、絶対に誰にもバレないようにやるか、人間以外にやってほしい。
「んなことよりよお、刺客はあと何人いるんだ?」
「……へ~」
「なに?」
「あのデンジ君がねえ。いや、感心感心」
縛り上げた偽者を油断なく睨みつける横顔はいつになく真剣で、思わずまじまじと見つめてしまった。そっか、やっと真面目にやる気になったか。思い返せばデンジ君もデビルハンター業が長い。もう場当たり的に対処する子どもではない。さりげなく周囲を警戒する姿もなんだか頼もしく映る。
「早く全員ぶっ倒さねえと……大変だからな」
雲の隙間から陽光の白が斜めに射して、渓谷にかかったアーチ橋に降り注いでいた。
「雨が降っちまう」
「雨?」
「ああ。車ん中で天気予報、聞いただろ?」
「雨だとなんかまずいの? あっ、もしかして私の心配してる? 濡れると爆発の威力が落ちるから」
「いや、そうじゃなくて、川で遊べなくなる」
「……川?」
山々の緑は濃密で、耳を澄ませば橋の下から川のせせらぎが届いてくる。
「誰にも邪魔させねえ……今日はぜってえ遊ぶんだ……」
「……あっそう」
まあ、そうですよね。はい。
分かっていましたよ。
サンタクロースと、謎の魔人2人組。
プロ同士が殺し争う車両内は、炎の荒れ狂う煉獄と化した。
肌が焼け、鼻と口の粘膜が引き攣るような痛みを訴える。
――痛い! 苦しい!
一秒たりとも留まれず、ドアの窓ガラスを必死に叩く。しかし子どもの握り拳ではヒビの一つも入らない。
――誰か! 誰か!
轟音もブレーキ音も耳に入らない。涙が滲み、顔面の皮膚がひたすら熱い、気の遠くなるような焦れったい速度でドアが動き出す、開きつつある隙間に指を捻じ込んだ、呻く、叫ぶ。
――開いて! 早く開いてっ!
頭が入り、肩が通った。
酸素――
炎上する電車から必死に飛び出した。
もはや着地の態勢など欠片も考えられない。
生きるために転がった。
砂でも土でも草でもいい、全身の火をなすりつけるためならどれだけの無様を晒しても惜しくない。狂ったように両手両脚をばたつかせ、芋虫のように身を捻る。痛みから逃れたい、それだけに全精力を注ぐ。
「ミノオドリ」
誰かの声が聞こえた。
這いつくばって転がって、ようやく火が消えたと理解した。
じんじんと痛みが体表を走り続けている。指先一本だって動かす気力はなく、亀のように丸まっているだけで精一杯だった。
なん、とか……どうにか……生き延びた……。
痛みは生きている証拠でもあった。
安堵、そして疲労。
嗚咽が漏れて、やがて再生が始まる。
復讐の悪魔の能力――
荒い吐息が耳障りだと気付くまで、それが自身によるものだと分からなかった。
「あ……」
すぐ傍に、うつ伏せで倒れこんでいる姉の姿があった。
震える手を伸ばす。
触れた。
全身から煙をあげている姉の肉体も再生しつつあった。逆回しのビデオのように肌色の皮膚に覆われていく。よく見れば肩も大きく上下している。……生きている。
「お姉ちゃん……」
私の半身。かけがえのないものを取り戻した安堵が胸に染み渡る。
思わず全身の力が抜けて、視界の隅に小さな靴先が映った。
「コレガホンバノ、ミノオドリ?」
顔を上げる。
少女。
幼さを残す顔立ちで、爬虫類のように縦に裂けた金色の瞳には人外特有の美しさがあった。
少女が焼け焦げた帽子を放ると、ふわり、と銀色の髪が広がった。
その下にはびっしりと赤い竜を思わせるような異形の鱗が生えている。
魔人――
「コンニチワ」
何か、言った。
けれど何語か分からない。
応じられずに呆然としていると、魔人の少女はほんの少しだけ首を傾ける。
「Guten Tag? Hello?
知っている言語が一つだけ、
「
にこり、と笑った。
途端、スイッチが入ったかのように流暢な中国語で喋りだす。
「中国人? ごめんね、日本人かと思っちゃった。大丈夫?」
「あ、う……。ええと……」
「焼けてたのが治ったね。それなあに? 悪魔の力? そっちの子も同じだね。同じ悪魔と契約してるのかな?」
にこにこと少女は微笑んでいる。
親しげにしているがけして近寄らない。屈んで目線の高さを合わせようとしない。だらりと腕が垂れていて、全身から煙が立っていた。彼女もまた焼けている。しかし意に介さずに笑みを浮かべている。
恫喝めいた笑みだった。
お前らは何だ。
従順にしていろ。
逆らうならただではおかない。
「再生、だけじゃないよね。カウンター系でもあるのかな。火が効かないこの身体が焼けるなんて普通はありえないからね。焼ける痛みを味わったのは前世以来だな~」
金色の瞳が覗き込んでくる。
「なるほど、やっぱりカウンター系の能力か」
目を細める。
「何の用かって思ってる? 大丈夫、私は敵じゃない。ソ連と中国は同盟関係にあるからね。だからその誼でちょっと忠告ぐらいはしてあげようって思ってさ」
「んだと……」
姉が肩を震わせながら身を起こした。生まれたての子鹿のようにゆっくりと、しかし目元を反意に歪ませて魔人を睨みつける。
私も四つん這いで寄り添った。
「キミたちさ、自分たちだけは人形にされないって思ってるでしょ」
びくり、と身を竦ませてしまう。
「人形っていうのはね、精度があるんだ。手間暇かけるほど人間に近くなる。悪魔にとって嬉しい生贄になるってわけ」
「……どうしてンなこと知ってんだ?」
「本当に素人なんだね。教えてあげる。今はどこの国も悪魔のリストを作ってるんだよ」
銀髪の少女は、自身の額――赤い鱗を指先でつついてみせる。
「悪魔は死んでも蘇るから、そのときのために特徴と対策を記録しておくの。サンタクロースが契約している人形の悪魔だって研究されている。その能力の一つが、“精巧な人形”。人間とほとんど変わらない。悪魔との契約の代償だって肩代わりさせられる」
「あいつはただの人形を捧げていたぞ」
「出来の悪い人形をね。だから最後に現れたあの見えない悪魔もきっと片手間の副業気分だったんじゃないかなあ」
それにしては結構強いみたいだったけど、と呟いて、その悪魔が居るであろう山奥へ目を向けた。
電車のレールが伸びた先、遠い木々の間から炎上する列車が見え隠れしている。
「だから例えばの話……キミたちがもし精巧な人形にされて捧げられたなら、あの悪魔も本気を出すんだろうね」
「……ふん、どうだかな」
「ほんとのことだよ?」
「いきなり燃やしてきた奴の言葉を信じろってのか? お前はただ、アタシらを殺しきれそうにないから口でどうにかしようとしてるだけだ。違うかよ、ええ? この嘘つきが」
姉は懐から一本の釘を取り出した。
指の震えは隠せない。それでも魔人の少女に突きつけた。勝てる見込みなんてなくても抗わなければ復讐は果たせない。
それを見て、なぜかは分からないけど、魔人の少女は――
「私は嘘なんてついたことがないよ」
それはもう嬉しそうに微笑んだ。
「はん。嘘つきは皆そう言うんだ」
「じゃあもう一つ教えてあげる。悪魔のリストは確かに存在している。だって私は読んだことがあるからね。……キミたちが契約しているのは復讐の悪魔でしょ?」
「っ」
「なかなか強力な悪魔だよね。そして契約できるってことはキミたちは誰かへの復讐を目論んでいるってわけ。あとは、そうだね……代償はかなり大きいんじゃない?」
「さあ、どうかな」
「目が泳いでる。ばればれだよ?」
慌てて相手を睨みつけ直してももう遅い。
姉は、そしておそらくは私も、すでに内面まで見透かされている。
魔人の少女は私たちとそう変わらない年頃に見えるけど中身は全然違うと理解できた。
彼女もプロだ。サンタクロースと同じプロ。
弱者など芥にも思わないはずのプロは、しかし意外な提案をしてきた。
「もう分かってくれたかな。キミたちはサンタクロースと一緒に居たら破滅する。だったらいっそ私に乗り換えてみない?」
「何だと……?」
手を組もうと持ちかけてきた。
しかし、そのくせ声色には愛想というものが感じられない。
別にどちらを選ばれてもいい、という投げやりな態度。
ダメならダメで別の道がある、そうなったらこんな弱々しい小娘の2人などすぐにでも踏み潰して先に進むだけ。
冷徹でいて、けれどその目はぴたりと私たちを直視していた。
なんだろう、この目は……。
どこかで見たことのある目つきだった。冷たいはずなのに、見下していない。軽蔑もなければ同情もない。そんな余裕が存在しない。
生物としてのステージが違うはずの魔人が私たちを虫けらと見ていない。けれど人間とも見ていない。ただ単純に、生き物としてしか――食べられるか、食べられないか、それだけ。
そこにはひたすらに生き汚い獣の意思が仄見える。
――私は私のためなら何でもやる。
そんな生き方をしている者たちならよく知っていた。
欲望渦巻く街の裏路地で何人も見かけたことがある。
家族も仲間もいない、生涯孤独な
「拒むなら、キミたちは始末する。サンタクロースの戦力を放っておく意味はないからね」
「はん、できるかよ。復讐の悪魔はすべての攻撃を跳ね返すぞ」
「対策も知ってるって言ったよ」
自分以外は全て敵。人と人との繋がりという概念を理解できない一部のストリートチルドレンはいつでも懐に刃物を忍ばせていて、些細なきっかけで人を刺す。
野良犬未満の倫理観。
ならず者の間でも疎まれて、誰にも看取られずに死んでいくのが常であるけれど、ごく稀に生き延びてしまう者もいるらしい。成長して力を得た狂人はあらゆるものを壊すという。人も、秩序も、自分自身でさえ。
少女の顔からあらゆる感情が消え失せた。
「復讐の悪魔を殺すなんて簡単。死にたくなるまで痛めつけて、自殺させればいい」
その小さな身体からはゆらゆらと未だに煙が立ち昇っている。
……彼女は、確かに一度焼かれている。
復讐の悪魔の能力で、私と姉、2人分の激痛を味わったはず。
のた打ち回るほどのあの痛み、苦しみが、倍になって襲いかかってくる……。想像だってしたくない。なのに彼女は平然と立っている。震えていない。泣いていない。
痛くないはずがないのに、苦しくないはずがないのに、どうして二度目を恐れずにいられるの?
「我慢比べなら世界中の誰にも負けない」
魔人が人差し指を立てる。
その先端に、ぼっと小さな火が点火した。
「試してみる? まずは熱したフライパンを押し当てられたときの温度にしてみようか」
「や、止めろ! ……止めてくれ」
姉と私は引き攣った呻きを漏らすしかない。
焼死寸前の激痛――あんなものは二度と味わいたくない。
正気とは思えない勝負を持ちかけてきた銀髪の魔人はこちらにぐいっと顔を近づけて、そろりと囁いた。
「いい? これは私にほんの一欠片だけ残された優しさが言ってるんだよ?」
選べと彼女は言っている。
残虐非道のサンタクロースか、ついさっき焼き殺そうとしてきたばかりの自称“優しい”魔人かを。
「…………」
「ほら、決めてよ。早く~」
「……見返りは? 当然、求めるんだろ?」
「もちろん。キミたちは日本人のフリをして私の人質になってくれればいい。そうすれば私は公安から手を出されない。昔の仲間とお喋りできる」
「昔の仲間だって?」
「そ。色々あってね、そうでもしないと話を聞いてくれないんだ。悲しいよねえ、これも立場ってやつのせいだよ」
嘘だ、と思った。
何がかは分からない。おそらく全てが嘘なんだと思う。
狂人には狂人のルールがあり、常人には理解できない利を得るために何もかもを捧げてしまう。
関わってはいけない。それができないなら、せめて敵対だけは避けなければならない。
姉はしばらく押し黙ったあと、意を決して口を開いた。
「……一つ、聞きたい。これを見てくれ」
姉はポケットから折りたたんだ写真を取り出す。
サンタクロースから渡された紙片――そこには2人の少女と1人の少年が映っていた。
「この中に、支配の悪魔は居るか?」
「? こいつだね」
水ぶくれのできた指がぴたりと1人の少女を指していた。
「そうか……。やっぱりこいつが支配の悪魔なのか……」
「なぁに? そいつがキミたちの復讐のターゲットってわけ?」
「ああ、そうだ……。アタシらは赤い髪の大人の女だって聞いていた。けど別の姿で蘇ったともサンタの野郎が言っていて……」
「ああ、マキマか。確かに死んだらしいね。今はナユタって名前のはず」
「ナユタ、ナユタか……」
小さく呟いた。
アタシらと同じぐらいのガキじゃねえか、と。
悪魔に見た目の年齢は関係ない、と人は言う。
人間とまったく同じ姿をしていても思考回路はまるで違う。倫理観もほとんど無い。当たり前だ、別の生き物なんだから。
だからこっちだって、例え相手が赤子の姿をしてようと、躊躇う必要なんてないはずだ。
「へえ……。悪魔なんかを“憐れむ”ことができるんだ」
「な、なんだよ?」
「別にー?」
きっぱりと魔人は首を振る。
そういえば名前も聞いていなかった。私は
「私に名前は無い。呼ばなくていいよ」
「そう、なんですか……? う、――っ?」
――その時。
突然、脳裏に知らない映像情報が叩き込まれた。
片側は 私と 姉と
その背後から ナイフ を 突きつけている 銀髪の 魔人
姉だけが 人質役 から 解放されて
「うッ」
「ア、く」
頭を抱え、未来視の反動をどうにかやり過ごす。
未来の悪魔が映像を見せてきた……。
「どうしたの」
「……いや、別に」
「ふうん。……で、組むの? 組まないの?」
私と姉は顔を見合わせる。
未来の悪魔の未来視は、絶対だ。
何をどう足掻こうがあの未来に辿り着く。
この魔人の人質役になったおかげで支配の悪魔に呪いの釘を打ち込めるという未来に――
姉が頷いた。
だったら私に否は無い。
「……組もう」
「うん」
姉の願いを叶える。
そして普通の日常を掴み取る。
そのためならなんだってすると私は決めていた。
「じゃあ同盟成立だね」
再び友好的な笑みを貼りつける魔人の少女。
姉は慎重に呟いた。
「……日本語を」
「ん?」
「日本語を、教えてくれ。まったく喋れないんじゃ疑われんだろ」
「ほー、やる気満々だねえ。いいよ~、教えたげる」
手を差し出されて、私は思わず握手する。
ぎょっとした。
魔人の少女の掌は石のように硬かった。
……父と同じ手だ。
長い工場勤めでいつも手指が黒ずんでいたあの父と。
@
山々に銃声が木霊する。
乾いた音が小さくなりながら頭の上を飛び交っている。
見上げていると、電話が鳴った。
『岸辺だ。悪いニュースが3つある』
「……良いニュースはないんです?」
『じゃあ微妙なやつから』
電話口の向こう側、金属同士がぶつかり合うような音が聞こえる。
『サンタクロースが呼び出した悪魔とアナスタシアが戦ってる。今お前らがいる橋から200メートルほど進んだとこにある駅ん中だ。そっちには行くなよ。このまま放っておけばどっちかは死んでくれるかもしれない』
「ふうん……。どんな悪魔なんです?」
『分からん。姿が見えたり見えなかったりする。二足歩行で、腕は10本あったが今は1本落とされて9本、身長は3メートルを超えている』
聞けば、炎上する電車から飛び出してきたところを退魔課が見つけてから数十分も戦い続けているらしい。アナスタシアと謎の透明な悪魔、どちらも能力は未知数だが、かなりタフだ。
『そんでこれが悪いニュース。漁夫の利を狙おうとしたうちの若い連中がやられちまった』
「は……?」
『狙撃しようとしたんだが、向こうも遠距離攻撃できたのがまずかった。謎の悪魔はでけえ針を撃ってくる。アナスタシアは視線の先に火がついた。どうやら発火能力っぽいな』
「火……?」
困惑の声を漏らしたのは、私ではない。
傍で耳をそばだてていたナユタ。
彼女はほんの僅かだけ眉をひそめた。
「いや、まさかね……。火がつく条件は一つじゃない。電磁波の放射、あるいは発火点の低い物質の生成……」
ひとまず彼女はおいておき、岸辺さんに2つ目のニュースを促す。
『町に人形が溢れている』
思わず、橋の正面、駅の周辺に広がっている寂れた町並みを眺めた。
『サンタクロースがどんどん増やしてるみたいだがどこに行ったか分からん。俺たちは被害を抑えるだけで手いっぱいだ』
奥多摩の町――なだらかな傾斜の上に古びた建物がぽつぽつと連なっている。
言われてみれば、さっきから車の一台も通らない。
不気味な静けさ。
ぱんぱん、と単発の花火のような味気ない音が時折鳴って、耳を澄ませば犬か人間かの吠え声が届いてくる。
『そういうわけで、公安の戦力はほとんど割けなくなった』
「……最後の悪いニュースは?」
『後ろを、見ろ』
振り向いた。
雲の隙間から陽光の白が斜めに射して、渓谷にかかったアーチ橋に降り注いでいる。今までずっと歩いてきた車道の真ん中に3人の少女が立っていた。
前列左、知らない少女。
前列右、知らない少女。
後列中央、知っている少女。
銀色の髪。
年下と見紛う未成熟な身体つき。
そして、誰にも見透かすことのできない分厚い仮面。
――レゼはもっと笑うべき。好意は伝えて損のない感情だよ。例え相手が……
屈託のない、見事な笑みだった。
――例え相手が、殺すべき標的であってもね。
「久しぶり、レゼ!」
再会の喜びが滲み出ていた。
彼女のやってきたことを知っている私でも純粋無垢に見えてしまう。
百の裏切り、千の外道。
人の情を知らないソ連の中でも更にモラルに欠ける秘密の部屋……そんな騙しと裏切りが横行する同類たちの間でも恥知らずの人でなしと評価されていた少女――秘密の部屋の暗黒を煮詰めた元仲間がそこにいた。
「ポリーナ……」
かつてチームを組んでいたモルモットの前には知らない少女が2人いた。
すぐに分かった。
不自然に強張った肩、けして後ろを振り向くまいとする歩き方。背中に何か、凶器を突きつけられている。恐らくはナイフ――
電話口から忠告の声がした。
『人質を取られた。上からの命令で俺たちは手出しできん』
ごくりと唾を飲み込んだ。
要するに、これは、ここからは、私たちだけで対処しなければならないということか。
「元気してた~? もーずっと心配してたんだからぁレゼってば何でも上手にやるけどどっか甘いとこがあるからさ~。どう、日本は? ご飯美味しいよねえ~、私はこっちの味付け好きだなぁ、って聞いて聞いて、さっきお寿司食べてきたんだよお寿司~……んんー? なぁにその顔ー?」
目を細めてくすくすと含み笑い、
「私がソ連の刺客だって思ってるでしょー? ぶぶー、ハズレでーす。だって私、ソ連辞めちゃったからね。ホントだよ?」
聞いてはならない。
言葉を交わしてはならない。
男を勘違いさせる表情の作り方も、頬を赤らめるやり方も、全部ポリーナから教わった。私は彼女の嘘を見抜けない。
人質の少女たちがぎこちなく嘆願の声を漏らす。
「たすけて」
「おねがい」
ポリーナは害意をおくびにも出さない。金色の人外の瞳で「私だってこんなことしたくないんだけどさー」と嘯きながら、僅かに肩を動かした。
人質の1人が、短く呻く。
ナイフの切っ先で突かれたのだ。
「お話、しよう?」
じめついた風が吹いていた。
分厚い雲がゆっくりと陽射しを遮っていく。
「レゼはさ、もしもあと数時間で死んじゃうとしたら――その前に何がしたい?」