渓谷にかかったアーチ橋の上で、3人と3人が向かい合っていた。
こちら側は、変身済みのデンジ君に、
向こう側にいるのは、かつて秘密の部屋でチームを組んでいたポリーナ、そしてその彼女にナイフを突きつけられている民間人の少女が2人。
山間に湿り気を含んだ風が吹きすさぶ。ポリーナの銀色の髪が乱れて額に浮かぶ人外の証があらわになった。
赤い鱗。
魔人の特徴だ。
ポリーナはどこか自慢げに目を細める。自身の額を指先で示してみせながら、幼げな口調で話し始めた。
「私ね、魔人になったんだ。ほら、見てよこの頭~? ちょっとヘンだけどさ、このぐらいで生き返れるなら安いもんだと思わない? ねー、レゼってばぁ、聞いてるー? すっごいしかめっ面なんだけどー」
「何しに来たの?」
「うわ。すっごい直接的ですねえ。もう少しウィットな会話を楽しみたまえよ~。久しぶりに会えたんだからさぁ」
「はっきり言ったら? ボムの心臓を取り戻しに来たんでしょ」
「……う~ん、まあ、確かにね? そういう感じの任務は下ったケドさ」
ずいっと一歩、踏み出した者がいる。
チェンソーマン。
デンジ君が庇うように私の前に出た。
ポリーナはピュウと口笛を吹く。
「チェンソーマン! 私、知ってるよ。どん底から這い上がって自由を掴み取ったヒーロー、かぁっこいい~!」
「あ? 俺が?」
「だって私たちと似たようなもんだもん。どん底スタートのお仲間としては親近感湧きますよ。憧れちゃう」
「…………フ~ン」
「――話、あるんじゃないの?」
早くも気を緩ませ始めたデンジ君に代わって本題に切り込んだのはナユタちゃんだった。
彼女の目線はポリーナの前に立たされている2人の少女へ向けられている。
矢じりのような鋭さで、ソ連の刺客が嘯いたお為ごかしを痛烈に指摘している。人質をとりながら媚を売っても説得力が無いと。
「う~ん、まあ、そうだよね。私の言う事なんて信じられないよね……。でもね、こうでもしないとそもそもお話もできなかったでしょ?」
ポリーナは小さく溜め息をつくと、歯切れよく宣言した。
「じゃあ10分間。それだけ喋ったらこの子たちは開放するよ」
とん、と人質の1人の背中を押した。
ボブヘアーの少女が2、3歩つんのめる。緊迫の面持ちで足を踏み出して、ゆっくりと、ゆっくりと、ポリーナのナイフの射程圏から逃れてこちらに歩いてくる。
「まず、1人解放しました。どう? 少しは信用してほしいな」
「……」
人質だった少女は、本当に何事もなくこちら側まで辿り着いた。
私たち3人の背に隠して「もう大丈夫だから」と声をかけておく。
ボブヘアーの少女は怯えているのか返事もしなかった。だが気遣っている余裕もない。
ポリーナの狙いが分からなかった。
「それじゃ時間もないのでちゃっちゃと喋ります。……こほん。え~と、私は魔人になりました。なんの魔人かっていうと、火の魔人です」
「火……?」
「そう。火だよ、ほら」
小さな魔人が人差し指を立てる。
その先端に、ぼっと小さな火が点火した。
ナユタちゃんが苦々しげに唇を噛みしめたのが横目で見えた。
「どう? すごくない? ……そこの支配の悪魔さんは理解したみたいだね。火の悪魔って、超強い悪魔だから、その肉片を埋め込まれた魔人も強いってわけ」
「……なに、自慢しに来たの?」
「んーん、そんなわけないじゃん。私はね、弱点を教えてあげに来たんだよ」
「は……?」
「弱点。……あのね、私はともかく、アナスタシアはあれでしょ、格闘戦のために生まれてきたような奴だし、そんで今は火の魔人でもあるわけ。もう向かうところ敵なしってカンジ。だからボムの心臓を持ってる今のレゼでも普通にやったら勝ち目なんてないんだからさ、弱点、教えてあげようって思って」
ポリーナはすらすらと世間話でもするように火の魔人の特性を述べていく。
能力は発火。
有効範囲は2つ。
1つ目、視界内。
焦点を合わせられる近距離ほど効果を高められる。
発火点は空間座標を指定する。そのため対象に動き回られると加熱できない。
2つ目、自身の肉体。
こちらは自在に温度を高めることができる。1千℃の熱にも耐えられる。
弱点は水。そして無酸素状態。
「――というワケで、一箇所に留まるのはオススメしない。5秒でバターにされちゃうよ」
「なんで……意味が分からないんだけど……」
「レゼには死んでほしくないからね。これでも私、感謝してるんだ。モルモット時代はよくしてくれたし」
「ああ、そう……?」
少し、いや、かなり混乱している。
私に死んでほしくない……?
ポリーナは抹殺任務を受けてやってきたんじゃないのか?
でもアナスタシアとは戦うことになるような口ぶりで……。
それって、つまり……アナスタシアは抹殺任務を受けているけど、ポリーナは違うということ?
そんなことがありえるの?
「私たちさ、寿命が残り2時間ぐらいしかないんだよね」
ポリーナはあっけらかんと言い放つ。
「火の悪魔に獲られちゃって。ま、代わりにソ連から脱け出せるぐらい強くなれたし? むしろお得だって思ってんだけどさ。いくら寿命が長くてもモルモットのままじゃ意味ないでしょ?」
「あなたは……秘密の部屋から逃げてきた、ってこと?」
「うん。私は元から生き延びたかっただけで忠誠なんて誓ってないし。……知ってるでしょ?」
「任務を遂行しに来たんじゃないんだ?」
「そーだってば」
「ふうん……そっか」
「あ、信じてない? ほんとだよ?」
「だったらいいな、とは思うよ」
「あはっ。……うん、そだね。そのぐらいが正解だと思うよ」
何が本当で、何が嘘か。
正直、皆目読み取れない。
皮膚下の蠕動、筋肉の蠢き、呼吸のリズム、瞬きの回数……。それらは感情を示すシグナルであるけれど、相手は騙しのエキスパート。意図的に見せられている可能性を捨てきれない。
全てが見せかけかもしれない。
そう思って構えておく他にない。
「そういうわけで、今の私は誰の命令にも従ってない。その必要がない、完全な自由。そんなスタンスだって表明しておくよ」
「じゃあ、何しに来たの?」
「つれないな~。友達じゃん」
「そんな台詞、初めて聞いた」
「あはは。だよね、私も初めて言った。友達ねえ~。なんなんだろうね、それ?」
「――残り、5分」
ナユタの無機質な声が通り過ぎていく。
ちらりと横目で窺うと、普段と変わりない様子だった。
どこを見ているのか、何を考えているのか。そんな平静さが今はありがたい。
彼女はきっと今もその小さな頭の中で策を巡らせている。
今までの会話に意味はなく、アナスタシアがやってくるまでの時間稼ぎでしかない可能性もちゃんと考慮に入れている。鳥獣たちを使役して周辺の状況をリアルタイムで観測しているはずだ。
「アナスタシア」
ポリーナが呟く。
「魔人になってもやっぱり変わらないね。馬鹿正直に抹殺任務を遂行するつもりだよ」
「従う理由もなくなったのに?」
「困ったちゃんだよね~。他の道を知らないんだ」
「来るなら撃退するだけ」
「あはは、できるかな? ……ねえ、チェンソーくん、キミはどれぐらい強いの?」
「…………あ? なに?」
「一蹴りでビルをいくつも粉砕したって聞いてるけど、ホントなの?」
「ああ~……っと、コレなんの話? 聞いてなかった」
「はい?」
「話がなげえし、別んこと考えてて……」
「え~、どんなこと?」
「仕事が終わったら、何して遊ぶかな~って」
「へえー、さっすがチェンソーマン! ……言う事が…………違うなあ…………って、え? 本気……?」
「??」
ポリーナの眼は、魔人の視力。
些細な兆候も見逃さない。
金色の瞳を見開いて、じっとデンジ君を観察する。
眉間に皺を寄せ、前傾になり、最後はぽかんと口を開けた。
「キミは……認知に障害でもあるのかな……」
「へえっ?」
「いやさ、……あはは、器の大きい人もいるもんだな~って思って」
「はァ? んだぁテメー、バカにしてんだろ? ガキんちょがよ~!」
「ごめんごめん……でもさ、全身悪魔形態だったときの力がないなら、大変だよ、アナスタシアは」
「ふーん。あっそ」
“生真面目”アナスタシア。
どんな命令にも諾々と従う彼女は誰よりも国家に忠誠を誓っている――ふうに見え、大人たちもそのように判断していた。しかし実際は違った。
彼女は、自身が異端だと知っていた。
人の心が分からない。
善悪を測れない。
やっていい事といけない事の線引きができないアナスタシアは、ときに理由ともいえない理由で仲間に手をかけた。
――いびきが五月蠅かったんだ。私はちゃんと止めろと言った。でも止まらなかった、だから止めた。…………単純な話だろう。違うのか?
そんな人間をただ“殺しが上手い”という理由だけで受け入れられる国はこの地上で一つだけ、人命の価値が限りなく低いソ連のみ。
だからアナスタシアは故国に肯定的だった。他に居場所はないと知っていたから。
「故国のため、祖国のため。……そんな概念、ほんとは理解してもないのにね。でもそうするしかないんだ、アナスタシアは」
彼女にとって戦士とは仕事や生き方ではない。人間を理解できない異星人に許された、この地球上で唯一の在り方なのだ。
たった一本の道。だからこそ強靭で、歩き続けるための上っ面ではない本物の意志を伴っている。
「ポリーナ。あなたは何がしたい?」
「ん?」
口を挟んだのはナユタ。
「耳障りのいいことは言うけど、手を貸す気はないって聞こえる」
「知識は貸したでしょ?」
魔人は失笑する。
「勘違いしないでほしいんだけど、私、基本的にはアナスタシアの味方。優先順位はあっち」
「友達なんだ?」
「さあね。私の望みは、アナスタシアが納得のある終わり方を迎えること。レゼは、できたら助かったらいいな、ってハナシ」
「嘘」
ナユタは微動だにしない。
雲の隙間から差し込んでいた光が細くなってきて、少しずつ辺りが薄暗くなってくる。不穏な空模様を従えながら悪魔は語る。
「死期に迫られた人間が選ぶ道は1つ。悔いを残さないようにやり残しを潰すこと」
「私にやりたいことなんてないんだなぁ」
「だったらわざわざ日本まで来たりしない。他の誰かのためじゃない、あなた自身の目的がある。あるいは――」
カラスが鳴いた。
橋の上を旋回する瞳が幾多もの角度からソ連の刺客を覗きこんでいる。
「寿命の話も、弱点の話も、何もかもが出まかせか」
風が吹く。
銀の髪を揺らして、ポリーナは軽く目を伏せる。哀しげな、色褪せた表情――
あれも、嘘だ。
そう判断するしかない程に彼女は嘘をついてきた。
秘密の部屋において最も虚弱だった少女は仲間を騙すことでしか生き延びられなかった。狼少年ならぬ狼少女。誰からも信用されることはない。
ふと思う。もしかしたら彼女は異端者であるアナスタシアよりも孤独な存在なのではないかと。
「君たちには、分からないだろうね。他を切り捨てて一つに執り付いて、それでも結果を出せない……そんな偏らざるをえなかった人間の気持ちなんて……」
そのとき、一瞬雲に光が反射した。
前触れはなかった。
地面に振動が走るとほとんど同時、追いかけてきたように爆発音が鳴り響く。
デンジ君とナユタちゃんが思わずといった様子で音源地へ目を向ける。
私は目の端だけで確認、ポリーナからは目を逸らさない。――町中、駅の辺りから煙が立ち昇っている。
しかし、当のポリーナは、あっけなく私から視線を外した。近所のぼやでも見るようにこう呟く。
「あーあ、時間切れだ」
田舎町は不自然なぐらい静まり返っている。
本来ならサイレンの一つでも鳴って野次馬が飛び出してくる頃合。けれど一つも動かない。ゴーストタウン――そうしたのはサンタクロースという名の殺し屋であり、そんな相手と戦っていたのは私のよく知る秘密の部屋育ちの最強の女――
「アナスタシアが来るよ」
@
「アナスタシアガクルヨ」
たぶん日本語で、私には内容が分からない。
応じているのは正面にいる3人の悪魔たち。
彼ら、彼女らは、油断のない顔つきで、私の頭越しに言葉を交わしていた。
ひどく場違いな場所にいる……。
そんな言い訳だけが私の頭の中を飛び回っていた。
さっきからずっと気持ちが定まらなかった。
立ち眩みに陥ってしまったときのように足元がおぼつかない。大観衆が注視するステージの真ん中に何の用意もなしに立たされてしまった気分でしかない。
私は……どうして……ここに居るんだろう?
正面に立っている男の悪魔に恐る恐る目を向けてみる。
頭と両腕に、電ノコが生えていた。
チェーンから突き出した棘は鋭くて、びっしりと連なっている。
あんなものがもし回転しながら近付いてきたら……。
そう思うだけで、だめだった。足が震えて一歩だって動かない。
けれど彼らは違った。
この今という現実を直視して立ち向かう姿勢でいる。
固まっていない。怖がっていない。
私と全然違う。
あの男の悪魔は、手持ちの電ノコを振るってこれまで何人も手にかけてきたんだろう。隣に立つ女の悪魔も同じはずだ。慣れている。私のすぐ後ろに立っている銀髪の魔人だってそうだ。
斬るか、焼くか、手段に違いはあるだろうけど、人殺しに慣れている。
人殺しの世界の住人たち。
その中心に私は立たされてしまっている……どうして……?
復讐のためで、姉のため――
かつて決意を抱いたはずの名分は、今となっては煙よりも頼りない。
“殺す”ってなに……?
どうしてそんなことをしようと思っていたんだろう……?
復讐。誓うだけなら簡単だった。
恩人であるクァンシさんに報いるためにと立ち上がり、未来の悪魔と復讐の悪魔と契約し、とんとん拍子で日本まで来た。来てしまった。
しかし、私たちは本当に……私と姉は、本当に身を焼くほどの本気の憎しみを抱いていたのだろうか?
かつて実の親に捨てたられた。
愛してくれた育ての親は政府の都合で道路の下に埋められた。
私たち姉妹には戸籍がないせいで、病院では診察を受けられず、図書館では本も借りられず、学校にも通えなくて、路地裏しか生きる場所がなかった。
お前らは要らない子供なんだよ――役人たちにはそうあしらわれた。
そんな社会に対する不満と憤りを、“仇討ち”という行為にぶつけていただけな気がする。
不条理に抗えば自分たちだって正当性のある人間なんだと証明できるような、そんな気がして……。
クァンシさんは優しかった。それは本当だ。
殺されて悔しい。悲しい。それも本当。
でも相手が憎いだなんて、殺したいなんて、やっぱり私には分からない。
お姉ちゃん……。
姉は今、銀髪の魔人の計画通りに支配の悪魔の背中側に位置している。
手には呪いの釘。
四回刺せば、相手は死ぬ。
念願の復讐の好機がやってきた、はずなのに――その手は震えていた。
姉の気持ちがよく分かる。
復讐の悪魔の能力――反撃で相手が死んでしまうのとはわけが違う。呪いの釘を振るうには、明確な殺意が要るんだ。能動的に死の切っ先を相手の肉へと刺し挿れなければならない。
相手の人生そのものをぐちゃぐちゃにする。
それがどんなに酷いことかを私たちは知っている。
殺すなんて大それたこと、私たちにできるはずがなかった。相手が悪魔かなんて関係ない。だって犬や猫さえ手にかけたことがないんだから。
殺すのが怖い……。殺すなんてしたくない……。
だって、私たち、嫌なこともたくさんあったのに……どうしてわざわざ人殺しまでしなきゃいけないの……?
今のままでいい……。やらなくていいなら今のままでいいよ……。
もしも誰かの命を奪うなんてことをしてしまったら、私たちは本当に真っ当な人間ではいられなくなる。
やめたほうがいい。仇なんて討たないほうがいい。
普通に生きていたい。
お姉ちゃんにはもうこれ以上寿命を使ってほしくない。他の誰に否定されようと私たちにはお互いがいるじゃないか。姉にさえ手を繋いでもらえたら、私は胸を張って生きていられる。
帰ろうよ……。
どこでもいい、どんな仕事だって構わない。姉と一緒なら――
ずぶ
「っ」
熱、痛み。
背中の肉にナイフの切っ先がねじこまれてくる。
筋肉が瞬時にひきつった。異物をこれ以上1ミリだって侵入させないために声帯さえも固まった。
「想像してごらん」
ひっそりと、銀髪の魔人、背後から、
「支配の悪魔はこれから普通に生きていく。学校に通って、図書館で勉強して、学校で友達を作るんだ。恋をして、結婚して、大きな庭のついてる家なんかを買って、ペットたちに囲まれる。幸せな日々を迎える。でもその時にはクァンシのことなんか欠片も覚えてない。君たち姉妹のことなんてサッパリ綺麗に忘れてるんだ。……君たちは、こんなに人生を狂わされたのにね。それでいいの?」
背中に入ってはいけないものが入ってくる。1センチか2センチかこじ開けて侵入しつつある金属の切っ先がいつ臓器まで届いてもおかしくない。取り返しのつかないことになるという本能的な恐怖。
「君たち姉妹は、これからの人生で何度も何度も思い出す。軽蔑の眼で見られたこと、下げたくなかった頭を下げたこと、そんな毎日から救いだしてくれた恩人に何も報いなかったこと……」
出血がどんどん体内に漏れ広がっていく想像に涙が滲む。膝ががくがくと震え始める。痛みと痒みの中間のような感触がじんじんと異常を訴え続けている。やめてくれ、助けてくれ。悲鳴さえ許されない恐怖。唾液が滴り落ちて顎下を汚していく。
「忠告する。復讐できる相手がいるならするべきだ。何故ならば、復讐とは、尊厳を取り戻すために必要な手続きなんだから。君たち姉妹の人生は屈辱を受けたせいで止まってしまっている。再び進み始めるためには負債を押しつけてきた相手に突き返してやらねばならない」
ぐい
切っ先が、角度が、てこの原理で傾いた。
筋繊維が限界まで伸ばされる。
「いい? これは私にほんの一欠片だけ残された優しさが言ってるんだよ?」
とん、と。
背中を押された。
ナイフの切っ先が引き抜かれ、私はみっともなく前へつんのめる。
制御できない私の脚がどうにか転倒だけは避けてくれた。
解放された――
「あ、あぅ」
安堵する私に支配の悪魔たちの視線が集まった。意識も。
それは、合図だった。
隙を作ってやったから呪いの釘を刺せという、姉への合図――
滲む視界の中で、姉の腕が大きく翻る。
その指の中には悪魔の釘があって、
強く強く握りしめられていて、
勢いよく刺し下ろし――
「おねえ、……っ」
赤い暴風が大気を切り裂いた。
鼓膜を破りかねない破裂音。
交通事故のようだった。
悪魔たちの誰かが吹っ飛んだ。
「ああ、あああっ」
@
ちゃんと見ていた。
衝突の直前、ナユタちゃんからも警告があった。
「来る」
重心はすでに落としこんでいた。息の巡りも合わせ済み。構えた先に見えたのは点のような大きさの赤で、その特徴的な髪色はおよそ50メートル離れた車道のうえで前傾姿勢になっていた。
アナスタシア。
踏み出した足指に杭打ち機に匹敵する力が篭められたのを私は知っている。あのクラウチングスタートの体勢は、開戦時に距離を潰す際にいつも見せていた。
今回の標的は、私。
目が合った気がした。
瞬間、視界に赤色が広がった。
「!!」
既に、腕の内に居た。
理解できぬ歩法に思いを巡らせている余裕は無かった。袈裟懸けの右手刀を半身でかわして側面に回りこむと赤い頭が落下した。沈墜、さらに慣性の勢いも加えられた上半身には膨大な破壊力が秘められている。地を蹴って一歩退く、アナスタシアのうなじが見える。あえて背中を晒した意図は体当たりに繋げるためと決まっていたが、こちらが目前の首筋を打ち壊すほうがずっと速い、ゆえに備えていた握り拳を解き放つ。その途中、私の足首をぐいと後ろから引っ張る者が居た。
アナスタシアだった。
わけが分からなかった。
どこから生えてきたのか不明な指先で防衛反射ごと膝と股関節のコントロールを握られた。
視界を流転させられ、相手の姿勢も何をされているのかも分からなくなる。受けるも流すも叶わない気の遠くなるような一瞬に走馬灯が駆け巡る。
膝と股関節が砕かれる、
身体中に穴を開けられる――
視界一面にアスファルトが迫っていた。
身を捻り、腕をふるって地に衝撃を逃がしながらごろごろと転がった。一切の理解が追いつかぬままに身を起こし、
膝は、
股関節は、
どちらも無事だった――
なんともない、ちゃんと動く。
荒ぶる呼吸を抑えながら、どこも損傷していないのを確認。
「チェンソーマン、だったか……」
およそ20メートル近く離れた場所でアナスタシアは膝立ちになっていた。
こんなに飛ばされたのかという認識は、すぐに掻き消える。
彼女の眉間、数センチの距離に、悪魔殺しのチェンソーが突きつけられている。
「速いな……」
「カッコいいだろォ?」
チェンソーはぴたりと動かない。回転も止められている。その凶器の腹の部分を、火の魔人の両の掌が力強く挟み込んでいた。
真剣白羽取り。
風が吹きすさぶ橋の上、チェンソーの男と魔人の女が電ノコ越しに視線を絡ませる。
「仲良くしようぜ~? どんなワケで来たのか知らねえけどよお~」
「いいぞ。30秒耐えられたらな」
「マジかよやったー!? 約束したかんな!」
「始めるぞ」
あっ、と声をあげる間もなかった。
アナスタシアは挟んでいたチェンソーをデンジ君の腕ごと捻って崩しにかかる。「おわっ」と漏れた声が私の耳に届く頃には魔人の下半身は地を噛んでいた。
この世には2つの無限に使える力がある。
自身の体重と、大地による抗力。
ぴたりと動きを止めただけで挟まれていたチェンソーがへし折れた。
アナスタシアの挙動は人間時代と変わらなかった。筋力に頼らず、理で回す。人体はベクトルを通すための道筋にすぎない。
なにげない重心移動が必殺の砲撃準備と化していて相手は近寄られるだけで後手にまわらざるをえない。接触すなわち死と同義。
チェンソーマンのみぞおちにお手本のような肘鉄が刺さった。
「あギャッ」と呻き声をあげながらもデンジ君は逆手のチェンソーを振り抜いてみせる。
「む」
火の魔人の首筋がぴっと裂ける。
続けざまにチェンソーが襲いかかった。被弾を恐れぬ攻勢はアナスタシアの術理を大きく乱していく。小さな傷と引き換えに膝を踏み抜こうともチェンソーマンは止まらなかった。再生しながら、音さえも置き去りにする一撃が放たれた。
「――」
加勢するべきか?
迷いは一瞬。
答えは既に決まっていた。
この戦場における敵はアナスタシア1人ではない。ポリーナ、そして姿を隠したサンタクロースと人形兵、他にも刺客は居るかもしれない。
守るべき少女たちを下がらせてポリーナの前に立つ。
警戒した先のもう一人の火の魔人の視線は、しかし誰にも向けられていなかった。遠い目でゴーストタウンと化した田舎町を見つめている。
なんだ?
何を見ている?
感傷に浸っているような顔つきではなかった。何かを探しているふうでもない。
彼女の意識と焦点は、煙を立ち昇らせている駅の辺りに合わせられている。
「……困ったなあ。こんな予定じゃなかったのに」
「なに、あの駅がなんだっていうの」
言いながら、このめちゃくちゃになりつつある状況を収める手段に思いを巡らせる。
まず制圧するべきはポリーナではないか。
彼女が敵か中立かは問題ではない。それが分からずに私が足止めを食らってしまっているこの現状こそが問題だ。
ポリーナという不確定要素を排除できれば私はチェンソーマンに加勢できる。
そうなればアナスタシアを確実に打ち倒すことができ、サンタクロースの対応に動けるようになる。
各個撃破の流れ。順繰りに問題を解決していける。
その意図を察したのか、ポリーナの細腕がゆっくりと持ち上がり、無人の町並みを指した。
「マズいよ、これは」
山間の田舎町。建物はまばらで背は低い。
それらの物陰から人形兵たちがぱらぱらと姿を現し始めた。
5人、10人、20人――右から左から、いったいどこに潜んでいたのか車道いっぱいになってひしめいている。その全員が、一様に無表情だった。ガラスの眼球をこちらに向け、両腕を剣状に変化させている。
更に。
その中心に、巨大な何かが居た。
4メートル弱はある。
二足歩行で、ここから見えるだけで腕が5本は生えている。体表には迷彩柄の模様が走っていて、顔はことさら異様だった。口にあたる部分が節足動物の大顎のようになっている。
丸太のごとき太さの腕が手近な人形兵の頭を掴んだと思ったら、無造作に脊椎ごと引き抜いて異形の口に放り込む。ごりごりと噛み砕き、呑み込んだ。すると腕が何本も生えてくる。
傷を回復させている。
アナスタシアに破壊されたであろう部位を。
「あれは……サンタクロースの呼び出した悪魔? アナスタシアが仕留め損なっていたってこと……?」
「ううん、違うかな」
こと戦闘に関してだけは誰よりも真摯だった彼女がそんなツメの甘い仕事をするわけがない。
仕留め損ねたのではなく、仕留められなかったのだ。
「そっか、ああやって人形兵たちを回復剤にするんなら……」
際限なく回復されれば火の魔人となったアナスタシアでも倒しきるのは難しいということか。
おそらく彼女は、あの謎の悪魔との削り合いに埒があかないと判断し、戦闘を切り上げて本来の標的である私たちの方へ来た。一瞬で片をつけ、ポリーナと合流し、火の魔人2人がかりでサンタクロース勢へと立ち向かうつもりだったのだろう。
だがそんな目論見は失敗した。
「30秒ォ~! 30秒経ったじゃん! ギャ! たっ、ああああ!?」
甲高い激突音とともにチェンソーマンが欄干に叩きつけられる。炎が纏わりついて離れない左腕をぶんぶんと振り回している。
「バっカ、火ぃ止めろ! アアチャアチャチャ!!」
「ちっ。これ以上は粘れんか……」
「ナスチャ! これからどうすんの?」
「一時休戦だ。先にサンタクロースを始末する」
アナスタシアが構えを解くと、デンジ君の腕についていた火が消えた。
うひ~~、と呻くチェンソーマンにナユタちゃんが駆け寄った。血液パックを顔面にぶっかけて飲ませると火傷がみるみるうちに回復。その光景を人質だった2人の少女が揃ってまじまじと見つめている。
彼女たちは一般人。どうにか逃がしてやりたいけど……。
町の反対側へ避難しなさいと告げてみる。しかし言葉が耳に入らないのか反応しない。
「レゼ、おい」アナスタシアが声をかけてくる。「あの人形部隊が邪魔だ。お前も手を貸せ」
「よく言う……。今の今まで殺しにきてたくせに」
「そうだが?」
「サンタを撃退したらまた戦うつもりだよね?」
「一時休戦と言った」
「…………ああ~、もう~~!」
アナスタシアの平常顔にイラっとくる。
ポリーナもポリーナだ。任務でもないのにわざわざ日本までやってきて思わせぶりなことばかり。
何よりも腹立たしいのは、そんな彼女たちの提案を飲むしかないこの現状。
「う~~ん、かるく200は居そう」
ポリーナが他人事のように呟いた。
山のような数の人形兵、そして得体の知れない異形の悪魔。人ではない怪物たちは様子見などしなかった。殺戮の命令を達成するために一斉に津波となって押し寄せる。
「来た来た来た来た」
「数が多すぎる!」
「ぎゃああ! 前にもこんなことあったんですけど!?」
「レゼ、どうするか決めろ」
「組むってば! 作戦も私が決めるからいいね!? ……まず後ろに退く! 私が橋を爆破して落とす! 人形たちはバラけて谷を渡ろうとするだろうから各個撃破!」
「攻めたほうが早いだろ」
「数が負けてるから地形を利用する!」
「私は平気だ」
「ポリーーーナっ」
「ナスチャさあ、今の指揮はレゼなんだからさあ」
「…………従う」
「何がなに!? 俺はどうすんの!?」
本当にこれでいいのか?
迷いはもちろん拭えない。
だがアナスタシアたちはプロだ。優先順位の見定めはけして間違えない。少なくともサンタクロース勢が脅威ではなくなる、もしくはその確実な見通しが立つまでは共闘できるはず。そう思いたい。
少女たちとナユタちゃんをデンジ君に預け、堅牢なアーチ橋を踏みしめる。一発で崩落させるために必要な爆薬量は並ではない。右腕にかき集め、大型弾頭を生成していく。
完成まであと少し――
「愚者ども……お前らは何も分かってない……」
すぐ傍の、橋の欄干に括りつけられた男が呟いた。
刺客であった変身能力者はすでにチェンソーマンの姿ではない。小柄な中年男が薄気味悪く微笑んでいる。
「世の中は合理主義の結果主義……ふはは、人は駒! 僕は神!」
「誰だ?」
「誰?」
「誰だよコイツ」
アナスタシアは返答を待たずにナイフを投擲、
「イぎゃあ!」
「ちょっと! 殺さないで!」
「死体がでなければ殺したことにはならない。セーフだ」
こいつ! マジでほんとにっ!
「ぐ、ぐ……ガキがよお! 僕のほうが影響力あるのにい! 嫉妬だろぉ!?」
中年男の輪郭がうねり、角ばった関節の節々が丸みを帯びていく。丸い金属頭の武器人間の姿へと変化して――って、私!?
偽者のボムガール、その拳は爆弾に成っていた。
信じがたい光景だけど、彼の模倣精度はチェンソーマンへの変身ですでに証明されている。
ぼっ
本物の導火線に火が灯った。
止める間は無かった。
目の眩むような閃光と熱波が、私の大型弾頭に到達し――
「ぼ、僕は誰よりも黒が似合う《夜の剣士》! 不可能はないっ」
大爆発を引き起こした。
轟音が山々の奥に消えていく。爆心地である渓谷にかけられた橋は無残にも崩落してしまい、白煙を立ち昇らせていた。
声はない。
生き物の気配もない。
暗灰色の乱層雲に陽は遮られ、冷たい空気が人間の体温を奪うべく吹き降ろされていく。
無機質な人形兵たちだけが動き回っていた。標的を追い詰めるために崖からばらばらと飛び降りていく。
「ア・ア・ア……」
橋の淵には、およそ4メートル弱の巨体があった。
昆虫のような複眼で、足下の河原を、正面の対岸を、そして周辺に広がる山々を観察している。
際限のない悪意と獣臭を撒き散らす悪魔。
その隣には、並ぶにはまったく似つかわしくない幼子が立っていた。
緑色の瞳を細め、糸のような金髪を放射状に靡かせている。
「そろそろ騒がしくなりますね」
ただの幼子ではなかった。
その小さな頭には何十年もの人生で培った知識と人格が詰め込まれている。
彼女の名はサンタクロース。ドイツからやってきた殺し屋は、いっそ定型業務を言い渡す上司ほどの平坦さで言葉を紡いだ。
「
空から一滴の水が落ちてきた。
音もなくアスファルトに染み渡り、徐々に黒く塗りつぶしていく。
ある種の粘土は、湿度が80%以上になるとペトリコールと呼ばれる匂いを発散する。それは雨が降る前の匂い。雄大に広がる大自然をまるごと覆う、その匂いと雨雲からは、誰も逃れることはできない。
「一人残らず殺すのです」
夜がやって来る。
戦争が始まる。