レゼのハートに火を点けて   作:シャブモルヒネ

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「できるだけ人殺しはしたくない」

 夕方、地鳴りのような振動がマンション全体を揺らした。

「何かしら……」

 その部屋に住む初老の女性は不安そうに身を縮めこませる。

 揺れの直前、何かが破裂するような轟音がマンションの上階層から響いていた。

 地震ではない。

 ガス爆発でも起こったのだろうか。

 老夫婦は食卓越しに顔を見合わせてから、恐る恐る周囲を窺った。

「あ……」

 ベランダの四角く縁取られた窓の向こう側、薄いオレンジ色に染められた空が幾重もの瓦礫群で切り裂かれていた。大小さまざまなコンクリート片が落ちていく。ガラスの粒がキラキラと反射して、火を纏うカーテンが風に乗って靡いていく。

 これは只事ではない、と初老の夫が腰を浮かせかける。

 そのとき、ベランダからガコンと何かを外すような音がした。

 ゆっくりと近付いて確認する。

 上階の避難口が外されて、犬が次々と飛び降りてくる。規律正しく順番に、合計7匹もの大型犬がベランダの隅に集まる。

 最後には中学生ほどの背丈の少女が音もなくベランダに着地した。

「……ふう。ここまで降りてくれば、大丈夫かな」

 天井に目を向けながら、ゆったりとした動作でセーラー服の煤を払っている。

「お嬢ちゃん、上の階から降りてきたのか!?」

「け、怪我はない……? ああっ、こんな酷い……」

「これは、汚れただけ」

 返答はあっさりしていた。

「私は巻き込まれなかった」

 おろおろと取り乱している老夫婦とは対照的に、少女は命を落としかねなかったこの事態においても静謐な表情を保っている。

 少女の名は、早川ナユタ。

 ナユタは足元にまとわりつく犬たちを優しげに撫でる。目を細めて、声の調子は凪いでいる。しかしその心中では嵐が吹き荒れていた。

「……やってくれたな」

 ガラスの瞳の奥底に、悪魔の炎が揺れている。

「よくも、私のデンジを」

 

 

 


 

 

 

 地を駆けて、壁を蹴る。

 人体を効率的に駆動させる術を熟知したソ連のエージェントが悪魔の力で街を跳ね回る。空中で猫のように身体を捻って軌道を変えて、五点着地からフルスロットルで加速する。ハサミの魔人が2本の指を電柱にひっかけて一直線に裂きながら振り向くと、追撃するボムガールは拳を灯して引き絞る。

 交差の瞬間、空気が破裂した。

 もしもこの場に衝突を見届ける者が居たならば、弾け飛ぶ2人は同時に死んだと思ったに違いない。

 ビリヤードの玉弾きにも似た軌道。

 2つの人の形をした塊が正反対に弾かれた。

 ハサミの少女は回転しながらビルの看板に叩きつけられ、ボムガールは血痕を散らしながら街路を20メートル近くも転がっていく。

「――」

「――」

 横たわる2人の少女は動かなかった。

 血溜まりだけが音もなく広がっていく。

 双方、人の身で耐えられる衝撃ではなかった。並の悪魔なら機能不全に陥るほどのダメージ。

 しかし、それでも2人は鍛え抜かれた戦士だった。

 受身という技術が染みついて、痛みをやりすごす方法も知っていた。そして何よりも悪魔の耐久力が倒れ伏したままでいることを許さない。

 むくり、と同時に身を起こす。

 その腹から臓器が零れ落ちていようとも、痛がりもせず、庇いもしなかった。淡々と修復の手順をこなしながら足を踏み出していく。互いが互いの息の根を止めるために。

 

「ば、化け物……」

 

 足を止める。

 目を向けると、すぐ傍で電気屋の店員がへたりこんでいた。

 1人だけではない。ビルや店、そして曲がり角から頭を覗かせる人間が少しずつ増えていく。

 マンションでの大爆発、そして戦闘による爆裂と擦過音が住人たちを呼び寄せていた。

 平和なはずの街のなかで、殺戮をもたらす2人の兵士が対峙する。

「観客が増えてきたか」

 スキットルから血液を啜りながら、ヴェロニカが零す。

「ふふ。面白くなってきた」

「……続行する気?」

「当たり前だろう? 任務達成は何よりも優先される」

「正体がバレるでしょ。テレビにでも映されたらどうするの?」

「どうするも何もない」

 ヴェロニカは口元の血を拭う。

「ソ連には秘密の部屋なんて存在しないし、モルモットも飼っていない……そうやってまた言い逃れするだけだ。例え私の姿が記録されようと「こんな魔人は知りません」で終わりだろ」

 空になったスキットルを投げ捨てる。

 甲高い金属音とともに近くにいた子どもが短く悲鳴をあげた。

「大体、お前だってそうやって暴れ回ったんじゃないか。今さら何を言ってんだ?」

「……」

「ああ、そういうことか」

 ぼろぼろになったブレザーの内ポケットに手を入れる。

 取りだしたのは一丁の拳銃だった。

「市民の命を優先する……そんな日本のルールに適応したってわけだ。さすが“優等生”」

 目が、周辺の獲物を物色していた。

 無関係な一般人を私の気を引くための道具として見ている。

 嫌な駆け引きだった。

 ちらり、と路上の死体に目をやる。

(ちょうど真ん中ってとこかな……)

 自分とヴェロニカの中間地点にデンジ君が転がっている。

 スターターを引いて復活させられれば2対1になる。すぐにでも制圧できるだろう。ヴェロニカもそれを分かっているから私を近づけさせまいとしている。

 ふと、最悪の事態を想定する。

 一般市民を人質に取られたら、私はどう動くべき?

「1つ、問題を出そう」

 ヴェロニカが拳銃をくるくると回し始める。

「ある劇場でテロが発生して300人の観客が人質に取られました。さて、そのときソ連政府はどう対応したでしょう?」

「サーモバリック弾頭を使って建物ごと粉砕した」

「правильный о(正解)твет.お前もやってみろよ」

「嫌がらせにも品位ってものがあるでしょ」

「そんなもんは習ってない」

「嘘だね」

 私は右腕を持ち上げ、指先を合わせてヴェロニカに差し向ける。

 打ち鳴らすことで爆発の粒子を飛ばす――そう脅しをかける。

「世界の、社会の常識を知らなければ諜報員にはなれない。私たちはその教育を受けたはず」

「あー、そうだった」

 首を傾げ、射線を僅かに下げる。

「でもあんなのは嘘の世界を飛び回ってる蝿どものたわ言じゃないか。私には嘘をつかなくていい」

 

 パァン

 

「くっ!」

 咄嗟に手で庇う。

 傍らで腰を抜かしている電気屋の店員が息を呑む。

 本当に撃ってくるとは……思っていたけれど。

「おー。立派な番犬だな。頭が下がる思いだよ」

 二発、三発と身体に穴が開く。

 痛みは消せるわけじゃない。何より機能が損なわれてしまうのがまずい。それでも……。

「あ、あんた、俺を守ってる、のか? 悪魔じゃない……?」

「早く隠れて」

「あ、ああ!」

 立ち上がったところへ、追撃に一発。それもまた防ぐ。

「く……」

 膝をつき、痛みに耐える。

 男は店の中に身を隠す。これでもう拳銃では手出しができない。

 けれど街中にはまだ多くの野次馬が潜んでいた。もっと奥に隠れなければ危険なのに携帯を覗かせている者までいる。動画や写真でも撮りたいのか、その愚かさに苛立ちが募る。

「故国だったら見捨ててもいいのになあ」

 ひとまずピンを引いて、修復を図る。

 だがほとんど回復しなかった。

 血を使い過ぎた――

「なあ、さっきから疑問なんだが……どうして血液を補給しない? もしかして所持を許されていないのか?」

「さあね」

「悪魔の力と回復力が私たちのウリだろう。こんなに頑張ってるのに冷たいじゃないか。ま、どこも同じってわけだな」

 ずちゃり。

 ヴェロニカが一歩近付いた。

「おかげで私は楽ができる」

 右手には拳銃。

 左手は掌を大きく開いて掴む準備をしている。

 危機的状況だった。こちらも少しは余力を残しているがヴェロニカほどの手練れを仕留めるには血が足りない。勝ちきるのは不可能に近いと思う。となれば、一時撤退か?

 ヴェロニカは一歩ずつ近付いてくる。

 もう数歩でデンジ君に辿り着く。

「……」

 いや、だめだ。

 彼女はさっき言ってたじゃないか。

 

 

 任務は2つ。1つ目はチェンソーの心臓の奪取、あるいは破壊。

 

 

 ここで逃げてしまえば、デンジ君は連れ去られてしまう。

 心臓を奪われれば、当然死ぬ。

 そう、死んでしまうんだ。

 もう二度と声を聞けなくなる……。

 それだけはだめだ。

 膝を支えに立ち上がる。塞がらない傷が痛みを訴えたが黙らせた。今はそれどころではなかった。ここで負けたら日本についた意味がなくなる。故国からの歪な信用を捨ててしまった今の私にはデンジ君しか残されていない。

 絶対に勝たなければならない。

 だから、言った。

「勝負しよう」

 ヴェロニカの眉がぴくりと持ち上がる。

「貧血になっちゃった。次が最後の一合だと思う。どう、やってみる?」

「付き合う義理はないな」

「義理はね。でも決着はつけたいんじゃない?」

 ヴェロニカは足を止めた。

 デンジ君の真横で。

 真剣な面持ちで私を見ている。睨んでいるというほうが近い。

「……いいだろう」

 拳銃を胸元にしまいこみ、両腕をだらんと落とす。威嚇する狼を思わせる前傾姿勢。

 やる気だ。

 ハサミの魔人について一度整理する。

 ――2箇所触れれば間の全てを切断してのける、その特性は近接戦闘において非常に大きなアドバンテージだ。ただ斬るという性質だけに着目すればナイフと同じかもしれない。だがナイフと違うのは、持ち手を受けても防ぎきれないという所。

 例えば相手の手首を掴めばそこが1つの力点になってしまう。あともう一箇所どこかに触れられたらアウトだ。間の一直線に在る肉体を問答無用で切断される。

 防御は不可能。軽傷に抑えることもできない。受ければ即座に欠損する。そしてヴェロニカはその隙を見逃すような素人ではない。次の瞬間にはバラバラにされているだろう。

 それでも接近戦しか活路はなかった。

 ボムの力には遠隔攻撃もある。だが拳銃の弾よりゆるやかな攻撃が彼女に直撃するとは思えない。

 残された僅かな血量で決着をつけるには必中かつ必殺の攻撃でなくてはならなかった。

 避けようのない大爆発を、懐で炸裂させる。

「じゃ、やろうか」

 触れずとも消し炭と化すほどの爆薬を生成し、右腕にかき集める。みちみちと導火線が寄り集まって弾頭に成っていく。あからさまな形状に、ヴェロニカは目を細めた。

 俄かに空気が張りつめる。

 切断が先か、爆発が先か。

 こちらも重心を低くして、脚の筋肉をたわめる――

 そこに、

 

 空から黒い礫が落ちてきた。

 

「!?」

 謎の群体が勢いよく地を擦ってヴェロニカの真横から襲いかかる。黒い砲弾の雨――その正体は、カラスだった。大量のカラスが一気呵成にハサミの魔人に襲い掛かっている。

「なっ!」

 クチバシつきの戦闘機が飛び交った。数匹が切り裂かれたが、あまりにも数が多かった。捌ききれず、何より広げられた黒い翼でヴェロニカの視界が遮られる。

 その隙間から、まるで召喚されたかのように1人の男が現れる。

「――ッ!」

 斬撃と斬撃がぶつかる金属音。

 血飛沫が飛び散った。

「岸辺さん……!?」

 最強のデビルハンターが両手に大型ナイフを携えて、素早く踏み込み一閃を放つ。

 またしても金属音。

 ヴェロニカの二の腕がぱっくりと裂ける。

 よく見ればそれだけではない。初撃の傷か、胸元からも夥しい量の血潮が迸っている。

Неу、жели(なん、だとぉ)……!」

 ヴェロニカはたたらを踏んで構え直す。血がぼたぼたと垂れている。致命傷であるにも関わらず抑えようとしていない。片手で勝てる相手ではないと踏んだか。

 ヴェロニカは素早く右手を掲げた。

 戦闘において意味のない動作。なぜ? あの意図は、

 サイン――?

 

 しゅぽっ

 

 遠くから、どこか間抜けな音が届いた。

 聞き覚えがあった。

 本能的に肌が粟立ち、目を向ける。

 ヴェロニカのはるか後方から煙を噴きながら高速で飛来するものを発見。

 咄嗟には判別できず、引き伸ばされた時間のなかで凝視する。

 RPG-7――携帯対戦車擲弾発射器、その弾頭。

 フリーハンドで描いたような雑な直線を辿りながら対峙する2人に迫る。

 すぐ横のビルに着弾。

 爆炎が膨れあがって大気を伝播する。

 閃光に目が眩み――

 

 しゅぽっ

    しゅぽっ

       しゅぽっ

 

 まさか。

 嘘でしょ、と思う。

 そこまでするのか。

 白く染まる世界の中で、追加で3発の弾頭がでたらめに向かってきていた。

 よく見える。

 撃ったのは街路の奥から接近しつつある白い大型バン、その中にいる少年少女たち――恐らく新手のモルモットの3人で。

 だがそれを気にしている余裕はない。

 何よりも優先すべきはこちらに撃たれた3発への対処。2発は見当違いの軌道だからいい、だが残りの1発が建物の陰に向かっていて、そこには、

 腰を抜かしている女児が、

「……っ!」

 走り、手を伸ばす。

 伸ばしながら――経験則の抗議を聞いていた。

 

 そっちじゃない。

 優先順位を間違っている。

 

 分かっていた。

 任務においても私情においても、優先すべきはデンジ君の確保。

 けれど、目の前の女児は放っておけば確実に死ぬ。

 庇うしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……少年兵の作り方って知ってるか。

 まず始めに全てを奪うんだ。金も家も家族も奪って、ことによると名前や戸籍に故郷そのものも、とにかく真っさらにしちまう。そうやって土台をぜーんぶ壊しちまえば新しい人間を作れるようになる。何でも言う事を聞くし、倫理感だって上書きできる。

 

 どうして逆らわないんですか。大切なものを奪われたわけでしょう? 例えば親を殺されたら、俺ぁ復讐を考えますがね。

 

 そりゃお前が他に守りたいもんを持ってるからそう考えられるんだ。他の誰だってそうだ。寄っかかる芯みたいなもんが残ってりゃあそれを守るために色々やるだろうよ。だがな、さっきも言ったが、全部失くした奴は何者でもなくなる。死人とたいして変わらねえ。

 

 全部、失くした……。

 

 そうして“今”しかなくなった生き物に、今度は“明日”を与える。

 言う事を聞けば認められる、先に居た同類たちが一人前の存在として扱われている姿を見せる。すると、自分もそうなりたいとぼんやり思う。

 隣家の芝生を羨む程度の気持ちで銃をとる。周りはみんな撃っている。殺して帰れば認められる。だから撃つ。そしたらすごく簡単なことだったと連中は気付くんだ。倫理感なんて役に立たないって身に染みてるから躊躇いも少ない。一度成功体験を得てしまえば自発的に戦場へ行きたがるようになり、何人も殺して味を覚え、成り上がりたいという想いでより先鋭的な手段に手を染めるようになる。今でも中東やカルト宗教がやってる手口だ。

 

 そんな簡単にいくもんですか?

 

 何も特別なやり方じゃない。辿っている道はサッカー選手になりたがる子どもと同じだ。ただ平和な国では“健全ではない”思想だから忌避されているだけ。でも少年兵やカルト宗教の信者たちにとってはそれだけが自分を裏切らない“健全な”思想なんだ。

 

 じゃあ、こいつや、逃げてったあのガキどもも……。

 

 どうだろうな……。こいつらはスパイができるように育てられている。狭い世界しか知らないようじゃ潜入工作なんかできねえから平和な国の健全さもちゃんと知ってるはずだ。

 

 ……じゃあこいつらソ連のモルモットって連中は、自分たちが異常だって自覚しながら工作員をやってるってことですか。

 

 恐らくな。しかしどうやったらそんな矛盾した人間を作りだせるんか、俺にはさっぱり分からねえ。

 

 

 

「……」

 曖昧だった意識が像を結んでくる。

 瞼を閉じたまま耳を澄ます。近くに人の気配。3人、4人……少し離れたところでは喧騒が飛びかっている。

 仰向けの姿勢のまま肉体の状態を確認する。

 ……動かせる。拘束もされていない。

 ゆっくりと目を開ける。

 身を起こす。

 近くには岸辺さんと角刈りの巨漢が立っていた。

 ……ああ、この人、デビルハンター東京本部で案内をしてくれた人か。

「状況は?」

 周囲を見回すと破壊の痕が目についた。ビルの一部が崩れ、街路は捲れあがってしまっている。僅かに硝煙がたちこめていて、まるで戦場のようだった。

「ヴェロニカには逃げられた」

 岸辺さんは簡単に説明してくれた。

 

 街中で乱射されたRPGによる混乱、その隙に乗じて白い大型バンに乗り込んで逃げ去った。

 同乗していた子どもたちは……おそらくヴェロニカと同じソ連のエージェント。

 そして、

 

「デンジ君も、攫われた……?」

 死体となった少年、しかも上半身のみで両腕も無いとなれば持ち運びも容易だろう。

 あの混沌とした状況では何が起こっても不思議ではない。

 とはいえ……考えてしまう。あの時、あの選択をしていなければ――?

「……」

 いや、止めておこう。そんなことを考えても意味は無い。

 どうにも身体が重く、口を開くのも億劫だった。

「追跡は……?」

「できている。リアルタイムでな。こいつの力でだ」

 くい、と顎を向けた先。佇んでいたのは薄汚れたセーラー服を着た少女だった。

「ああ、ナユタちゃん……。無事だったんだ」

 小さく頷く。

 頭上には何十羽ものカラスが建物の足場に留まり、その全てが主人である早川ナユタを瞳に映していた。次の命令を待っているのだと気付く。

 幾多もの鳥獣を使役する少女の在り方はまさに魔女のようであり、冷えきった視線は不吉ささえ孕んでいたが、なぜだろう、味方ならこんなに心強い相手もいないように感じた。

 小さな悪魔が、口を開く。

「デンジには私の力がかかっている。死体になっても位置は分かる」

「……そう。だったら良かった」

 追跡できる。

 取り返せる。

 一掬いの希望を与えられた気分だ。

 相手は車。普通なら追いつくのも難しい。しかしこちらはボムの力で空を飛べる。交通状況に左右されずに一直線に進むことができる。簡単に捕まえられる。

 すぐにでも出発しなければ。

 そう思い、立ち上がるために手をつくが、上手く力が入らなかった。

「血が、足りていない……」

 このままでは満足に変身もできない。

「あの、岸辺さん。血液パックとか、もらえませんか」

「ああ、それなら、」

「待ってください」

 遮ったのは角刈りの男だった。

「1つだけ聞きたい」

 ……なんだろう。

 のろのろと目を向ける。

 巨漢はこちらを睨みつけている。その足元では、立て膝になった成人女性が女児を抱きしめていた。

 見覚えのある子どもだった。

「あくまのおねえちゃん、だいじょうぶ?」

 私が守った子だ。抱きしめているのは母親か。

「ありがとう……ありがとうございます……」

「あのね、このおねえちゃんが助けてくれたの」

 不思議な光景だった。

 成人女性と女児が熱の篭った視線を向けてくる。そこにどんな感情が含まれているかは知識では知っている。しかし、浴びせられるのは初めてだった。どうにも現実感がない。

 皮膚のうえにむず痒さを感じながら、ぼんやりと見返すことしかできない。

 角刈りの巨漢が、口を開く。

「どうして助けた? これも仕事だからか?」

「……違う。私は、ただ、」

 ただ?

 ……ただ、なんだろう?

 上手く言葉にできない。間抜けのように口を半開きにしたまま朧げな記憶を掬い取る。

 あの瞬間、私はこの子を助けるために手を伸ばした。

 どうして?

 私はどうしてこの子を助けた?

「……助けられたから、助けた」

 そうとしか言いようがなかった。

 打算ではなく、利益や安全を得るためでもない。

 なんとなく。

 ただ、なんとなく。

「死なない方がいいと思ったから」

 男は苦々しげな表情を見せる。苛立ちが読み取れるが、何が癪に障っているのか分からないし、推察するほど頭も回らない。

 どうにも血が足りていない。

「お前、面接ではまともな職業に就きたくて公安になったって言ってたな。あれは本当なのか?」

 ……?

 どうしてそんな意味の無い質問をするんだろう?

 口ではなんとでも言えるのに。

 本当も嘘も、行き来できるものなのに。

「さあ、どっちかな……」

 それでも、偉そうなことは口が裂けても言いたくない。そんな気分だった。

 男は不満げだった。

「ふん。元テロリストなんかを、賞賛できるかよ」

 背中の刀に手を伸ばす。

「……でもな、上手く言えねえけど」

 引き抜いて、鈍く光る刀身を、自身の腕にあてた。

 血が滲む。

「俺も人を助けるためにデビルハンターになったんだ」

 男は傷ついた腕を突きだした。

 命の雫が溢れでて、どくりどくりと垂らされる。

「血が必要なんだろ。使えよ」




ロシアの逸話って人命の価値が軽すぎてギャグ漫画みたいになってると思います。好き。
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