レゼのハートに火を点けて   作:シャブモルヒネ

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ファイトクラブ

 海沿いの学校に侵入し、ナユタと2人で並んで進む。

 リノリウムの廊下には靴音だけが反響する。静寂が満ちていた。

 デンジ君の死体は上階にあるとナユタが教えてくれた。その周辺にヴェロニカは必ず居る。

 耳を澄ませて気配を探りながら周りの環境を確かめる。

 天井――通路誘導灯が点いている。

 壁――火災報知器のランプがうっすらと赤く灯っている。

 つまり、この学校は電気が生きている。

 廊下の電気を点けようと一瞬考えたが、やめた。わざわざ居場所を知らせる必要はない。

 ナユタがぴたりと足を止める。

「窓が全部、開いている」

「それはきっと私への対策だね」

「対策?」

 かいつまんで説明する。

 

 例えば、1本の爆竹があるとする。

 それが掌の上で爆発したなら、皮膚が焦げるだけで済む。

 だが握りこんだ手の中で爆発したなら、指が吹き飛ぶ。

 爆発物がもたらす被害は密閉度によって大きく変わるのだ。

 

「……じゃあ、これは戦うための前準備?」

「そうだね。この学校の全ての窓は開けてあると思う」

「へえ」

 ナユタは歩きがてら教室の奥を覗き込む。そこの窓も全て開いていた。

「全部開けて回ったんだ? 大変だね」

「地道って思った?」

「うん」

「そういうもんだよ。スパイや刺客って聞くと派手なイメージがあるかもだけど、結局のところ仕事だから」

「元同業としては予測もできる?」

「それなりには。……ハサミの魔人としては接近戦にもちこみたい、けど狭い場所だと触れる前に一発で黒焦げにされる、だからある程度開けた場所で奇襲したい……ってとこかな」

「具体的には?」

「天井が高くて、身を隠しやすいとこ。……階段とか?」

 ぴたり、と2人で足を止める。

 5、6メートルほど先に、階段へと続く曲がり角があった。

「見えにくいなー。隠れやすいなー」

 曲がり角、階段の途中にある踊り場、そしてその奥。それらはそこそこ広い空間なうえ、死角も続いている。

 ひょいと顔を出してみる。

 誰も居なかった。

「まだ1階だし。デンジ君は3階にいるんでしょ?」

「うん」

 ゆっくりと階段に足をかける。

 急がない。焦らない。こちらは有利なのだ。

 

 

 ――この学校に足を踏み入れる直前、学校正面口のところで白い大型バンを発見した。

 ヴェロニカが逃げるときに使った車だ。

 覗き込んでみると――死屍累々の惨状が閉じ込められていた。

 12、13歳ほどの少年少女たちが血塗れで死んでいた。

 1人の少年は蜂の巣になっていて、2人の少女はバラバラ死体で、運転席には喉を大きく切り裂かれた少年の死体。車内のあちこちには銃痕も穿たれていた。

 状況はすぐに分かった。

 仲間割れしたのだろう。

 先に仕掛けたのは少年少女たち。ヴェロニカは撃たれる直前に近くに居た少年を引き寄せて盾として、そのまま一斉射をやりすごし、肉盾を発砲者の1人に投げつけて射線を遮りながら別の少女を一閃、残る1人も返す刀で斬りつけた。

 5秒もかからなかっただろう。

 運転席の少年はヴェロニカが生き延びたことに気付きもしなかったかもしれない。

 

 

 仲間割れの理由なんて知らないし、どうでもいい。

 重要なのは、今のヴェロニカに味方はいないということ。

 敵は1人。

 これは大きなアドバンテージだ。

「ナユタちゃん」

「なに?」

「ヴェロニカと遭遇したら私が引きつける。ナユタちゃんはデンジ君を復活させて」

 スターターを引いてチェンソーマンを復活させれば2対1になる。どんな仕掛けがあろうと負けはしない。

 更に、こちらには時間の有利もあった。

 この場所は公安に連絡している。時間を稼ぐだけで増援を期待できる。自分たちはただヴェロニカを逃がさなければいい。

 最後の階段を踏みしめる。

 2階に辿り着いた。

 吹き抜けの隙間から上の様子を伺ってみると……3階へ至る場所にバリケードができていた。無数の机と椅子が絡み合うようにして積み重ねられている。

 通るためには時間をかけて撤去するか、それとも爆破するか。どちらも危険がつきまとう。

 迂回して他の階段を使うべきか。

 学校の階段とは通常、廊下の両端に設置されているもの。反対側まで行けば――

 と、その2階の廊下から、ヴェロニカの声が響いてきた。

 

『――答えを聞いていなかった、と思ってな』

 

「……?」

 なにか、妙だ。

 片手でナユタを制止しながら、慎重に廊下の様子を伺う。

 ヴェロニカの姿は見えない。

 連なる教室のどこかに潜んでいる。

 

『日本はどうだ? 楽しいか? こっちは相変わらずだよ。バカがバカを教育するもんだからバカばっかりだ。おまけに給料も無いし、休みも無い。こういうの日本じゃ何て言うんだ? やりがい搾取?』

 

 廊下から探っても生き物が動く気配は感じとれない。

 ひとまず階段を背に臨戦態勢で警戒し、無言でナユタにハンドサインを送る。

 

 ――ここは任せろ。先に行け。

 

 経路は2つあった。

 1つ目は、1度下の階に降りて、ぐるっと廊下を戻り直してから反対側の階段を昇る道。

 これは遠回りすぎるし、ヴェロニカ側に寄りすぎる。もしも向こう側の階段もバリケードで塞がれていたら行き場を失くしたところをヴェロニカにキャッチされやすい。

 2つ目は、ヴェロニカが居る教室とは反対側の廊下の行き止まりに設置されたエレベーターを使う道。

 これなら時間もかからない。仮にヴェロニカがナユタの動きを察知しようと私が壁となり道を塞いでしまえば追撃されることもない。

 ナユタに指示を送る。

 

 ――エレベーターを使え。

 

『なあ、これが最後の機会だろう? 思い出話をしようじゃないか。ほら、あいつを覚えているか? “生真面目”アナスタシア。あいつ、クソみたいに強かったよなぁ。結局最期まで勝てなかった。オリンピックに殺しの競技があったら金メダルを獲りまくっていたって思うよ』

 

 発声位置を確信。

 手前から2番目の教室、そのドア際に居る。

 ……牽制で一発、撃ちこむか?

 指を合わせて潜伏場所に差し向ける。あとは鳴らすだけで爆発の粒子を飛ばせるが……違和感があった。

 ヴェロニカの声。その反響の仕方が、どこかおかしい。

 

 ナユタはエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。

 ドアはすぐに開いた。

 

『“嘘つき”ポリーナは……今にして思えば悪いことしたかもな。あいつの騙しのテクがあんまりにも上手いもんだから嫉妬してたのかもしれない。あいつもなぁ、ただのスパイなら一流になれただろうに。お前もそう思うだろ?』

 

 ヴェロニカは教室から出てこない。

 ドア際から声を発し続けている。

 やはり、何かがおかしい。

 ナユタがエレベーターに乗りこんだ。

 ヴェロニカも察しているはず。このままにしておけばチェンソーマンを復活させられるというのにまだ姿を現さない。

 どうして?

 平坦な声は続いている。立体感のない反響の仕方。同じ場所で延々と勝手に喋っている。顔も見せずに。

 もしかして――

 

 録音した音声?

 

 だとしたら本人はどこに居る?

 ぞわり、とうなじの毛が逆立った。

 電撃的に振り返る。

 ナユタの乗ったエレベーターのドアがゆっくりと閉まり始めている。

 

 私なら、まず孤立した弱者を間引く。

 

 全力で駆けた。爆発の反動で急加速、脳を片側に寄せかねない負荷に耐えながらドアの隙間に身体を捻じこんだ。目を見開くナユタを確認しながらエレベーター内の壁に激突し、けれど全身に走る痺れの一切を無視すると決める。

 それどころではない。

 

 ピキリ

 

 確信をもって見上げた天井に亀裂が走る。

 5本の直線で切り裂かれた破片がバラバラと零れ落ち、その向こう側の闇のなかで特徴的な頭をした少女が瞳を光らせていた。

 ハサミの魔人。

 ソ連の刺客。

 かつてボムの心臓を巡って争ったライバル。

 それら全てを内包する少女ヴェロニカが、自ら作った穴に身を躍らせて降りてくる。四肢を広げて蜘蛛のように着地した。それはそれは本当に嬉しそうな笑顔だった。

「いひっ」

 この瞬間、私は理解した。

 彼女がここに居る理由を。

 ヴェロニカは間違いなくこう言っていた。

 

 ――思い出話をしようじゃないか。

 これまでの人生全てを懸けて、一切合切を殺意に乗せて、衝動も任務も義務感も決意も信念も互いに対する想念も、何もかもを伝えられる最高のシチュエーションを整えた。だからやろう。言葉なんて信用できない私たちに残されたたった1つの冴えたやり方で――

 

 エレベーター内の寸法はおよそ間口1メートル×奥行1.5メートル×高さ2メートル強。

 ドアは既に閉まっている。手を伸ばせば必ず届く超密閉空間。

 ボムの力を使えば絶対に勝てる。

 けれどやってしまえばすぐ後ろの早川ナユタは黒焦げのミンチに変わる。

 

 やりたきゃやれよ、とヴェロニカの目が言っていた。

 それがお前の人生の選択だって知れるなら、結果がどうなろうと構わない。

 

 ぬらぬらと、不可視の軟体生物が宙を這うように、妖気のようなものが漂ってくる。

 半生を懸けて培ってきた殺しの技術、埋め込まれた悪魔の力――放てば必ず命中する近距離で、武器人間と魔人が真正面から睨み合う。

 

 奇妙な感慨があった。

 憎しみは無く、疎ましさも無い。

 ヴェロニカに対しても、自分自身に対しても。

「下がってて……」

 そう呟くだけで精一杯だった。

 

 ノーモーションで直突きを打ち込んだ。

 捌かれて反撃のボディブロー、左手で受け、触れようと伸ばしてきた指先を蹴り飛ばす。

 のけ反ったヴェロニカに追撃の右貫き手、肋骨の隙間に刺し込んで折る。

 腕を切り裂かれ、動脈から血が迸る。

 隙だらけの瞼を指先で貫く。

 踏みしめた敵の足先、重心がナユタを向いていると確認、1足分ステップ、

 だがフェイントで手刀が鎖骨に命中、嫌な音、

 足先を踏んで回避を封じ、一撃を入れ、

 反撃を避け切れず、

 それでも打ち、

 切り裂かれ、

 肘を叩きつけ、

 腹を潰され、

 こちらも潰し返し、

 膝を入れられ、

 額でぶちかまし、

 切り裂かれ、

 指を折って、

 指を飛ばされ、

 右腕を捨て、

 切り裂かれ、

 

 それは問いかけであり、返答だった。

 自慢話であり、自虐であり、近況報告であり、思い出話だった。

 始めにヴェロニカはこう聞いてきた。

 

 ――本当に悪魔なんかを守りたいのか?

 

 私はこう答えた。

 

 ――鎖骨一本分より守りたい。

 

 恥知らずな綺麗事、押し殺してきた本音を曝け出す。

 

 ――失敗しても日本なら処刑されないだろ?

 ――任務よりも助けたい気持ちがある。

 ――本気なんだな。

 ――そう生きるって決めた。

 ――そうかよ。じゃあ次は私の番だ。ほら、切断の能力をちらつかせて敵に選択を迫るんだ。

 ――すっごい厄介なんだけど。

 ――だろ? 本気で訓練したんだ。もっと見てくれよ。

 ――調子に乗んな。

 ――ちっ、相変わらず隙を見つけんの上手いな。でも私だって、そらどうだ。

 ――楽しそうだ。

 ――そうか? そうだな、久しぶりに話せる奴に会えて、私も、

 

 

 

 

 

 決着は、60秒で着いた。

 

「――い、いい……夜、だった……」

 血を吐きながらヴェロニカはどうにか立っていた。

 片目は潰れ、折れた骨を支えて、私を見下ろしている。

 そこに憎しみは無く、疎ましさも無い。

 私は――

 エレベーターの壁に血痕を引き摺って、床に倒れこんでいた。

 立てない。

 当然の結果だった。

 いかに武器人間といえど、ただの徒手空拳で能力をフル活用した魔人に勝てるわけがない。しかもそれが逃れようのない至近距離で、後ろに守るべき者を抱えてなら尚の事。

 でも。

 どこか晴れやかな気分だった。

 唯一私の半生を知る者に、何もかもを証明できた。

 向こうもきっと似たような心地だと思う。

「かってな、やつ……」

 どろどろと身体中から生命力が流れ落ちていく。

 よくもまあこんなくだらないぶっちゃけトークをやるためにここまで場を整えたものだ。苦笑いを浮かべようとしたがボムガールの金属頭ではきっと伝わらない。それだけが少し口惜しい。

 ヴェロニカは懐から血液入りのスキットルを取り出して自身の頭上にぶちまけて全身に伝わせている。傷口や損傷部位に染みこませ、更にもう一本を取り出してラッパ飲みで喉を鳴らした。少しずつ回復させている。

 治りきったときにこの2人だけの同窓会は終わるんだと思う。

「1つ、だけ……聞きたい」

 なんだろう。

 これ以上、何を話せというのか。

「私のほうの道は、たぶん、ここでどん詰まりだ。お前のほうは、どうなんだ?」

 ……道?

 先、のことかな。

 なんとなく、彼女の言いたいことが分かった。

 ヴェロニカは戦士の道を進んだ。私はそのレールから外れた。彼女は、その外れた方の未来に何が待っているのかを知りたいんだと思う。

 けれどそんなのは私にだって分からない。

「し、しら、知らない……」

 喉が痛い。言葉とともに血が溢れてくる。

「がふっ……ま、だ、探し、て……る、途中……だから……」

「そう、か。嘘の世界がどんなもんか、知りたかった。ほんの少し、だけ」

 彼女の乱れていた呼吸が収まりつつある。

 もうお開きか、と他人事のように思う。

「じゃあそろそろ、仕事の時間だな」

 エレベーター内の空間は狭い。ドアはまだ閉まっていて、ボタンを押さない限り開くことはない。ヴェロニカはその前に立ち塞がり、身体機能を回復しつつある。

 私は指の一本も動かせない。

 ナユタはそもそも戦力外。

「綺麗事で現実は覆せない。結局この世で一番強いルールは物理法則だ。こうなることぐらい分かってただろ?」

 ボムの力を使えば勝てたのに、とヴェロニカは言っていた。

 早川ナユタを犠牲にすれば(ヴェロニカ)を倒せた。少なくとも早川デンジは取り戻すことができた。お前(レゼ)自身も死なずに済んだ。二兎を追って全てを失うべきではなかった、と。

「……そう、かも、ね」

 多分、それは正しいんだと思う。

 冷酷なエージェントとしての思考がそう言っているのではない。一般常識にあてはめて考えても、悪魔1人を死なせないために全てを失うなんて馬鹿げている。

 だけど。

 しょうがないじゃないか。絆されてしまったんだから。

 誰かのために頑張るなんていう綺麗なものを、私は二度と壊したくない。

「――」

 私のすぐ傍で、ナユタが身じろぎした。

 もはや彼女を守れない。

 頭も回らない。

 ただ血が失われていくのを感じていることしかできない。

 忘我の心地でナユタの足先を眺めていると、こんなことを言い出した。

「こんばんわ、ヴェロニカ」

 平坦な声だった。

 むせかえるほどの血臭のなかで、ナユタは淡々と声を発している。

「あなたはモルモットの辿り着く場所を知りたいんだね」

「ああ……?」

「そんな場所は、無いよ。別にモルモットに限らない。一般人だって同じ。勝手に居場所を作って勝手に見つけた気分になるしかない。あなたたち人間は、在りもしないものを信じて、頼って、振り回されて……いわばそんな嘘と幻想の世界に生きている」

 

 ナユタ……? 何を言っている?

 

 いつになく饒舌で、私の抱いていたイメージとは違った。彼女は自身の利になる事しか主張しないし、共感も求めない。そういう生き物だと思っていた。

 ましてやリスクのある行為なんて絶対にするわけない、と。

 なのに、どうして?

 死んじゃうよ?

 たった一振り、ヴェロニカがそうと決めれば首を落とされる。

 分からないはずがないのに、それでも彼女は指まで差して挑発する。

「哀れな女」

 まさか、ね。

 そんなことってある?

「あなたは自身の存在意義を確かめたいだけ。レゼなんて口実に過ぎない」

 だって、数日前に会ったばかりなのに。あなたにとっては恋敵みたいなものなのに。

 どうして私を守ろうとしているの?

「写真に撮られる必然性なんて無かった。プロのエージェントならひっそりと事を運ぶべき。それに街中でデンジを襲うやり口もお粗末。マンションを爆破する必要もない。あなたの腕なら秘密裏に私を始末することぐらい簡単なはず」

 疑惑は確信へと変わっていく。

 ナユタは明らかに敵意を自身に向けさせようとしている。

「レゼへの嫌がらせのためにそうしたの? だったら公安関係者でも殺して並べればいい。ソ連の工作員はこれだけ残虐なんだって宣伝すればレゼの立場は苦しくなったはず。でもそうしなかった。あなたはわざわざレゼに見せつけるためだけに仕掛けている」

 もう、いいから。

 そんなに言ったら、ヴェロニカが決めてしまう。

 たった1つしかない誇りを穢してしまったら、彼女はきっと収まらない。

「あなたがそうした理由は、唯一自分が認めた相手に認めてもらうため」

 ……言っちゃった。

 ヴェロニカの瞳は、ぞっとするほど冷えていた。

 もう既に。条件付けを済まされたソ連の戦士は、決めていた。

 慈悲は無く、容赦も消えている。

 次の一言が決め手になった。

「自分はこんなにすごいんだぞ、って自慢したがる子どもの手口」

 

 かちり、と。

 ヴェロニカのスイッチが入った音を、確かに聞いた。

 

「ふ、ふふふ」

 ハサミの魔人はくつくつと肩を揺らしていた。

 眼はまるで笑っておらず、口元も真っ直ぐのままだった。

「お前を生かしておいてやってんのは……信念を貫いたレゼへの敬意みたいなもんのためだったが……まあ、いい。否定はしないでおいてやる。私も一応、元人間だ。稚気めいたもんがあったのは認めよう。だがな」

 全身血塗れで、毛先から血をぽたりぽたりと零しながら、ヴェロニカはゆっくりと唇を動かした。

「ガキが。悪魔が。偉そうに。どこまで鳴けるか試してやろうか。私は蘇生が得意なんだよ。アメリカのジャーナリストのときは3回いけた。社会正義だの人権だのってお題目は1回目で剥がれたな。やめてくれー、君たちのために突き止めたのにー。はっ、知らねえよ、そんなこと」

「信じてあげれば良かったのに」

 ナユタは狂っているのかもしれない。まるで平然としていて、心や感情といったものを知らないような、つまり本当にただの悪魔なのでしかない可能性すら、この時は感じた。

「人間社会の大原則を教えてあげる。『良いことをすると、良いことが返ってくる』。覚えておくといい」

 ヴェロニカはせせら笑う。

「なんだ、それ? 何を言うかと思えば、ガキに道徳を教えるときに使う穴だらけの理屈! しかもそれを言うのがよりにもよって悪魔ときたもんだ!」

「その通り。くだらなくて誰にも保証もされていないし、事によると社会を円滑に回すために飾られた欺瞞に満ちた嘘でしかないのかもしれない。でも人間はその高貴なる嘘のなかで生きている。……そこにあなたは適応できなかった」

 ヴェロニカは黙り込む。

 図星を突かれたからではない。

 もういい、と思ったからだ。

 問答を止めた。言葉は要らない。行動だけが誠実さを示す手段。

 ヴェロニカは深々と溜め息をつく。

 足を踏み出そうとして――止めた。

「あなたはデンジに花をもらった。良いことをされた」

 ぴくりと耳を傾けた。

 私も気が付いた。

 何かが、聞こえる。

 閉鎖したエレベーター、その向こう側から、振動音が近付いてきている。

「なのにあなたはデンジを斬った。悪いことで返した」

 エレベーターの箱が震えている。

 脈動がごとき振動音が唸りを上げて、エレベーターのすぐ傍にまで辿り着く。

 ナユタは告げる。断罪の宣告を。

「そういうことをした奴は、人間社会では――」

 

 ヴヴヴヴヴ

 

「殺してもよいということになっている」

 ヴェロニカが電撃的に振り向いた、その瞬間。

 エレベーターのドアに火花が咲いた。

 3点同時。耳を塞ぎたくなるような金属の悲鳴が重なって、亀裂から回転する悪魔の刃が飛びだした。その電ノコはあっという間にドアを切り裂いていく。

 悪魔は呟く。

「時間稼ぎ、終わり」

 と同時、密閉された死の空間がこじ開けられた。

「な……馬鹿な!? どうやって……復活した!?」

「カラス」

 ナユタは端的に答える。

「窓を開けたのは失敗だったね」

「くっ」

 振動が、大気を叩いている。

 悪魔の脈動が彼の血管にガソリンを流しこんでいる。

 月明かりが照らす廊下の真ん中に、眉間から凶器を生やした少年が立っていた。

「――知り合ったばっかの女によぉ、ま~た襲われて、よォ~く思い返してみたんだけどよお~」

 立っていたのは。

 両の腕から血肉を切り裂くチェンソーを生やした武器人間。何人もの悪魔を葬ってきた地獄のヒーロー。

 チェンソーマンが吠えたてた。

「俺に優しい女ってさあ! 実はどこにも居ねえんじゃねえかああ~!?」

 威嚇ではない戦意に肌を震わされ、ヴェロニカは平静さを取り戻す。

「素人が」

 呟きの意味がよく分かる。

 チェンソーマンがどれだけ速かろうと関係ない、身体能力頼りの素人など正面から来ると分かっていれば対応できる。

 そう考えたに違いない。

 確かに、ヴェロニカはプロだ。人を殺す技術においてはチェンソーマンでも及ばない。

 しかし。技術や心理戦の通用しない悪魔の未開拓領域で殺し合うというのなら――圧倒的にチェンソーマンが傑出している。

「女だらけの会社作ったらぁ! 俺ァ一体どうなっちまうんだあ~!?」

 

 チェンソーマンが突っこんできた、のだと思う。

 私には見えなかった。

 ヴェロニカも見えなかったに違いない。

 

「あぎッ!? あ、あああッ!?」

 噴水のような血飛沫が飛び散った。

 ばくりと裂けた脇腹を抑え、上体をふらつかせながらヴェロニカは振り返る。

 デンジ君は、既にエレベーターの中に居た。突撃の勢いのまま壁に腕をつき、その下に背を預けている私を覗き込んでいる。

「よっ! デンジ復活だぜえ! って、すげえ怪我してるじゃーん!? 大丈夫かよォ~!?」

「あ、ああ、うん……」

「うええええ、どうなってんのコレ!? やべえレゼが死ぬ!」

「デンジ。血、血」

「あっそうか! 血ぃ飲ませりゃいいんだ!」

 背後から、ヴェロニカの殺意が溢れ出す。

「早・川・デンジぃぃい!!」

 旋転。

 瞬間、チェンソーマンの輪郭がぶれる。

 斜め一文字。

 エレベーターの壁ごと、ハサミの魔人の胸がぶしゃあと裂けた。

「ぎゃッ、あ、ああ……!? な、がはっ……馬鹿、な……!」

 たたらを踏み、傷口を抑えるヴェロニカ。出血は容易には収まらない。

 チェンソーマンは凶器に付着した血痕をぴっと振り散らす。

「どんなワケで俺らを殺してえか知らねえが……俺は、超社長! 女は斬らねえ! 逮捕されろ!」

「お、お前……!」

 ヴェロニカが抑える指の隙間からは血がとめどなく溢れ続けている。

「き、斬ってん、だろうがァ!」

「先っぽだけならノーカンだろ~!?」

「ふざ、け……ぐうっ」

 膝をつき、喘ぐ。

 驚愕した表情を浮かべてチェンソーマンを見上げる、それしかできない。

 たった二振りの斬撃で致命傷になった。

 鍛え上げられたはずのハサミの魔人がいともたやすく捻じ伏せられている。反応すらできずに撃退されてしまったという事実はヴェロニカの肉体と精神に深刻なダメージを与えていた。

「こ、こんな、こんなことが、あって……たまる、かよ……!」

 戦士の意地を奮わせて立ち上がりつつあるヴェロニカ。

 しかしナユタは、無慈悲に、容赦無く、

「それが、あなたの綺麗事」

 瞳の中で不可視の奔流を渦巻かせ、敵対者を矢じりよりも鋭い視線で貫いた。

「自分は心地良い幻想を切り捨ててきたのだから、嘘という名の安寧に浸った現実逃避者たちなんかに負けるわけがないと思っている。でも、実際は()()なっている」

 突きつける。

 深々と切り裂かれた傷跡を。

「綺麗事で現実は覆せない。この世で一番強いルールは物理法則」

 ただ斬られたという事実は、何よりも重かった。

 決意があっても、信念を持っていても、必死に努力していても、負けるときは負けてしまう。

 決意も信念も努力も無さそうで、泣き真似女に花をプレゼントして慰めるような甘ちゃんに、ただの二振りで敗北する。

 それが現実だった。

「ふ、ふふふ、……私が? この私が? 嘘を、信じていたってぇ……? お、おもしろ、すぎて、笑えて、くるね……」

 足を、よろめかせ。一歩、二歩と後ずさる。

 ごぼり、と血を吐きだした。

 瀕死のはずだった。

 人間ならば動けない。動かなくても死んでしまうほどの重症で、なのに動いてしまうものだから血が止まらない。びしゃりびしゃりと飛沫を散らせながら背中を晒し、とうとう柔らかな臓物まで腹からはみ出して、それでもヴェロニカは赤子が這うような速度でつんのめりながらも逃げていく。

「だ、だったら……」

 何かに取り憑かれたようなうわ言を零す。

「わ……私だって、さ、最初、から……」

「――」

 多分、分かってあげられるのは、私だけなんだと思う。

 血を飲んで、修復する。

 痛みに耐えて、立ち上がる。

 ナユタとデンジ君を押し留めた。

 待ってくれ、と。

 思い返せば、誰かに心からのお願いするのは初めてかもしれない。

「私がけじめをつけさせる。手を出さないで」

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