「は?トレーナー君が死んだ?」
そんなわけがないだろうと電話先の相手を嘲笑うように言う。年末も近い今の時期に、一体何を言っているのか、と。エイプリルフールには何ヶ月も早いぞ、と。
だが電話先から聞こえてくる声は真剣そのもので、誰がどう聞いても私を騙そうとしているようには聞こえない。
「……本当に?」
再度聞いた。答えは、変わらなかった。
嘘だと思いたかった。だが事実は変わらない。
過去は変わらないのだ。どう足掻いても、起きた事象を巻き戻して無かったことになど出来やしない。そんな事は分かっていた。だがこの時だけは機械仕掛けの神を信じたくなったし、全てがジョークで、ドッキリかなにかだと全力で思い込みたかった。
そして駆け込んだ病院で、顔に白い布を掛けられ、冷たくなったトレーナー君を見て、そんなモノはゴミ屑のように吹き飛び、私がなんと矮小なものだったのかを知らしめた。
あぁ、なんで……。私は、一生君と—————。
2日前、私のトレーナーが死んだ。死因は交通事故。飲酒運転の車が、信号待ちしていたトレーナーに突っ込んだらしい。
加害者に憤りや怒りはあるが、そこはトレーナー君のご両親に任せた。
彼女はただの担当トレーナーであって、私とは他人同士に過ぎないからだ。それに私にはやるべきことがある。
そう、今年最後の大舞台。私が走るトゥインクルシリーズの最後を飾る大事なG1レース、有馬記念が5日後に迫っている。そして一番大事なのは、私の脚で到達出来る限界速度の果てに至れるか否か。それが決まるのが有馬記念。譲れない。譲れる訳がない。この日の為に私はプランAを成就させ、 その為に勝利して来たのだ。トレーナー君が死んだ程度で……邪魔をさせるものか。
「はっ、はっ、はっ」
だからこうして、私は学園の練習場で走っている。
年末の少し慌ただしい空気の中、自分だけは外界から切り離されたように白い息を吐きながらトラックを一定のペースを保って走り続ける。年末という事もあり、有馬記念に参加するウマ娘以外の姿は少ない。殆どは年末年始の休暇の最中、といったところであろう。
私にとっては好都合だ。もちろん、問題も勿論出てくるが、気にしている余裕はない。
私のトレーニングが問題ではない。トレーナー君は既に有馬記念までのトレーニングメニューを渡してくれている。勿論、これがなくとも私は自分を正しくトレーニングさせる事が出来るだろう。
だが私は今まで通り、トレーナー君が用意したメニューをこなす。だってそうだろう?トレーナー君がいつ戻って来てもいいように……いや、これは言い訳か。今は私よりもトレーナー君の方が私の身体を知っているから……少し雑念が入ったな。
「アグネスタキオンさん、練習中に申し訳ありません。少しお時間よろしいでしょうか?」
足を止めてしまった雑念を振り払って練習に戻ろうとした時、不意に声を掛けられた。振り返ってみると、記者の腕章を下げた男が居た。この腕章は学園から許可を得た記者のみが持てるものだ。今のトレセン学園が私目当ての記者を通すと思えないので、他のウマ娘の取材ついでか、まぁそんなところだろう。
よくあることだ。レース前の記者会見や、街中を歩いていても遭遇する。目的の為に、周りを騙して、出し抜いてでもネタを掴みたい……そんな欲望を隠さない人間の行為はウマ娘としてレースに出ていれば自然と慣れてくるものだ。
「この度は貴女の担当トレーナーさんにお悔やみを申し上げます。つきましてはこの件についてご質問を伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
よろしいと思ったのか?この男は。よろしくある訳がないだろうに。それにその質問をしてくる記者は3人目でね。いい加減辟易としてきたよ。たづな君にでも話を通して……いや、警備員を増やされるのは困るな。視界に入られると鬱陶しい。
「私が、何か言うとでも思ったのかい?悪い事は言わない。その腕章が2度と付けられなくなる前に帰りたまえよ」
「……その前に一つお聞かせください。有馬記念には」
「出るさ。出るに決まっているだろう。私は出走を撤回した覚えはない。以上だ」
食い気味に答えて、記者との会話を終わらせた。無駄に時間を取らされた気分だ。さっさとトレーニングに戻らなければ。ただでさえ遅れが出ているんだ。完璧には、程遠いのだから。もっと走らなければ。私はまだ、夢を果たせてはいないのだから。
「その日がトレーナーさんの告別式であってもですか!!?」
その言葉に、思わず足が止まる。確かに有馬記念当日はトレーナー君の告別式の日だ。彼女のご両親から、そう連絡を貰っている。だがそれに参加していては、有馬記念には到底間に合わない。私はその連絡を貰った時点で行かない、と答えている。
だから行く気は最初からなかった。その前日にある、通夜式にもだ。私には、そんなものに参加している時間などないんだよ。
私は記者の言葉に答えず、無言でその場を去る。お涙頂戴のニュース番組なんかにコメントを与えてやる義理もない。好き勝手に捏造でもなんでもしていろ。私は、私は……。
『なんでもしてあげたいんだ!』
「————ッッ!!」
ベッド代わりにしていたハンモックから飛び起きた。荒い息が止まらず、呼吸は長距離レースを走った時以上に乱れている。心臓の鼓動も、恐らく今計測すればとんでもない数値が出てしまう事だろう。私は、正しく悪夢を見ていたんだろう。それは安易に想像がついた。内容までは覚えていないことは、恐らく良かったのだろう。そうでなければ、気分が悪くなっていたかもしれないから。
「しまったな。シャワーも浴びずに寝てしまったか……風邪を引いてしまっては駄目だろうに……」
ぐっしょりと濡れた運動服の胸元を摘む。雨の中走ったかのようにびしょびしょだ。頭を抱えて首を横に振る。自分の行動が信じられない。トレーニングの後で汗びっしょりのまま寝てしまうとは。私は相当に疲れていたのかもしれない。それに夢見も悪かった。そりゃあ、悪夢の一つや二つぐらい見てしまうだろう。
時計を見れば凡そ2、3時間は寝ていた。トレーニングの汗なんて乾いているはずなのに、大量の汗で服がぐっしょりと濡れているのは寝汗だった証左だ。
「これでは明日のトレーニング内容を変更しなくてはいけないかもしれないな……」
なんてザマだ。言い訳もできないほどに酷い状態じゃないか。いっそ笑えてくるよ、君もそう思うだろうトレーナー君?
「シャワーでも、浴びるか………」
まだ門限の時間でもないし、校内のシャワールームはまだ使えるだろう。それにしてもこの感情は一体なんなのだろうか。怒りか?悲しみか?それとも憎しみ?どれも当てはまりそうにない。
この訳の分からない感情も、シャワーを浴びれば幾分か汗と共に流れてマシにはなるだろう。
シャワーを浴びた後、私のスマートフォンには幾つかのメールが届いていた。そのどれもが今日配信されたばかりのネットニュースに関するもの。
大凡の予想は付いたが、そのネットニュースとやらを見てみれば、まぁ想像通りに知能が低いものだった。私があしらった記者共が書いたのだろう。予想通り過ぎて欠伸が出てしまう。
「月桂杯を辞退した時よりも酷い記事ばかりだな……ん?」
その記事に書いてあったものは、トレーナー君に関するものだった。その記事はトレーナー君の事を随分と扱き下ろしていた。やれ「大事な時期に死んだ」だの。「責任感がない」だの。「無能」だの。
「……………」
ふつふつと、どす黒い感情が湧いてくる。
コイツらは何も分かっていない。
本当に、何も、分かっていない奴が、面白半分で書いたとわかるような記事をプレビュー数目当てで発信しているだと?ふざけるのも大概にしろ。私どころか、彼女すら冒涜するのか。トレーナー君が、どんな思いをしていたのかなんて、貴様らに評価される筋合いは何処にもないッ!
ピシリ、と嫌な音がした、思わずスマートフォンを強く握りすぎて、画面にヒビが入ってしまったようだ。
あぁ………、感情的になり過ぎたか。まさか私が怒りに飲まれかける日が来るとは。
もう今日は寝てしまおう。いつもなら実験をしているが、なんだか疲れが溜まっているように思える。またあの夢の続きを見そうだが、せめて身体だけでも休めないとね……。
「いけないな……最終調整のトレーニングすらまともに出来ない、か……」
有馬記念が2日後に迫った今。最後の追い込みの調整をしている私の身体は随分とおかしなことになっていた。
疲労と寝不足によって引き起こされる体の倦怠感と脳の思考力の低下。なんと無様な事だろうか。一人でトレーニング出来ると言ったのはどこの誰だったか。
思わず舌打ちが出そうになってしまう。
「あの……タキオンさん?」
止まって水分補給をしていた私に声を掛けてきたのは、ダイワスカーレット。私が可愛がっている存在でもあるが、今は彼女の相手をしている暇がない。彼女がここ数日、ずっと私を観察しているのは知っていた。彼女が、私を心配そうに見つめていることも、だ。
「……なんだい?」
自分でも驚くほど低い声が出た。私の声に若干物怖じながらもスカーレット君は心配そうに言葉を続けた。
「少しオーバーワークが過ぎます。それに体調も悪そうですし……。いくら有馬記念前だからってそれじゃあ身体が……」
「五月蠅いな。君にとやかく言われる筋合いはないよ。私の心配をするぐらいなら自分のトレーニングに時間を割く方がよっぽど有意義だと思うがね。君にとっても、私にとっても…ね」
「っ……で、でも!」
「でも、も何もないんだよ。話は以上だ」
随分と冷めた態度のまま、私は彼女の前から去ろうとした。客観的に見ても今の私は随分と酷いウマ娘だと思う。その時、私の腕が誰かに掴まれた。私のトレーニングの邪魔をする奴は誰だ?と後ろに振り返れば、そこに居たのはマンハッタンカフェ。彼女の無表情な顔と眼が、私に突き刺さる。
まるで心まで読まれているような感覚に苛まれる。彼女まで、一体私に何の用なんだ?私に構っている暇があるなら自分たちの練習に戻ったらどうなんだ?
「……随分と、怖い顔と目ですね」
「それが、どうしたんだい」
「仮にも貴女の心配をしているスカーレットさんに対して五月蠅いだなんて、いつもの貴女らしくもない」
「……」
「分からないんですか?貴女は、最低な事をしたんですよ」
カフェの手を振り払う。もううんざりだ。どうして誰も彼も私に構ってくるんだ?
今まで私のことなんて遠ざけて、無視をして、逃げていたのに。なぜ今になって、私に近寄ってくるんだ。
「……黙っていたまえよ」
「いえ、黙りません。今の貴女が、とても気に食わないので」
「カ、カフェさん!私はいいですから、止めておきましょうよ!」
スカーレット君が慌ててカフェを止めに入った。
「現実を見たらどうですか?貴女のトレーナーはもう……」
その言葉を聞いて、私の体は自然に動いた。
「黙れ」
カフェの胸倉を掴んで頭突きをするかのような勢いで顔を突き付けた。憎い。鬱陶しい。かつてプランBの対象としていた彼女に、トレーナー君に出会う前の私に唯一付き合ってくれた彼女に、私は憎悪の感情を向けていた。
その事実に、思わず我に返った。
————私は、一体誰に、何をしているんだ……?
「……話は以上だ」
今鏡を見てしまえば、私の顔はどういう顔になっているのだろうか。当然、機嫌が良い顔なんてしていないだろうが。
煮えくり返った腸を抱えながら、乱暴にカフェから手を放して足早にその場から立ち去る。
私らしくない、か。そうだ。その通りだ。
不完全な体調。メニュー通りトレーニングをこなせない状態。
どれもこれも私らしくない。スカーレット君やカフェに八つ当たりのような真似をしたのもそうだ。今日の私は随分と冷静ではないらしいと、なんとか自身を評価できた。
「……オーバーワーク、か」
僅かに残っている理性で、スカーレット君の言葉を反復するようにぼそりと繰り返した。
なら少しだけ休憩を挟もう。本来のトレーニングメニューにはない休憩だが、メニューなんてとっくに破綻している。なら、少しぐらい休憩をしてもいいだろう。
………私らしくない。そうだ。その通りだ。ここで妥協してしまうのも、体調管理が出来ないのも、私自身が説明できない感情の先に居るカフェに、八つ当たりのような真似をしてしまったのも、全て……全て私らしくない。不完全な体調。メニュー通りトレーニングをこなせない状態。どれもこれも私らしくない。
原因は特定されているのに、対処しないままなのも、私らしくない。
科学的根拠や実証に乏しい想いに翻弄されているのも、全部が全部。
「………出来ない、が正しいんだがね……」
空を仰ぐ。真冬の青空が、私を出迎える。
有馬記念当日は晴れらしい。憎々しい程に、青い空が一面に広がっている事だろう。
三女神とやらは、随分と私に厳しいようだ。
翌日、有馬記念が明日に迫っているのに、私は不調の極みにあった。
原因は明白。この6日間、まともに睡眠を取れていない上に、有馬記念の為の追い込み調整をトレーナーの判断なく焦る形で行った事が原因だ。
トレーニングの強度の計算すら覚束ない、完全に脳が動いていない証拠だ。
それでも、やらなくてはいけないと、脅迫概念染みた感覚に押されて私は最後のトレーニングを行った。
私を心配しているのか、スカーレット君が私を遠目に見ている。不安そうに、いつでも駆け寄って私を助けられるような位置で私を観察している。カフェは、見かけなかった。流石に私に呆れたんだろう。元々、特に用事がなければ私に近づいてくる事もなかった。これは、今まで通りの筈だ。
スカーレット君には必要ない、と言えばいい。それか並走トレーニングでも頼めばいい。そうする方が効率的だ。彼女にとっても、私にとっても。今の私では自分の体調を管理出来ていないから、こうなっているのだから。彼女の手を借りて、少しでも明日の有馬記念の為に練習を重ねなければいけない。それは十分承知している。だが、私には今、彼女に手を借りる余裕がない。
第一、どういう顔をして頼めばいいんだ?どうやって、彼女に「何処かに行け」だなんて言えばいいんだ?
分からない。分からない。分からない。
そんな単純な事でさえ、私はもう考えられなくなっている。
まず、謝ればいい。それは分かるのに、行動に移すだけの元気もなく、ただ、無意味で無価値なトレーニングで体を疲れさせる愚かな行為を続けるしか、今の私には出来ない。
助けてくれ、なんて論外だ。言えば楽になる。だが、言った後でどうなるか……思考がまとまらない頭でも理解出来る。有馬記念に出られなくなる。それだけは、避けたかった。
URAも、トレセン学園も、G1レース一週間前という事で、特別にトレーナーなしのウマ娘がレースに出られるように配慮してくれた。その配慮を無駄にする愚行を、私は行いたくない。諦めたくない。私は、自分の脚に眠る可能性を導き出していないし、自分の志を宙吊りにしたままにしたくない。
だから、邪魔をしないでくれ。私を、走らせてくれ。トレーナーが居なくても、私はしっかりとやれる。やれている。
だから、頼む。私に、認めさせないでくれ。私は1人ではなにも出来ないなんて、そんな残酷なことを……ッ!
有馬記念、当日。
遂に、やってきてしまった。昨日よりも不調の身体を引き摺りながら控室に入って、自分で勝負服に着替えた。自分で勝負服に手を通すのは随分と久しぶりの気がする。よくよく考えてみれば、いつもトレーナー君の手で着替えていた。それが当然だった。まともに自分で着たのなんて、フィッティングの時ぐらいだったはずだ。
この勝負服をクリーニングしたのも、トレーナー君だ。折角の勝負服なのだから、と彼女は自らの手で一から洗ってくれた。
「君の、匂いだなぁ……」
襟元をすんすん、と嗅ぐとトレーナー君の匂いがした。洗剤や柔軟剤が混ざって生み出される合成の香りでしかない筈だが、どうしても君と同じ香りだと思えてしまう。君が普段使っていた安物の洗剤なんかじゃない筈なのに。
余計な雑念を振り払えず、気分は落ち込み続けていく。
先日突き放したスカーレット君とカフェに謝罪をしようと思っても、今の自分にはそんな余裕がない。自分の身体にすら気を回せない程に気持ちが焦って空回りし続けている。
こんな調子では、私の命題に到達するどころか、有馬記念を無事に走り切れるかまでも怪しいものだ。
だがそこに、私の気持ちが追い付かない。始まる前から、もう駄目だと思えてしまう。
全てを置き去りにするスピードに、私までもが置いていかれた、と思えてしまう。
………もう、いい加減に認めてしまわなくてはいけないだろう。そうだろう、私。そうだろう、アグネスタキオン。都合の良い妄想と幻覚で、トレーナー君の尊厳を損ねてしまう前に。私は現実を見るべきなんだ。
そうだ。トレーナー君は死んだ。死んだんだよ、アグネスタキオン。
甦るなんてことはないんだ。
実は生きていたなんて三流娯楽小説みたいな展開はないんだ。
こうして待っていたらあの美味しかったお弁当を持ってひょっこりとトレーナー君が顔を出すなんて、ありえないんだ。
あの日、病室で見た筈だ。冷たくなったトレーナー君を。心臓が止まって、もう二度と動かなくなったトレーナー君を。事故の影響で傷だらけで包帯だらけになったあの痛々しい顔を。医者からはもう死亡確認をしたと言われた筈だ。白い布を、その顔に被せられていた筈だ。なのに私は女々しく、いつまで引き摺っている。だってそうだろう。私はトレーナー君と出会うまで一人でやってきた。
この一週間だって、トレーナー君のトレーニングメニューだったとはいえ、一人でやることができた。
適度な休憩を挟む事も、トレーニングの強度の調整も出来なかったが、怪我をすることなくレースに挑めている。食事だって、口にするだけでもう嫌だが、あのミキサー食に戻った。実験や研究は、思うように進められなかったが、今の私には必要のないものだ。有馬記念が終わってからまた始めればいいんだから。
トレーナー君なんて必要なかった。だから私は、今まで通りに、トレーナー君も置き去りにしていけばいい。過去は振り返るものだが、求めるものではない。私は今を走り、未来を求めるべきなんだ。
だから、だから……。
———————————これで満足か私……。これで、有馬記念は走れるか?
…。
……。
………。
「満足な訳が、ないだろうが………!」
全て、理不尽だ。
破綻しきった私は、最早理不尽にも抗えないほどに弱りきっているのは自覚出来ているのだ。
それでも走らなければならない。自分の命題の為に、トレーナー君に見せると誓った幾許かの勝利の為に。どんな不調を抱えていようと細事問題なく————走らなければいけない。
苛立ちを隠せぬままに言い放って、控室を出る。地下バ場に出ると、有馬記念に出る他のウマ娘たちが一斉に私の顔を見た。
誰も彼もが私を心配そうに、同情気味に見ている。
トレーニングをしている時もずっとそうだった。それに誰かに顔色を窺われたり避けられたりするのにはもう慣れている。
スカーレット君も、カフェも居た。二人とも私に声を掛けてきたが私はそれを無視した。今更何を話せって言うんだ。何も話す事はないし聞く気もない。
だから、今の私に、触れないでくれ。
『3番人気はクラシック三冠ウマ娘、アグネスタキオン。本来であればダントツの1番人気もおかしくないウマ娘ですが、先日の事件によりやや不調気味との見方が強くこの順位です』
『不幸な事故でしたが、是非走り切ってもらいたいですね』
『続いては4番人気———————」
それだけで、私のパドックでの紹介は終わった。元々、私はあまりパフォーマンスをしないウマ娘だ。それも相まって、私は一切のパフォーマンスをする事なく、実況と解説の紹介が終われば、さっさとパドックを出た。
紹介の長さは普段通りとしても、紹介の仕方が気に食わない…が、まぁどうでもいい。他人の評価なんて気にしてはいられない。私は、私の追い求めるものがあるのだから。誰ももう、私に期待なんてしていなくてもいいんだ。
そして、中山レース場にG1レースのファンファーレが鳴り響く中、私は出走ゲートへと歩を進める。
観客の歓声の中で、私を応援する声は少ない。どうでもいい話だが。
今日は雲一つない晴天。まるで私の心を正反対にしたように、真っ青な空が私の真上に陣取っている。今日ばかりは、この青空が兎に角気に食わなかった。良バ場を提供する晴天は喜んで然るべき要素なのに、何も喜べない。そんな青空を忌々しげに睨みながら、私は出走ゲートへと入った。
とても、静かに感じた。観客の声すらも聞こえてこない程に。
出走ゲートに入って少ししてから、有馬記念のレースは開始した。
スタートと同時に勢いよく駆け出す。逃げの戦法を取った二人のウマ娘の背後に付いて行く。
『先行のコツ』はもちろんある。トレーナー君とのトレーニングで身に着けたものだ。
ポジション取りに、センスがあるとトレーナー君は言った。今日もその言葉通りに良い位置につけた。同じ先行の戦法で戦っているウマ娘達をけん引するように先頭を走る。このまま3位の位置を維持して、最後の直線前にスパートをかける予定だ。本来の私であれば、それだけの余力が絶対に残っているという自負がある。私の、必勝パターンであり先行策の王道。前に壁を作らせず、余力を残した状態でスパートが出来る。ただし、逃げ戦法に乗せられてしまえば簡単に掛かってしまうという難点もある。
が、私には切り札があるし、何よりそんな程度の低い考えに惑わされるほど賢さも低くない。そう考えていた。
だが思ったよりも脚が動かない。息が上がる。理論だけは完璧でも、そこについて行ける身体と体力が、今の私にはなかった。
当然だ。少し考えれば分かる事だろう。まともに最終追い込みのトレーニングは出来ていないし、レース前のアップもまともに出来なかった程の絶不調。まともに睡眠を得られていない私には掛かる程の体力すら最初から残されていないんだ。
こんな状態でこの長距離の有馬記念を制する?
無理だ。そんな事、できっこない。
色んなデータを読んだ。その中のどこにも、絶不調というコンディションで良好になるステータスというものは存在しない。スピードもスタミナもパワーも根性も賢さも。全て。
だが、諦めたくはない。
私は辿り着きたいんだ。速度の限界へと。君と目指した、あの果てへと。
だから、無理矢理に身体を動かして、必死に食らいついていく。
脚が伸びない。まるでジュニア級のウマ娘がシニア級のウマ娘に置いていかれるように私の順位がどんどんと落ちていく。脚が軋む。改善された筈の脚
5位の順位に落ちた。スカーレット君の心配そうな横顔が見えた。カフェの、こちらを一切気にしていない顔も、同じく。そして8位。どんどんとバ群に吞まれていくように、私は先頭集団の最後方にまで順位が落ちてしまった。
アグネスタキオン失速……それを伝える実況が耳に届いた。実況者も、私の走りを諦めたような口調だ。
もう、ダメか。
私は君が居ないだけで、こんなに弱くなってしまうのか。
君は、なんでここに居ないんだ……?
脳に酸素が回らない。視界が狭まって、暗くなっていく。思考がレースよりも、後悔と君の事に埋め尽くされていく。
景色が灰色に染まっていく。色とりどりの勝負服もターフも、観客も。全てが白と黒で表現されてしまった。
耳に音が入ってこない。観客の声援も、実況も、周りを走るウマ娘達の吐息、脚音、自分の息遣い、心臓の鼓動でさえ。何もかもの音が聞こえない。無音の世界にやって来てしまった。
なのに、聞こえないはずの、幻聴のような音が、私の鼓膜を刺激する。
『……れ』
音が聞こえた。
『がん……れ』
その音は、懐かしい音だった。
私が求めていた音。女性の、声だ。私が聞きたかった声そのものだ。だから、私が間違える訳もなかった。頭の中が「なぜ?」で埋め尽くされる。なんで今更、聞こえてくるんだ。今まで待ち望んでいたのに、そんな私の想いを無視し続けてきた癖に。何を土壇場になってからやってくるんだ。遅い。遅すぎる。あまりにも、とても、ひどく、遅過ぎる。
『……がんばれ』
聞こえないはずの君の声だけが聞こえる。
『頑張れ』
『頑張れ、タキオン』
なぜ、今なんだ。
勝手に居なくなった癖に。私との約束を、夢を放り出して何処かへ行った大バ鹿者の癖に。君はこんな惨めになってしまった私を笑いにでも来たのかい?もしそうなら、君は酷い女だよ。
『ごめんねタキオン』
『でも大丈夫。私はここにいるよ』
『タキオンの隣に、私は居るよ』
嘘をつけ。居るはずがない。聞こえるはずがない。君は死んだ。そんな困り声で言うんじゃないよ。死者が蘇る筈はない。君は今頃、君の故郷にある火葬場でその遺体を焼かれている最中だろう。そんな奴が、今更出てくるんじゃない。
『その通りなんだけど、酷い言い草だなぁ』
分かったらとっとと消えてくれ。幻聴の戯言に付き合っている暇はないんだ。
順位を見てみろ。もう9位だ。後方の差しウマ娘達に追いつかれ始めている。まだ最終コーナーにすら入っていないというのにだ。全部全部、君のせいだ。君が、死んでしまうから、こんな事になったんだ。
『ごめんね、タキオン。でも、大丈夫。タキオンなら行けるよ』
無理だ。もう体力は使い切った。身体なんて鉛のように重いし、こんな絶不調のコンディションでどうにかなるものか。ほら見ろ、私の目の前にはいつの間にか壁が出来ている。バ群の中に沈んでしまったんだ。
もう最終コーナーの出口は目前だ。ここから一気にバ群がバラけても、私の疲れ切った脚ではスピードも出せないだろうさ。
『どうか私に、見せて欲しいんだ』
『これが最後の我が儘だから』
『これが君の…トレーナーとしての最後だから』
「はは、私一人でどうにか出来るなら……ッ!」
とっくにしている、という言葉は口からは出なかった。いや出せなかったが正しいか。激しい呼吸で喉が焼けて、もうまともに息も出来ない状態でこれだけ声を出せる方がむしろ驚きだ。
少しだけ、体力が戻った気がする。トレーナー君の声を聞けたからだろうか?あまりにも非科学的な現象過ぎて、私もおかしくなったのかもしれない。なんとか今の順位で踏ん張れる。
『大丈夫。言ったでしょ。私はタキオンの隣に居るって』
『でも……私は死んだよ。確かに、死んじゃったんだよ。でもタキオンの事をずっと見てきた。辛かったよね。苦しかったよね。私の事で、記者に心を乱されたり悪夢を見たり、スカーレットさんとカフェさんを突き放してしまったり。全部…見てたんだよ』
なんで、知っているんだ?死んだ筈の君が知っている筈がないだろう。
『貴女は、1人なんかじゃない。私はずっと隣に居たから』
……この世に君はもう居ない。けど君は、ずっと私のそばに居たのか。私を、見守り続けて来たのか。でも、もう遅すぎる。最終コーナーを出た。最後の直線だ。いくら君が私に力を与えてくれるとしても、もう無駄だ。諦めるしかないんだ。
『何も、何も出来なかった。けど、私はずっとタキオンの側にいるよ。これからも、ずっと……』
『だから………』
言うなよ。「その言葉」を言われたら、私は……諦められないじゃないか。君はまた私に諦めさせないつもりなのかい?
『スピードの果てを、私に見せて』
あぁ……。わかった。分かったよ。
『一緒に果てを目指そう』
なら、君が幻覚でもいい。
君の声が幻聴でもいい。
不安定な私の脳が見せるひと時の夢であっても構わないから。
だから、ほんの少しでいい。非科学的なトレーナー君。私に力を貸してくれ。私の背を、ほんの少しでいいから押してくれ。
『ほら、行っておいで。私のアグネスタキオン』
背中をトン、と押される感覚。
そこからじわりと染み込んできた暖かさが一気に体全体へと巡り、視界がクリアになった。そして体が蘇るように力が入った。
そうだ、あっただろう。思い出せアグネスタキオン。まだ、勝利の方程式は消えていない。
私が、私の為に調整した呼吸、足の歩幅、腕を出すタイミング、スパートの姿勢。それら全てを結集させ、最後の力を振り絞るように活力とする。
ボロボロになった身体でも、死力を尽くせることが出来る。
トレーナー君が思い出させてくれた、それは……私の切り札。
『なんでもしてあげたいんだ!』
『ふゥん……なら、少し手伝って欲しい事があってねぇ。ほらちょっとで良いからターフを走って欲しいんだが』
『えっと、ちなみに何周……?』
『2400mを5本ほどだね』
『私、死んじゃうよ!』
『安心したまえよ、特製のドリンクも用意しているからね。私の理論の証明の為に君の尊い協力が必要なんだよ。ほら、早く運動着に着替えるんだ』
『理論の証明って……プランAの?』
『そう。プランAの最終段階というヤツさ。大凡完成しているが、最後の方程式が足りなくてね。私の、切り札になるモノさ。そう、それは————』
【U=ma2】
それは、私を最速へと導く方程式。
本来は最終コーナー中盤で使う予定だった私の切り札を、ラスト200mの坂に入ったこの場所で使うのは随分と遅い。普通であれば先頭を捉える事は叶わないだろう。だが、私にはこれだけでいい。今の私なら、先頭どころか、その先にまで行ける!
君と作り上げた、限界速度の先へと私を導くこの方程式さえあれば……!
「はあああああ!!!」
超えろ!超えろッッ!!
感覚を置いて、認識も超えて。世界すら置き去りにするんだ。
私の脚は壊れない。止まらない。私になら出来る。トレーナー君もそう言ってくれた。
ならばこのアグネスタキオンに出来ぬ道理が、何処にある!!
『「限界の先へ!」』
もっと、もっとだ!もっとスピードを!全てを置き去りに出来る、圧倒的な速さを!
私の全身全霊、その全てを引き出す。
喉が焼けるように熱い。肺の全力稼働で胸が痛い。
脳に酸素が足りず思考がまとまらない。
目の前の景色が、見えているのに認識出来ない。
脚の痛みなんてどこかに飛んでいった。
手足の感覚がなくなって、今地面に脚が着いているのかすら分からない。
それでも私は走っている。圧倒的なスピードで一気に先頭に躍り出て、全てを置き去りにして、走っている。
この中山レース場の、ターフの上を、私の意思で。
私はどこまでも走れる気がした。
でも、どこまで走ればいいのか分からない。
どこがゴールなのか、あと何メートル走れば良いのか。
………ねぇ、トレーナー君。私はいつ、足を止めればいいんだい?
『貴女はもう1人で走れるよ。だから、大丈夫。行ってらっしゃい、アグネスタキオン』
な、に……を………!
——————さようなら。私の、超光速のプリンセス。私だけの、アグネスタキオン……。
掠れるようなその声は、最後まで聞こえなかった。そしてようやく、私の足が止まる。
いつの間にか私は、ゴール板を超えていたようだ。彼女の最後の声が聞こえた背後に振り返ると、電光掲示板が見える。そこには私のウマ番の文字が7バ身差で一着だと、堂々と伝えていた。
呆然とそれを眺める内に、横の大スクリーンが私を映し出している事に気付いた。その頃には手足の感覚は戻り、息もだいぶん落ち着いていた。
そしてようやく聴覚が戻るように、レース場に響く実況の声が聞こえてきた。
『一着はアグネスタキオン、アグネスタキオンです!信じられません!コースレコードを4秒も縮めて、2分25秒5の大記録です!!』
一着。7バ身差。コースレコード。大記録。どれも輝かしい栄光の一つだろう。だが、それがどうしたんだ。そんなものが、私に一体何を与えてくれるというんだ。
私が一番欲しかったモノは確かに掴めた。スピードの向こう……、ウマ娘の脚に眠る可能性の果て、この肉体で到達し得る限界速度。
そこに、確かに辿り着いた。影を追い越し、全てを超え、その先へ——————。
だがそこに君は居なかった。
隣に居るはずの君は、私の背を押した。
そして振り返れば、君の姿なんてどこにもなかった。
私は追い越し過ぎたんだろう。
分岐点はとっくに過ぎたんだ。後戻りは出来ない程に走り続けて、遂に草木も生えない荒野のような不毛の大地に来てしまった。望んだ光景だ。夢見た景色だ。なのに、ここには何もない。
隣に居るはずの君も居ないだなんて、私はこんなモノを望んでいたのか?
………あぁ、そうか。
私が一番欲しかったモノを得る代わりに、私は一番大切なモノを失くしてしまったんだな。
係員に促されるまま、ウィナーズサークルへと進んだ。
ふらふらとした足つきで、設置されたマイクの前に私は立った。
もう、我慢なんて出来ない。押さえつけていた感情が、涙として鉄砲水のように溢れて飛び出す。まるで赤子が初めて世界を認識したように、私は自身が今まで抱いて隠していた感情を知った。
「トレーナー君!見ているかい!君が望んだ遥か彼方は!私が志した限界速度は!たしかにここにあったぞ!!私達は到達したんだ!影すら見えぬ可能性の果てを追い越して、辿り着いたんだ!」
狂ったように叫び、笑う。狂気に染まった声色は、アレ程焼き付いたと思っていた喉から素晴らしいほど鮮明に飛び出していた。
観客の動揺の声が聞こえる。一体何を言っているんだ、と。遂に狂ってしまったのか、と。
「だが!!!」
そんな観客の声がピタリと止まる。それほどよく響く怒声。こんな声なんて今まで出した事がなかったのに、するり、と出ていた。君がこの場に居たら随分と驚くだろうな。
我慢していたんだ。これぐらい、いいだろう?
だから、全部吐き出させてくれたまえよ。もう我慢できないんだ。
「何故……何故だ!いくつかの勝利をプレゼントすると言っただろう!私の果てを共に見たいと、あの狂気に染まった目で言っただろう!なのに、なのに何故死んだ!何故だ!何故約束を破った!君は私のモルモットで、私の助手だろうが!!君とだからここまで来れたのに、それはなんだ!!」
ボロボロと、涙と共に記憶が溢れかえる。その記憶と共に出てきた言葉が、更に私の涙を増やす。止め処ないその液体は、頬を伝って、私の勝負服を濡らしていく。
君と走りたかった。君に見せたかった。私が至った極地を、一緒に見たかった。君と別れたくない。君と離れたくない。死んでほしくなかった。
「あぁ、なんで………。私は、一生君と……君と走りたかったのに」
スピードの果てに至っても、この想いは君に届かない。辿り着かない。私を、置いていかないでくれ。
「また、またお弁当を作ってくれよ……私は、もう…君なしでは……もう無理なんだよ……」
そこに……君の隣に行きたいのに、置いていかれる。お前は来るなと君が言う。どうして?の言葉には何も返さない癖に。私を、私を置き去りになんてしないで。そこに私を、連れて行って。連れて行ってくれたまえよ………っ。
「わあああああぁぁぁぁぁ!わあああああぁぁぁあ!!」
膝から崩れ落ち、天を仰ぐように、幼児のように醜く泣き喚く。
悲しい。
悲しい。
悲しい悲しい悲しい悲しい悲しい。
「ひぐっ……うわああああああああああ!!」
嘘吐きめ。裏切り者め。約束1つ守れぬ軟弱者め。
私は君との約束を守ったというのに、君は、大バ鹿者は、そうやって死ぬんだな。
そうやって、消えて行くんだな。
静まりきった中山レース場に、私の慟哭だけが響き渡る。
煙のように消えた君に良く似た雲が1つだけ、晴天の大空にぽつりと浮かんで、私を置いていくように風に流されていった。