お気に入り、評価、ありがとうございました。IFのアフターストーリーはこれにて完結となります。
挿絵:吉岡よしこさん
TwitterID:@a_kar_te
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ターフを蹴り加速した私の眼前に────もういない筈の、誰かの後ろ姿が見えた。
「え……!?」
スタートダッシュを決め先頭に躍り出たマンハッタンカフェの姿にダイワスカーレットが困惑する。
「嘘、だってあの人の脚質……」
「掛かり……いや」
スクリーンに映る彼女の瞳に、私は狂気と称するべき何かを見た。
「……誰かに、追い縋っているように見える」
その背中に追い付きたかった。
アグネスタキオンは私にとって天敵で、悪友で、憧れだったからだ。
躍起になったこともある、奮闘したこともある。
だが──彼女は、彼女らは、どうしようもなく非凡だったのだ。
決して私のトレーナーが悪かった訳ではない。彼は彼に可能な最大限を尽くしてくれたし、私もそれに応えようとした。
それでも"何の取り柄もないウマ娘"が何の犠牲も無しに"神話"に追い付ける程、現実は甘くなかったのだ。
開いていく力量差に私はいつしか闘争心を見失い、それに伴う出走数の減少についてトレーナーは何も言わなかった。
恐らく彼は責任を感じていたのだろう。それについて話し合い重荷を取り除こうとする勇気も私にはなかった、つくづく最低な人でなしだと今でも思う。
そうしてアグネスタキオンは光の果てへと走り去り、私はその背中に追い付く機会を永遠に失った。
……故に、私が今見ているものは幻影以外の何物でもない。
彼女の研究と計画を継ぐ事で私は彼女に辿り着こうとした、それはマンハッタンカフェというウマ娘の存在の上塗りと否定に等しい。
「(……それでも、私は貴方に魅せられたんだ)」
私は漸くこの境地に辿り着いた。それを何より"彼女の幻影が見えた事"が証明している。
中山の地に咆哮が木霊する。
鬼神の如き大逃げを見せ、何もかもを置き去りにして圧倒する彼女の狂気そのものと言える疾走に、誰もがあの神話を、慟哭を想起した。
触れてはいけない禁忌と化して尚、その姿は観衆の網膜に焼き付いて離れていなかったからだ。
最終コーナーに入った。
体力は十二分に残っている。
「(……もう少し、もう少しだ)」
「(あの直線で勝負を掛ける)」
「(貴方に……辿り着いてみせる……!!)」
スパートを切るべく姿勢を下げ、彼女の幻影を見据える。
────異変に気付いたのはその時だった。
始めはごく限られた観衆のみが感じた違和感。
次第にそれは細波の様に周囲へ波及し、やがてどよめきが場を満たしていく。
マンハッタンカフェの纏う白衣の胸元が、鮮血に染まっていた。
理由は直ぐに分かった。喀血していたからだ。
「(……何が……!)」
混乱する頭で必死に思考を巡らせずとも起因には思い当たる。
薬剤の齎す反動と副作用には細心の注意を払っていた、計画に記載のあった用法も用量も絶対に破ってはいない。 ……だが十中八九問題はそこではない。
"準備期間が足りなかった"のだ。
有馬記念の終幕からURAファイナルズへと至る迄の僅か数ヶ月というインターバルは、彼女のプランBをこの身体へと具現化するには余りにも足りなかった。
正直に言うと最初から分かっていた、しかし意図的に目を逸らしていた根本的な問題だった。
私は彼女に追い付き、彼女を理解したかった。それは彼女が"思い出の中の存在"と化してしまってからでは遅かった。
彼女はもういない、彼女の魂はもうここにはない。だがこの中山の地には未だ微かに彼女の残り香と残影が染み着いている。
強迫観念にも似たその思い込みが私をこの短期間での調整という無謀に駆り立て、突き動かしていた。
そして誰も私を止められなかった。私自身でさえも。
喀血に気付いた途端、続けざまに両脚から全身へ激痛が突き抜けるのを感じる。
最悪の事態は往々にして重なるものだ。奇跡的なバランスで成立していたに過ぎないジェンガ仕掛けの摩天楼は重要な一ヶ所を欠いただけで容易く瓦解し、がらくたへと還るのだろう。
恐らくこの直線を走り抜いた後、私は無事ではあるまい。
「(……それ、でも)」
この肺が破れようが関係ない。
この脚はまだ動く。
その後ろ姿は、まだ見える。
「が…………っあああああああああアアアアッッ!!!!」
全ての色を失っても、辿り着きたい場所があるから。
光へ散る事を分かっていても尚、私は────
ある者は胸を躍らせた。
開幕から常軌を逸脱する大逃げを展開したマンハッタンカフェがこのまま逆噴射せずに完走を遂げれば、あのアグネスタキオンが有馬記念で叩き出したコースレコードすら大幅に凌駕する記録を樹立する事になる。
アスリートである少女達がその生命と引き換えに伝説を残すのなら、観測者としての敬意は悲嘆ではなく称賛にこそ存在するのだと彼は考えていた。
それが只の傲慢だと分かっていても。
ある者は自身の信仰する神に祈りを捧げた。
ウマ娘という生物は人間より強靭だが同時に人間より繊細でもあり、文字通りその身体の全力を駆使するこの競技の中で再起不能な故障を負う者や生命を落とす者が発生する事は残念ながら決して珍しくはない。
故に天へと昇って行った幾多の魂の元へ狂走するマンハッタンカフェがまだ向かう事のない様、見開いた両目から涙を垂れ流しながら彼は祈り続けた。
それが只の偽善だと分かっていても。
ある者は吶喊した。
追込型の脚質であった彼女は当初は最後尾から事態を静観していた。あの大逃げはスタミナ配分を配慮しているとは思えず、揺り動かされて自分の勝負展開を前後させる必要は無いと判断していた為だ。
だが最終コーナーでのマンハッタンカフェに起きた異変とそれでも燃え続けている闘志、それらを誰よりも早く本能的に察知した彼女は考えるより先に同タイミングでスパートを敢行したのだ。
バ群を大外から突き抜けて置き去りにした彼女は二番手から激烈な追い上げを始める。
その走行ペースもまた先述のコースレコードに迫り下手をすれば越す程の劇的な代物であったが既に付けられた差は何十バ身にも及び、そして大逃げの主はその身に生じた異変にも構わず未だに速度を落としていない。
それでも彼女は追い縋った。追い付かなければならなかった。
彼女を突き動かしているものは最早闘争心や勝利への渇望などではなく、ある種の使命感や怖れにも似た別次元の確信だった。
────"あれ"を止めなければならない。それができなかった後に起こるのは想像し得る最悪の事態を越えた何かだと。
「(……だが……どうやって?)」
決意と共に疾走しながら、然し彼女は自問する。
追い付けなければ何かが終わる。だが現状の差はかの"幻のウマ娘"を越えるような激走を仮に今から見せたとしても現実的に到底追い付けるような距離ではない。
「(奇跡……奇跡か何かでも起きてくれれば……!!)」
万事休す、そんな言葉が頭を過る。それでも彼女は走り続ける事だけは止めなかった。
それが只の足掻きだと分かっていても。
『だから起こすよ、奇跡』
彼女は失念していた。
彼女はかつて"それを見ていた"のだ。
奇跡は起きるものではなく、往々にして誰かの手が起こすものだという事を。
それを目にした私は最初、何が起きたのか理解できなかった。
恐らくこの場の誰もが同じ事を思っただろう。
最終直線上に進入した人間の男性が"正面からマンハッタンカフェを受け止めた"のだ。
無論全速力で駆けるウマ娘の正面に人間が生身を晒すなどトラックの走る公道に身を投げるにも等しい行為だ。
そうして共に吹き飛んでいった二人は雨の降り頻る不良バ場をぐちゃぐちゃに転げ、やがて停止した。
視界が何度も明滅する。
平衡感覚が滅茶苦茶に狂い、体内に存在する全てが混濁して逆流するような錯覚に陥る。
何が起きたのだろう。
寸前まで自分が何を思い何をしていたか思い出せない。
吐き気がする。
全身が痛む。
やがて五感が戻ってくる。
雨は降り続いている。
私のトレーナーが、血塗れで、私の下に倒れている。
「…………カ……、フェ…………」
「 」
言葉を返したい。声が出てこない。
静かに吹き抜ける風の様な喘鳴が漏れるのみだ。
「……もう…………いい、だろ…………」
「 」
冷え切った彼の手が、そっと私の頬に触れる。
「いか……ないで…………」
「 」
その手から力が抜けて、ターフに落ちる。
「 」
「 !!」
喀血して咳き込む私の傍で、誰かが跪いて彼の脈を確認している。
「クソ……!」
「お前はAED、お前は担架を! お前は救急隊を呼ぶか医者を背負ってこい! 走れ!!」
誰かが後から走ってきた人達に怒声を張り上げているのが聞こえる。
取り返しのつかない事になった。朦朧とする頭でそう把握した。
「そこを退け! 心マを……、おい!」
誰かが私の両肩を掴み揺り動かす。私は硬直していて動けなかった。
「大丈夫か! おい!!」
トレーナーのアンダーリムの眼鏡の割れたレンズに、私に似た誰かの姿が映るのが見えた。
「しっかりしろ!!」
彼女は何かを叫んでいた。
私は聞こえなかった筈の彼女の叫びを聞いた。
そして、私は全てを思い出した。
霊柩車のテールランプの紅い光が遠ざかっていく。
追いかける事はできなかった。脚が動かないからだ。
名前を呼ぶ事はできなかった。喉が動かないからだ。
別れの言葉さえ、私は言えなかったのだ。
降り続く雨と夜闇の中に全ては滲んで溶けて、やがて何も見えなくなった。
激痛と共に意識が覚醒する。
目を開けてみると何処かの病室のベッドの中のようだった。白い院内着に着替えさせられている。
上体を起こそうとして再び激痛に苛まれ、小さく呻き声を上げ咳き込む。
「かは……ぅ……っ」
掠れ気味で殆ど声にならないが一応発声機能は回復しつつあるようだ。
とはいえこの調子では選手生命どころか今後の日常生活すらままなるかは怪しいのだが。
……まあ、最早そんな事はさしたる問題ではない。
私はどうにかスリッパを履いて壁伝いに歩き始めた。
あの少女の正体に漸く見当が付いた。
タキオンさんの言っていたイマジナリーフレンドという見解はある意味では間違っていなかったのかもしれない。
彼女は、私が切り離して捨てようとした私の人格の一部分だ。
何の取り柄もない私は、何もかもに退屈していた。
恐らく今の道に進んでいなければ刺激を求めて犯罪者にでもなっていたのだろうと思う。
とはいえ学園に来たところで突出した成績を上げられる訳でもなく、よくいる凡庸な生徒の一人という塩梅に埋もれていた。
『俺が君に新しい世界を見せる、 ……いや』
『俺と君で、新しい世界を見に行こう』
高等部に進学してから彼と出会い契約関係になった。
彼はトレーナーとしては新人で、あまり感情を表に出さない為気難しい人にも見えた。だがその誠意と内に秘める情熱は内向的な性格の私が信頼を寄せるに値するものだった。
その言葉の通り、その邂逅を契機に私の見る世界は瞬く間に色を変えていった。
開花を迎えた走者としての能力は次第にそれなりの成績を上げられるようになり、有力な選手の一人として名が知れ渡るようにもなった。
そして何より、楽しかった。
彼が並走してくれるランニングは全てに優先されるべき事の一つになったし、彼と共に摂る昼食はこれまで特に食事が好きではなかった私の心を弾ませた。
出場したレースで一着を取り帰ってきた時に自分の事のように喜んでくれる彼の姿が私にとっては何よりの褒賞だった。
いつしか私は彼の為に、彼を想う私の為に、走るようになっていた。
私は私を変えてくれた彼に焦がれていた、彼に恋をしていたのだろう。彼の為ならどこまでだって行ける気がした。
……だが、現実はそう甘くはなかった。
超光速のプリンセス、アグネスタキオン。
同期として知り合った彼女は私にとって悪友となり、憧れとなり、天敵となった。
彼女とそのトレーナーはあらゆる意味で非凡だった。時には二人揃って変人とも呼ばれたがその特異性と天才性と実力は他を突き放してスターとなるに余りあるものだったと評してもいい。
全能感に思い上がっていた私は現実を思い知った。
どうやっても追い付くことのできない背中が存在するということ。
そして────私のトレーナーが、彼女のトレーナーに想いを寄せていたということ。
考えてみれば、私の好意はどこまでも一方的なものに過ぎなかった。感情表現が下手なのは私もまた同様であり元よりどれだけ伝わっていたかも怪しい。
そして一方的で過剰な好意とは、大抵の場合は呪いと同義だ。
私の想いは存在するべきではなかった。それは対象である彼にとって重荷や負荷以外には成り得ないもので、何より私自身の心を珈琲の染みの様に黒く、昏く澱ませていく汚染源と化していた。
彼に焦がれながら彼を憎む相反した感情に苛まれ、私はそんな私自身を心の底から軽蔑し、嫌悪した。音を出さない様に嘔吐して嗚咽を必死に堪える夜が、自傷衝動を血の滲む様な思いで押し殺す夜が何度訪れたか分からない。
あの背中に追い付けば私の方を振り向いてくれるかと微かな希望に縋った事もあった、だがそれは前述の通り叶うものではなかった。
このままでは全てが破綻し、破滅を迎える。そう感じた私が無意識で取った防衛策が"人格の解離"だったのだろう。
彼に関する想いや感情を"私ではない私"として別の存在へと切り離した結果、それからの私達は平穏に過ごすことができた。
……結果として平穏は長くは続かなかった。アグネスタキオンのトレーナーが事故死したのだ。
タキオンさんがどんな心境で失踪に至ったか、など最早誰にも分からない。
だが推測はできる。彼女は少なくとも"置いていかれた"のだから。
その喪失感と同じものを私のトレーナーも抱いていた筈だ。彼が同様に後を追う事をしなかったのは恐らく私への義務感等からだろう。
そして私は……彼への関心を忘れていた、"切り離していた"私は、彼の抱く孤独など露知らず、彼方へと走り去り、彼を一人にしようとしたのだ。
結果として彼は私を失う事を恐れあのような行動に走り、命を落とした。
彼を殺したのは私だ。
私は私の手で、最も愛していた人を、精神的に、肉体的に、殺したのだ。
罪には罰が伴う。私は自らの業への報いとして、文字通り全てを失った。
日常も、未来も、選手生命も、果てへの憧れも、最愛の想い人も。
全身の痛みに堪えながら、手擦りを頼りになんとか階段を昇り病院の屋上へと辿り着く。
空は、どこまでも蒼く晴れ渡っていた。
私には似合わない、穏やかで、楽園のような空だ。
「……世界まで、私を拒絶するのか」
掠れた声で呟く。当然といえば当然だ、私は最早何にも赦されるべき存在ではないのだから。
そのまま私は緩慢に、然し迷いなく歩みを進める。
その端へ到達する寸前に、両手を広げて行く手を遮るように彼女が立っていた。
きつく歯を食い縛って私を睨み、その両目の端から涙を溢しながら首を横に振っている。
"映り込み"でない形で彼女が私の前に姿を現すのは初めての事だった。考えるまでもなく特にその形に理由が存在した訳ではない。彼女は私の中の、私の想像上の存在に過ぎないのだから。
彼女は私の映し身であり、私の一部。
つまり、私はまだこの心のどこかで私を擁護していて、これから取る行動を躊躇っている。私を赦そうとしている。
……故に、彼女が今ここにいることが堪らなく憎々しく感じた。
「退け」
彼女は答えない。
「────退けって言ってるだろ!!!」
激昂して右腕で薙ぎ払う。
彼女は何の感触も返すことなく、掻き消える立体映像のように霧散した。
大きく息を吐いて、漸く屋上端の手擦りに辿り着く。
改めて空を見上げる。昼下がりの陽射しが網膜を焦がしていく。
「……タキオンさん、トレーナー」
「私は、そちらには行けそうにありません」
私に彼女の、彼の後を追うことは赦されない。
私は楽園へ至ることはできない。
大罪人の辿り着く場所は、ただ地獄のみが相応しい。
脱いだスリッパをその場に揃え、私は手擦りの上へと身を乗り出す。
何もかもを失い、その未来に何も残されていないのなら、もうこれ以上この世界にいる理由はない。
後はただ、絶えることのない地獄の底で、罪過の焔に永遠にこの魂を焼かれ続けよう。
「さようなら」
感覚が宙に浮くことはなかった。
思惑と逆方向に引き戻された私は、その身体を強く抱き締められていた。
……もういなくなった筈の、私のトレーナーに。
「…………ごめん」
「本当に……ごめん……俺……俺は…………」
彼は両肩で息をしていて、両腕は、身体は、酷く震えていた。
「……とれ…………な…………?」
「なん……で……生きて……」
少しだけ、何故か私まで楽園に辿り着いたのかとも思った。
だが抱き締められた全身の、先程までと変わりない激痛がこれが現実だと示している。
「……え?」
呆然として漏らした私の問いに彼が若干の戸惑いを見せる。
「いや……俺の方は多少内臓逝っただけで命に別状はなかったんだが……」
「……ああ、確かに心臓は少し止まったけど……応急処置してくれたウマ娘のお陰でなんとかなった、マッサージで肋骨はバキバキに折られたがまあ」
「……、……。」
現実味を感じられず浮遊する私の意識に彼は暫く考え込み、何かに思い当たったように口を開く。
「……夢でも見たんじゃないか?」
「…………!」
悪夢。服用していた薬剤の副作用の一つに記載されていたことを思い出す。忘れていた。
……そういえば、あの時身体は動かなかったが、身体が痛んでいた覚えがない。
「……もしかして、それで死のうとして……」
「…………っ、あ…………」
問いに答える代わりに堪え切れず彼の胸元に縋り付く。呼吸が速くなり嗚咽が混じり始める。
「……いや……だって俺、俺は……」
「お前の……お前の夢を、悲願を、未来を、奪い潰して」
「違う!!!」
声が掠れるのも裏返るのも構わずに無茶苦茶に叫び、否定する。
……この期に及んで、彼が私の自殺未遂を彼自身のせいだと自責しているなら、絶対に否定しなければならなかった。
彼は少し、優しすぎるから。
「違う……違うよ……」
「私は、私は確かに……果てには至れなかった、タキオンさんには追い付けなかった」
「だけど……よかったんだよ、これでよかったんだ、本当に」
「…………誰より大切な人を、置き去りにすることなんて、なかったんだ、なかったんだから」
「だから…………っ」
彼を安心させる為に顔を上げて、顔を見せて、笑おうとして、涸れていた筈の涙が堰を切ったように溢れ出した。堪えることはできなかった。
「ごめ……ごめんなさ……ごめんなさい……ごめんなさ……あ゛……っ」
「……あ……ぎ、い゛っ…………ぁあ……っぐ、っあ……ああ……う゛あああああ゛…………!!」
赦しを請いたくはなかった。私の行為は到底赦されるものではなかったからだ。それなのに、勝手に懺悔の言葉が漏れ出てくる。
私は卑怯だ。卑怯で、卑小で、醜悪な、人でなしだ。
「……カフェ……」
「……そうか、お前は……そんなに……」
……押し潰れそうだった私の身体を、私の心を、それでも、彼は追及せずに優しく包み込んでくれた。
「……俺も、同じだ」
「お前が想ってくれていることに気付けなかった、お前が苦しんでいることに気付けなかった」
「最後の時まで話し合うこともせずにお前を止められなかった、止められた筈だった。 ……罪人だよ、大罪人だ」
「だから」
彼は強く、強く私を抱き締めた。折れた肋骨の痛みは尋常ではない筈なのに、それでも。
「……とれー、なー……」
何よりも温かくて、何よりも心地良くて、何よりも愛しい。
「……お前が自分を責めてしまうなら、その傍で俺も自分を責めていることを忘れないでくれ」
「俺はお前は悪くないと思ってる、逆に多分お前は俺は悪くないと思っているんだろう」
「だから……苦しむ時も、後悔する時も、一緒にいよう。二人なら、堪えられる筈だから」
「……終わりを迎える時は、一緒に笑い合えるようにしよう」
「約束だ」
……私の楽園は、ここにあったんだ。
「あ…………っああ…………うああ…………!!」
本当に。本当に私は卑怯だし、彼も卑怯だ。
こんなに、こんなに苦しいのに、受け止めてくれると彼は言っているのだから。拒絶できる訳がなかった。
この青空は、私を拒絶している訳ではなく、私達を祝福してくれていたのだ。そう気付いた。
「……ねえ、トレーナー」
暫く子供のように泣きじゃくった後、私は未だに止まらない涙をそのままに、今度こそ彼に笑いかけた。
……冷たい雨とは程遠い、凍った心が融けたような、温かな涙だった。
「私……私、あなたに伝えたいことがある、伝えなきゃならないことがある」
「うん」
彼も私に笑顔を見せた。初めて見るような、温かな笑顔だった。
「俺も……多分同じことを思ってる。この期に及んで、漸く気付けたんだ」
「……トレーナー……」
そうして私は、思い上がりも、傲慢も、幻影も、全てを捨てられたのだ。
「私、あなたが────」
彼ではない誰かの手が、私の頭を撫でた。ような気がした。
晴れた心に、傘はもう要らない。
これからは、その手を二人で握り合って、共に隣で歩いて行けるのだから。
「……そういえば」
「え?」
「肋骨バキバキに叩き折って助けてくれたウマ娘って……」
「……ああ」
「ゴールドシップ」
「…………。」
やけに光輝く白い歯を見せる芦毛の少女の眩しい笑顔が青空の向こうに映り込む。
『謝礼は挙式の招待状で良いぜ!』と幻聴も聞こえる。
いやその演出は死人だろ。死んでないだろ貴方。
「カフェさん」
「白衣、クリーニング終わりました」
研究室の片付けを進めていた私達の元へダイワスカーレットが訪れる。
あれから続けてきたリハビリは文字通り血の滲むようなものだったが、彼の言葉の通り二人であれば難なく堪えることができた。
そうしてなんとか日常に復帰した私達は最初の作業としてアグネスタキオン亡き後の研究室を継ぎ、改装準備を進めていたのである。
「ああ……有難う、でも」
「その白衣は、私にはもう必要ないものだ」
私達は最早過去に縋ることはない。彼女の去った新しい世界を、私達の脚で歩いていくのだ。
「……それ、なら」
「私が、引き取ってもいいですか?」
スカーレットの硬い表情に私は目を細める。
「問題ないよ。 ……けれども」
「それを纏うことが残された者の傲慢であり、冒涜であり、驕りであるということは理解しているかな」
「……はい、それでも」
彼女の両目が示す決意は、覚悟は、確固たるものに見えた。
「私は、私の意志で、あの人の記憶と共に、一番になってみせます」
「……そうか」
私は安堵したように表情を緩め、それに気付いた彼女も朗らかな笑顔を見せる。
「お互い、頑張っていきましょうね」
「失礼します」
「ああ」
お辞儀をして去る彼女に私は軽く手を振る。
「……良かったのか? あの話を出さないで」
トレーナー……これからの相棒である私の元トレーナーが整理の手を止めて私に問いかける。
「はい」
「タキオンさんは恐らく彼女の"プラン"をスカーレットに継がせることは望まないでしょう」
「彼女の独立した意志は、決心は確かなものです。為れば私達が干渉するべきではない」
「……それもそうか」
オフィスチェアに腰を下ろした彼に丁度淹れ終わった珈琲を差し出す。カフェインの摂り過ぎは痛めた肝臓に悪いが程々なら影響も大したものではない。
彼はこの時間を私と共有することを楽しんでいるし、私も同様にこの時間が楽しみになっている。
「始めましょうか。私達は私達なりに、この世界に足跡を残していける」
「そうして焦ることなく、私達は私達のペースでいつか私達の楽園を目指せばいい」
「そうだな」
珈琲を一口啜ると彼は手元の木箱から金色に彩られた装飾品を取り出す。走者を引退し新しい道に進んだ私に、新規に支給されたトレーナーバッヂを一つ。
……そしてもう一個。落ち着いた色彩のフェルトの小箱から、白銀色の指輪を一つ。
「一緒に生きていこう、どこまでだって歩いていこう」
「……俺達の物語を、始めよう」
「はい」
「あなたとなら、どこまでだって行ける気がするし」
「多分、それは思い上がりなどではないと思うんです」
少しだけ目を閉じてから、彼に笑いかける。
涙は溢れていたがそこに哀しみは存在しなかった。ただただ幸せだけが溢れていたのだ。
タキオンさん。
私も、私達もいつかそちらに辿り着くのだと思います。
その速さは決して光速などには至らず、貴方からすれば鈍いものかもしれません。
だけど、私達は私達の速度で、必ずそちらに辿り着いてみせます。
その時はまた、珈琲と紅茶を淹れて、雑な思い出話でもしましょう。
「あのコースレコードから三年……か」
有馬記念。
中山のターフを見渡す私に、彼が思い出したように呟く。
「彼女は……やり遂げると思うか?」
「ええ」
私は迷いなく、確信を以てそれに返答する。
「これは私達の最初の一歩だけれど、同時に集大成でもある」
「そして、私はあなたを、あの子を信じている」
「……そうだな」
彼も同様にターフへ視線を投げ、笑みを浮かべた。
「信じているよ、俺も」
『プランR』。
私達はアグネスタキオンの残した残滓を
これは私達なりの彼女への
……そして今宵、
いつしか名前は、名声は薄れていく。記憶は土に還り、記録は風化して、不変などこの世界に等しく存在しない。
生ける者がどれだけ足掻こうと、誰であれ歳月という時間の流れには逆らえず、誰もが必ず終着点に辿り着くだろう。
それでも。
「一番、ゼンノロブロイ」
物語は、続いていくのだ。
テーマソング:Do As Infinity『楽園』
「晴れた心に、傘はもう要らない。 」
CC BY-SA 3.0 by Yelloids