「後悔」
紫のバーベナ
ダイワスカーレットは、アグネスタキオンに憧れていた。
アグネスタキオンの名は現代のウマ娘を語る上で避けて通れないウマ娘だ。かの7冠馬、シンボリルドルフを超えるクラシック、春シニアの計6冠。そして天皇賞秋、ジャパンカップを制し、秋シニア3冠の王道G1完全制覇のグランドスラムに王手を掛けた現8冠ウマ娘。それが超光速のプリンセス、アグネスタキオンだ。
ダイワスカーレットは、そんなアグネスタキオンの輝かしい功績を尊敬していた。それ以上に親愛の念も向けている。アグネスタキオンの『走る事に対する執念』には、努力を一切怠ったつもりがない自身でも悔しいが真似出来ないと思わされた。あの激情とも解釈出来る想い、そして常に正しい理論を以って行動出来る理念。ダイワスカーレットにはそれらが眩しく、輝かしく見えた。だからダイワスカーレットはアグネスタキオンに憧れ、追いつきたいと願って努力をしていた。
アグネスタキオンにしても、そんなダイワスカーレットを好ましく思っていた。そこには、自身の目的の為に利用する……という黒い思惑もあったのだろうが、その根底にはダイワスカーレットに対する言葉では表現できない愛情があった。「何故か他人とは思えない」とは本人の言である。だからこそ、アグネスタキオンの中でダイワスカーレットという存在は彼女にとって唯一『甘やかす対象』であった。何があっても味方である、と言えるほどに。
だが、ダイワスカーレット以上に、アグネスタキオンには大切な存在が居た。
それはアグネスタキオンのトレーナーである女性だ。タキオンの影響で、困り顔や苦い笑みが多かった人。それがスカーレットの彼女に対する印象だった。
そして、アグネスタキオンがモルモットと呼称する唯一無二の存在。アグネスタキオンの狂気を唯一理解し、受け入れ、夢を与え、それを叶える原動力を与えたただの人間。アグネスタキオンが唯一甘える事が出来て全てを任せられる存在だと言えば、その異常性と依存度の高さが窺い知れる。
アグネスタキオンにとって、最早居なくてはならない、半身のような存在。そんな女性が、死んだ。
交通事故だ。トラックに撥ねられて、即死。
それは有馬記念の、一週間前の出来事。アグネスタキオンの全てを……そして彼女に関わっていた全てのウマ娘と人間を狂わせた、最悪の出来事。
もし、時間が巻き戻せたら。そう神様に祈る以外、弱き者たちにはなす術はない。
♦︎
タキオンのトレーナーが交通事故で死んだ、という話をダイワスカーレットが聞いたのは、彼女のトレーナーである壮年の男性トレーナーからだった。
「嘘でしょうトレーナー!?」
「嘘じゃ、ないだろうな。たづなさんからの情報だ。あの人がこんな不謹慎な嘘を言うものかよ」
そんな……と、スカーレットのしっぽと耳が垂れ下がる。無理もない。タキオンとの繋がりで、彼女のトレーナーとは親交が深かった。それこそ、ウオッカのトレーナー以上に付き合いがあった程だ。
「地元が離れてる事もあって、通夜なんかの日程は未定だが……恐らく1週間は掛かるかもって話らしい。事故処理だの色々あるだろうからな」
「…………」
「トラックの運転手に恨みを抱くのは止めとけ。確かに過失はあるが、部外者である俺たちが怒ったところでどうにもならん」
スカーレットの心を読んだように、トレーナーが言う。
「ッ! で、でも!」
「でも、も何もないんだスカーレット。憎い、恨めしい。その感情は正しいものだが、加害者にぶつけてしまっても何もならん」
「でもタキオンさんが……」
「それこそアグネスタキオン自身が解決すべきことだ。犯罪にはなるが仇を討つ権利は、奴にはある。だが当然そんなことはしないだろう。自身の心と折り合いを付けることも難しいだろう。有馬記念に出走もしないかもしれない。アグネスタキオンが俺達に助けでも求めない限り、俺達に出来ることはない」
「そんな薄情な!」
「遺言だよ。アグネスタキオンのトレーナーからの、な」
苦々しい口調でトレーナーが言う。遺言……と反復するようにスカーレットが呟いた。
「3年目のペーペートレーナーの癖に、遺言だなんて御大層だと思ってはいたがな。『私が死んでも、タキオンの好きにさせてください』だそうだ。アグネスタキオンは優秀で賢いウマ娘だから、変に他の担当が口を出しちゃ余計に走れなくなる。それにアグネスタキオンに1番近くて、年季が入ってるトレーナーは俺ぐらいだからな。他に親交があったトレーナー連中はチームなり新人だったりで構う余裕がない。だから俺だけに釘を刺しやがったんだあの女」
その遺言の真意が何だったのか、今になってはスカーレットのトレーナーもわからない。いつもベッタリで甘やかしていたから独占欲でもあったのか否か。はたまた別の深い理由があったのか……。
一人になったタキオンを拾ってもトレーナーとして彼女の引退までやっていけるのはこの男か、マンハッタンカフェのトレーナーぐらいで、そのうち、タキオンのトレーナーが死んだ後もメンタルが変わらず、すぐさまタキオンの眼鏡に叶い、代理のトレーナーになれる余裕があるのはスカーレットのトレーナーであるこの男だけなのだ。
「しかもアイツは俺が遺言を律儀に守る男だって見抜いてやがる。癪に触るが、託されたもんはしょうがねぇ。奴の遺言を守ってやるしか俺には出来ん」
「……じゃあ、私はその遺言を守る理由はないってことね?」
「そうなるが、2日か3日ぐらいは接触するのは止めとけ。アグネスタキオンの方から来るならまだしも、スカーレットから行っちゃあ余計な世話になりかねん。少し一人にしてやれ。慰めたくなる気持ちは、分かるがな」
スカーレットのトレーナーは理解していた。タキオンは元来、一人を好む性質だと。他人に絡むのはあくまで実験対象であり、唯一の例外がタキオンのトレーナーであったと十分に分かっていた。確かにスカーレットはタキオンに甘やかされてはいて表面上は仲が良いが、完全に心を許しているとは思い難い。
「うん……そこは、理解しているわ。多分2、3日は学園に来ないだろうとは思ったし」
「だろうな。お前も今日はモヤモヤしてるだろ? 今日のトレーニングメニューは一旦白紙にする。休んでもいいし、トレーニングしてもいい。お前の気が休まる事をしろ。思いつかなきゃ、とりあえず走ってこい。ヤバそうだったら止めてやる」
一流のウマ娘といえど、スカーレットは多感な年頃だ。知人が死んだとなれば、メンタルが不調にもなるだろうとトレーナーは考えていた。実際、スカーレットの心境はトレーナーの言葉通りだった。
「なら、少し走ってくるわ」
「分かった。他にやりたいことが出来たらやる前に相談してくれ。お前の身体が壊れちゃあ元も子もないからな」
スカーレットは今すぐにでも、このモヤモヤとした感情を切り離したかった。とにかく、走れば少しでも解消するかもしれない。タキオンの心配をするのは立派だが、それでも自分の人生がある。夢がある。ウマ娘として譲れない想いがある。それらを汚すことだけは、一番を目指している自分がしてはいけないことだ。
(私は、私の出来る事をしなくちゃ…………!)
そうしてスカーレットは1人、運動場へと脚を向けた。
スカーレットと、トレーナーの期待は裏切られた。翌日にはタキオンは学園に戻って来ていたのだ。
だが、そこまでは予想範囲内。
ここからが、予想外だ。
「……冗談じゃねぇぞ。今のアグネスタキオンは、正気じゃない」
それがトレーナーが下したタキオンに対する評価。何かから逃げるように延々とターフを走り続けている様は、どう考えてもおかしい。理性的だった数日前からでは考えられないほどで、別人だと言った方がより信じられる。
「畜生、あの女……ここまで考えてたのか?」
脳裏に浮かぶのは、いつもタキオンの側でのほほんとしていたタキオンのトレーナーの顔。あのタキオンのトレーナーが一体どこまで考えていたか分からない。だが、ことアグネスタキオンというウマ娘に対しては千里眼のような読みをするのが彼女であった。タキオンからトレーナーに対する依存度の高さ。突発的なアクシデントに対する弱さ。全てトレーナー自身が作り上げ、そして壊すのも何もかも自由という立場に居た彼女が、担当ウマ娘がここまで絶不調になる事を予想していない訳がない。
「あの遺言は正しかったかもしれねぇ。だが、これではまるで……」
その先は言葉に出来なかった。『まるでアグネスタキオンを自分のところまで呼んでいるようだ』とは。あり得ない話だ。あのトレーナーなら、絶対に付き合わせないだろう。自分から、死から遠ざけようとするだろう。だが状況はそうは言っていない。これではタキオンは早々に潰れる。それも、有馬記念前に。
「有馬まで持てば御の字。持ったところで良くて完走。悪くて故障。つまり誰も望まない結果になることは明白。少し考えりゃあ誰だってそんな状況になることは分かるだろ。なのになんでタキオンに何も残してないんだ。いや、残しているのにタキオンが気付けていない……?」
ブツブツと呟きながら男は考える。
あのトレーナーがタキオンに対して何も残していない訳がない。
関わりがあっただけの男に遺言を残しているのに、そんな訳がない。なら、遺言だの遺書だのがあると仮定した時、あのタキオンの状態はどう説明すればいいのか。
まず一つ、内容に中身がなかったか、今のタキオンに対する言葉がなかった。
これは恐らくないだろう。何故なら意味がないからだ。なんの為に遺書を残しているのか、それが理解出来ないトレーナーではない。
続いて二つ目。恐らく答えはこれだろう。
「存在を、知らんのか……」
これしかない。タキオンは十中八九、遺書や遺言の類があることを知らないのだ。
「……口を出したところで本当に遺書があるのかすら分からん。遺書なんて、カフェんとこの坊主が聞いてねぇんなら俺以外に誰にも残してはいない。あの女、ピンポイントにデリケートな部分だから俺らが口出し出来ねぇと踏んでやがったな…………!!」
遺書があるとすれば彼女の部屋。タキオンが何度か不法侵入している事を聞いている男は、恐らく遺書はまともな形をしていないだろうと予想する。もしくは絶対に見つからない場所。この場合、タキオンに見つけられる場所……否、『探そうとしたら絶対に見つからない場所』にしか遺書を遺さないであろうから、彼女の遺書は封筒なんかには入っておらず、別の形で遺されているのだろうと推測出来る。
だが結局、遺書が本当に存在するのかどうかが分からない。もしなかった場合、タキオンの調子は更に下がる。そもそも、普通の人間は自分が理不尽な死に巻き込まれた事を想定して遺書なんて遺さないのだ。死んだ人間がやった事など、最早誰にも証明出来ない故にトレーナーはタキオンに存在を仄めかす事すら出来なかった。
自分に遺言を託されたあの時、ついでに聞いておけばよかったと後悔してももう遅い。
スカーレットのトレーナー……いや、一人のアグネスタキオンを知るトレーナーとして、出来ることはもう何も残っていない。
「坊主は役に立たねぇ。俺は動くに動けねぇ……。どうしろってんだよ…………」
男が坊主と呼ぶ、マンハッタンカフェのトレーナーは、タキオンのトレーナーを失った事により心神喪失中。しかも同期であった2人の間に何も遺されなかったから余計だ。
流石に有馬記念までには体裁は整えるだろうが、2、3日でどうにかなるメンタル状況ではない。
「あとはカフェとスカーレット次第か。どうにかタキオンを留まらせてやってくれ……」
肝心のトレーナー連中が役に立たない以上、同じウマ娘である彼女達の行動に賭ける他ない。
例え賭けに勝ち、支払われるモノが地獄だったとしても。
♦︎
「寮にも帰ってないんですね、タキオンさん……」
「そうなんですよ。ほら、旧理科実験室をタキオンさんが実験室にしていらっしゃるじゃないですか。どうやらそこで寝泊まりしているようでして……」
学園のカフェテリア。年末に近いということもあって、普段より閑散としているこの場所でスカーレットと話しているのは、寮でタキオンと同室であるアグネスデジタル。タキオンの事をマンハッタンカフェの次に知っているであろう彼女は、不安げな顔を隠せていなかった。
その理由と二人の話題は勿論タキオンの事だ。ターフで練習するタキオンの下に向かったものの、気迫に押されて話しかける事すらままならなかったのだ。
どうにか手伝えないか、何か自分に出来る事はないのかと考えた末にスカーレットは誰かに頼る事にした。まずはマンハッタンカフェ……と考えていたが、彼女はここ数日コンタクトが取れないでいた。その為、デジタルに声をかけたのだ。
「ここ数日のタキオンさんは何かに取り憑かれて……いや、確かに『いつもと同じでは?』と思うような表現ですがね、あれは違います。まるで自分を罰するかのようなんですよ。アレではいずれ破滅しちゃいます……」
タキオンは常に何かに取り憑かれたかのように実験を繰り返してきた。己の夢見た志の為に進んできた。結末が破滅と同じだとしても、果てを見れるのなら構わないと言わんばかりに茨の道を進んできた。
だがデジタルが言うように今のタキオンは同じように見えて、違う。それは誰にでも分かる程に。しかし誰もタキオンを止められない。声を掛ける事さえ出来ない。
全てを拒絶している彼女に、何を言えばいいのか。相対すれば誰もが持っていた言葉を失ってしまった。
「タキオンさんを私だって止めたいんですよ。でも……出来る訳ないじゃないですか。間違っているって分かっているんです。駄目だって分かってるんです。でも、でも……」
泣きそうな顔でデジタルが俯く。デジタルの感情を、スカーレットは理解できた。
「タキオンさんが、ああして走り続ける理由は私にも分かります。逃げたいという欲求と、一途にトレーナーさんを想う心。タキオンさんが目指している夢。それが全部一度にぶつかってしまってるんだと思います」
遠くのトラックを走り続けるタキオンを見る。その顔は苦痛の色に染まっているのがここからでも見てとれる。
スカーレットの予想が合っているとは限らない。ただ客観的に、過去と現在のタキオンを側で見てきたウマ娘からすると恐らく正しい。もしこの場にカフェが居れば、もう少し正確にタキオンを分析出来たのかもしれないが今のカフェはタキオンを避けるようになっている。理由は定かではないが、側から見ればタキオンを見限ったようにも見えた。タキオンとカフェの間には独特な関係がある。その関係性を上手く表現することはデジタルにも難しい。いや、案外簡単に言い表せるかもしれないが、それを口にする事は余りにも愚かで傲慢な事だった。
「見守るしか、ないんでしょうか……」
「今は多分……それしかないと思います」
タキオンはまだ走り続けている。休憩すら挟まずに、自分を追い込んでいる。これが夏合宿などの期間なら話は別だったのだが、今は有馬記念前だ。追い込みをするような場合ではない。それはタキオン自身も良く分かっている筈なのだが、二人にはそうは見えなかった。
「私も出来る限りタキオンさんの身の回りのお世話をコソコソとやる予定なんですが、スカーレットさんも出来る限り……」
「えぇ、タキオンさんの邪魔にならないように出来る限りの事はするつもりです」
デジタルとの会話の結果、スカーレットは特に何らかの情報が得られた訳ではなかった。だが全てを拒絶している状態のタキオンに出来る限り寄り添おうとしているウマ娘がスカーレット以外に居る事を知れたのは僥倖であろう。
だが次の日、スカーレットは人間の無意識の悪意と、集合知によって拡大していく根も葉もない噂という物を知った。
「な、何よ……なんなのよこれ!?」
普段ウマ娘を専門に取り扱わないニュース媒体を中心に、幅広いメディアがタキオンを酷評する内容を記事にしている様子だ。
学園がタキオンに対する取材の一切を禁止しているのはスカーレットの耳にも入っていた。だから安心していたのだが、どうやら他のウマ娘の取材と称してタキオンに取材を敢行した愚かな記者が複数人居たらしい。
しかもその中にはタキオンのトレーナーを侮辱するかのような内容の記事まである始末だ。
「ふざけてるの!? こんな……こんな内容をどういう感情を持ってたら書けるって言うのよ!」
口に出すのも憚れる内容が、これでも一般芸能関係の大手ネットニュースサイトが出しているのだ。スカーレットも今まで自分に関する記事をいくつも見てきた。批判的に書いているものもあれば、肯定的に書いているものまで。
だが今まで、悪意の塊を見たことはなかった。これを書いた人間がどういう存在かを知ることなど出来やしないが、センセーショナルな話題に尾鰭を付けて誤解を招くような表現までしている事を鑑みるに、殆ど面白がってプレビュー目当てでこのような炎上記事を書いているのでは、と勘繰れるような内容だ。
むしろそう思わなければ、ストレスで吐いてしまいそうだった。
「こ……こんな記事をタキオンさんが見たら……」
自分ですらコレなのだから、当事者のタキオンからすればどうなるのか。SNSを中心にタキオンに関する噂が爆発的に増えている現状だ。想像もしたくない。
スカーレットは慌ててタキオンを探しに寮を飛び出した。いつもの練習場所に居る筈だと信じて、スカーレットは駆け出した。
そして、タキオンを見つけた。恐らく早朝からぶっ通して走り込んでいたのだろう。
目の下には濃い隈。顔はやつれているように見える。尻尾の毛並みはボサボサで、明らかに体調が悪いのだろう。それでも、ターフを走るタキオンの姿からは狂気染みた雰囲気が無くなっていない。遠目から見ているだけでも、ゾクリと背筋に冷や汗が流れる程だ。
だからと言って、これはオーバーワークが過ぎる。本当に、タキオンは壊れ掛けだ。今のまま走れている事すら奇跡ですらある。
「止めなくちゃ……!」
水分補給をし始めた今がチャンスだ。今、臆していては本当にタキオンが壊れてしまう。スカーレットはタキオンが発する雰囲気への恐怖を押し隠しながらタキオンに話しかけた。
「あの……タキオンさん?」
「……なんだい?」
酷く低い声。
激戦を勝ち抜いてきた全戦無敗のウマ娘が発する絶不調で不機嫌な声がスカーレットに重圧として襲い掛かった。思わず足が震えてきそうな圧をなんとか耐えながら、スカーレットは言葉を続ける。
「少しオーバーワークが過ぎます。それに体調も悪そうですし……。いくら有馬記念前だからってそれじゃあ身体が……」
「五月蝿いな」
スカーレットが言い終わる前に、タキオンが牙を剥きそうな程怒りの感情を込めた声をぶつけて来た。今まで聞いた事ない声に、スカーレットが怯む。
「君にとやかく言われる筋合いはないよ。私の心配をするぐらいなら自分のトレーニングに時間を割く方がよっぽど有意義だと思うがね。君とっても、私にとっても……ね」
「っ……で、でも!」
「でも、も何もないんだよ。話は以上だ」
これ以上喋る口は持たないと言わんばかりにタキオンはスカーレットに背を向ける。スカーレットは、それ以上タキオンを止める為の言葉が口から出てこなかった。
体が、震える。これが、この圧力が時代を切り拓いてきたウマ娘なのか。実力を兼ね備え、誰にも負けない。1番は自分の物だと努力を続けてきたスカーレットでさえ敵わない、と体の震えを隠せない程の重圧だった。これがもし普通のウマ娘であれば、腰が抜けるどころか気絶していてもおかしくない。
そんな時、唐突に現れた腕が、後ろからタキオンの右腕を掴んだ。
一体誰が。隣に現れタキオンの腕を掴んだ人物を見れば、漆黒の髪の毛を持ちアグネスタキオンの理解者であるマンハッタンカフェだった。
「……随分と、怖い顔と目ですね」
カフェがタキオンを睨む。
「それが、どうしたんだい?」
タキオンがカフェに睨み返す。いつもタキオンに自分から突っかかることがないカフェが、恐らく初めてタキオンに牙を剥いている。
「仮にも貴女の心配をしているスカーレットさんに対して五月蝿いだなんて、いつもの貴女らしくもない」
「…………」
タキオンは言い返せない。が、苛立ちのままカフェの手を乱暴に振り払った。
「……黙っていたまえよ」
「いえ、黙りません。今の貴女が、とても気に食わないので」
言葉での応酬が止まらない。火種になってしまったスカーレットは見ていられなくなり、今にも食ってかかりそうなカフェを止めに入った。
「カ、カフェさん! 私の事はいいですから、止めておきましょうよ!」
が、カフェはスカーレットに見向きもしない。恐らく、発端こそタキオンがスカーレットを蔑ろにしたからだろうがカフェはそれ以外にも鬱憤が溜まっていたのだろう。トレーナーを失い、自暴自棄のように自分と夢を見失っているアグネスタキオンというウマ娘をこの数日見続けて、我慢出来なくなったのだ。
言うつもりはなかった。冷静であったのなら、絶対に言う事はなかった。それでも口から出てきてしまった。
「現実を見たらどうですか? 貴女のトレーナーはもう……」
そこまで言って、ようやくカフェは気付いた。
―――――私は、なんて事を口走ったんだ……?
そして気付くのがあまりにも遅かった。
タキオンが能面のような無表情で、その目には溢れんばかりの怒りを込めながらカフェの胸ぐらを強く掴んだ。
「黙れ」
先ほどスカーレットを一蹴した言葉よりも低く怒鳴るような声だ。タキオンが発する重圧も今までの比ではない。流石のマンハッタンカフェですら目を見開いて額に冷や汗を流している。
そこまでして数秒にも満たない時間の後、タキオンはようやく我に帰ったのかパッとカフェから手を離した。
「……話は以上だ」
バツが悪そうにタキオンは背を向けて立ち去ってしまう。その背中を呼び止める術と権利を、その場に残された二人は持ち合わせていなかった。
「申し訳、ありません。スカーレットさん……」
タキオンの背中を見送ってから隣に居たカフェがボソリとスカーレットに謝った。
「いえ……こちらこそ、庇ってくださってありがとうございますカフェさん」
「……私は、本当に酷い事を……彼女に……」
俯くカフェに、スカーレットは同情していた。仲が良い訳でも、悪い訳でもない。だがお互いが歩み寄れるだけ気心が知れた相手だった。趣味も性格も走法も何もかも合わなくても、どこかで繋がっているような……良く言えば『お似合い』だったアグネスタキオンとマンハッタンカフェの二人の関係だからこそ、ここまで言い争いが発展してしまった。カフェの失言とタキオンの暴力。それが一定のラインを超えなかったのも、二人が二人を思いやっているからこそ止まったものだ。
「大丈夫ですよカフェさん。タキオンさんだって、分かってくれますよ。ですから……有馬記念が終わった後にでも謝りに行きましょう。私も付き添いますから……」
「……そう、ですか。そう……ですね。ありがとうございますスカーレットさん」
スカーレットに向けた顔は弱々しかったが、カフェはなんとか笑顔を作り上げていた。
―――――もしかしたら、もう二度と私たちの溝は埋まる事はないのかもしれない。
カフェは薄っすらと、そう感じ取ってしまった。
この予感が的中しないようにと、願わずにはいられない……そんな予感を。