23話の後の冬のもしもの話です。(原作28話へ繋がらない話。アナザーストーリー)大正5年12月11日くらいの日付。
今まで辛いことを我慢していた姫子が文治に本当の自分の気持ちを伝える話(告白ではないです)

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*この話は歳の差恋愛ですので苦手な方は注意。
また、今回は姫子の母親が倒れる描写があるので、それが苦手な方も注意。

それでもよければお読みください。
タイトルの涙は悲しい涙と嬉し涙の両方。冷たい掌は手が冷たい人は心が温かいというフランスの慣用句が面白いのでつけてみました。



涙と冷たい掌

冬の朝は床から出るまでが大変で、ついふとんの中でもう少し……とうとうとしたくなる。

床の外は寒くて布団を剥ぐとぶるっと身体が震えるから嫌だ。着替えるにも肌を晒した瞬間のひやりとした空気に触れなければならない。

だからもう少しだけ……

 

「姫子さま朝ですよ」

「………」

「起きてください!」

龍子の声を聞いてはっと目を覚ます姫子。

「う…ん」

寝ぼけ眼のまま、布団から上半身だけ起き上がると

姫子はぼんやり龍子を見た。

「龍ねーね、おはようございます……」

「おはようございます。姫子さま」

 

大正5年、冬の名古屋でも木枯らしが吹き始めた頃。

平穏な生活を営みが花塚家でも続いていた。

本格的に寒くなる前の秋から冬へ変わりがけの乾いた空気は人々の心を引き締めるかのように冷え冷えとしていた。

 

冷たい水で顔を洗い、着替え、朝食を食べ終えると

風呂敷にノートや教科書を包み学校へ行く準備をする。途中焦って着物の帯を踏んで転びかけたり、口元に米粒をつけたままだったりするのを龍子が甲斐甲斐しく世話をしてやってなんとか登校準備が整った。

 

「すっかり冷えてきましたね。」

「ええ、重ね着をしないと寒くなってきました」

龍子が、瑞子に言うと瑞子が身体をかき抱くような仕草をしてみせる。

「もう、冬なんですね。早いなあ」

姫子がぽつりと言った。

「ふふ大人になったらもっと一年が速く感じるようになりますよ姫子」

「ええっ!今でも速く感じるのに…もっと速くなるなんて」

「だから、姫子今を大事に生きなさい」

「今を」

一瞬、真面目な顔になった瑞子だがすぐ、普段通りの優しい顔になると学校、遅れてしまいますよと姫子を急かした。その真面目な顔に疑問を抱くも、遅刻してはいけないという思いからすぐ姫子はそのことを忘れてしまうのであった。

 

「行って参ります」

「行ってらっしゃい!」

 

 

迎門を出ていく姫子を見送ると、龍子は今まで気を張っていたのが嘘のようにその場にうずくまってしまう。顔は青ざめ、表情は苦しげ。

何かを言おうとするがぱくぱくと口を動かすことが精一杯のようだった。

瑞子がなかなか戻ってこないことに不安を覚えた龍子は足袋のまま何も履かず外に向かう。

「奥さまっ!」

「……龍子……ちゃん」

息も絶え絶えにうずくまる瑞子に駆け寄ると

「今、医者を呼びますから、奥さまは安静にしていて下さい」

肩を貸して歩こうとしてみるが、力の入らない瑞子の身体は思いの外重くなかなか安定しない。

「くっ」

そこへ、こま子と月子、星子が続け様にやってくると瑞子がぐったりしているのを見て呆然とする。

 

「あんたたちぼうっとしてないで手を貸して!」

龍子が一喝すると、こま子が瑞子の身体を支える。

「ごめん龍姐、おら動揺しちまって」

「私たちは、奥さまの布団を用意してお医者さまを呼んできますわ!」

「ええ、頼んだわ」

てきぱきと指示を出すと龍子とこま子は瑞子を寝室へ運び。着物の帯を緩めると布団へ寝かせた。

かかりつけ医に連絡を取れたことがわかると龍子はふらりとめまいがし倒れそうになったもののなんとか気合いで踏みとどまる。

「龍姐………姫子さまに連絡は?」

「いえ、余計な心配をかけるわけにいかないから連絡はしないでおいて」

「わかりました。」

そうして、女中たちがあたふたと瑞子の介抱などをしている頃、文治たちはどうしていたかというとーーーーー

 

 

 

第三師団第六連隊 大隊事務室

 

執務室で文治が書き物をしていると、三ヶ尻が現れる。なんだか落ち着かない素振りで軍服を撫で付けたり、近くに置いてある備品か何かをいじったりしていたが、意を決したかのように口を開く。

「聞きましたよ、あのけしからん奴と喧嘩もとより、言い合いになったとかなんとか」

ガリガリと万年筆を紙に走らせていた手を止めて文治は一目だけ三ヶ尻を見るが、また視線を書類に戻した。

「言い合いか………あくまでも対等な話し合いをしたつもりだが」

「話し合いだけで、あの不良が顔を腫らしてくるわけないじゃないですか」

「穏便に済ませたかったが、聞き捨てならぬことを言われたものでな」

「成る程」

文治が一瞬殺気、のようなものを出したのを三ヶ尻は察すると至極真面目顔になった。文治の身の回りの世話をいつもしている三ヶ尻だからこそ気がついたことかもしれない。

「軍隊は軍紀が無ければ無法者の集まりに過ぎないですからねぇ。あなたが、兵士の動向全てを把握し規律を守らせるなんて無理難題も、いいところでしょう」

「できる限り、やらねばなるまい。上に立つ者の勤めということだ」

文治は涼しい顔で言ってみせる。

「高貴なる者の義務。字面だけはやけに格好いいわよね。でも土屋少佐」

三ヵ尻はカツカツと文治の文机まで歩み寄ると幾分か声を落としながら言う。

「貴方を尊敬しない者に尽くしたところで、その者が良くなるとは限らないというのをお忘れなく」

「いや、そういう者こそ大局を迎えた時役立つものさ」

「…………」

「三ヵ尻中尉、己に味方するものだけを信用してい

れば、いずれ足元をすくわれる。なればこそ、自分を好かない者も手元に残しておかねばならないと私は考えている」

「アタシは貴方がそう思うのであれば、それに従うだけです。しかし後悔だけは、なさらないよう」

三ヵ尻の言葉に困ったように眉根を寄せ口元に笑みを浮かべて見せた文治は、わかっているとだけ答え再び書類へ向き合った。

 

再び花塚家

 

姫子が学校が終わり、家へ着くと龍子が出てきて

瑞子が体調悪く倒れたことを教えた。

慌てて下駄を脱いで駆け出そうとした姫子に龍子はお待ちくださいと一声かけると、瑞子の容体は安定しているから心配しなくて良いと言う。

 

それを聞いて安心した姫子は、良かった…と言うなり涙をぽろぽろとこぼす。

「姫子さま…」

「また、あの時みたいにお母様を助けられなかったらと思ったら私…私」

「大丈夫です。姫子さま、あの時は私達がいなかったから大事になってしまいましたが、今日はちゃんと奥さまの側にいて医者を呼ぶことができました」

だから姫子さまは気に病むことないですよと龍子は言い優しく姫子の頭を撫でた。

少しの間姫子は涙を流すと。手の甲で涙を拭う。

「ありがとうございます。龍ねーね。」

姫子がそう言い終えると丁度、引き戸がガラリと開いた。

「御免くだ…おや、姫子さん」

「文治さま」

 

「土屋さまいらっしゃいませ、今日は少し早いですね」

「虫の知らせというか今日は早めにお邪魔した方がいい気がしまして、会議を早めに切り上げて来ました。」

虫の知らせという言葉を耳にして、思わず目を逸らしかけた龍子であったが動揺を隠すように、大したことはございませんでした。と言い会釈する。

少し気まずい空気が流れたが、姫子も龍子も平気なフリをして誤魔化した。

 

廊下の床の冷え冷えとした冷たさが足袋底からじわりと体温を奪う。それと似たように瑞子の体調が段々と悪くなっていくのが姫子にもわかってしまった。怖い。お母様がいなくなってしまったら、そんな恐怖に心が囚われかけた時、肩が重くなった。

姫子が、はっとして振り向くと文治が柔らかな顔で姫子を見ている。

「姫子さん体調でも悪いのですか、先程からふらふらしていますが」

「えっと、」

「………?」

「ああほら!急に寒くなりましたよね…それで冬の風に当たってしまってふらついてしまいました。ですけど体調は悪くないので心配無用です」

わざとらしく腕を少し掲げてみせると

「そうですか、これは失礼しました」

ふっと唇を曲げて笑みの形を作ると少しおかしかったのか口元に手をあてる。

 

しかし、姫子の方は母親がいなくなる不安の方が心を占めていたので、それには気づかなかった。

 

 

皆揃って箸に手をつけた時、瑞子だけ茶碗の中身が粥であることに文治は気づく。しかも、匙で掬った粥はとろみが強いようで、米をほとんど入れていない重湯のようであった。

茶の間でひとしきり夕餉を済まし、あとは一服して帰るとなった頃。文治は姫子に声をかける。

 

「姫子さん、少し庭に出て話しませんか?」

「はい…」

心ここにあらずという風に生返事で答える姫子。

屋内は火鉢が置かれていて、暖は充分に取れている。その熱に浮かされているようなぼんやりとした様子で姫子は何かをずっと考えているように見えた。 

 

12月の寒月が空に輝く中、すっかり冷たくなった冬の風が着物の襟元から入ってきて身に沁みる。姫子が思わず首をすくめて己の身を掻き抱くと。文治が姫子の肩に羽織りをそっとかけてやる。それは紺色の生地に南天柄があしらわれたものだった。

「ありがとうございます」

「いえいえ」

 

縁側から、少し離れた場所まで来ると文治は煙草を取り出して火をつける。強い夜風が吹きつけて、一本二本とマッチの火が消えてしまい三本目でようやく火がついた。

「今日は、何かありましたか」

「…………」

手先が冷えるのか袖の中に手を入れる姫子。

口を開くも言葉がなかなか出てこない。

 

「文治さまに聞いてもらうほどのことでは無いです」

「そうですか、では涙の後があるのは大したことでないのでしょうか」

「これは…」

 

「何かあったから、泣いていたのでは、ないですか?」

「………」

「話したくなければ話さなくてもいいです。けれど、涙が溢れるくらい辛く、我慢していたというのならその理由を教えてください。」

 

「本当に大したこと…」

ないですからと言いかけた姫子の目から一粒涙が溢れる。

 

そんな姫子を見て文治は困ったような表情(かお)をするとふーと紫煙を吐き出した。

吸いかけの煙草に燃え尽きた灰が長く溜まったのをとんとんと落とすと懐紙を取り出しその中へ煙草を入れ揉み消す。それから文治は両の目を閉じ、深呼吸すると静かな口調で話し始めた。

 

「姫子さんはもっと、辛い時に辛いと言っていいと思います。我慢しすぎることは身体の毒ですから」

「辛い時に辛いと言ってもいい…ですか」

きょとんとした表情をしながら姫子はまじまじ文治を見る。真面目な顔つきになり歯を強く食いしばるとおずおずと口を開く。

唇が震えてなかなか声が出ない。

涙が再びいく筋も目から溢れて頬を伝う。

 

「お母様が…」

 

ようやく、お母様と言う言葉が出てくると、ことのあらましを文治に話すことができた。

自分が、いない時に瑞子が倒れ、以前と同じ様に何も出来なかったこと。大事に至らなかったものの今度瑞子に何かあったらどうしようという恐怖とまた助けることが出来ないのではという後悔が沸いてきたこと。そして、そんな後悔を文治に知られてしまうのが怖くて仕方がなかったこと。

 

ひとつひとつ話す姫子の言葉を、文治は遮らずに

頷き、時に相槌をうち最後まで聴いてやった。

 

「私、また何もできませんでした。朝お母様とお話したのに具合が悪いことに気づいてあげられなかった」

じわりと目の端に涙を浮かべて唇をわなわなと震わせながら姫子は言う。

「話してくれてありがとうございます。それだけ辛いことがあったのによく我慢しましたね」

ぽろぽろと涙を流す姫子。文治はしゃがんで姫子と視線を合わせると、ハンカチを取り出して涙を丁寧に拭いてあげた。

「ねーね達が、なんとかしてくれましたが、もし誰もいなかったら……」

「確かに誰もいなかったから瑞子さんは今頃大変だったかもしれない。でも姫子さん。あなたは自分が何も出来なかった時でも、相手のことを気遣ったじゃないですか。それは立派な優しさなんですよ」

「そうでしょうか…」

「ええ何もできなくても相手を想うこと。それは誰にでもできることじゃありませんから」

 

姫子の涙がようやく止まって落ち着いてきて嗚咽も収まってきた頃、文治はハンカチをしまうと、姫子の頬に触れた。ごつごつとした大きな指が、涙に濡れた頬に当たるとビクッと驚く姫子だったがそれを拒むことは無かった。

 

そうして数刻かそれ以上か黙ったまま。

文治の触れた指を意識して顔が火を吹くくらい熱くなってきた姫子は、あることに気がついた。

「文治さま、手が冷たいですね」

「ああ、風が冷たくなりましたから、手袋をしていない時は随分と冷えますね」

 

冷え切った文治の手に姫子の小さな手がそっと触れる。その手に顔を近づけると姫子は、息を吹きかけた。暖かな吐息が一瞬だけ文治の手を温もらせるがすぐに冷たくなってしまう。

それでも一生懸命、息を吹きかけ続ける姫子。

 

そんな姫子をいじらしく思った文治は、ポケットからそっと何かを取り出して見せた。

「これは?」

「懐炉(かいろ)です」

「かいろ?」

「寒い時期持ち歩く携帯ストーブとでもいいましょうか。手を乗せてみてください」

不思議そうな顔をして、温石(かいろ)を見つめていた姫子は、恐る恐る小さな箱に手を乗せる。

「暖かい」

文治の手にある金属製の容器はじんわりと熱を放っている。冷たい風の寒ささえ忘れてしまいそうな温もり。

 

「姫子さんは辛いことを我慢し過ぎだと思います」

「えっ…」

「先日、革靴で足を痛めた時も痛いのを我慢して歩いていたでしょう」

「……はい、迷惑をかけてしまっ」

て、と言い切る前に

人差し指を立てて姫子のくちびるに軽く当てる仕草をする。姫子の方は驚きと恥ずかしさで頬を赤くし目を見開く。

「うーんそうですねぇ、なんと言ったらいいか。私は姫子さんの辛さをできるだけ和らげてあげたい。でも黙っていたら辛いかどうかわからない」

そこまで言うと文治は姫子が懐炉に乗せている手の上に更に自分の手を重ねた。

両の手に包み込まれ、手のひらだけの温もりが全体に温もる。同時に姫子の鼓動はばくばくと脈打っていた。

「ぶっ文治さま!」

「姫子さん、もっと私を頼ってください。我慢しないで」

「けれど、そんなみっともないところを文治さまに見せたら…」

嫌われてしまうと姫子がぎゅっと目を瞑りながら思っていると。

「私はどんな姫子さんであろうと大切にしたいと思っています」

「文治さま…」

その言葉に恥ずかしさが深く込み上げてきて咄嗟に手を引っ込めようとするも、すぐに捕まえられてしまった。

「えっ」

姫子の手を掴んだ拍子に、懐炉が落ちる。

それを拾わずに文治は、手を掴んだままでいた。

優しいけれど、悲しみを含んだ眼差しを文治は姫子に向けていた。今まであまり感情。特に悲しいという感情をはっきり見せてこなかった文治が、悲しみを顔に出している。きっと今までは悲しいという気持ちをひた隠して見せないようにしてきたのだろう。悲しい顔などしたら姫子を心配させてしまうから。

「悲しい事で、その美しい睫毛を涙に濡らすなら、私の胸を貸しますから存分に泣いてください。一人で抱え込まないで」

風が吹き付けて寒いのになんだか文治と姫子がいる

この場所だけが暖かいような気がして姫子は不思議に思う。

文治とこうして2人で過ごすようになってから数ヶ月。初めの頃は、ただ側にいてお慕いしているだけで良かった。けれど、段々秋が深くなり冬が近くなると文治の表情(かお)に疲れが見えるようになってきた。それまでは好きと思っているだけで良かったのに疲れた顔の文治を見ているとそれだけで済ますことが姫子には耐え難いものになっていったのである。

 

しかし、姫子は背伸びしてもまだ子供。文治にしてやれることなどたかが知れている。何をしたら文治を助けてあげられるのか姫子にはわからなかった。

折悪く瑞子が体調を崩して倒れたことと文治に何もしてあげられない自分が情けない気持ちが重なって心を押し潰すことになってしまった。

それでどうしようもなくなり泣いてしまった姫子を文治は否定せず泣いても良いと言うから姫子もまた文治を強く支えていきたい気持ちが胸に芽生えたのであった。

 

「ありがとうございます。文治さまも我慢しないでくださいね」

「私は大丈夫ですよ」

「文治さまもです。あまり顔に出さないですけど、お疲れになっている時は、煙草を吸っていてもぼうっとしてますし、時々鞄なんかを忘れて帰ろうとした時もありました。そう言う時はかなり疲れていますよね。だから無理はしないで下さい。」

姫子の言葉にはっとし文治は口元を手で覆うと、

してやれたという表情(かお)になる。

「許嫁殿は私のことを全てお見通しというわけですか……」

眉根を寄せて苦笑いすると、先程取り落とした懐炉を拾い文治はポケットに懐炉をしまう。

「疲れている時は、疲れてるって言って大丈夫ですから、隠さないでくださいね」

 

「文治さまー姫子さまー冷えるすけ、そろっと中へ入ってくんなせ」

こま子が縁側から身を乗り出して姫子と文治に声をかけた。文治と姫子が顔を見合わせると2人共自然にふふと含み笑いをする。暖かった手はすっかり冷え切ってしまったものの心はじんわり暖かった。

 

「はあい」

返事をして、縁側まで姫子と文治が縁側へ向かう。

下駄を脱いで部屋の中へ入ると瑞子が、立っていて

2人を出迎える形となった。黒と紺の市松模様の着物を着ている。こま子の方は用事があるのかとっくに部屋からいなくなっていた。

 

朝倒れたというのに体調が良くなったからと少し無理して夕刻に寝所から出てきたことを姫子は龍子から聞かされていた為、また心配になった。

「お母様。無理しないでください今夜は寒いですから身体に障ります」

 

「ふふ、そうね。だけど今は本当に体調がいいから心配しなくていいのよ姫子」

 

そう言われてみると確かに瑞子の顔色は良く肌に艶もあり、顔色も悪くなかった。

瑞子の言葉が嘘でないとわかり姫子は安心した途端、ふらふらしてしまい転びかける。

すぐさま文治が、姫子の肩をそっと支えてやると、姫子は恥ずかしそうにすみませんと言った。

「安心したら身体から力が抜けてしまって」

「まあ、姫子ったら」

「奥様は身体の調子が芳しくないと姫子さんからお聴きしましたが」

 

「冬の冷たい空気にあたったのがいけなかったみたいです。けれど龍子ちゃん達がいてくれたから大事にはならず済みました」

自分が体調を崩したというのにも関わらず、呑気そうに言う瑞子。一方、姫子は不安そうに母を見る。

 

「姫子、悪いけどお茶を汲んで来てくれないかしら

?私が淹れたのはすっかり冷めてしまったからお願い」

言われて姫子は、食卓机に置かれた急須と湯呑みをお盆に乗せて部屋の外へ出て行く。

小さな足音が、とたとた響いて消えていくと。

「前にも頼みましたけど、姫子のことよろしくお願いします。」

深々とお辞儀をし、神妙な口調で瑞子は言った。

文治はとくに表情を変えなかったが、

「わかりました。」と答えた声色は硬く、ほんの少し震えていた。

 

畳に正座し、膝の上に手を添えて瑞子は畏まる。

「文治さんはご存知ですか、夏目先生が先日お亡くなりになられたのを」

吾輩は猫であるを書いて人気を博した作家、夏目漱石、本名夏目金之助が12月9日に胃潰瘍が悪化したことで亡くなったのであった。享年49歳。

書きかけの連載小説も完成しないままであったというが潰瘍が悪化していくと起き上がって筆を取るのも容易ではなかったという。

「ええ数日前でしたね。新聞で見ました」

「医者からも聞いていると思いますが、私の病は夏目漱石と同じ胃潰瘍。今の時代では治すことができない病です。症状を抑えるための薬を貰っていますが、私もいつ夏目先生のように命を落とすかわかりません」

 

「奥様……」

「私ったら、病気を言い訳にしている訳ではないのだけど、まだ子供の姫子を1人にさせる訳にはいかないと思ってしまって」

そこまで瑞子は口にして、思わず言いすぎたと自嘲してみせたが目元は笑っていなかった。

 

「姫子さんはまだ、12歳ですが、精神(こころ)は立派な大人と言っても差し支えないと私は思っています」

「そうかしら、でも文治さんが言うならそうかもしれないわね。私よりも姫子と話しているし仲良くして下さっているし……。子供、子供と決めつけているのは私の方よね」

文治は煙草に火をつけて、煙を吸い込むとしばし目を閉じて思案する。再び目を開けた時に、煙をふと吐き出してから、口を開いた。

「奥様が心配する気持ちもわかりますが、姫子さんを信じて、成長していくのを見守ることも私達の立派な勤めだと思います。」

「そうね。急にこんなこと話してしまってごめんなさい。身体が弱ると心まで弱ってしまうのかしら」

「ええ、寒さは心にも堪えますから。特に冷たい風が吹く冬のはじめは。奥様はどうか身体を大事になさってください。無理はしないよう」

「はい、気をつけます。ふふ無理はしていないつもりでしたけど」

(文治さんにはばれてしまったかしら)

心中でどきりとしつつ顔には出さないように瑞子は笑顔で答えた。

 

瑞子が答えた後すぐに

軽い足音がし襖が開くと

「文治さま、お母様、お茶お待たせしました!」

と息を切らせて部屋に入ってくる。

 

「ありがとう姫子」

「姫子さんありがとうございます」

 

瑞子と文治が柔らかな笑顔を向けて言うと姫子も笑顔になって「はいっ」と言った。

しばらく色々と3人お茶を交えて話をしていると、

冷たい手の話題になる。

 

「そういえば、姫子は知っている?冷たい手の人は心が温かいというの。お父様から聞いたのだけど」

 

「えっ、冷たい手だと心が温かいですか、それは知らないです」

「ああ、確か…フランスの慣用句にそんな言葉があるみたいですよ姫子さん」

「そうなんですか!どんな慣用句なんでしょう」

目を輝かせ文治を見る姫子。文治はそんな姫子を優しく見ながら

「Froides mains, chaudes amours.冷たい手、温かい愛、手が冷たいのは愛している証拠。」

「手が冷たいのは愛している証拠、あい愛っしてる」

そこまで言って姫子は頬を赤く染めると

「その、文治さまも手が冷たいので…そのそのっ」

私を愛して下っているのですねと言えず姫子は恥ずかしさのあまり瑞子の後ろに隠れてしまう。

「まあまあ、姫子は相変わらず照れ屋さんね。

手が冷たい文治さんはきっといえ、本当に姫子のことを大事に思ってくださっていると思いますよ」

「そうでしょうか…」

瑞子の背中から、顔と半身だけ出して姫子。

「はははっ、ご想像にお任せします」

と言いながら文治は煙草を吸って短くなった吸い差しを灰皿で揉み消した。

答えをはぐらかした文治であるが、隈のある強(こわ)い顔は、限りなく優しく、愛しむような眼差しを姫子に向けている。瑞子はその姿を見て文治に姫子を任せても大丈夫と確信した途端一筋の涙が頬を伝った。

(嬉しい時も、涙って出るものね)

歳のせいもあるかしらなどと考えてもみたが、文治が姫子を本当に愛していることを心から嬉しく思うからこそ涙が溢れたのだと瑞子は悟った。

「奥様泣いているんですか」

「いいえ、目に塵(ごみ)が入っただけです」

そう、ごまかして瑞子は目元を拭う。政略結婚で縛られた文治と姫子が、お互いを思い合うのであれば

自分がいなくなっても2人生きていけるそれだけで瑞子の心は満たされ。安心感が胸いっぱいに広がった。

 

 

大正5年名古屋。山から吹き下ろす風が冷たくなる12月。30歳の文治と12歳の姫子は、確実に愛を育み、

ともに生きていくことを強く意識するようになっていた。時代の冬が日本に迫りつつあることを、2人はまだ知らない。しかし、本当に愛し合う2人であればどんな時代を迎え、どんな困難に出くわしたとしても支え合って生きていくことができるだろう。

 

終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




4月から長らくお待たせしました。煙と蜜の二次小説の新作がやっと完成しました。半年以上かかってしまいましたが、なんとか完成しました。仕事やらメンタルが…という言い訳はなしにします。本当すみません!時間がかかった分、姫子ちゃんと文治さんのやりとりは甘い雰囲気に仕上げているつもりです。何卒お許しを。
好きな映画、迷子の警察音楽隊の場面を若干アレンジして書いてます
泣いてる女の子の場面。全然リスペクトになってないかもですが、少しでも楽しんでもらえたら幸いです。誤字脱字あったらすみません。
後書きおわり

そんなことよりですよ。公式は、文治さんの等身大パネルやポストカードや色々な展開をやってくれてありがたい限りで、三集もしっかり保存用、読む用、予備用と三冊揃えました!
そして、ハルタ本誌でやっている話が熱いですね。文治さんが知的なイメージから頼れる肉体派になってるのいいなーと。長蔵先生ありがとう!最近筋トレを始めたとなことですが、もしかして鍛えた自分の筋肉をデッサンするためですか?なんてストイックなんでしょう。憧れます。(デッサンのための筋トレかはわかりません)
二次創作から煙と蜜を知った方是非、原作読んでみてください!
1〜3集まで出てます。
では、また長くなりましたが次は短編集を掲載する予定ですので、よろしくお願いします。読んでいただきありがとうございました!

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