それでも俺は、冥王様を助けたい。   作:歌詠

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第15話 彼らの戦い

 

 

 

 

 

 祭儀場。

 宇宙を模し黄金の陣の上で、黒髪の人間が静かに眠っている。

 九十九零。

『誓いの刻み手』の役を受諾したこの者の意識は現在、アテナ、ポセイドン、ハーデスらのうち、いずれかの魂の欠片の中にある。

 

 零の左胸で揺らめく、3色の炎。

 そして、そんな彼を囲んでじっと儀式の終わりを待つ、聖域、海域、冥界の神と人間たち。 

 

 時間だけが風に吹かれた砂のようにさらさらと流れてゆく……誰かが、そんな錯覚を覚えた、そのときだった。

 

『……まずは、私か』

 

 ふっ、と。零の心臓に灯っていた3色のうちの蒼白い炎が、まるでロウソクに息を吹きかけたときのように消滅したのだ。

 目に見える変化はそれだけだったが、

 

『……ふむ、どうやら無事に、私の魂に代償が刻まれたようだ』

 

 大地の震動のような、低い、ポセイドンの言葉に、ただ待つだけだった一同は、肩に入っていた力を緩めることになった。

 

「よかった。多少の心配はありましたが、零さんは役割に徹してくれているようですね」

 

「ええ、あれでいて真面目な所もある奴ですからね。一つの代償を刻むのに一刻半。この調子ならば太陽が上るまでには儀式は完了するでしょう」

 

 特に、意図的に儀式の詳細すべてを零に告げていなかったアテナとアヴニールの主従は、心の底から安心したかのように息を吐き出した。

 零を信頼していなかった訳ではない。だが彼らにとって、九十九零は非情にはなりきれない、優しいとも甘いとも評せる性質の人物だった。

 だから彼が“重い”と感じるであろう神々の誓いを拒むことがないように、儀式は零が“誓いの刻み手”を受諾した時点で、零の自由意志に関係なく、陣が彼を役割どうりに動かし喋らせるように細工が施されていたのだ。

 

 それ故の罪悪感。

 だがその効能があるのは、あくまでも誓いを受け取る儀式の初めだけ。

 零が魂の欠片の中へ意識を落とし込んでからの儀式の進行は、すべて彼に一任されることになる。

 

「この程度で負い目を感じるとは。“刻み手”をやると決めたのは彼自身だろうに」

 

 聖域の代表者たちは神も人も甘いのではないか? とミトラスは一人、呆れたように言葉を零す。

 そうして傍らにあった己の主が宿る黄金の三叉鉾へと視線を向けて、

 

「……ポセイドン様? いかがなさいましたか」

 

『──ん? ああ、海龍か。どうした』

 

「いえ……平時より少々、お加減がすぐれないように見えたものですから、お声掛けを、と」

 

 端から見ればポセイドンの宿る鉾は見た目通り、ただただ黄金に輝く美しい鉾。内なるポセイドンの感情は表層には現れてはいなかった。

 しかしミトラスの目には主の様子が平時とは異なるように映ったらしい。彼は直立する黄金の鉾の前で、さっと跪いて労るように言った。

 

「神器といえど慣れぬ器にお疲れなのかもしれません。もしくは儀式に何かしらの不備が……どうか無理はなさらずに」

 

『大事ない。確かにヒトの形をした依代と比べれば黄金の三叉鉾(トライデント)は窮屈ではあるが、この程度で疲弊する私ではない。──ただふと、なぜだろうな。かつての己の所業を思い出したのだ』

 

「かつての、ポセイドン様の所業を?」

 

 意図を測りかねて戸惑うミトラスに、ポセイドンは何てことのないように言葉を続けた。

 

『わざわざ語る必要もない、ありふれた昔話だ。ただ、そうだな。葛藤のすえ、過ちを正すためにと起こした所業が、実りある結果を産み出せなかった……それ故の心残りともいえようか。悠久の時を生きる神であれば、誰しもが私と同様の経験をしているだろうよ』

 

 長い年月を生きてきた神の、ほんの気まぐれのような追想の呟きだった。

 ポセイドンの言葉に思うところがあったのか、冥界の陣の上で目を伏せていたハーデスが、そっと口を開いた。

 

「お前にしては珍しい。“踏みとどまるべきだった”と、後悔しているような物言いだ」

 

『ハッ、笑わせるな。後悔したところで過去は変わらん。どのような結果が産まれようと、秩序の護身者たる我々は、善悪全てを飲みほしてでも前に進むほかない。我々が立ち止まればこの世の命の流れすらをも、行き場を失い停滞を余儀なくされるのだからな』

 

 ポセイドンの言葉は正しかった。

 ただ、ひとつだけ指摘すべき点があるのだとしたら、守るべき秩序の在り方が神によって異なるという、騒乱や対立を生みだしかねない致命的な欠陥がありはするのだが。

 

 と、そのときだった。

 

「……ラダマンティスか、今は儀式の最中なのだぞ……なに?」

 

 パンドラがさっと表情の色を変えて、焦ったようにぶつぶつと呟き出す。

 テレキネシスで連絡を取り合っているのだろう。

 手短に報告を受けた彼女は、すぐさま眼前にいた、己の主へと詳細を告げ始める。

 

「っハーデス様、冥界に待機していたラダマンティスより伝達が!」

 

「何事だ」

 

「双子神に動きあり。地上に侵攻し一時、活動を止めどこぞへと姿を消していた冥闘士たちが、聖域付近に集まりだしたとのこと!」

 

「ハーデス様、このアイアコスからもご報告があります」

 

 矢継ぎ早に、パンドラの隣に控えていたアイアコスが言葉を放つ。

 ハーデスはすう、と翠色の双眼を細めた。

 

「お前の部下は、聖域に密偵として放ったばかりだったな」

 

「はい、影に潜む能力をもつバイオレートに聖域を調査させたところ、どうやら聖域内で冥界の蝶(フェアリー)を発見したようです。それも、数百は優に超えているほどの大群らしく」

 

「……その規模で冥界の蝶を操れるのは地妖星くらいだろう。奴が双子神(むこう)側についたとなれば、面倒なことになったな。1匹2匹ならば監視用として片づけられたが。……そこな御羊座の聖闘士」

 

「は、はい、なんでしょう?」

 

 ハーデスが、アテナの後ろに控えていたアブニールに視線を移した。

 

「お前は先日、聖域の連中が平時と違い、冷静さをかいていたと言っていたな。まるで誰かに煽動されているようだとも」

 

「ええ、確かにその旨、申しました」

 

「原因は冥界の蝶(フェアリー)だろう。あれは監視用としても使えるが、繁殖し人の魂を埋め尽くすように巣くえば、本人が気づかぬ間に心を奪うこともできる。要は無意識下の洗脳だ。余が眠りについていた数百年前、そこなアテナの2代前のアテナと死の間際にあった天秤座(ライブラ)の教皇が聖域を納めていた頃、タナトスとヒュプノスが同じ手で聖域を襲ったと聞いている」

 

「なっ!?」

 

 ハーデスから告げられた驚愕の事実の列挙に、アヴニールは絶句を余儀なくされた。

 傍らに居た小さなアテナは、過去の聖域で起きた出来事について話だけは現教皇から聞いていたのか、動揺はしなかった。しかし、冥界の蝶に意識を乗っ取られているかもしれない聖域の仲間たちの姿が脳裏によぎったのか、彼女の目元に力がこもる。

 

「初めは気づかれぬよう、都合の良さそうな人間を選んで冥界の蝶を放ったのだろう」

 

 ハーデスは目を瞑りながらも、自身の考えを整理するように言葉を紡いだ。

 

「疑心から、憎悪へ。聖域内に蔓延っていた、女神を裏切ったであろう、余を疑う気持ちを冥界の蝶(フェアリー)により煽動し、憎しみを育て、やがては心すらをも奪い取った。謀反を起こした冥闘士のうちの一部も同様だろう。タナトスとヒュプノスは、冥界の蝶もしくは他の手段を用いて、冥闘士たちを洗脳し強引に己の配下とした。……中には、自ら余を裏切った者もいるだろうがな」

 

 淡々とした口調で紡がれる推察に、アヴニールやパンドラの眉間に力がこもっていく。

 アヴニールは仲間の心の自由意志を奪う卑劣なやり方に怒りを。パンドラは双子神に煽動されるような心の隙間をつくった部下たちの未熟や自身の監督の不備が嘆かわしくて仕方がなかったのだ。

 

 彼らが思い思いに闘争心に火をつけ始めた頃。

 ここまで、沈黙を守っていたアテナが、言葉を放った。

 

「──双子神の狙いは、ハーデスが私の魂を呪いから遠ざけるため聖域へと転移させた、私の肉体でしょう。彼らと対局の小宇宙をもつ私の肉体は、ポセイドンの依代だったソロ家の嫡男のように乗っ取ることはできませんが、命を奪い去ることは可能です」

 

『ふん、こちらを誘い出す罠かもしれんが、おおむね想定通りの行動だな』

 

「ええ、しかし、予想よりも双子神の行動が早いです。タナトスは未だ、零さんに黄金の三叉鉾(トライデント)で刺し貫かれた際の魂の損傷を回復できていないでしょうに」

 

『焦っているのか、傷が既に癒えたのか』

 

「どちらにせよ、放っておけばアテナの肉体が害されよう。数を増やす冥界の蝶も、根本も断たねば、聖域そのものが双子神の手に墜ちる最悪の未来すら考えられる。今ならば、被害を最小限に留められよう」

 

 澄んだ声で話を纏めたハーデスに、自然と、一同の視線が集まる。

 為すべきは、既に決した。

 目標を見定めるようにハーデスは双眼を見開くと、毅然とした声で言い放った。

 

「──早々に打って出る。パンドラ、アイアコス。冥界と地上に待機させていた冥闘士を、冥王の名の下に、聖域へ召集させるのだ。最優先事項は冥界の蝶を操っているであろう地妖星パピヨンのミューの捕縛。次いで冥界の蝶の影響下にある聖闘士、並びに、聖域へ侵攻する冥闘士どもの足止めをせよ」

 

「「はっ!」」

 

「我らはアテナの肉体を守るため、十二宮を突破する。女神、海皇、異論はあるか」

 

「異論はありません。いつでも戦う準備はできています」

 

『無論だ。呪いの影響により見えなくなっていた我らの声も姿も、アトランティス内の結界により緩和された。力も多少は戻ってきているゆえ、頃合いとしては悪くない』

 

 ポセイドンの言葉に、先程まで表情を曇らせていたアヴニールが顔を上げた。

 

「なんと、それは誠ですか、海皇よ」

 

『うむ、数日はもたんが、聖域での戦いの間は問題なく意思疎通ができるだろう』

 

「良い知らせを聞けました。ならば、冥界の蝶の影響が薄い聖闘士ならば、アテナ様と私で説得できるかもしれません」

 

 ポセイドンの言葉を聞いて、アヴニールは憂いが消えたように息を吐く。

 阿頼耶識に目覚めていなかった彼は、アトランティス内に貼られた結界の外では、己の守るべきアテナの姿を認識できないと考えていたのだ。

 

「そう簡単にいくかな」

 

 と、肩の力を緩めたアヴニールに、水を差す声がひとつ。

 

「なにが言いたい、海龍(シードラゴン)

 

 ミトラスがあえて煽るような声音で言ったのを察して、アヴニールは鋭い視線で返した。

 

「未熟者。誉れある黄金聖闘士の位を戴いたのなら、この程度の挑発で動じるな」

 

 ミトラスは笑ったかと思えば、次の瞬間には真剣な表情で、諭すように言い放った。

 

「仲間と戦うことになるかもしれぬ君の気苦労は察しよう。だが、優先順位だけは間違えるなよ」

 

「……忠告痛み入るが、私はアテナの聖闘士。元より、同じ過ちを繰り返す気はない」

 

「どうだかな。どうにも君は甘さを棄て切れていないように見えてならない」

 

 なおも剣呑たる物言いで食い下がるミトラスに、アヴニールは薄く笑った。

 

「フッ、阿頼耶識に目覚めているといっても、何もかもが見通せるわけではないのだな」

 

「なんだって?」

 

「私が同胞相手に及び腰になる男だと見くびっているのなら、今すぐにその考えは正すことだ。仲間達(やつら)がアテナ様の行く道に立ち塞がるというのなら、容赦など一切しない。殺す気で迎え撃とう。なにせ、殺そうとして素直に死ぬような可愛げのある者はなどないのだからな。お前こそ、油断をしているとアテナ宮に到着する前に、命を落とすぞ」

 

「……言ってくれるじゃないか」

 

 両者の視線がばちばちとぶつかり合う。

 

「はあ、あの調子でこれから背を預けて戦えるのか」

 

「別領域同士、馴れ合わぬくらいが釣り合いがとれて丁度良いのでしょう」

 

「……アイアコス、それらしいことを言って問題を棚上げするするな」

 

「ふむ、至極真面目な見解だったのですがね」

 

 遠目にため息をつくパンドラと、わかったように笑うアイアコス。

 同じ人間同士でも、陣営が同じでも、彼らの考えは、ばらばらのようだった。

 本来ならば呆れてしまうような統一感のなさである。

 

「おい、バカ真面目くさい牡羊座に、跳ねっ返りの海龍。仲違いするなとは言わんが今はその気力を温存しておけ」

 

「ばっ、バカ真面目……?」

 

「誰が跳ねっ返りだ、海の藻屑にされたいのかガルーダとやら」

 

「大人しく傾聴しろ。このアイアコスが冥界の蝶の対処法を教えてやる」

 

「「──対処法があるのなら、もっと早く言え!」」

 

 

「ふふ」

 

 ぎゃあぎゃあとぶつかり合う人間達を見据えながらも、アテナだけは、小さな笑みを浮かべていた。

 春先の雪の中から、出てきたばかりの花の芽を見つけたときのような、ささやかな笑みではあったけど。

 

「──さて、私達はこの場を離れても儀式が無事に継続されるよう、陣に小宇宙を込めましょう」

 

 小さな喜びを大切に仕舞い込むように、彼女は気持ちを切り替えつつも、ハーデスとポセイドンへと向けて言葉を放つ。

 呆れたようにポセイドンが応じる。

 

『さっさと済ませるぞ。人間達が与太話をしている間に準備は終えている』

 

「ええ、それでは……」

 

 アテナとポセイドン、口を閉ざしていたハーデス。

 彼ら3神は、黄金の陣の中心へと視線を注いぐと、そこにいる、死んだ様に眠る九十九零を見据えながら、内なる小宇宙を高めていく。

 

 役割を買ってくれた人の子が、自分たちがいなくなった後でも、滞りなく、儀式を終らせられるように。

 

 アテナの足下の陣へ向けられた小さな手から、彼女の小宇宙が淡い光となって流れ始めた。

 ハーデスも同じように手を翳して、ポセイドンも黄金の三叉鉾からオーラを放出して小宇宙を陣へと込めていくと、陣に紡がれた金色の文字たちが、いっそう、その眩さを増していった。

 

「よいな、海龍に御羊座よ。心を奪われた聖闘士や冥闘士どもは、3巨頭を筆頭とする冥闘士たちに相手をさせます。お前達は神々をお守りし、十二宮の最奥を目指すように」

 

「承知した」

「ああ、頼んだぞ」

 

 神々が儀式継続のために小宇宙を込めているあいだに、人間達は互いの役割を割り振っていく。

 

「──それでは私達は、先んじて聖域へ向います」

 

「ご武運を、ハーデス様」

 

 そうして、パンドラとアイアコスは、テレキネシスで冥界と地上にいる仲間達と連絡を取り合った後に、冥闘士の指揮のため一足早く祭儀場を出て行った。

 

「いいか、十二宮は主に私が突貫し攻略する。御羊座(アリエス)、君は女神のサポートに回り、聖域内に貼られている女神の結界と早急に接続、強化し、冥界の蝶の浄化に専念するんだ。完全に蝶を浄化するのは今の女神には難しいかもしれないが、蝶の増殖を防ぎ力を衰えさせることさえできれば、此方も戦いやすくなる」

 

「心得た。手こずれば聖域側の損害が増える、時間との勝負だな」

 

「ガルーダめ。『魂に巣くう冥界の蝶に火力を集中させて吹き飛ばすなり燃やすなりすれば、洗脳された者を正気に戻せる。簡単だろう?』……どこがだ。魂に干渉する積尸気の技など門外漢の者しかいないというのに」

 

「難しく考えすぎではないか? 要は魂にこびりついた蝶を吹き飛ばせる力加減で技を放てばいいのだろう。とどのつまり全力でやり合えばいいだけだ。わかりやすい説明だったと思うが……」

 

「…………野蛮な脳筋どもめ」

 

 アヴニールとミトラスは、神々の準備が終るまでの時間を使って、陣から離れた場所で、十二宮突破のための意見交換を繰り返した。

 

 やがて、数分ほどの時間が流れて、神々の小宇宙に呼応するように溢れ出ていた鮮烈な光たちが、収束を開始した。

 3神による、儀式継続の措置が終了したのだ。

 

「これで私達がいなくても、儀式は続くでしょう。では、聖域へ参りましょうか。……零さん、置いていく形になって、ごめんなさい。けれど、離れていても魂は繋がっていますからね」

 

「刻み手として歯がゆい思いをするお前を助けてやれず、すまなかった。……勝利の報告をもって帰ろう。零よ、留守を頼んだぞ」

 

 アテナとアヴニールが、眠る零に語りかけて、先行して宇宙へと転じた祭儀場を後にした。

 ミトラスも、ポセイドンの鉾を恭しく預かって、彼らに続こうとする。

 

『やれやれ、()()()()()()()()()()()()()()、この人間を置いていくことにはなったのだな』

 

「はい? ポセイドン様が九十九零に与えるおつもりだった役目とは、刻み手のことではなかったのですか」

 

 出て行く間際、眠る九十九零に向って言葉を零したポセイドンに、ミトラスが首を傾げた。

 

『初めは我々が戦いに赴く際に、こやつをアトランティスに待機させるつもりだった。戦士でもないただの人間を戦場へ引き連れて死なせるわけにもいかんからな』

 

「……なるほど、役割を与えれば本人も納得してアトランティスに留まれる、か。ポセイドン様は慈悲深くあらせられますね。しかしそれでは何故、誓いの刻み手を、さも約束していた役割だと言って任せることにしたのでしょうか」

 

『なに、なんの気まぐれか、九十九零を“誓いの刻み手”にするよう希望した奴が現れたのでな』

 

「それはいったい、どなたが」

 

『フッ、さあて、誰だったか……』

 

 ポセイドンは含みのある笑みを零して、ミトラスとともに祭儀場の宇宙の闇から神殿内の通路へと消えていった。

 

 そんな彼らの後ろ姿を見つめる、一つの影。

 

「……相も変わらず、余計なことにばかり気が回る男だ」

 

 ハーデスのため息混じりの呟きが、虚空へと零れて、消えていく。

 鬱陶しいとは思ったが、言い争う時間は残されてはいない。ハーデスは闇色の貫頭衣から、この数日のうちに幾分か修復しておいた漆黒の戦鎧に、一瞬で装いを転じた。

 全体的に翼を模した意匠をしていた戦鎧からは、修復以前にあった亀裂や傷痕は消えていた。折れていた3対の翼も復活し、その切っ先は剣のように尖っている。

 

 かつて、腰につがえていた漆黒の剣は、逸失してしまって今は手元にはなかったが。

 

 戦準備を終えたハーデスは、先に行った者達を追うように、祭儀場の出口へと足を向けた。

 

「…………、」

 

 しかし踏み出してからすぐに、歩みを止めた。

 なにかが視界の隅で寝返りをうったのが見えて、視線をそちらへと向ける。

 

 黄金に輝く神代文字のうえで、白い顔をして眠る異邦の人間の姿。

 

 よく見れば眉間に力がこもった不機嫌そうな異邦人の左胸では、交わることのなかった2つの神の魂の欠片が、金色と漆黒の灯火となって、燃えている。

 

「気まぐれか。たしかに、その言葉こそがふさわしい」

 

 先ほどのポセイドンの発言をなぞるように、神は呟いた。

 何度も指摘されたように、己の中にある人への嫌悪感は、拭われていない。

 

 端的に、タイミングがよかった。

 

 儀式の内容を変えることになり“誓いの刻み手”となる人間が必要となった折に、たまたま都合よく、手の空いている人間が居合わせていた。

 刻み手は人が大いなる神の記憶を垣間見る役目であるため、脆弱な人の精神が壊れかねない不安があったが、この九十九零という名の異邦人には、すでに死線をくぐり抜けた経験があり、なにより協力的だった。

 だから適性に問題はないと判断して、推薦し、本人も納得して引き受けた。

 

 ただ、それだけのこと。

 

 

 

『見つけた! ハーデス、よかった、無事だった!!!』

『俺はあんたがわからないけど、理解したいんだ』

『小さな約束でもいいんだ。自分だけの特別がほしい』

 

『俺に、生きることから逃げるなっていうのなら、あんたも、生きることから、逃げるなよ』

 

 

「…………」

 

 

 ただ、それだけだったはず。

 だというのに、普段の己ならば微塵も興味を抱かないであろう、どうでもいい記憶が、勝手に蘇っては繰り返される。

 

 これは、厄介な類いの感情だ。

 

 九十九零。異界から迷い込んだ、凡庸で不遜な人間の男。

 東京にタナトスが襲来したした際は、その死の気配に現実から逃げようと意識を飛ばそうとし、山に置き去りにした際は、海皇ポセイドンを見つけて命懸けの説得を為し、窮地にあったハーデス達を救った。

 死にたくないくせに、命をかけて、本心からハーデスの身を案じて、守ろうとする。

 不理解を承知で言葉を尽くそうと努力し、矛盾した行動をとる、目の前の、異世界の人。

 

 この人間に対する複雑に折り重なった思いを、一つに纏めるとするのなら、

 

「……ついぞ、理解ができなかった」

 

 空に浮かぶ星の考えを、地上を這いずる人間には、推し量れないように。

 刹那の人生を駆け抜けていく人の気持ちが、悠久の時を生きる神には、理解出来ないように。

 そこにあったのは、途方もないほどに巨大な、不理解の壁だった。

 だがそれも仕方の無いことなのだ。

 天に立つ神、地に満ちる人。立っている場所が違えば、見えている景色が違うのが当たり前。

 住み分けて、距離を置いて、お互いの存在を許容するぐらいならできるだろう。

 けれども、人が神に、神が人に、分かり合おうと手を伸ばす、その努力の、なんと無駄なことか。 

 

 不合理は、時間の無駄だ。

 

 最優先すべきは、この世の秩序を守るという、己を役割を粛々と遂げること。

 思考であれ感情であれ、使命の邪魔になるのなら、棄ててしまおう。

 そうやって削ぎ落として生きてきた。

 これまでも、これからも、そう生きていくのだと信じて疑わなかった。

 

 しかし、

 

「……理解の遠い、不合理で、無駄なものかもしれないが」

 

 それでもと、神は己を見つめ直した。

 

 不変だったはずの己が、変わりつつあるのは事実だった。

 しかもそれは、ハーデス自身が、無駄だと断定していたものに影響されたからこそで。

 自身のなかで発生した、削ぎ落とせなかった矛盾した感情が、不変だった己の選択を変えた。 

 だから己はここにいる。

 人間を救い、女神と協力し、海皇の助力を望んで、命を賭してここまで来た。

 聖戦を止める和解に承諾して、その代償に命を差し出す誓いを結んで、そして……。

 

 この変化が、はたして成長なのか後退なのかは、まだ、結論をつけることはできないが。 

 

 ハーデスは、陣の光に頬を照らされて眠る、異邦人の横顔を見据えて、呟いた。

 

 

「──ささやかな特別くらいは、得られたか」

 

 

 それは零にとってのものなのか、もしくは零だけでなく、気まぐれを起こした神にとってのものでもあるのか。

 その答えが明示されることはなかったけれど。

 

 それきり、ハーデスは何も言わずに、祭儀場を後にした。

 コツコツとした硬質な音が遠ざかって消えると、異邦人の呼吸音だけがこの場に置き去りにされることとなった。

 

 

 

 闇の中に、数え切れないほどの星がさえざえと輝いている。

 すぐ近く、太陽系がある場所では、柔らかい金色の光を放つ、神々が描いた陣がある。

 その中央では、淡い輝きに照らされながら、眠り続けている一人の人間がいた。

 

 零の、記憶の旅路は、まだ終わらない。

 

 

 

 

 

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