まるで、宇宙そのものだった。
四方八方を満たす漆黒の闇と、氷の粒のように散りばめられた光点たち。
異次元空間。
人が生きる地上とは重なりながらも隔てられた、近くて遠い、不思議な位相。そんな闇色の世界の空を、冥王ハーデスは俺の首根っこを掴みながら、流れるように進んでいた。
あの東京の樹木園を覆った、得体の知れない闇の群れから逃げ延びて、既に数分の時間が流れていた。
牡羊座のアヴニールの姿はない。
今ここにいるのは異空間を飛び続けるハーデスと、ハーデスに首根っこを掴まれくたびれたキーホルダーと化した俺。そんな俺が両手で抱えるアイギスの上で眠る小さなアテナちゃんの2柱と1人だけである。
「……あの、冥王ハーデス」
「……」
返事はない。
誰でも分かる明確な無視。さっきからずっとこんな感じである。
だかまあ、冷静に考えれば俺は一般人。加えてこのハーデスは正真正銘の神様なうえに、原作だと大の人間嫌いときた。ともすれば嫌悪対象であるミジンコを無視するのは別に可笑しな話ではない。
むしろ、アテナちゃんがフレンドリーに話してくれたことの方が神様からすれば珍しい例と断言しても良いぐらいだ。なにせ星矢世界の神様は基本人間に厳しいからな。これがオーソドックスの反応なのだ。
……。
…………。
うん。
でもちょっと傷ついた。
お空に浮かんだ太陽に話しかけて返事が返ってこないと憤るようなものだが、目の前にいるのなら無視はしないでほしかった。
俺が一方的に決意したにせよ、先程まで護らなくてはと覚悟を固めていた相手から塩対応をされると、存外堪える。
話したいことも、聞きたいことも、夏休みの課題さながら大量に積み重なっているのだ。
絶対に諦めてやらないぞと心の中で奮起した俺は、勇気を出して話しかけ続けることにした。
「あのその。ハーデス。さっきは、助けてくれて本当にありがとう」
「……」
「と、ところでアヴニールはどこに? アテナちゃんが死者か
「…………」
「えっと……ハーデスさん。ハーデス様?」
「…………」
「…………」
気まずい。
なけなしの勇気を振り絞って話しかけているのに、沈黙がみちるばかり。
俺の態度が悪いのか。それともたんに面倒で口を聞きたくないだけなのか。
理由は分からないが、この冥王様は意思疎通ひとつをとっても容易にはいかないらしかった。
「……あの、ハーデスさん。せめて現状の説明だけはしてくれませんでしょうか。どうして女神と冥王が和解して一緒に逃げているのかとか、俺のような完全に場違いな一般人に、どうして貴方の小宇宙が宿っているのかとか……」
「…………」
無視。
「ハーデスさんハーデスさん」
「…………」
返事はない。
「冥王様、冥王様」
「………………」
おそらがきれい。
「ハデ公、ハデ公。あっこの公っていうのは軽蔑ではなくて身分の高い相手に対する尊敬の意を込めた敬称で──」
「…………、…………はあ」
しばらくの攻防の後、小さなため息が背後から聞こえた。
「…………いい加減にしろ。五月蠅いぞ、人間。これ以上騒ぐなら異次元の果てに放り出す」
面倒くさそうに、ハーデスはそう言った。
どうやら粘り勝ちできたらしい。
物騒な内容だったが、無視されるよりは返事が貰えたことが嬉しくて、俺はからからと笑った。
「わざわざ助けてくれたのに、この程度で放り出したりなんてしないしない。嫌いな人間にこれだけ言われても咎めない時点で、冥王ハーデスにしては有り得ないくらいに人に甘い性格とみた」
神様特有の、畏怖してしまうようなプレッシャーを感じないのをいいことに、俺は軽口を叩いた。
多分、この冥王ハーデスは原作のハーデスとは根本的な部分が大きく違う。
もしも原作同様の性格なら、不敬の限りを極めた俺はとうにズタズタに引き裂かれて宇宙にでもばらまかれているはずだ。
そんな惨い扱いを受けていない時点で、きっと大丈夫。下らない発言は容赦なく一蹴されるだろうが、異次元に放り出される絶対にない……そんな、愚かな思考から出た軽口の数秒後、
「ほう、ならば試してみるか」
「えっ」
「どうした、今更怖じ気づいたか」
「!?」
自身の首元を掴んでいた力が弱くなるのを感じ、俺は焦りの声をあげた。
「ちょっ、待って待って。えっ、本気? もしかして本気で放り出す気なのかあんた」
「本望だろう」
「なんで自殺志願者みたいな扱いになってるの……!? ごめんだけどフェニックスみたいなリカバリー能力もアンドロメダの鎖もない俺みたいなのマンボウは異次元空間に放り出されたら死んじゃいます死にたくないです離さないでくださいお願いします」
「…………ふむ」
全力で懇願すると、ハーデスはなにやら思案気味に声を零した。
もしかして本気で俺を放り出す算段でも立ててるのかという嫌すぎる考えで脳内を一杯にしていると、ハーデスから予想だにしない言葉が降ってくる。
「
「……へ?」
「並行世界でもなく、ここより遙か彼方に存在する
「…………異世界?」
「そこからか。ここは、お前が生きた地球ではない。完全なる別世界だ」
「──うそん」
ハーデスの口からあっさりと語られた真実に、俺は愕然と声を漏らした。
確かに、ギリシャの神や聖闘士などといった漫画の中の存在が現実に出てきていることに関しては違和感を通り越して驚きしかなかったが、五感が拾う情報は現実そのものだった。
それがまさか、完全に別の世界だったなんて。
「つけ加えて、
「あああああ! ちょっと待った、ストップストップ! さっきまで無視してたくせに今度は畳みかけてくるとか容赦ないなアンタ……!? いやまあ異世界って単語が聞こえた時点で嫌な予感はしてたけども! ちょっとは心の準備とか余裕とか配慮みたいな慈悲を働かせてくれてもいいだろう!」
「目を逸らしたところで現実は変わらん。受け入れよ」
「受け入れろってそんな簡単に……ああくそ……だったらどうして死んだはずの俺は現状こうして生きてるんだよ……」
許容量の越えた情報群に耐えきれず、片手でぐしゃりと髪をかきあげながら呻く。
しかし、そんな俺の焦燥には目もくれず、ハーデスは淡々と答えを口にした。
「お前のその肉体は、異界から彷徨い訪れたお前の魂を入れておく
「なにその年季の入ったテレビみたいな叩いたら動くみたいな……って俺の身体にハーデスの小宇宙が宿ってたのはそもそもハーデスが自作した身体だったからなのか……」
あまりにも雑な自身の成り立ちに、がっくりと項垂れてしまう。
しかも棺って……。
謎が一つ解けたのは僥倖ではあるのだが、もっとこう、なかったのだろうか。
完全に意気消沈していると、背後から息を吐く音が聞こえてくる。
「ごく稀に、自らの世界の輪廻へ巡らず、世界の境界を越える魂がある。3神の儀を目前にし、忙中の最中にあった
「……うわあ。無自覚に凄い迷惑を掛けてたやつだこれ……申し訳ない……」
「謝るぐらいなら疾く余の問いに答えよ。異邦人であるはずのお前がなぜ、この世界のことを知っているのかと聞いているのだ」
認識の周回遅れを膨大な情報量でもって無理やり取り戻した俺に、ハーデスは再び険しい声音でもって、最初の問いを投げかけてきた。
確かに、目覚めるはずのなかった異世界人が目覚め、さらには知るはずのない知識を持っているともなれば、警戒するのも頷ける。
俺はなんとか一つ一つの事象を呑み込みながらも、ゆっくりと説明を始めた。
「えっと……正確に表現するなら、俺はこの世界のことは知らないんだ。俺が生きていた世界にはさ、
「物語、一種の英雄譚か……。なるほど、嘘は言っていない以上、そういうこともあるか」
「……凄いあっさり受け入れるんだな。疑ったりしないのか」
「
「…………」
どこまで見抜かれているのだろう、と思わず背筋が冷たくなった。
「それで、お前の宣った差異とは、いったい何だ」
「それは……主に、神々の価値観と、それに伴う勢力図の違いかな。星矢の世界じゃアテナ以外の2神は、人類を滅ぼそうとする強敵として主人公達の前に登場したんだ。だけどこの世界の神達は"3神の和解の儀"を結ぼうとするくらい仲が良い。正直に言って、俺の知る物語じゃ絶対に有り得ないような関係性なんだ」
人間の護身者である女神アテナに対し、神話の時代より、愚かな人類を粛正するため聖戦をしかけ続けてきた、海皇ポセイドンと、冥王ハーデスの2神たち。
俺は、アイギスのうえで微睡むアテナちゃんに視線を向けた。
恐らく、彼女は二頭身の可愛い姿になっている以外は、原作通りの、人を守る女神様なのだろう。
聖闘士たちもそうだ。
東京で人々を守るように戦っていた聖闘士たちや、女神を案じるアヴニールの言動から、彼らが女神の元で戦う『正義の味方』なのだと推測できる。
あくまで、人間目線の正義が基準にはなるのだが。
「……うん、東京の発展具合からして3、40年はずれてる気がするけど、現代って
俺をいたぶり殺そうとした雑兵たちの『冥界にいる冥闘士にばれたら不味い』という言葉からして、ハーデスを裏切っている部下は一部なのだろうが、冥界の獄卒の反乱という、極めて稀な現象が起きている。
と、思ったままをつらつらと口にしていると、唐突に、異次元空間を邁進していたハーデスの動きがピタリと停止した。
「ぐぇっ!?」
反動で首が詰まり、潰れた蛙のような声が漏れる。
「ひ、ひどい。止まるなら止まるって教えてくれてもいいじゃないか……!」
「異邦人、今、何と云った」
「は──うわっ!」
ボールを投げるような気軽さで、ハーデスは俺を異空間に放り出した。
(……は?)
アテナちゃんはといえば、神通力のような力を使ったのか、アイギスに乗ったままの状態で、ハーデスの元へと浮遊していく。
いや、死ぬ。
宇宙のように果てしなく広がる異空間に、地面はない。投げられたら何もない空間を死ぬまで漂い続けることになる。
何考えてんだこの冥王。
呪詛を吐きながら罵倒をするべきか命乞いをするべきか本気で考えようとした1コンマ数秒後──俺の身体は透明の足場のうえを盛大に転がり事なきを得た。
「………………聖戦を止めてアテナと和解するような人に優しい世界のハーデスはどこへ……??」
寝そべる俺の視界に、漆黒の甲冑姿の男が、音もなく近づいてきた。
「愚かな。余は、人を厭う。こうして助けてやったのも神が人間に与える慈悲にすぎない」
「そっかあ人嫌いは原作と一緒だったかあ」
「余の質問に答えよ」
「……あんたそればっかだな!? ああもう冥界勢力が内部分裂してるって言ったんだよ! まさか部下の裏切りに今まで気づいてなかったのか!?」
「違う、その前だ」
「海皇ポセイドンも海闘士も東京にはいなかっ」
「違う」
「聖域は俺の知るとおりで」
「違う」
「??」
「…………」
「……じゃあ、アテナの近くにペガサスがいないって部分か?」
原作ファンとしては重要なポイントではあるが、今、必要な情報だとは思えない。そんなふうに思いながらも、数十秒前の記憶を呼び起こした俺は、確かめるように言ってみた。
すると、ハーデスは息を吐くようにぽつりと呟いた。
「お前の世界では、」
「?」
「……異邦の世で語られる物語には……この時代にも……ペガサスが、生きているのだな」
独り言なのか、質問なのかはわからないくらいの、小さな声だった。
「……まあ、ペガサスの星矢は、聖闘士星矢の主人公だし」
俺は寝そべるのを止めて、ゆっくりと立ち上がりながらそう言った。
言葉の意図が読めず、内心困惑しながらハーデスの方を見ると、深い、深い湖の底のような色をした一対の
思わず、気圧される。
まるで
「異邦の民よ」
その声に、一瞬、遠のきかけていた意識がすんでのところで繋ぎ止められる。
はっとなって見やれば、病的に肌の白い男の口から、感情の起伏を感じさせない音が紡がれた。
「お前は、このハーデスが物語における敵対者だと云ったな。ならばそのペガサスとやらは、当然、不遜にも余に楯突く、女神の聖闘士だったのだろう」
「…………」
何を考えて、どうしてそのようなことを聞くのかが理解できず、俺は、無言で頷くに留めた。
するとまた、間髪入れずに問いが投げかけられる。
「死んだのか」
ただ一言、簡潔な一言だけが、闇色の空間に木霊する。
俺は。
気づけば干上がっていた喉に、無理やり空気を流し込みながら、言葉を返した。
「星矢は、沙織さん……アテナを庇って、冥王の剣に左胸を貫かれた。そこで、物語は終ったよ」
「……ふん、そうか」
まるで『そうだろうな』とでも言い換えられるような返事だった。
……原作、外伝を含めて、ハーデスとペガサスの間には、因縁という言葉が常について回る。
ペガサスは、神話の時代から続く聖戦のなかで、ハーデスの神本来の肉体に傷をつけた、唯一の人間だ。
加えて、ハーデスが地上に降臨する際には、どういうわけか、ペガサスの友人や仲間がハーデスの依代として選ばれるから、必然、ペガサスは親しい間柄の人間と戦うこととなる。
嫌な巡り合わせとはこのことだ。
もしかしたら、ハーデスの反応からして、この世界でも似た様なことがあったかもしれないが……。
「──まあ、それは本当の終わりではなかったんだけどな」
「……なに?」
なんとなく、ペガサスの生死を不明にしたままで話を区切るのは良くない気がして、俺は言葉を付け加えることにした。
「完結後、16年ぐらい経ってから物語の続きが始まったんだ。そこで主人公の星矢には実はまだ3日の余命があることが判明した」
「……結論だけを話せ。結局ペガサスはどうなったのだ」
「いやそれがわからなくて。その結末を見る前に俺死んでるし」
「…………」
「なにその『心底使えないやつめ』って目線!? ああでもそうだ、原作の続きを描いた映画版だとハーデスの剣の影響が残ってて最初はちょっと元気がなかったけど、その後は何やかんや復活してたから! ペガサスは人類も救ったし犠牲にもなりませんでしためでたしめでたし、つまるところはハッピーエンド! これでいいだろ」
「……なぜ余と戦った後の未来が、2つに分かたれているのだ」
「大人の都合だと思う」
「…………」
ぴくり、と、能面のように表情筋が死んでいたハーデスの柳眉が、険しく寄せられた。
何故だろう、ただ質問に答えただけなのに、軽蔑するような視線が飛んでくる。
「はあ……異邦人。お前と話していると、気力を削がれる」
聞いてきたのはそっちなのに。
いつの間にか、ハーデスから放たれていた超越者然とした空気が霧散しているような気がする。
因みに、額に手を当てるハーデスの肩辺りでふよふよ浮きながらアイギスに寝そべるアテナちゃんがとても可愛くてシュールだったことをここに報告しておく。
「削がれるついてにそろそろ名前で呼んでくれませんか」
「つけあがるな」
「やっぱ駄目か」
「──ここまでだ」
「はい?」
ハーデスはきっぱりと口にした。
「お前の相手をしている間に、
「──はあ!?」
余りにも唐突な、別離の宣告だった。
驚愕に声を上げる俺にはお構いなしに、ハーデスは虚空に右手を掲げて、深紅に輝く円形状の歪みを発生させた。
先刻、俺たちを襲った悍ましい闇の群れから逃れたとき同様、今度は異次元空間から現世に帰るための出口用の穴を創ったのだろう。
赤みを帯びた歪みの先には、灰色に染まった形容しがたい景色が広がっている。
「──まさか。この灰色で霧みたいに広がってるのって、
「さらばだ、人間」
「!?」
抵抗する間もなかった。
とん、と胸を押された先には、飛行機の窓から拝めるような曇天が広がっていた。
遮蔽物はない。
地面らしきものもみえない。
つまり、パラシュートなしのフリーフォール。イコール死。
反射的に眼前の男に向けて手を伸ばすが、手は、空を切ることしか叶わず、
「はああああああですのあほ────────ッッ!!!!!!」
叫び声を上げながら、俺は上空何メートルかも定かではない雲の中を、着地という名の死に向って、自由落下していくことになった。
閲覧ありがとうございます。
たいへんお待たせしました、第3話をお届けします。
シリアスを書きたいのにシリアルになります。なぜだろう。
ちなみに、空から落ちる系主人公が好きです。
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あいかわらず筆が遅い作者ですが、のんびりと見守って頂ければ幸いでございます。