影浦、狙撃されたってよ   作:Amisuru

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辻ちゃん回を書く前に今の辻ちゃんの状況を理解する必要がある
少し長くなるぞ…




『辻新之助~Blue Bird Syndrome~』

 

 

 ――なんでもない、平凡な日常における1ページの話。

 

 

 

 

 

「あ、奈良坂くん」

「……辻か」

 

 

 ボーダー本部基地内の売店にて、辻新之助はばったりとその少年に遭遇した。

 奈良坂透。辻の通っている六頴館高等学校在籍の男子学生である。クラスやポジションは違えど同じ学校に通う貴重な同性同年代ということもあり、割と会話を交わす機会の多い間柄であった。

 

 

「今日の午前は三輪隊の防衛任務(シフト)だったっけ。ちょうど上がったところ?」

「ああ。そっちは個人戦上がりか」

「うん。ちょっとお菓子でも買ってから作戦室に寄ろうと思って――あ、きのこたけのこの新作が出てる」

「…………」

 

 

 スッ……と売場に並んでいるきのこの山を奥へと押しやり、その前にたけのこの里を並べる奈良坂。澄ました顔で。

 

 

「たけのこの新作が出てるな」

「ちょっと待って」

 

 

 すごい。さも当然のように対立派閥の存在を抹消しようとしている。とりあえずお店の迷惑になるからやめよう、そういうのは。

 そう思って奥に引っ込んだきのこを再び前へと並べ直し、ついでにせっかくだからこれ買っていこうかなあと手に取りかけた瞬間、がしりと力強く手首を掴まれる。

 顔を上げた先にいるのは当然、こちらを否定するようにふるふると首を振るマッシュルームカットの少年であった。

 

 

「やめておけ――お前と殺し合いはしたくない」

「俺も別にそんなつもりで買おうとした訳じゃないんだけど……」

「わからない……どうして人は空ばかりを見上げる? 山の麓にひっそりと生えるたけのこの尊さに何故気付かない? 俺には山育ちの連中の考えが理解できない……」

「山育ちでも里生まれでもないけど俺は今の奈良坂くんの方がよっぽど理解できないかな……」

 

 

 出会って数分足らずで自身のイメージを粉々にするような言動は控えてほしい。

 とりあえずこの環境が良くない。山だの里だのに囲まれていると奈良坂の思考が乱れてしまう。お菓子じゃなくて和菓子にしようかな? どら焼きが食べたい。出来ればバター入ってるのがいいんだけど、ここの売店じゃ売ってないかなあ――などと思いつつ別の売場に移った辻の視線が、

 

 

「あら、辻くんと――とーちゃん」

「――――!?」

 

 

 3人の白き少女たちを前にして、硬直した。

 那須玲、熊谷裕子、日浦茜――B級ガールズチーム『那須隊』の面々が、和菓子売場の真ん前に集まっていたのである。例の隊服姿で。

 

 

「あー! 奈良坂せんぱーい! それに辻先輩も! こんにちは~!」

あっ、こっ……こん……ちゎ……」

「玲――それに日浦か」

「あれ、あたしはスルー? 奈良坂くん」

「悪い。そういうつもりじゃなかったんだが……随分と久しぶりに会うような気がするな、熊谷」

「ま、攻撃手(アタッカー)狙撃手(スナイパー)じゃ顔合わせる機会全然ないからね。おまけに学校も階級も違うし」

「はっ……はわゎ……」

 

 

 ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。脳内でガンガンと警鐘が鳴っている。ここに留まっていてはいけない。あっちを向いてもこっちを向いても刺激が強過ぎる。だって目の前に女の子が、それも自分の目からしてみれば割と過激な恰好の女の子が! トリオン体であるにも関わらず、沸騰するほどの頬の熱さを辻は感じた。視界がぐらぐらと揺れ動いているような気さえしていた。

 

 

「とーちゃんと辻くんは二人でお買い物?」

「いや、たまたまここで会った。そっちは部隊(チーム)で――と思ったが、志岐が見当たらないな」

「あら? 小夜ちゃんも一緒に来ているのだけれど……おかしいわね。どこに行ったのかしら」

「志岐先輩なら急にばたばた走って店の外に出て行っちゃいましたよ?」

「あー……」

 

 

 正直、周囲の会話はほとんど耳に入っていない。だがとにかく、危険が危なかった。ピンチはピンチであり断じてチャンスにはなり得ないのだと頭の中のイマジナリー新之助が訴えていた。

 ひゃみさん! 助けてひゃみさん! 鳩原先輩! 犬飼先輩でもいいんです! 内部通話とか届いてませんか!? ひゃみさん! ひゃみさん!!

 声なき声で辻は叫んだ。独房に放り込まれたアムロ・レイの如き必死さで叫んだ。二宮匡貴の名前は一度たりとも呼ばれなかった。後に絵馬ユズルのオレを獲れアピールに気が付くという意外な察しの良さを見せるあの男であるが、この当時の辻にはそうした二宮の知られざる一面が伝わっていなかったようである。哀れなり二宮匡貴。

 で、独りで勝手に追い詰められている辻の様子に気付いた那須玲、おもむろに。

 

 

「――辻くん、大丈夫? ひどく顔が赤いわ」

えっ!? あっ……いゃ……その……

「お熱でもあるのかしら? トリオン体の活動は生身に影響を与えないというだけで、生身の病気や体調不良を治してくれる訳ではないから――えい」

「――!?!?!?!?!?!?」

 

 

 ひたり、と。

 心地よい冷たさと柔らかな感触が、額をそっと覆っていた。

 那須の手のひらがおでこに振れて、辻の体温を計っている。右手は辻に、左手は自身の額に。体温の比べ合いをしているのだ。

 トリオン供給器官破損、緊急脱出(ベイルアウト)。そんな幻聴が聞こえた。それ程までに動悸が半端なかった。トリオン体の人体再現機能、仕事し過ぎである。

 

 

「……結局は生身の調子が良い時でないと、換装しても満足に動けなかったりするのよね――まあ、本当にすごく熱いわ。ダメよ? 辻くん。具合の悪い日は大人しくお家で休んでいないと」

「玲……あんたはもうちょっと男の子との距離の詰め方ってもんをね……」

「?」

 

 

 私今何かやっちゃいました? とでも言うようにちょこんと首を傾げる那須玲。恐ろしいことにこの女、善意100%である。男子禁制のお嬢様学校(星輪女学院)に通う少女は異性に対する適切な距離感というものを理解していなかった。同級生の小南桐絵がほぼ初対面の三雲修にチョークスリーパーを敢行していたのと似たような感じである。しかも読み返したらあの女オッサムの頭噛んでやがる。首を絞めながら頭も叩いておまけに噛んでる。三連コンボかよ……怖……。

 

 

「だっ……だぃじょぶ……です……」

「そう? 辛いときは本当に無理をしてはダメよ。自分の身体を一番気遣ってあげられるのは自分自身、そういう意識を忘れないように――って、私もお医者様によく言われるわ。お互い健康には気を配りましょうね、辻くん」

「玲。お前なりに真面目なアドバイスのつもりなのは分かるが……違う、そうじゃない」

「?」

「おまえ困ったらとりあえず首傾げておけばいいと思ってないか?」

「まあ。心外だわ」

 

 

 辻の事情を知る奈良坂、さり気ないインターセプト。那須の従姉弟という立場を活かした容赦のないツッコミでタゲ逸らしに成功する。狙撃手(スナイパー)らしからぬヘイトコントロールの巧みさであった。

 ちら、と辻を一瞥して頷く奈良坂。ここは俺に任せて先に行け、と言わんばかりの頼れる横顔であった。心の中で粛々と奈良坂を拝み倒しつつ、忍び足で辻はその場を後にした。どら焼きの確保は泣く泣く諦めた。金の雛鳥は放棄する……。

 

 

「……はあ……」

 

 

 背中を丸め、溜息交じりに店の外へ出る。独り虚しく、辻は己の不甲斐なさを胸中で嘆いた。

 奈良坂くんはすごいなあ。親戚だっていうのは聞いてたけど、それでもあんなに綺麗な那須さんと顔色一つ変えずに話が出来るなんて。おまけに日浦さんを弟子に取ってるって話も聞くし。女の子に付きっきりで何かを教えるなんて、俺には無理だ。どうしても緊張しちゃって、まともに声が出せなくなる。

 女の子が嫌いな訳じゃない。むしろ仲良くなりたいんだ。だけどさっきの那須さんみたいにいきなり距離を詰められると、頭の中がパニックになって、どうしたらいいのかわからなくなる。

 そういう時の自分のことを、後から思い返す度に、格好悪いなと思ってしまう。

 

 

 

 

 

 いつからこうなってしまったんだろう。

 俺はただ、奈良坂くんのように(ふつうに)なりたいだけなのに。

 

 

 

 

 

「――ひっ!?」

 

 

 すぐ傍で、そんな悲鳴が聞こえた。

 視線を向けた先に、右目を前髪で覆った黒い制服の少女がいた。露になっている左目は、戸惑うように揺れ動きながらこちらを見据えている。

 この子は――志岐小夜子だ。先に出会った那須隊の面々を支えている、オペレーターの女の子。と言ってもブリーフィングファイルで顔写真を見たことがあるというだけで、直接顔を合わせるのはこれが初めてのことだった。それも、これ程までに近い距離で。

 そう、近いのだ。おそらく入口のすぐ傍でチームメイト達が出てくるのを待っていたのだろう。二人の視線が僅かに交差して、間もなく。

 

 

あっ、ごめ……なさ……

ひえっ、ほあ……ひや……ほい……

 

 

 意味を成さない言葉と言葉がぶつかり合って、それから暫しの沈黙が流れた。

 男は赤面しながらふるふると目を逸らし、女は冷や汗を流しながらぶるぶると震えている。緊張と緊張が織り成す局地的大地震、マグニチュード22.345(つじ・さよこ)。両者を繋ぐ断層は分かたれ、もはや修復は絶望的であると言えた。

 それでも――奇跡的なことに、片方の揺れが収まりつつあった。辻新之助である。おそるおそると言った具合に再び志岐へと視線を向けて、そこでようやく、辻は彼女の異変に気が付いた。

 

 

(……志岐さん……怯えて、いる……?)

 

 

 ともすれば、異性と相対した時の自分以上に平静を保てなくなっている少女の姿がそこにあった。顔は青ざめ、目尻には涙を浮かべ、ぜえぜえと呼吸を荒げてさえいる。単なる照れや焦りによるものではなく、明らかに――尋常ならざる状態であった。

 辻は志岐の抱えている事情を知らない。異性――とりわけ年上の男性の前では、生活に支障を来たすほどの精神状態に追い込まれてしまう、彼女の事情を理解していない。

 それ故に、辻は選択を誤った。

 志岐にとっての最適解は、即座にその場を離れること。辻新之助が取った行動は、その真逆。

 即ち――目の前で震える少女のことを、()()()()()()()()()()()()()()()()()()などという考えは、同類のようなもの(似て非なるもの)を前にして浮かんだ、致命的な思い違い以外の何物でもなかったのである。

 

 

「あ……あの、志岐さん、大丈夫――」

 

 

 無論、悪意もなければ、敵意もなく。

 ほんの一歩、辻は志岐へと踏み込んだ。

 

 

「――――!」

 

 

 本当にたった、それだけのことで。

 志岐小夜子の脆弱なる境界線(ボーダーライン)は、崩壊した。

 

 

「ひっ――ひええええええええええええ!!」

「あ……」

 

 

 脱兎。その一言に尽きた。

 悲鳴と共に地を蹴って、止める間もなく辻に背を向け駆け出す志岐小夜子。韋駄天か何かでも使っているんじゃないかと思えるほどの全力疾走であった。見る見るうちにその背中が遠ざかっていき、程なくして曲がり角の向こうに消えていったのを確かめて――

 

 

「……はああああああああ……」

 

 

 辻は本日二度目となる、深い深い溜息を吐いた。

 怖がらせるつもりなんてなかった。傷つけるつもりも、勿論なかった。

 ただ――自分と同じように、()()()()()()()()()()()()()彼女のことを、どうにかしてあげたいと思って。

 こうして拒絶されてようやく、それが単なる独りよがりに過ぎなかったことに、気付かされる。

 

 

(……何、やってるんだ。俺は……)

 

 

 やってはいけないことをしてしまった。

 自分と異なる存在が、突如として距離を詰めてくることへの恐怖。

 それがどれだけ人の心を不安定にさせるのか、誰よりも自分は理解していた筈なのに。

 あの瞬間、辻新之助という愚かな男は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 吐き気がするほどの自己嫌悪に襲われ、思わず壁に手を突く一方で――それでも、という想いもあった。

 恐怖に怯え、震える少女を前にして。黙ってその場を立ち去ることなど、出来る筈がなかった。

 たとえ自分が、志岐小夜子にとっての外敵(ネイバー)でしかなかったとしても――

 

 

 ――あの時、俺は。

 俺自身がそうするべきだと、そう思って、しまったんだ。

 

 

(……帰ろう)

 

 

 惨めったらしい自己弁護を強引に切り上げて、ふらふらと歩き出す。

 何なんだろうな、と思う。男と女――性別の違いを意にも介さず語り合える人達がいる一方で、それに馴染めない異端の男女が、ふとした偶然から出会った。普通はあぶれ者同士、意気投合する流れじゃないのだろうか。

 現実は、ひとりとひとりが出会っても、ふたりぼっちにすらなれない。

 それなら一体、自分たちは、何処へ行けばいいのだろうか。

 

 

(……本当に、俺達みたいなのって、どうすればいいんだろうね。志岐さん――)

 

 

 そんな問いかけを彼女に投げかける機会など、未来永劫訪れはしないだろうけれど。

 それでも――そう思わずには、いられなかった。

 

 

 

 

 

「ちょっ――小夜子ちゃん!? トリオン体で廊下走ったらダメだって! 生身の人にぶつかったらたいへ――あー、行っちゃった。まったくもう……」

 

 

 ――その声は。

 自分にとって、誰よりも馴染み深い少女の声だった。

 

 

「「……あ」」

 

 

 間の抜けた気付きの声が、互いの口から漏れた。

 志岐小夜子の走り去っていった曲がり角から現れたのは、氷見亜季。

 辻の属するA級4位・二宮隊のオペレーターにして――辻がまともに会話できる、数少ない女子のうちの一人であった。

 

 

「――ひゃみさん」

「辻くん……? こんなところで何して――ってこともないか。売店の真ん前だし」

「……何も買ってないけどね」

「ダメじゃん。お金なかったの?」

「そういう訳じゃ……なかったんだけど」

 

 

 ただただ、何も手に入らなかった。きのこの山もたけのこの里も、どら焼きも――新たな異性の話し相手も。

 何ともなしに、彼女を見つめる。氷見亜季。出会った当初は『氷見さん』でしかなかった少女は、いつの間にか『ひゃみさん』になって、普通に話せる相手になっていた。

 思えば――初めて会った頃の彼女は、異性を相手にした時の自分や志岐小夜子に雰囲気が似ていたような気がする。緊張しがちで、引っ込み思案で、言いたいことが言えずに口ごもってしまう、そんな女の子。

 

 

「なかったんだけど――なに?」

「……言いたくない」

「うわ、辻くんが反抗期だ。めずらしい」

 

 

 それがいきなり、こうなっていた。

 本当に突然だったのだ。何のきっかけがあったのか、誰に魔法を掛けられたのか――それとなく訊ねてみてもはぐらかされるばかりで、未だに辻は氷見の変貌の理由を知らずにいるのだけれど。

 それでも、正直な感想を言わせてもらうならば。

 

 

「……俺、ひゃみさんみたいになりたいな」

「え゛。……うわ、変な声出ちゃった。ちょっと、何。どうした急に」

 

 

 おまえは何を言っているんだ。そう言いたげな訝しむ目で、氷見が自分を見つめている。実際、何の脈絡も無しにこんなことを言われたら、誰だって似たような顔になるだろう。ましてや男子が女子に対して使う台詞ではない。普通は。

 ――けれど、辻新之助は少なくとも、自分のことを正常(ふつう)とは思っていないので。

 

 

 

 

 

「ひゃみさんは――かっこいいから」

 

 

 

 

 

 こういう言葉に限っては、すんなりと口に出せてしまうのである。

 氷見のような異性が相手でも。

 

 

「……かっこいい? 私が?」

「うん。誰に対しても臆さず話せて、堂々としてて――そういうところがかっこいい。正直言って憧れる」

「……なんでまた急にそんなこと言い出したのかは知らないけど、とりあえず。見習う相手を間違えてるよと言いたい」

「でも、二宮さんとか犬飼先輩よりかはひゃみさんみたいになりたいって思うよ、俺は」

「あー、比較対象がよりにもよってあの二人なのかぁー……そっかぁー……」

 

 

 是非も無し、というように眉間を右手で抑える氷見。今更になって気付いたのだが、左の手には土産袋のようなものが握られている。買い物帰りか何かだったのだろうか。

 二宮匡貴と犬飼澄晴。彼らも異性に対して堂々と振る舞える存在なのは確かなのだが、前者はいささか我が強過ぎるきらいがあるし、後者は逆に軽薄な印象が目立つ。彼らと比較した氷見の対人感覚は、なんというか、丁度良いのだ。

 決して突き放すことなく、かといって近過ぎもしない。そうやって適切な距離感を保ってくれることが、辻にとっては心地良かった。自分が氷見と普通に話せるようになったのも、きっと彼女のそういった見えない気遣いを、感じ取れるようになったからだと思っている。

 ()()()()()()に、自分はなりたい。

 だから――辻新之助にとって、氷見亜季は憧れの対象で在り続けるのだ。

 

 

「微妙な気持ちになった?」

「ここでうんって頷いたら角が立つじゃん」

「だったら別に、比べなくてもいいよ。誰を引き合いに出す訳でもなく、俺にとってひゃみさんはかっこいいんだ。それだけは、自信を持って言える」

「……私も別に、誰に対しても普通に話せるってわけじゃないんだけどね」

「そうなの? 今のひゃみさんでも緊張するような相手なんて、いるんだ」

「――いるよ。他の誰とも話せるようになった代わりに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。まったく、助言なんだか呪いなんだか……いや、本当に感謝はしてるんだけど」

「……?」

「なんでもない。こっちの話。……とにかく、私は辻くんが思ってるほど立派な女ではない。それだけは言っとく」

 

 

 区切りを付けるように、氷見はそう言い切った。

 自分は立派な人間ではない。氷見亜季が敷いた、自己評価という名の境界線(ボーダーライン)。それを今、自分は踏み越えようとしている。だから氷見は言い切ったのだ。ここから先には進んでくるな、と。

 志岐小夜子の時は、その線が何処にあるのか見えなかった。見えないままに恐る恐る歩み寄った結果、案の定地雷を踏み、志岐はあえなく緊急脱出(ベイルアウト)と相成ってしまった。

 

 

「――それなら、俺も俺で勝手に憧れるだけだよ」

 

 

 だから、今度は。

 氷見の敷いた(ライン)の位置を理解した上で、正面から堂々と、彼女の境界(ボーダー)に踏み込んでいくのだ。

 

 

「ひゃみさんがどう思おうが、ひゃみさんがかっこいいかどうかは俺が決めることにする――みたいな。……この言い回しは印象良くないかな、あんまり」

「まるで八丸くんみたい……」

「ひゃみさん、最近漫画のネタに詳しくなったよね」

「……ちょっとオタクの友達ができちゃってね。本とか借りて読んでるうちに色々覚えちゃった。悪い影響だわ……」

「でも、友達なんでしょ」

「――ま、ね」

 

 

 たった二文字に友愛を籠めて、氷見は困ったように笑った。

 照れている。氷見のこういう表情は、中々に珍しい。貴重なものを拝めたというささやかな感動と共に、彼女にこんな表情をさせる友人というのは一体どんな人物なのだろう――と、若干の興味も湧いていたりした。

 まあ、きっと氷見と同性の友人だろうし、自分が話す機会など訪れないだろうとは思うけれど。

 

 

 ――ぐーきゅるるるるるるる。

 

 

 唐突に強烈な勢いで、腹の虫が鳴った。

 そういえば小腹を満たすために売店へ寄ったのだということを、今更のように辻は思い出した。結局何も買えず仕舞いだったのだけれど。

 

 

「……お腹空いた」

「今時こんな古典的な空腹アピールって逆に珍しいよね……」

「今からでも戻って何か買ってこようかな? 何か忘れてるような気もするんだけど……」

「ちょっと待った。――私がいいものをあげよう」

 

 

 そう言って、左手に持った袋の中をがさごそと漁り出す氷見。

 見れば、袋の外側には――『鹿のや』の三文字が刻まれていた。

 

 

 

 

 

「ん」

 

 

 

 

 

 などと至極軽い調子で差し出されたのは、半透明の包装が施された、茶色くて丸い、ふっくらとした和菓子。

 一度は追い求め、されど異性という名の壁に阻まれて手に取ることを諦めた、辻新之助の大好物であった。

 

 

「……どら焼きだ」

「そ。栞がよく言ってるいいとこの~ってやつ。元は月見先輩が広めたらしいんだけど、とにかく味は保証済みだよ。私はまだ食べたことないけど」

「しかもバターどら焼きって書いてある……」

(チーム)の皆で食べようと思って買ってきたやつだからね。――好きなんでしょ? 辻くん」

「……うん。好き」

「じゃあ、めしあがれ」

 

 

 言われるがままに封を切り、はむりと一口、齧りつく。

 柔らかな生地に覆われた餡とバターの奏でる芳醇なハーモニーが云々――だとか、評論家染みた感想よりも、なんというか。

 幸福というものに味があるのなら、それはきっと、こんな味をしているんだろうなと思った。

 

 

「どう? おいしい?」

「……チルチルとミチルの気持ちが理解(わか)ったような気がする」

「今日の辻くんは言うことがやたら唐突だよね」

「いや、だけど――本当にそう思ったんだ」

 

 

 奈良坂透に憧れて、那須玲からは逃げ出して、志岐小夜子には逃げられて。

 少しの間に色々なことがあって、結局自分自身は何一つとして変えられないままで、腐りかけていたところに、彼女が現れて。

 自分にとって誰よりも身近な少女が、自分の探していたあらゆるものを、最初から持っていた。

 まるっきり、青い鳥の童話のようだなと、思ってしまったのだ。探しものはいつだって、自分のすぐ傍に転がっている。

 空を舞う青い翼の羽ばたきに惹かれていては、地に落ちた羽根の放つ煌めきには、気が付けないものだ。

 

 

『わからない……どうして人は空ばかりを見上げる? 山の麓にひっそりと生えるたけのこの尊さに何故気付かない? 俺には山育ちの連中の考えが理解できない……』

 

 

「……いや、羽根じゃなくてたけのこの間違いだったかもしれない」

「辻くんが何考えてるのかはわからないけど、なんかズレたこと考えてるのはわかる」

「ひゃみさん。俺、今日からたけのこ党になるよ」

「ほら絶対ズレたこと考えてるこれ」

 

 

 ――まあ、奈良坂透は絶対に、こんなことまで考えて口にした訳ではないのだろうけれど。

 彼の言う通り、たまには自分の足元を見つめ直してみるのも、悪くないのかもしれない。そう思った。

 

 

「……はあ。辻くんのよくわかんない話に付き合ってたら、私までお腹空いてきた……早く帰って私もこれ食べよう」

「――うん、そうだね。いいとこのって言うだけあってすごい美味しいから、きっとみんな喜ぶと思うよ。……ありがとう、ひゃみさん」

「うむ。よろしい」

 

 

 流石にここで『え、ひゃみさん(うち)に帰るの?』とすっとぼけるほど、辻も愚かではなかった。

 だから自分も、彼女と一緒に帰ろう。

 作戦室(うち)に帰れば、今まで見落としていた、新たな羽根(しあわせ)の存在にも気が付くかもしれないから。

 

 

「――チルチルミチルで思い出したんだけど、あの兄妹が飼ってた鳥って鳩だったっけ」

「うん。夢の中で捕まえた鳥はみんな死んじゃって、目が覚めたときに自分たちの家で飼ってた鳩の羽根が青いことに気が付くんだけど――最後には、その鳩も飛んでいなくなっちゃうんだよね」

二宮隊(ウチ)にもいるよね、鳩さん。人間だけど」

「鳩原先輩は何処にも行ったりなんかしないでしょ、ひゃみさん」

「……ま、そりゃそうだ」

 

 

 ――そうして二人、当然のように並んで帰路に就く。

 照れもなければ、緊張もない。変化のないその状態を、人によっては退屈と言い換えてしまうのかもしれないけれど。

 

 

 

 

 

 ――今はただ、この退屈こそが愛おしい。

 隣を歩く少女の横顔をちらりと眺めながら――辻新之助は、そんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――とーちゃん。あの二人――()()なのかしら?」

「……どうだろうな。風の噂によれば氷見の本命は――いや、よそう。俺の勝手な推測で皆を混乱させたくない」

「霧が濃くなってきましたね……」

「……あ、小夜子? うん、うん。大丈夫、何があったか大体わかってるから――そうね、あたしから……だとダメそうだから、奈良坂くんに代わりに伝えてもらうことにするわ。――あのねえ、そんなにしょげないの。誰もあんたのこと責めたりなんかしないから。ほら、代わりに何か買ってってあげるから好きなもの言ってみな? ……またそれ? あんたね、たまには水と塩昆布以外のものも摂取しなさいよ。ホントにもう――」

 

 

 

 

 

 ――そんな、本当になんでもない。

 平凡な日常における、1ページの話。

 

 






……バカ……!


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