ワートリハードモード トリオン能力1未満トリガー無し敗北即死   作:ルシエド

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 弧を描く月が消える頃、煌めく星が消え行く空に、太陽が昇る光で目が覚めた。

 

 黒髪混じりの染め損ねた金髪をかき混ぜ、源頼漢はそうして覚醒する。

 

「……む」

 

 貧血でふらふらとする頭を抑え、周りを見渡し、ここが自分の部屋であることを思い出す。

 

 土蜘蛛との戦いから一週間が経っていた。

 

「……食欲ねえけど、母さんの朝食作らねえと」

 

 戦いの後、少年が目覚めたのは病院の中だった。

 弧を描く月がよく見える、晴れ渡った夜だった。

 

 治療費を払えない――そもそも親に金が無く、親が保険料を支払ってくれてもいない――頼漢には、病院でゆっくり治療を受けることなどできやしない。

 夜の内にすたこらさっさと病院を抜け出して、家まで逃げ帰って来たという次第であった。

 頼漢が助けた少女も、頼漢を助けてくれた少年も、結局名前も聞いていない……なんて前提を通り越して、顔さえおぼろげ。

 大量出血の典型症状として、記憶がかなり失われている。

 頼漢は"顔を見れば思い出すかもしれないが全然顔覚えてねえ……"という状態であった。

 

 朝食を作りつつ、頭をコンコン叩いて思い出そうとするが、どうにも思い出せない。

 そうこうしている内に、母親も起きてきた。

 

「おはよう、母さん」

 

「おはよ。ちょっと頼漢、大丈夫なの? そんなに動いて傷開かない?」

 

「大丈夫だよ。今朝ご飯作るから」

 

「そーう? 悪いわね」

 

 朝食を食べ終わって、ごちそうさまをして、服を着替えて、母親はまた宗教の集会に参加する準備を整える。

 源親子は目眩がするほど金が無いが、しかし外出中は一見してそうは見えない。

 理由は簡単。

 母親が、外面を気にしているからだ。

 

 汚らしい格好をしていけば見下される。

 バカにされる。

 居心地のいい居場所がなくなってしまう。

 だから親子共に服装はちゃんとしたものを買っているし、風呂にもちゃんと入っているし、母親は教団で買った怪しいアクセサリーをじゃらじゃら身につけ、香水をつけている。

 

 本当は、母親の周りの人間のほとんどは、彼女が見栄を張っていることに気付いている。

 気付いているが言わないだけ。

 頼漢の母親は、今日もピエロとして踊っていた。

 

 宗教に余剰金銭のほとんどを注ぎ込んでいても。

 そのせいで電気もガスも水道も通っていないこんな集合住宅で極貧生活を送っていても。

 献金のほとんど全て、生活費のほとんど全てを、息子のバイトや不良らからのカツアゲで賄っていても。

 残り少ない金を、見栄を張るための服や洗剤を買って使い切ることを繰り返しても。

 母親は改めないし、息子は母親を見捨てない。

 

 "何があっても母親を愛しているし見捨てられない"という点で、源頼漢は、どうしようもなくまだ子供だった。

 

「じゃ、今日も集会に行ってくるから!」

 

「はいはい。あ、今日は雨降るかもしれないから傘持って行った方がいいよ、母さん」

 

「あらそうなの? ありがとうね我が息子!」

 

「あんま寄り道しないで帰って来なよ」

 

「大怪我して帰って来た息子が言うと説得力が違うわね……」

 

 母親が出ていったのを見送り、少年は自分用の朝食を作り始める。

 "母親にはまともな食事を"。

 "自分の食費は極力抑える"。

 それが少年のモットーで、ゆえに食事は別々に作っていた。

 そうすれば、ほんの少しでも母親が教団に献上する金額が増え、母が喜んでくれるから。

 

 食事を作り始めたところで、床から突然晴明が生えてきたので、頼漢はビクッとした。

 

『いやあ、懐かしい感じの親だよね。

 平安の息吹を感じる。

 昔は道長様の周りにこういうのよく見たもんだけど今の時代は相対的に希少のようだし』

 

「誰だよ道長」

 

『現代の一般人に彼が転生していたら、漫画村を経営してたのは彼だっただろうね』

 

「クズのカズじゃん」

 

『しかも逮捕も起訴もされないまま悠々と逃げ切る』

 

「一番最悪なパターンの極悪人じゃねえか」

 

『捕まってないだけだけの詐欺師をやる才能において藤原道長以上の人間は居ないからね』

 

「なんでそんなやつと付き合い持ってたんだお前……」

 

『何故だろうね。

 不思議と彼とは話が合ったんだ。

 責任のある立場と、冷静な思慮深さがあったからかな?

 言葉にし難い共感があって、どこか不思議な友情のような……』

 

「それお前の性格がゴミカスな証拠じゃねーの」

 

『……』

 

「それお前の性格がゴミカスな証拠じゃねーの」

 

『なんで二回言うの?』

 

 少年は台所に向かい、水を満たした桶から草を取り出した。

 野菜ではない。

 草である。

 もっと言えば雑草である。

 

 雑草には栄養豊富なものがあり、スベリヒユやイヌビユなどは日本では身近な雑草ながら、海外では野菜として栽培している国もあるほどだ。

 栄養はあっても食味が大して良くないから雑草なのだが。

 水に漬けられているのは、この手の草類に多いシュウ酸の類――つまりはアク――を抜いているのだろう。

 

 頼漢は桶の水を入れ替え、まだ水に漬けていない雑草を放り込む。

 入れ替えた水は公園の水道からペットボトルで汲んできたもの。

 当然、入れた雑草もその辺に生えていたものだろう。

 頼漢はシュウ酸を抜き終わった雑草に塩を振って、無造作に食べ始めた。

 

『……』

 

 次いで、押し入れの奥の小麦粉を食べる。

 そのまま。

 必要なカロリー量を得られればそれでいいとばかりに、小麦粉をそのまま食べる。

 

 袋入りの小麦粉は、1円あたりのカロリー効率がもっとも高いと言われている。

 1円あたりのカロリーだけで見れば、1円あたりのカロリーが実に米の四倍以上。

 同額の値段で最安のパスタ麺を買うのに比べて、二倍前後のカロリーを摂取できる。

 節約とカロリー補給を第一目標とするならば、小麦粉ダイレクト捕食は実に理に適っていた。

 

 人間がする食事であるかは、別として。

 

『……』

 

 雑草と小麦粉を咀嚼しながら、頼漢は無人島のサバイバル漫画でしか見ないような方法で、室内で火を起こしていく。

 ガスも無い。

 電気も無い。

 火種も無い。

 そんな家で彼が火を得るにはこれしかない。

 冬にはこれができないと母と共に凍死しかねないので、ずっと前に必死に覚えたのだ。

 

 凄まじい身体能力であっという間に火を起こしたら、ずっと昔にゴミ捨て場で拾ってきたフライパンを使って、空き地に生えていたアブラナ科植物から絞り出した植物油を広げる。

 そして、加熱された油の上に、虫を放り込んだ。

 

『……』

 

 昆虫食は未来の食糧危機の打開策として考えられているほど、非常に優秀な栄養源である。

 タンパク質を中心に、ビタミン、ミネラル、食物繊維など、多くの栄養を摂取できる……とはいうものの、未だに外見や味の問題でメジャーになれないというのが実情である。

 ただ、虫を主食として見ようとするならば、『虫を食べられる』『食べられない』から一歩進んだ思考で食卓を構築することができる。

 

 成虫のコオロギはタンパク質、脂質、炭水化物、ビタミン、ミネラルのバランスが良いのでメインに。

 全体的に脂質・エネルギー・特定アミノ酸に優れる幼虫類を補助に入れる。

 今回は昆虫食の中でも特に人気と評価が高いカミキリムシの幼虫を入れているようだ。

 それらを雑な植物油で炒め、頼漢はパクパクと食べていく。

 

 たとえば重量:栄養比で見るとカルシウム・マグネシム・ナトリウムなどならハエが特に優れており、リンならばゴキブリ、鉄分などなら海外由来の毒毛虫が非常に優秀である。単純なカロリーであればゴミムシの幼虫も最高クラスの数値を誇っている。

 しかし、それらを好んで食べるほどには頼漢は人間を捨てていない。

 かつ、それらに手を出さなくとも生存に必要な栄養は十分確保できる。

 

 各種ミネラルとタンパク質において指折りの栄養価を誇るコオロギ、エネルギーと脂質においてトップクラスの幼虫を併せて摂取すれば、十分に隙は無いだろう。

 小麦粉、雑草、虫。

 すなわち炭水化物に、野菜に、肉。

 家庭科で習うような、お手本のようにバランスの取れた食生活。

 

 バランスは取れているものの、何かどこかが狂っていた。

 

『……』

 

「なんだお前。

 普段うるせえのに黙ってるとかできたのか。

 できれば今後もそうして静かにしといてくれると助かる」

 

『いや……その……なんだ……』

 

 行政がこの生活を認知していれば、即動きそうなほどに色々とアウトな食生活であった。

 未成年が慣れ切っていい食生活ではない。

 だが頼漢にとっては、十年は続けている食生活であった。

 これが普通で、だからこれが当たり前。

 不満もないし、疑問もない。

 

『……悲惨な食生活だね……』

 

 安倍晴明、生涯初の(もう死んでいるが)、絞り出すような情けない声が出た。

 

「腹に入れば全部一緒だろ。栄養補給のために食ってるだけなんだからよ」

 

『その内病気になるよマジマジのマジで』

 

「生まれてから一度も病気にかかったことねえんだよなあ」

 

『嘘でしょ?』

 

「食中毒もない。近所一帯で寄生虫騒ぎになった時も母さんは倒れたが俺は無事だったな」

 

『……』

 

 安倍晴明は未来を視れる。

 しかし、視るのは必要な未来だけ。

 余分な部分を見ることはない。

 だからこそ、視た未来の中に無かった"余分"が、予想を遥かに超えたインパクトと共に襲来したことに、軽くめまいを覚えていた。

 

『いや……なんか、引く。

 素直に引く。

 現代の飯すごーいって思ってたんだよ(やつかれ)

 平安の貴族以上のものを皆が食べてるなって。

 時代の進歩は凄いなって思ってたんだよ?

 なんで平安時代の大根生で齧ってる貧民より飯の質悪いねん……おかしいやろ……』

 

「一々うるせえ野郎だな。なんかもうちょっとマシな別のもの食えばいいのか?」

 

『そうしてください……』

 

 頼漢は腕を組んで考え始めた。

 とはいえ、金はない。

 金を使う気もない。

 食料の貯蓄も大してあるわけでもないだろう。

 "冷蔵庫のありもので美味しい料理を"というのは定番だが、そもそもこの家に冷蔵庫はない。

 

 頼漢は考えていたが、やがて何かを思いついたようだった。

 

「土蜘蛛の肉、か……探せばまだ出てくる可能性も……焼けば食えるか……?」

 

『やめてくれ』

 

「挑戦もしねえで食える食えないは分かんねえだろ」

 

『いやホントに』

 

「つっても外見はカニみてえだし……生まれてこの方カニとか食ったことねえんだよなあ」

 

『やめようね!』

 

 妖怪・土蜘蛛(トリオン兵)を『美味そうだ』と思った人間は、ともすれば彼が初めての人間だったのかもしれない。

 

 頼漢は必死に止めて来る晴明をうざそうに見下ろし、ため息一つ。

 たいそう面倒臭そうにしながら、外出の準備を始めた。

 味方側からしつこく粘られるとお願いを聞いてあげてしまうのが、頼漢の基本的な性情なのかもしれない。

 

「しゃあねえ、獣肉でも食いに行くか……」

 

『オッケーグーグル、その調子だ』

 

「Googleじゃないが?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨取(あまとり)千佳(ちか)は『いい子』である。

 彼女はどこにでも居る普通の女の子だが、周囲の大人が『普通の女の子』と呼ぶのは、大抵平均値の子ではなく、無個性な子だ。

 千佳がいい子と呼ばれるのは、周りの子よりちょっとだけ優しくて、ちょっとだけ大人の言うことに従順で、ちょっとだけ我慢が出来て、ちょっとだけ頑張り屋だったから。

 大人はいい子な方を褒めるから、千佳は普通の子と呼ばれるより、いい子だと呼ばれるような女の子になった。

 

 周りに愛されて、周りに大事にされて、周りに応援されて。

 周りを愛して、周りを大事にして、周りを応援して、いつも頑張る。

 そんな普通の女の子だった。

 

 彼女の不運は、晴明に言わせれば『生前の(やつかれ)を超える霊力』、この世界の外側の存在に言わせれば「星を創る神にもなれるトリオン能力」を、持って生まれたことだった。

 

 土蜘蛛は正しかった。

 千佳一人さえ誘拐して世界を渡れば、ただそれだけで、国一つの総生産に勝る益を得ることができてしまっていただろうから。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 

 あの日。

 千佳は逃げた。

 走って逃げた。

 其は、夜と朝の狭間から這い出るように現れて、千佳に狙いを定めて追う蜘蛛。

 

 千佳には自分を狙う敵の気配を感じ取る特殊能力があり、ゆえに一人だけモールモッドの接近に気が付き、部屋着のまま遮二無二一人で逃げた。

 誰も巻き込まないために。

 誰も自分のせいで傷付けないために。

 その優しさは気高く尊いものだったが、保身という点だけを見れば失格だった。

 

 千佳は先んじてモールモッドの接近に気が付き、先に逃げ出していたために距離のアドバンテージがあったが、走行速度に差がありすぎた。

 徐々に差は詰められ、そして。

 

「―――あ」

 

 染め損なった黒髪が混じった金髪の男が、雨取千佳を救いにやってきた。

 千佳は、いい人だとは思わなかった。

 第一印象は、恐ろしい人だった。

 彼は明確に、『少女を助けよう』という気持ち以上に、『少女から奪おうとする悪への憎しみ』を強く持っているのが、その表情からも明らかだったから。

 

 『彼は私を助けに来たのではなく、私を傷付ける怪物を許せなかったから来たのだ』と、千佳が彼の顔を見ればすぐに分かってしまうくらい、男は分かりやすい人間だった。

 

「怪我ないか? 怖かったろ、女の子だもんな」

 

「は……はい」

 

「住宅街に入って、ジグザグに南に向かえ。

 俺がこいつを足止めしておく。

 曲がり角を何度か曲がっていけば、たぶん見失うはずだ」

 

「え……で、でも」

 

「行けやオラァ! 四の五の言ってんじゃねぇ!」

 

「はいぃぃぃ!!」

 

 あまりにも顔が怖くて、怒鳴り声が怖くて、威圧感が怖すぎたから、千佳は半泣きに声を裏返らせて、一目散に逃げてしまった。

 怪物よりも、その男の方が怖いと思ったくらいだった。

 普通に生きてきた、ただの小学三年生の女の子だ。無理もない。

 

 言われた通りに逃げて、逃げて、逃げて。

 息が切れて膝に手をついて休んでいたら、優しさが顔を出す。

 彼が威嚇して、何もかも考えないで逃げられるようにした魔法が切れた。

 

「……誰か、誰か呼んでこないと。あの人が、私の代わりに怪物に……!」

 

 早朝に家を出た千佳に気付いた兄が、千佳を探して追いついてきて。

 千佳が兄に助けを求めて、彼を助けてと兄に頼んで。

 血みどろの彼を乗せた救急車が病院に向かうのを見送って、千佳は真っ青な顔で蹲った。

 

「千佳!」

 

「……うっ」

 

 雨取千佳にとって、それは人生初めてと言っていい感覚だった。

 頭がくらくらとして、胸がむかむかとする。

 頭の隅が痺れて、指が痺れて、手が震えていた。

 吐き気がして、胃の奥の方から何かがせり上がってきて、それを押し留めることが、筆舌に尽くし難いほどに不快だった。

 

 自分を庇って死にかけて、血みどろになった人間を、少女は生まれて初めて目にした。

 

 最初に思ったのは"私のせいで"。

 次に思ったのは"どうか無事で"。

 ほんの僅かに思ったのは"怒られたくない、恨まれたくない"。

 ずっと思っていたことは"私が悪い"。

 

 いい子であるということは、穏やかで優しいということ。

 いい子であるということは、怒られないように生きているということ。

 いい子であるということは、誰のせいにもしないということ。

 いい子であるということは、自分のせいにするということ。

 それが、性格を形作る。

 

 心配して、心配して、もし死んでしまったどうしようと、何十回、何百回と想像に震えて、病院からの報を待っていた千佳の耳に届いたのは。

 

「え、病院を抜け出した……?」

 

 桁違いの生命力を持つ自由人が、好き勝手に動いた結果であった。

 

 

 

 

 

 千佳はそれから一週間、彼を探し続けた。

 どこかで倒れているかもしれない。

 病院を抜け出したことで傷が悪化しているかもしれない。

 そう思うと、足は止まらなかった。

 

「どうも~、モッケ会勧誘員の源です~、そこのお嬢さん! 話聞いていきませんか?」

 

「えっ……す、すみません、急いでるので」

 

「お悩みごとがあるようですね? 元寇で殺された蒙古みたいな顔してますよ」

 

「それ悩んでる人の顔に使う表現なんですか?」

 

「ご家族で入信されればあら不思議。健康長寿商売繁盛、春秋に蚊に刺されなくなり……」

 

「失礼します……」

 

「ああ待ってぇ! 私ここで勧誘数稼がないと息子に楽させられないんです!

 でも上手く行かなくて……持病あるし……

 孤軍奮闘、四面楚歌。

 『あなたはロボットですか? タクシーの画像を選んでください』も抜けられない始末」

 

「あれ抜けられない人初めて見ました」

 

「そう、私は待っていたのよ。あの認証を抜けられる、選ばれし者をね……」

 

「失礼します……」

 

「あっ待って待って」

 

 千佳は宗教勧誘の魔の手を振り切り、彼の居そうな区画へ向かう。

 "彼"が土蜘蛛から助けてくれた区画から、大きなショッピングモールが出来たことで寂れてしまったシャッターだらけの元商店街の方角へ。

 千佳はこの辺りの治安がやや良くないことは知っていたが、地図を見ながら突き進む。

 手がかりはほとんどない。

 彼が助けてくれた場所から、不良みたいだった彼が居そうな方へと、雑に進んでいく。

 

 小学三年生らしい後先考えない無謀と見るか。

 小学三年生にしてはよく考えて移動先に当たりをつけていると見るか。

 見る人によって感想が違いそうな動き方だった。

 

 千佳が小学生特有のやんちゃさを持ち合わせているからこその選択。

 もしも千佳が、多少落ち着きの出る中学生程度まで年齢を重ねた後であったら、こういう危なっかしい選択はしていなかったかもしれない。

 

「えっ、と……」

 

 勇気を出して、けれどビクビクとしながら、内気な少女は"彼"を探す。

 

 薄暗い物陰が怖かった。

 木々の見通せない向こうが怖かった。

 背後で何かが動く音がしただけで、ビクっとしてしまう。

 薄闇からやってくる妖怪の存在が、ただ街を歩いているだけでも恐怖を覚える心を、幼い千佳の心に刻み込んでしまった。

 

「……何も、来ませんように」

 

 "彼"を見つけたとして、何を言うのか。

 それさえ決めずに千佳は歩いていた。

 ただ、前のめりに。

 

 ごめんなさい、と言いたいのか。

 許してください、と言いたいのか。

 私のせいで、と言いたいのか。

 第一声で何を伝えたいのかも曖昧なまま、守ってくれた、死にかけたあの人を探した。

 

「会わないと」

 

 ただ、焦りのままに、寂れた元商店街の更に奥の方の、見通しが悪い方に進もうとして。

 

 そこで、千佳の肩を掴んで止める者が居た。

 

「そこの子、そっちには行くな。ちっと危ねえぞ。

 男だと問題無いが女だと万が一がある。

 不良……って言うほどじゃねえけど、偏差値低い学校の不登校組の溜まり場だからな」

 

「え? あ……」

 

「あと、風邪引くぞ。今日の天気予報見てなかったのか? これから雨降るかもってよ」

 

 あの日、守ってくれた"彼"が、そこに居た。

 

 "彼"は一本しか持っていない傘を――おそらく廃材を組み合わせて作った手作りの傘を――千佳に押し付けるようにして渡す。

 男は、ボロボロだった。

 上から下まで包帯が巻かれていないところがない。

 包帯には今でも比較的新しい血が滲んでいて、まだ完全に傷が塞がっていないのが分かった。

 体にいくつも穴が空いているからか、ただ歩くだけ、ただ立っているだけでも、どこかぎこちないように見える。

 顔色も悪く、先の戦いで彼が死にかけたことに疑いようはなかった。

 

 考えるより先に、千佳は口を開いていた。

 

「あ、あの! ありがとうございました!」

 

 まず、どんな謝罪より先に、どんな自己否定より先に、感謝の言葉が思わず出てしまう『いい子』であるのが、雨取千佳という少女の本質だった。

 

 

 

 

 

 一方頼漢は、出血のショックで記憶が飛んでいたせいで千佳が誰なのかさっぱり分からなくなっていた。

 "誰だっけ?"。

 "宗教の勧誘?"。

 "加古っちの妹はこんな顔だったっけ?"。

 頭の上に疑問符が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。

 

「け、怪我! 怪我……大丈夫、なんですか?」

 

「……?」

 

『おじいちゃん、痴呆が進んでますね。(なれ)が助けた子ですよ』

 

「……ああ、あの時の子か、なるほどなるほど」

 

 安倍晴明サポートアシスタンスにより、頼漢はおぼろげな記憶をなんとか取り戻した。

 別に、あの日助けた少女でなくても危ない所に入ろうとしていたなら止めていただろう。

 あの日助けた少女でなくても一本しかない傘は譲っていただろう。

 

 誰かに恩を着せようとしているわけではなく、誰を守って死にかけることもあり、誰にでも手を差し伸べる。

 彼がそういう人間であることを、遅まきながらに、千佳は理解し始めていた。

 

「私のせいで、そんな怪我を……」

 

「こんくらいなら腹いっぱい肉食えば明日には治る。これまでもそうだった」

 

 信じられないバカを見る目と、信じられない超人を見る目が、千佳の表情の上で混ざった。

 

「ワンピースの登場人物みたいな体の構造していらっしゃるんですか……?」

 

『階段でコケたら死ぬってことかな』

 

「俺よりお前の方が現代の漫画読んでそうだな……」

 

 頼漢はうっかり千佳には見えない晴明に話しかけてしまい、千佳は不思議そうに首を傾げた。

 

「?」

 

「ああ、なんでもねえよ」

 

「そう、ですか? あ、わたしは雨取千佳、と言います。

 雨に取る、千回の千に、にんべんに土が二つの佳って書きます」

 

「ん? 雨取? まあいいか。

 源頼漢だ。

 自分の名前の画数多すぎてメンド臭すぎて自分の名前漢字で書けたことねえや」

 

「ええ……」

『ええ……』

 

 人知れず、晴明と千佳の声が重なった。

 

 改めて千佳は彼を見る。

 体格が良く、背が高い。適当な服装や適当な髪――黒髪混じりの金髪――に、威圧感のある顔つきがやっぱり怖い。

 ただ、話してみると思っていたより幼い印象もあった。

 

 頼漢は改めて彼女を見る。

 小学生にしても低い背、細い体、矮小な体格。

 幼稚園の年長組と言ってもそれなりに通りそうな印象すらある。

 幼さの中に可愛さがあり、穏やかさの中に愛嬌のある雰囲気があった。

 

 頼漢が千佳の顔をじっと見ていると、千佳ははにかんで柔らかい表情を返してくる。

 表情が柔らかく、他人への姿勢が優しく、振る舞いに棘がなく、言葉に温かみがある。

 "親によく愛される子なんだろうな"と、頼漢はなんともなしに思った。

 

「あの……ありがとうございます。

 怪我までして助けてくれて、おかげで助かりました。お礼がしたいんです」

 

 ぺこり、と千佳が頭を下げる。

 とても律儀に、千佳は助けてもらった恩を返そうとしている。

 そのために危険を省みず、化物への恐怖に打ち勝ち、不良に囲まれることさえ恐れず、小さな体でここまで来たのだ。

 そんな彼女の姿を見て、頼漢の胸の奥に、温かな感情と複雑な気持ちが渦巻いた。

 

 いい子だった。

 掛け値なしにいい子だった。

 少し話しただけで、頼漢はもうこの少女のことを好ましく思い始めている。

 それは晴明が術式で無理矢理作ろうとした明確で強い好感ではない、千佳の人格に由来するふんわりとした柔らかな好感だった。

 

 雨取千佳は、誰もが認める"いい子"だった。源頼漢とは違って。

 

「いい子だな、お前は」

 

「え」

 

「いいことだ。いい子だと周りに思われることが、いい子である証だしな」

 

 この子を守れて良かったと、頼漢は心の底から思う。

 その想いに嘘はない。

 巨人が肩に乗った小鳥を守ろうと思うような感情の動きが、頼漢の中に生まれていた。

 

 ふっ、と、頼漢は『よその家庭の真似をしてよその親が子に言っていた褒め言葉を丸々パクるようになった自分の母親』のことを、思い出した。

 思い出し、他の家の子供が貰った愛の言葉の模倣しか貰えない自分の人生と向き合わされた。

 一般的な"いい子"の定義のどれにも、源頼漢は合致しない。

 

「俺は親にさえいい子だって言われたことねえや」

 

「え?」

 

「いや、なんでもねえなんでもねえ。つまんねえこと言っちまったな、忘れてくれ」

 

 うっかり口を滑らせてしまい、頼漢は内心慌てて話題を変える。

 

「その後なんともねえか? あの蜘蛛みてーなのがまた来たりとかよ」

 

「え、えっと、はい。改めて、あの時は、助けてくれてありがとうございます、ヨルカさん」

 

「別に助けたわけじゃねえよ。

 見たろ? あの蜘蛛の不細工な顔。

 気に入らねえ、気に入らねえにもほどがある。つい殴りに行っちまっただけだ」

 

「は、はぁ……」

 

(なれ)の冗談はあんま通じないタイプの子だと思うよ』

 

 耳元の安倍晴明に"うるせえな"と頼漢は思う。

 

 頼漢は拳を握ってにっと笑ってみせるが、千佳は困惑した様子しか返さない。

 他人を不快にさせない言葉を一々選んでから話すのが千佳で、ともすれば攻撃的な言葉や荒っぽいジョークを織り交ぜて話すのが頼漢だ。

 

 ヨルカのチクチクとした言い回しは千佳に取ってハラハラするもので、荒っぽいジョークはよく分からない。

 千佳の柔らかい言い回しは頼漢にとっても心地良いが、どこかもどかしくもある。

 二人は同じ言葉を使っているようで、厳密には同じ言葉で話していない。

 耳慣れた言葉が違いすぎる。

 端的に言えば、二人は違う世界の住人なのであった。

 

「あっ! そういやあよ!」

 

「ひゃっ」

 

 それに加え、頼漢のガツガツとした振る舞い、威圧感のある雰囲気、女の子から見れば怖い顔、活力のある大きな声量は、千佳をナチュラルに()してしまう。

 

「……あー、えーとな、悪ぃな、怖がらせて」

 

「! 違います! 怖くないです! いえ、違った! 怖くはあるんですけども!」

 

「お、おう。ちょっと落ち着け、深呼吸、深呼吸」

 

「すぅー、はぁー、すぅー、はぁー。

 ……ご、ごめんなさい。

 でも、その、怖いというのは本当ですけど、本当は違くて、ええと……なんて言えば……」

 

『ここだ! ここだよ源頼漢!

 ここで"僕は君の言葉なら楽しみに待てるよ"と言うんだ!

 それだけで内気な口下手少女はベタ惚れで恋愛感情ジュンジュワーだ!

 (やつかれ)はそうだった! まあ(なれ)はイケメンじゃないからそうならないかもね!』

 

「……ゆっくりで良い。お前の意見を、誤解なく話せ。俺は急かさないから」

 

『しゃあっ!』

 

「はい。ありがとうございます」

 

『反応わっる。やっぱコワモテは駄目だな。コワモテって名前のくせにモテそうにない』

 

 こいつマジでうるせえな、と頼漢は思った。

 

「怪物は怖いんです。

 ヨルカさんも、ちょっと怖いんです。

 でも、ヨルカさんは違うんだって、そう思えるんです。

 それはきっと、わたしがヨルカさんに助けてもらったからなんです」

 

「助けた覚えはねえよ」

 

「わたしだって、兄さんだって、そうは思いません。わたしは、助けてもらったんです」

 

「……」

 

『頑固だね、この子。柔らかい雰囲気だけど、譲らない所で絶対に譲らないんだ』

 

 その頑固さが、小学生特有の意固地さなのか、この少女が生来持つ気質―――心に根ざした強さなのか、頼漢には判別がつかなかった。

 

「そんなヨルカさんにお礼を言って、できれば、その……頼みたいこともあって」

 

「お、なんだ。言ってみろ」

 

『サービスエリアであの龍が巻き付いてる剣のキーホールダー100個買ってきてください!』

 

 こいつの口どうやったら塞げるんだ? と頼漢は思った。

 

 そして。

 

「つ、強くなる方法を……あなたみたいに強くなる方法を、教えて下さい!」

 

 ここまでの流れで掴みかけていた雨取千佳という少女のキャラにそぐわない言葉に、頼漢と晴明は揃って目を丸くした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二人(と一体の幽霊)は、商店街を南に抜け、農耕地帯と隣接する山に入っていた。

 頼漢一人なら獣道でもサクサクと進めるが、今日は千佳が同行しているため、比較的歩きやすい道を選んで進んでいく。

 

 元々頼漢はこっちの方に用事があり、その途中で千佳と出会っただけ。

 千佳が頼漢の用事の邪魔をしないことを望み、頼漢が千佳の頼みを聞いてやろうとしたため、折衝案として頼漢の目的地に向かいつつ、千佳の話を聞いてやる次第になったのだ。

 

「ここに何かあるんですか?」

 

 歩きやすいよう、頼漢が余計な草を踏み潰して均してくれた道を歩き、千佳が首を傾げる。

 

「イノシシが出るから殴り殺して持って帰って食う」

 

「ええ……」

『ええ……』

 

「あんま言い触らさないでくれよ。

 この辺は皆獣害で困ってるが、法律で勝手な狩猟は厳禁だからな。

 罠とか武器とか使うと罪状が増えるから、しょうがなく素手で仕留めてんだ」

 

「問題点はそこだけなんですか……?」

 

『源氏でもそこまでの蛮族は……

 ……いやいたな……割といたな……

 巴御前とかは戦闘体が解除された異界の人型の首を素手で捩じ切ったりしてたな……』

 

 包帯でぐるぐる巻きになっている腕にぐっと力を入れて見せ、余裕ぶって頼漢は笑う。

 

「とりあえず肉食っとけば明日には完治してるだろうから、お前は気にすんな」

 

「……はい」

 

『鬼畜米英が恐れたイエローモンキー・D・ルフィが此処に居る。

 ヤンキーとモンキーは似てるから不良は実質猿理論がまた証明されてしまったな』

 

 "失敗したなあ、無傷で帰るべきだったか"と思う頼漢。

 その心中には、怪我をした頼漢を心配する千佳に対し申し訳なく思い、できるだけ早く怪我を治して、「大した怪我でもねえよ」と言ってやりたい気持ちがあった。

 

 "変な人"と思う千佳。

 その心中には、大怪我をした彼への罪悪感や申し訳無さ、そして千佳のそんな気持ちを不器用に拭おうとする頼漢への感謝があった。

 

 "とりあえずは計画通りかな"と思う晴明。

 その心中には、ふざけて振る舞う陰陽師の仮面の下で、『使える駒』を頼漢の周りに寄せようとする冷酷な打算があった。

 

 三者三様の思考の中、頼漢は千佳の願った内容に問いを返した。

 

「千佳っちはなんで強くなりてえとか思ったんだ? 別に要らんだろ、強さとか」

 

 "いい子ならそれだけで生きていけるだろ"という頼漢の本音は、噛み殺す。

 

「怖いんです」

 

「怖い?」

 

『……ふむ』

 

「友達と遊んで、遅くなった帰り道が。

 学校の用事で、暗くなってから帰る日が。

 壁とかじゃなくて、ただ暗いだけで、向こうが見えない夜道が。

 草木のせいで何が潜んでても見えない森とか、そういうのが……怖いんです」

 

 とても、とても"普通の女の子"らしい気持ちの吐露があって、頼漢はぎゅっと拳を握る。

 少女の命は守れても心は守れていなかったという己への怒り。

 少女の穏やかな毎日を奪い、傷を付けた土蜘蛛への怒り。

 

 千佳の恐怖心に"奪われたもの"をひしひしと感じて、頼漢の『奪う者を許さない』というルールが、妖怪を打倒する気持ちを昂ぶらせていく。

 

 おそらくは、安倍晴明の誘導した通りに。

 

「お兄さんがいんだろ? 外出する時は一緒に来てもらったらどうだ」

 

「あんまり、兄さんに迷惑かけたくないんです」

 

「……ホント、いい子だな」

 

「そんなんじゃないです。臆病なだけで……

 だから強くなりたいんです。皆に迷惑をかけないために」

 

「……」

 

『いやあ、面白いね。他人に迷惑をかけたくない、そういう気持ちが強い子か』

 

 頼漢と千佳が対話をしている横で、ふわふわと浮いている晴明がくすくすと笑っていた。

 

『他人に迷惑かけまくってる新興宗教の母親を養ってる(なれ)としてはどんな気分だい?』

 

「……」

 

(なれ)は、他人に迷惑をかける人間とかけない人間の区別はつくのにね』

 

 晴明の言葉に、多少の哀れみが混じった。……ような気がして、頼漢は握った拳をほどいた。

 

「力が強い人間になりたいとか、そういうのじゃないんです。勇気が……勇気が欲しいんです」

 

「勇気?」

 

「ヨルカさんみたいに、恐れず立ち向かう勇気が……

 あ、実際に立ち向かうわけじゃなくて。

 どんなに恐ろしい怪物にも立ち向かう勇気が。

 相手が強くて、自分が弱くても、立ち向かって行ける勇気があれば……って」

 

「強くなりたいって、そっちか」

 

「はい。ヨルカさんみたいに強くなりたいんです。皆に迷惑をかけたくないんです」

 

 頼漢が千佳を見る目には、"いい子"である彼女への憧れがあった。

 だが、それは逆も然り。

 弱さゆえに一人の帰り道にも怯えて蹲ってしまう千佳は、"強く自由で恐れを知らない"彼の勇気への憧れがあった。

 

 まだ出会って間もないというのに、互いが互いの心に憧れている。

 

 頼漢は照れて、後頭部を掻き、普段の彼らしくもない素直な想いが口をついて出る。

 

「……いやあ、まあ、俺はなんかをガチで怖いと思ったことねえしな。

 怖いと思ったことがないやつが何にでも喧嘩売れるのは、凄いことじゃなくねえ?」

 

「え」

 

「立ち向かうかどうかは勇気じゃなくて、気に入らねえかどうかで決めてんだ」

 

 頼漢は恐れ知らずの無頼漢である。

 決して、勇者ではない。

 真の勇者とは、心の奥に恐怖が湧き上がろうとも、『自分がそうするべきだと思ったから』で立ち向かったりできるような、そんな人間である。

 勇気無くとも怪物に立ち向かえる頼漢は、恐れ知らずであって勇者ではない。

 

 恐れに立ち向かう意志こそを勇気と定義するのであれば、頼漢にも千佳にも、勇気はない。

 今は、まだ。

 

 頼漢は唸って、深々と千佳に頭を下げた。

 

「頼まれといてすまねえな。たぶん、俺はお前に必要なこと教えてやれそうにねえ」

 

「い、いえっ! こっちが頼んでる側ですから……」

 

「くそっ、真面目に勉強しとけばよかった。何アドバイスすればいいのかわからん」

 

「お勉強なら今からでも間に合いますよ、きっと。

 昨日のテレビで、人間は皆名教師の卵なんだーってやってましたから」

 

「俺が卵なら今割れた気がする。心は割れたが残骸は卵焼きにしてくれ」

 

「だ、大丈夫です! 卵焼きは美味しいですよ、ご飯にも合います」

 

「焼き明太子の話?」

 

「あ、そっちの卵焼きもご飯に合いますね」

 

『放っておいたら会話がどこまですっ飛んでいくのか黙って見てたい気分だな』

 

 思考のズレ、言語のズレ、話題のズレがある二人のため、なんとなく話していると二人のどちらも思ってもみなかった方向にすっ飛んでいってしまうようだ。

 

 定期的に話の方向を修正しなければ、おそらく話が元の場所に戻ってこない。

 

 話の過度な脱線を晴明が囁く形で修正し、ようやく話が一周して戻ってきた。

 

「気のせいなら、いいんですけど。最近なにかに見られてる気もするんです」

 

「見られてる……?」

 

「ずーっと遠くから、こっちが見られてる気がして……

 勇気があったら、不安で変な気のせいを抱えちゃうのも、なくなるのかなって」

 

 見られている、という意識。

 それが不安から生まれたものかもしれないと千佳は考えている。

 勇気を得ればそれが消えるかもしれないと考えている。

 ただ、頼漢は別の可能性も考えた。

 この手の事案の専門家と言っていい晴明に、頼漢は目配せ一つ、意見を求めた。

 

(やつかれ)に、(なれ)に教える義理があるのかな?』

 

 ふふふ、と怪しい笑みを浮かべ晴明は煙に巻くような表情になる。

 

『まああるかないかで言えばあるんだけどね! うむ、妖怪が来るよ。五分以内だ』

 

「!?」

 

 その表情を崩さぬまま、晴明はさらりととんでもないことを言い出した。

 

 頼漢は急いで全身の包帯を締め直す。戦いが始まれば、ほどけてももう戻せないから。

 

「え……どうしたんですか?」

 

『最近はよくよく未来が変わる。まったく、楽しいねぇ』

 

 森の狩猟は一旦中止。

 頼漢は体の調子を確かめるが、体に穴の空いた箇所を中心に調子が悪い。

 血圧も上がりきっていないためか、筋肉も普段通りに力が入っている気もしなかった。

 土蜘蛛に地面に叩きつけられた時、骨にもヒビが入っている。

 

 体調は最悪。

 土蜘蛛がまた現れたら、倒せるだけの血を絞り出す手段も無い。詰みだ。

 だが、頼漢が逃げることはない。

 

 勇気があるからではなく、恐れを知らないから。

 

「来るぞ」

 

 それは、巨大な怪物だった。

 どこに隠れていたのか、どこからどう来たのか、頼漢がまるで理解できない怪物だった。

 ゆうに三階建ての建物ほどの大きさはありそうな体躯。

 太い四本脚と太い胴体で構成された身体は哺乳類のようで、けれど細部のシルエットを精査すると節足動物のようにも見える、おぞましい姿。

 

 一言で言えば、絵に描いたような怪獣だった。

 

 妖怪の名は『バムスター』。

 平安時代に呼ばれた名は『隠し神』。

 土蜘蛛が敵を排除するために遣わされる戦闘用の妖怪ならば、この妖怪は人を拐うために特化した機構と性能を持つ。

 

 隠し神の狙いは千佳で間違いないだろう。

 おそらくは土蜘蛛に次ぐ第二陣。

 彼女が完全に狙いを定められたことを、頼漢は直感的に理解していた。

 

「下がってろ千佳っち。そんで見とけ」

 

「見とけ、って……なにを、ですか?」

 

「俺の縄張りを通る時は、夜道でお前を傷つける妖怪は居ない。安心して帰れ」

 

 千佳を大木の木陰に隠し、頼漢は拳を覆う包帯を引き締める。

 

「俺が全部ブチ殺すからな」

 

「―――」

 

 "今日は私を守るために戦ってくれてる"と、千佳は理解した。

 表情と言葉だけでそれが分かるくらいには、頼漢は分かりやすい男だった。

 

 森の中、少し開けた場所で、隠し神と頼漢&晴明が対峙する。

 ゴキ、ゴキ、と肩を回して鳴らす頼漢の横で、サッカーの試合を見る前のファンのような表情で晴明が笑っていた。

 

『さあ、抜刀だ。試し切りと行こうじゃないか』

 

「どうやんだっけ?」

 

『来いと念じて、来ると信じて、迷いなく握って振るってみればいい。すぐに出せる』

 

 頼漢はぐっ、と握った拳を、天を衝くように突き上げる。

 拳を開き、何かを握り、腕を振り下ろすと、腕と共に振り下ろされた長物が地を打った。

 いつそれは現れたのか。

 いつそれは握られたのか。

 見ていた隠し神にさえよくは見えなかった、曖昧なる武装の出現。

 

 頼漢の手に握られていたのは、色が塗り替えられ、陰陽術の呪文をびっしりと刻み込まれた、土蜘蛛の足―――妖怪の体の一部を改造して造られた巨大な名刀。

 

 銘を『蜘蛛切』。安倍晴明の陰陽術によって鍛え上げられた、頼漢のためだけの刀である。

 

『さて、武器の性能はちゃんと覚えているかな?』

 

「土蜘蛛の爪は妖怪最硬。最も受けに向いた刃の装備」

 

『正解だ。さて、楽しませてくれ給えよ? そのために回収して改造したんだからね』

 

「勝手に楽しんでろ。俺はブチ殺すだけだ」

 

 唸るような音を立て、怪物が森を踏み潰しながら迫る。

 

 貧血で止まりそうになる身体に気合いを入れ、裂帛の気合いと共に飛び出した。

 

 

 

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