ワートリハードモード トリオン能力1未満トリガー無し敗北即死   作:ルシエド

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 平安時代の人間は、記録に残っているだけでも、生身でトリオン兵相手に時間を稼ぐことができる――専用の武具がなければ倒すことはできない――者達ばかりである。

 

 天台宗実因は剛力無双の僧。

 足の指の間にクルミを八個挟み、足の指の力だけで粉々にする遊びをしていたという。

 

 安芸太郎実光は源義経に従い壇ノ浦に参戦した豪腕の武士。

 その力は武士三十人分……現代で言えば、1トン程度なら軽々持ち上げられるほどであった。

 

 平教経は幾多の戦場にて一度も不覚を取ったことのない個人戦無敗の怪物。

 壇ノ浦の義経には勝てず、されど安芸太郎実光を力で圧倒し、共に海に落ちて死んだという。

 

 剛力を誇る源氏の子孫はその後も歴史の各所にたびたび現れる。

 頼漢のように、先祖返りで人間離れした肉体を備えた者達が、歴史にたびたび現れる。

 横手五郎などは20トン程度の大岩なら背負って長距離運搬ができたと記録されており、その力を恐れられて生き埋めにされたとも、力を見込まれ加藤清正の家臣になったとも伝承されている。

 頼漢の身体能力は高いが、流石にそのレベルにまではなっていない。

 

 歴史をずっと眺めてきた晴明は、ゆえに一つの結論を出していた。

 

 心が強くなければ、戦えない。

 力だけ強くても意味はない。

 心だけで勝てるというわけではなく、心の強い方が勝つというわけでもなく、心が育てていく強さこそが勝利を掴み、心が伴った強さこそが世界を救う。

 

 晴明はいつも、他者を試している。

 それは他人を信じたいと思いながら、疑っているから。

 信じた者達が、戦いの中で数え切れないほど死んでいったから。

 晴明はいつも、他者の心を試している。

 

 共に戦うどこかの誰かが、"こいつならきっと戦いで死んだりしない"と信じられるような、心身の強さを見せてくれることを、心の奥底でいつも望んでいる。

 

『黒幕気取りで全部知ってるような顔してるけど……

 実は(やつかれ)、そこまで万知でも万能でもないんだな、これが』

 

 安倍晴明は出会った日からずっと一緒に居た頼漢と初めて別れ、物思いに耽る。

 

『いつも(なれ)を試してるようで悪いね。だけど』

 

 草原に寝転び、頼漢を想って、星空を見上げる。

 

『最良で1200人以上死亡、400人以上が拐われるなら。最悪の場合更に桁違いに増えるなら』

 

 一人死ねば、一人死ぬだけではない。

 その家族も、その友達も、犠牲者を大切に思う全ての人が不幸になる。

 人を殺すことは、最悪だ。

 殺された人間の家族は悲しみ、その痛みを一生背負っていくことになる。

 

(なれ)のような"不幸な家庭"が、どのくらい生まれるか……どう生きる、源頼漢』

 

 無限にも思える有限。

 

 有限の分岐、有限の選択肢、有限の決断の先に、未来がある。

 

『犠牲になる一人一人の重さを理解できる(なれ)が、どんな道を選ぶか、それこそが……』

 

 その時、地上の誰にも気付かれない程度に小さく、小さく、とても小さく。

 

 空が歪んだ。

 

 

 

 

 

 雑談中、頼漢は常に少女の傷を気にし、少女は真っ青だった頼漢の顔色を気にしていたが、会話そのものには気遣いの類は全く無かった。

 むしろ二人の会話は、相当に気安かった。

 

「とにかく虫食べるのだけは辞めなさい」

 

「まあ……今はやめとく」

 

「ほらさっきのバッタぺっしなさいぺっ」

 

「食べ物を粗末にしちゃいけないと母親に教わらなかったのか?」

 

「虫なんて口に入れちゃいけませんとは教わったわよ!」

 

 見るからに頼漢よりも年下の少女であったが、年上の男に対しても物怖じした様子はなく、ガンガンと距離を詰める話し方をしている。

 その上で振る舞いには育ちの良さが垣間見え、頼漢のような育ちの悪さゆえの失礼さはなく、むしろどこか好感すら持てた。

 

 具体的に言えば、頼漢はクソだのカスだの連呼することがあるが、少女は年上にも同い年のように接しているだけで、そういった言葉を一切使ってはいなかった。

 根本的に、頼漢の話し方から感じられるものは攻撃性や威圧感であり、少女の話し方から感じられるものは気安さや親しみなのである。

 

「何? なんであんた虫食べてるの? 前世が蜘蛛だったとか?」

 

「昔いい大人に教わったから……?」

 

「絶対いい大人じゃないでしょ! あんた騙されてるのよ?」

 

「でもなあ……雀蜂の巣とか30分かからず取れて三日分の食にはなるし……」

 

「雀って付いてる時点で十割アウトで付いてなくても九割アウトよ!」

 

 ただ、この二人は何故か、会って間もない段階から、会話のノリが妙に合った。

 

「それでお腹壊したりしないの……?」

 

「ねえな。今の季節はバッタが食べるのに向く季節だぞ」

 

「虫の旬とか知りたくないんだけど」

 

「芸能人でたとえると小栗旬か」

 

「名前の字面がそれっぽいだけでしょ!」

 

「よその家の食卓に口出すべきじゃないんじゃないか。武井壮だろ?」

 

「そうね……なんて言うわけないわよ!」

 

「健康損なったこともねえし、栄養面で見ればお前が普段食ってる飯と松本人志だろ」

 

「ひとしくないわよ!」

 

「食べたことないならちょっと試してみてもいいと思うぜ。

 不味いのは不味いが美味いやつは食べたことないのマイケルジャク損だぞ」

 

「マイケルジャクソンが酷い風邪引いた時に見た悪夢でもこんな弄られ方してないと思うの」

 

 ノリが合う。

 テンポが合う。

 気軽さが合う。

 そのため、ただ話しているだけでするすると自分の中から言葉が引き出されていくような、そんな感覚が互いにあった。

 そのためか、初めて話したその時から、互い同士に"嫌いになれないそうだ"となんともなしに思っていた。

 

「っていうか、変なの食べてたからお腹壊して吐いてたんでしょ。

 何食べたの? 素直に白状なさい! セミ? アリ? 麻婆豆腐?」

 

「そこに麻婆豆腐並べるの核兵器級の国辱だろ……」

 

「辛いのでもお腹壊しちゃう人いるし……」

 

「まあそうか……いや俺は、その、なんだ……悩み事を悩みすぎて」

 

「話してて今んとこあんたにそんな繊細な一面があるとはまるで思えないんだけど」

 

「うるせえな!」

 

 少女は血塗れの包帯の奥の痛みを気にもしてない風に、頬杖をついた。

 

 公園のベンチで人二人分の距離を空けて座る二人が、今の二人の距離感を示している。

 

「なんかあったの?」

 

「まあ……どうすっかな、って悩んではいる……」

 

「ふふん。あたしに話してみたら? 見るからに相談を解決してくれそうな女でしょ?」

 

「鏡って知ってるか? 自分の身の程を教えてくれるから使ってみるといいぞミニマムロリ」

 

「なんですってぇ!!!」

 

 可愛らしく、少女はむきーっと感情を強く表に出す。

 

「お悩み相談受付のやり方くらい知ってるわよ!

 なんか話聞いて適当に褒めまくれば勝手になんか満足して帰ってくんでしょ?」

 

「お前みたいなカウンセラー出て来たら顔面にパイ投げつけて帰るわ」

 

「食べ物を粗末にしちゃダメでしょ? 虫じゃなくて今後はそのパイとか食べた方がいいわ」

 

「こいつ息をするように話を蒸し返して来やがる……

 つかカウンセリングの『否定するな』を『褒めとけばいい』って解釈してんのがもうダメ」

 

「どこもダメじゃないわよ。あたしの褒め言葉ダムを舐めないで」

 

「なんで褒め言葉堰き止めてんだお前」

 

「だって迂闊に褒めるとすぐ皆調子に乗るし……

 すぐ褒めるのってなんか子供っぽいし……

 周りにガキンチョに見られていいことないでしょ」

 

「かつて見たことがないくらい褒め言葉に慎重だな……」

 

「堰き止めた分力は高まってるわ。あたしは今天下一褒める力が高まってるのよ」

 

「じゃあちょっと適当に褒めてみそ」

 

「え? うーん……吐くほど辛いことになってるのに頑張ってて生きてて偉いわね!」

 

「ダムの貯水量ショボっ」

 

「んぐぐぐっ……!」

 

 頼漢はちょっとだけ元気になった。

 

「ちょっと難しいわね……

 ちょっとだけね……

 まああたしにはそこまで難しくないんだけど……

 悩んでることって赤の他人から適当なこと言われたらちょっと不快じゃない?」

 

「ん……まあ、かもな……」

 

「出世できない出世魚みたいな悩みね! って言われたら傷付かない?」

 

「それは冴えないサラリーマンくらいにしか言う機会なさそうだな」

 

 年上にもタメ口を使う点では同じでも、頼漢の語調やスタンスはともすれば大半の人間を不快にしかねないものだったが、少女の語調やスタンスは、他人の地雷を踏みにくいものだった。

 

「世の中には親が宗教にはまって人生台無しになった人もいんのよ? ニュースでやってた」

 

「………………………………まあ、そうだな」

 

「みんなあたしの知らない苦労や辛さを味わってると思うと、どうにかしたいって思っちゃう」

 

「まあ……そうだな」

 

「みんな大変だけど、みんな大変だから、みんな頑張るしかない……ってこれ関係無いわね」

 

「まあ、そうだな」

 

「壊れたアンドロイドが正体を表すシーンみたいになってるのはなぜ……?」

 

 一瞬に、途方も無い葛藤があった。

 繰り返される言葉と止まった思考があった。

 

「こう……なんかあるじゃない、銃弾を斜めに構えた盾で受けて流すみたいなアレ……」

 

「斜に構える?」

 

「そうそう。他人に相談して、斜に構えて、なんかいい感じにどうにかなんない?」

 

「斜めに受け流せたらいいんだけどなぁ……どうすりゃいいんだとしか思えてねえっていうか」

 

「一人で考え込んでるからじゃないの?

 これはあたしが言わ……知り合いが言われてたんだけど。

 一人で考え込んで解決するのは頭良いやつだけ。

 そういうのができないやつはぼやかしてでも他人に相談した方がいい案出るんだって」

 

「ぼやかして話す、か」

 

 頼漢は腕を組み、深く考え込み、ぼやかして話す内容を考え始める。

 

 少女は面倒見が良いため聞き手に向き、気が短いため聞き手に向かず、優しく親身になれるタイプなので聞き手に向き、小難しいことを考えるのが苦手なため聞き手に向かないという、醤油に漬け込んだ爆弾のようななんとも言えなさを持っていた。

 

 なので、この後に出てくるものが何か、全く想像できていなかった。

 

「うちの親が、心の病気で……

 まあどうやっても治せないって言われてたのに治療法が見つかって?

 見つかったのはいいけどだいぶ倫理的にこう問題が? あって?

 手術……手術でいいか。

 手術したら治るよみたいな話になって?

 でも手術するのは別人にするかもみたいな……こう……

 脳味噌をこねくり回すみたいな……

 でもそれ以外で治りませんよみたいなことは分かってて。

 やった方がいいのか?

 やらない方がいいのか? みたいな。

 その方法見つけてくれた友達にも申し訳ねえっていうか……

 その手術するとなんやかんやすげえ悪いやつらも倒せる。

 俺、今戦ってて……ええと、喧嘩、喧嘩だな。

 そっちの喧嘩も悪いやつが居てな?

 じゃあ全部倒さないとなみたいな感じではあるんだが……

 その手段が……ええと、結構悪いことではあるよなって思えて。

 知り合いの……親友の妹が悪いやつに狙われてて?

 悪いやつがいい子に迷惑かけてんの許せねえよなって。

 普通の人に迷惑かけてるやつはダメだろって話で。

 母さんも治さないとその迷惑かけてる人間の一人で……

 じゃあ全部倒さないと……ってこれはさっき言ったか。

 母さんどうこうすんのは身内の俺しかいねえ。

 俺がやるのが一番妥当なはずだ。

 他の奴に余計な罪悪感を背負わせるつもりはねえ。

 だけど……身内としてけじめを付けるべき俺が決めきれてなくて……」

 

「要約できないやつの語りが死ぬほどネチネチしてるのに具体性が死ぬほどない……」

 

「そこはマジで謝るしかねえ、すまん」

 

「いいわよ、悩んでることは伝わったし。内容は薄めたお粥みたいだったけど」

 

 長いわよ! と叫びそうになった少女は、奇跡的にぐっと堪えられていた。

 

「母さんにその手術受けて治ってほしい。

 母さんにそういうヤバい処置受けてほしくない。

 俺は母さんを守りたいし誰にも何もさせたくない。

 俺しか悪人みたいなことしてる母さんを止められない。

 母さんの心を直したい。

 母さんの心に誰にも手を出してほしくない。

 とりあえず今すぐにどうにかしないといけない問題はそのへんだな……」

 

「なんかインドにそんな感じの倒せない怪物居た気がするわ」

 

 神とアスラにも、人と獣にも、昼と夜にも、家の中と外にも、地上でも空中でも、そしてどんな武器にも殺されない男、ナラシンハ君。

 

「うーん……ううん……」

 

「そんな真剣に考えなくていいぞ。赤の他人にそんな期待してねえから」

 

「期待とかはどうでもいいのよ。

 あんたの悩みは真剣なんでしょ?

 じゃ、あたしが適当にしてたら失礼じゃない。

 あんたが真剣ならあたしも真剣にならないとだめでしょ」

 

「……そう、か」

 

「ううん……うむむ……」

 

 頼漢は晴明や麟児のように、会話単位、発言単位の分析を行って、その内実を解体し尽くすということができない。

 あまり考えない性分だからだ。

 だから、この少女と話していて感じること、得られるもの、そしてなくなっていく苦痛を、上手く言語化できない。

 温かな気持ちになる理由を、今はまだ上手く言葉にできない。

 

 麟児が頼漢と話す時、頼漢に特化させた時の話し方を『人工物』とするならば、少女のそれはいわば『天然物』だった。

 ごく自然に、頼漢が安らぐ効果を生んでいる。

 頼漢が出会ったことのないタイプの女の子で、今の頼漢に必要なタイプの女の子。

 

 頼漢が少女を見ていると、うんうんうなっていた少女の頭に血が巡り、やがて額の包帯の隙間から血が吹き出した。

 

「うおっ!?」

 

「やばっ血が垂れてきた……」

 

「垂れてんじゃねえよ吹いてんだよ!」

 

「そんな……噴水じゃあるまいし、大袈裟でしょ」

 

「噴水ほどじゃねえけどウォシュレットくらいには吹いとるわ!」

 

「ちょっと、下品なのはやめてよ!」

 

「品も死んでるがお前も瀕死なんだよ!!!」

 

 頼漢が慌ててベンチを立ち、少女を座らせたままずれたガーゼや包帯を直していく。

 

 ここ最近の経験で、頼漢もすっかり止血や包帯の締め直しに慣れてしまった。

 

「現代の日本でお前みたいな女の子がこんな怪我するなんて何があったんだよ……」

 

「え!? え、えーっとね……」

 

 少女の目が露骨に泳いだ。

 

 顔が見えていれば頼漢は少女の隠し事に気付いたかもしれないが、あいにく怪我の手当てに集中してしまっていたため、気付くことはなかった。

 

「そう、スポーツ。

 スポーツよ。

 そういうスポーツがあんの。

 ちょっとしたことで命懸け、みたいなやつが……」

 

「そんなスポーツがあるのか……部活とか一生縁がなかったが世界は広ぇな……」

 

 スポーツに関して一般知識未満の知見しか持たない頼漢は、うんうんと頷いている。

 

 少女は愛すべきバカを見る目で、頼漢を見ていた。

 

「なんだお前その目」

 

「なんでもないわ」

 

 少女は頼漢を騙せたことにホッとする。

 と、同時に、"あたしでも騙せるやつってだいぶ心配になるわね"と思ってしまった。

 バカ犬を飼っている飼い主が愛犬を見るような目で、少女は頼漢を見ていた。

 

「あんたもなんか妙に"習った"感じの包帯の巻き方してるわね……医者のたまごとか?」

 

「え!? あ、あー……」

 

「悪いやつと喧嘩してるみたいな話もしてたわよね」

 

「そりゃもう、それはだな……」

 

 顔が見えていれば少女は頼漢の隠し事に気付いたかもしれないが、あいにく手当てされている間は行儀よく顔を全く動かさなかったため、気付くことはなかった。

 

「ようか……路地裏のカスとか。

 そう、そこに、色々悪党がいてな。

 ヤクザとか半グレとか。

 そういうやつから親友の妹とかを守って怪我したりすることが多くてな……」

 

「ええっ、そうなの!? 最近の路地裏の喧嘩ってヤバいのね……」

 

 路地裏事情やアウトローの常識を微塵も知らないらしい少女は、うんうんと頷いている。

 

 頼漢は愛すべきバカを見る目で、少女を見ていた。

 

「何よあんたその目」

 

「なんでもねえよ」

 

 頼漢は少女を騙せたことにホッとする。

 と、同時に、"俺でも騙せるやつってだいぶ心配になるな"と思ってしまった。

 バカ犬を飼っている飼い主が愛犬を見るような目で、少女は頼漢を見ていた。

 

「なんか……お前も大変そうだな」

 

「まあ……あんたも大変そうね」

 

「こんなふわふわした感じで真剣に他人を心配してんの初めてだわ」

 

「あたしも」

 

 頼漢が飲み切ったペットボトルを、鉛筆回しのように器用にくるくる回し始める。

 少女も見様見真似で回してみるが、あまり上手く行かなくて何度も落ちていく。

 頼漢の手先はそれなり以上に器用だ。

 生き方は器用でないだけで。

 

「間違えちゃいけねえ戦いがあるんだ。俺以外のたくさんの人達の人生もかかってる」

 

「喧嘩で……?」

 

「喧嘩だが……いや喧嘩だけじゃねえけども」

 

「大変ね、生きるのって……」

 

 こんな吐くまで追い詰められてるなんて本当に頑張ってるのね、と少女は思った。

 

「奇遇ね。

 あたしも今、負けちゃいけない戦いの真っ最中だわ。

 あたし以外のたくさんの人達の人生がかかってるから大変大変」

 

「スポーツで……?」

 

「……スポーツよ」

 

「大変なんだな、スポーツって……」

 

 こんな怪我だらけになっても続けてるなんて本当に頑張ってるんだな、と少年は思った。

 

 互いの名も状況も知らないまま、"気が合った"という理由を基点に、二人の間に不可思議な共感が生まれていた。

 

「迷ってるわけじゃねえ。

 迷えるわけがねえんだ。

 何を選ぶかは決まりきってる」

 

「じゃあ、なんでそんなに苦しんでるのよ」

 

「選ばなくちゃいけねえことが、選びたくねえことだからだ」

 

「ふーん……?」

 

「そんで……早く決断しねえ自分に、嫌気がさしてるからだ。

 たぶんな。

 上手く言葉にできてねえから正確じゃねえかもしれねえが。

 あー駄目だ駄目だ早く決めてさっさと皆の気持ちに応えてクソめっちゃ気持ち悪い」

 

「あー……引かないから気持ち悪くなったらすぐ吐いちゃいなさい……」

 

「だ、大丈夫だ。もう胃にはバッタしか入ってねえ」

 

「消化されかけのバッタと胃液のセット見たら夢に出そう」

 

 頼漢はぐっと吐き気を堪え、背筋を伸ばす。

 我慢し、頑張って、本当は考えたくもないであろうこの問題に向き合い続ける。

 一人で吐いていると立てなくなるまで弱ってしまって、誰かが見ていると弱い自分を見せないように気張ろうとするのは、おそらく頼漢の根底がそういう人間であるからだろう。

 彼の背筋は、誰かが見ている時の方が、ピンと伸びるのだ。

 

「やりたくないことならやんなくていいとか、そういう考えはダメなわけ?」

 

「放っておいたら何の罪もねえ人が沢山、嫌になるほど迷惑を被っちまう」

 

「それってなんか、一般論って感じで、"皆そう思うだろ"って頭に付いてるみたいな……」

 

「―――。……一般、論……」

 

「あんたが"何を選ぶのか決まりきってる"のって、皆がそう言うだろうから決めてんの?」

 

 精神操作で教団と母親を処理したことで、最も多くの利益を得るのは大衆である。

 悪質な勧誘や、被害者が減る。

 デマが原因の癌治療の中断などによる早死にも減る。

 友人が気付いた時には社会から孤立させられるといった最悪もなくなる。

 病人の妄想を助長し続けるという、地味に悪質な効果も消えて失せるだろう。

 ミクロの視点では、頼漢の母のような加害者が減るだけでもプラスになると言える。

 

 だからか、頼漢は無自覚に、"皆に迷惑なものはなくならないと"という文法で語っていた。

 そんな自分に無自覚なまま語っていて、少女の言葉でそれを気付かされた。

 

 それは、社会利益を第一とする学術的正義? いいや、違う。

 自分や家族を公共の福祉のための人柱とする自己犠牲? いいや、違う。

 "皆のため"を何より正しく思う感性? いいや、違う。

 

「いや、違う。俺が……」

 

 できること、でもなく。

 したいこと、でもなく。

 それは。

 

 

 

―――怪我した人を見捨てないのは、ぼくがそうするべきだと思ったからです

 

 

 

 頼漢の命を救ってくれた小さな英雄の顔が、脳裏に蘇った。

 

 なんでもない平和な世界に生きる男の子が、ごく普通に言った言葉が、頼漢の一番深いところに残っていた。

 

 頼漢は生まれて初めて、"そうするべきなんじゃないか"という、己の心の声に気がついた。

 

「……俺が……そうするべきだと、思ったからだ。俺のすべきことだからだ」

 

「へー、じゃあ、いいんじゃない? そう思えた自分を大切にすれば」

 

「俺の、するべきこと……そうだ。

 俺は、それを、俺のするべきことだと。

 他の誰にもできないし、させるべきことでもないと。

 俺の責任だから、そうするべきだと、そう思ったんだ」

 

 少女との会話が、頼漢に気付きを与え、あの日の少年の言葉が、必要な部分にぴたりと嵌った。

 

「でも、なんかいいわね。

 ありきたりな感じはするけど

 あたしにもあんたにも、きっと何か、するべきことはあるって話でしょ?」

 

「ん……たぶんそうだな」

 

「あたしのするべきことは、あたしだけにあるもの。

 あんたのするべきことは、あんただけにあるもの。

 そういう感じのやつでしょ。

 車は走る、飛行機は飛ぶ、保母さんは子供に優しくする、みたいな?」

 

「ああ、そうか……そういうことか、うん」

 

 車の車輪が両方同時に回るように、頼漢の言葉に少女の言葉が合わさって、頼漢が言語化したかった形で、言語化できていなかった部分が言語化されていく。

 

「ああ、分かった。

 俺は……するべきことをしたくなかったんだ。

 よし、この言い方がしっくり来んな。

 "したくないこと"を俺は、"するべきこと"だと確信を持ってたから……ああ、俺はクソか?」

 

 したいことをしてきた。

 したくないことをしてきた。

 したい、したくない、それこそがこれまでの頼漢の行動原理の基本の二極。

 だが、そこに、今まで自覚の無かった、『俺はそうするべきなんじゃないか』という気持ちが加わってきた。

 

 種は数年前、『親友の麟っちに味方して母を告発すべきなんじゃないか』と思ってしまった時にはもう撒かれていた。

 それが今、名も知らぬ少女と名も知らぬメガネの少年のおかげで、発芽した。

 その頃から押し込められ、大きくならないように圧されていた気持ちが、頼漢が自分と向き合う過程で、顕在化していく。

 

 "自分と向き合え"と、晴明が示した通りに。

 

「えー、でもそんへんは普通じゃない?

 宿題はダルいし、壊れた自転車を修理に出しに行くのはめんどい。

 するべきことだと分かっててもしたくないのってよくあると思うわよ?」

 

「そういうダセェ自分が嫌になるみてえな話なんだ」

 

「め、めんどくさっ! もっと自分を好きになりなさいよ」

 

「いやー、うーん。

 こういう時"俺に好きになれる要素とかないんだよな"って言いそうになるだろ?

 でもそういうのって"そんなことないよ"って言われるための台詞だろ?

 なんかそういう誘いみたいな台詞卑怯じゃねえ?

 いや、実際に俺が思ってるのか分かんねえけど……

 もう俺は俺を信じてねえから俺がそう思ってる可能性を完全には否定できないっつーか」

 

「めんどくさっ! でもまあそんな嫌いじゃないくらいの心の動きしてるわね……」

 

「素直に俺のこと嫌ってくれる人の方が付き合いやすいんだ」

 

「ああ、もしかしてそのヘタクソな染め方の髪って忌避されるためにやってんの?」

 

「…………………………………」

 

「え、本当に? なんか……一般人が寄ってこないよう顔に入れ墨入れるヤクザみたいな話ね」

 

「モデルはアレだ」

 

「ウッソでしょ?」

 

 頼漢は目を逸らし、染め損ねた金髪をくしゃくしゃかき混ぜていた。

 

 頼漢は、深呼吸する。

 もう一度深呼吸。

 そして、もう一度。

 心を落ち着けて、自分の心に決断を迫る。

 

「後は決断だ。決断さえできりゃ……それで」

 

 そんな頼漢の横顔を見て、少女が何か言いたそうにしているのを、頼漢も察していた。

 

「なんでも言っていいぞ。別に、名前も知らねえ女の子にキレたりしねえよ」

 

「あー」

 

 言いにくそうにしていた少女が、髪の毛の先を弄って迷い、やがて口を開いた。

 

「別に、なんか恐れる必要ないんじゃないの?」

 

「は?」

 

「あんた、めっちゃ悩んでるじゃん。

 真剣に向き合って考えてるじゃん。

 それで、選択を間違えたから、って……

 よくない結果になったからって、あんたが自分を否定したら、なんかムカつくかも」

 

「ムカつくってお前」

 

「だって、なんか……

 あんたのさっきまでの苦しみが、結果だけで全部否定されるの、嫌じゃない?」

 

「……お前、いい子だな」

 

「はぁ!? 子供扱いしないでよ! もう!」

 

 少女は表情をころころ変えて、思ったことをそのまま口から吐き出していく。

 

「ええっと、何が言いたいかって言うと。

 またこの公園に来なさい。

 全部終わったらでいいから来なさい。

 また話聞いてあげるから。

 どんな結果になっても味方してあげるから。

 お母さんのこととかだって、一緒に助けになってあげるから。

 だからそんな辛そうな顔で重々しく決断とか言ってないで、ほら、笑った方がいいわよ」

 

 それは、頭の悪そうな理屈の励ましだったけれども。

 

 とても、温かな心がこもった励ましだった。

 

「……訂正する。お前、優しい子だわ。

 ははっ、笑った方がいいとか、何年ぶりに言われたのかも分かんねえ」

 

「子供扱いしないでって言ってるでしょうが! あーもう!」

 

 少女に言われて、頼漢が笑う。

 夜明けの太陽のような笑顔だと、少女は思った。

 どんなに暗い夜でも、いつかは明けることを信じさせる太陽のような、そんな笑顔。

 

 頼漢につられて、少女が笑う。

 春の日の太陽のような笑顔だと、頼漢は思った。

 周りをぽかぽかとした気持ちにさせる、これから成長してもっと熱く強くなっていく、四季の太陽の中でもっとも優しく美しい太陽のような、そんな笑顔。

 

 頼漢は拳を握り締める。

 この先、どう転がったとしても。

 名前も知らない頼漢によくしてくれたこの少女に恥じないよう、最後の最後まで逃げることだけはしないと、頼漢はそう決めた。

 

「死ななきゃどうとでもなるでしょ、死ななきゃ」

 

 みんな、生きている。

 

「だって、生きてればやり直せるんだから。やり直せたらきっと、良い明日だって来るわ」

 

 頼漢の母はやり直せるのか。今はやり直せない。やり直せるかもしれない。

 人生をかけて打ち込んだダンスを失い、失った心の穴を埋めるように男に依存し、裏切られ、全ての人を信じられなくなり、息子にトドメを刺されて、心の全てが崩れて壊れた。

 現代医学ではもう復帰は見込めない。

 治すことなどできやしない。

 それでも。

 もし、頼漢が外道に手を染めれば、やり直せるのだろうか。

 頼漢はそれを、母が人生をやり直すことだと認められるのか、認められないのか。

 

 頼漢が何を選ぼうと、明日は来る。

 皆生きて、この世界に居るのだから。

 いい明日が来るかどうかは、彼らの選択が積み重なった先にある未来を見るまで分からない。

 

「誰だって、遠い未来で自分や友達がどうなってるかなんて、分かんないもんじゃない?」

 

 少女の励ましは頼漢の心の救いとなり、彼に嘔吐させていた決断の重圧を和らげる。

 

 と、同時に。

 

 頼漢もまた、少女の励ましの裏にある、少女の不安と苦悩の片鱗を感じ取っていた。

 

「自分に言い聞かせるみたいに言うんだな。お前も、なんかあんのか?」

 

「……ぬっ」

 

 少女は眉根を寄せて、腕を組んで考え込む。

 

 頼漢の真似のような姿勢であったが、やったらやったで気に入ったのか、ずっとそのまま腕を組んでいた。

 

「まあ……次は参加しても強いやつ以外は帰って来れなそうな気配があるから、ちょっとね」

 

「それは……お前、死ぬかもしれねえってことか!?」

 

「あたしが死ぬわけないでしょ! そのくらいキツそうって例え話よ、例え話」

 

「おい、俺を連れてけ。いざという時は……」

 

「要らない」

 

「……!」

 

「これだけでいいでしょ。

 互いに名前も知らないしね。

 あんたの助けは要らない。

 あたしにはあたしの、あんたにはあんたのするべきことがあるんでしょ?」

 

 少女が握った拳を頼漢の胸に押し付け、軽く胸を叩いて笑った。

 

 さらりと言うが、少女はやはり死に近い世界に居る。

 現代日本で普通に生きていて、死の予感を冷静に語る機会はまずない。

 頼漢は少女の事情を全く理解していなかったが、今自分が少女の助けになる筋合いがないことは理解していたし、少女がそれを望んでいないことも理解していた。

 

 そして"自分の手で守ることはできない"と思い。

 やがて"ならここで自分のするべきことはなんだろう"と思い。

 少しばかり変化を迎えた心が、ここでするべきことを導き出した。

 

「ちょっと待ってろ」

 

「?」

 

 頼漢は何かないかと、ポケットの中身を探る。

 財布の中にあった真っ白な紙。

 数時間前に子蜘蛛(ラッド)を見つけるための術式を書いたペン。

 あとは、母親が服用している非常に強い薬が入っていた、空の小瓶があった。

 

「あったあった」

 

「何? 何か書くの? それともあたしに書かせる感じ? サインならあげないわよ」

 

「この流れでサイン求められると思うハートすげえな。ビビる」

 

 頼漢が一人で術式などという高度なものを書けるはずがない。

 けれど、晴明の指示通りに術式を描く際、術式に刻んでいた模様ならすらすら書けた。

 紙の上半分には五芒星。

 下半分には格子状の文様。

 そうして出来た紙の札を丸め、空の小瓶にするりと入れて、きゅっと蓋を締める。

 

「なにそれ?」

 

「これ、『ドーマンセーマン』って言うんだってよ。お守りの印だ」

 

「へー。……あ、もしかしてくれるやつ?」

 

「もしかしなくてもあげるやつ」

 

「ありがとっ! ふふん、まあまあ大切にしてあげる」

 

 にこにこ笑って嬉しそうに、少女は紙符の入った小瓶を受け取った。

 

「安倍晴明が、三重県の方の海女に教えた秘伝の魔除けなんだってよ」

 

「魔除けかぁ。うん、ちょっと気に入ったわ」

 

「海には人を異界に引きずり込む妖怪が居る。

 竜宮城とかも、行ったら帰れない異界扱いなんだそうだ。

 海で溺れて人が死ぬのを、昔の人は、

 『異界に連れて行かれたんだ』

 って語り継いだ? らしい。

 そんで、そういう妖怪を全部遠ざけて、異界から無事に帰るためのお守りだな」

 

「……異界から……無事に……帰ってくる……」

 

「安倍晴明本人が言……ん、こほん。

 安倍晴明の発言記録だと、晴明が仲間のために作った魔除けだとかそんなんなんだとよ」

 

 遠い昔、異界へと戦いに向かう仲間へと、安倍晴明はこれを贈った。

 きっと、きっと、帰ってこいと。

 文様は受け継がれ、オリジナルを継承している頼漢のお守りのような効果はないが、今でも三重県では同じ文様が作られ続けている。

 人を異界に連れて行く妖怪から、人を守る陰陽道の光の護りだ。

 

 少女はお守りを真剣な目で見つめ、両手でぎゅっと握り締める。

 

「何があっても、無事に元の世界に帰ってこれるお守りなんだとさ。そういう模様なんだ」

 

 お守りを大切そうにポケットにしまい、少女は太陽のように笑う。

 

「ありがと。ありがたく貰っておくわ」

 

「礼は二回も要らねえよ」

 

 安倍晴明の文様は、危険な異界に旅立つ者達が生きて帰るための(しるべ)であった。

 

 生きて帰り、笑ってここでまた出会う、そのためだけの陰陽術。

 

「ちょっとだべってただけでこんなの貰って良いのかしら。貰いすぎじゃない?」

 

「そうだな……こういうのはどうだ?

 名前も知らない可愛い女の子への好感度稼ぎ。

 次に会う時まで、可愛い女の子に顔を覚えておいてもらうための小道具ってやつで」

 

「! ……! ―――!!!」

 

 頼漢の言葉に、少女が目を見開いた。

 頬がかあっと赤くなり、視線が不自然に泳ぐ。

 頼漢の視線から逃げるように顔を逸らし、顔を逸らしたのにちらちらと頼漢の顔色を窺って、頼漢と目が合うともっと顔を赤くした。

 

「かっ……可愛いとか、ちょっとやめなさいよ露骨なお世辞は! 本音かもだけど」

 

「え、こんな反応するやつマジで居るんだ……

 ラブコメ漫画に出てくる一生に一回も美少女って言われたことない美少女か?」

 

「び、美少女とか! そういうこと言われたら女の子喜ぶと思ってない!? ねえ!」

 

「お前は喜んでんだろうなって思ってるよ。つか、照れてる時の方が可愛いなお前」

 

「ん゛っ……ふぅー、はぁー、な、なによあんた、女遊びとかしてる系?」

 

「残念ながら俺を好きになってくれた女の子とかは居ねえなあ」

 

「じゃ、じゃあ……あたしに恋しちゃったとか!?」

 

「してない」

 

「話してる内に好きになっちゃったりとか!?」

 

「なってねえっつってんだろ」

 

「じゃあなんでこんなこと言ってんのよ! 全部ウソだったの!?」

 

「んなつまんねえウソつくわけねえだろ! お前は普通に可愛いだろバカ!」

 

「んんんっ……ば、バカじゃないわよ!」

 

 頼漢は千佳と話している時、同じ言語を話していても同じ言語を話していない、そういう違う世界を生きる者の認知差を肌で感じていた。

 その認知差が、ここにもあった。

 

 頼漢と千佳は、荒っぽい言葉といい子の言葉が噛み合わない。

 代わりに千佳は頼漢の真意をほぼ誤解せず、ジョークはジョークとして流す。

 

 頼漢とこの少女は、年上にも敬語を使わないラフな言葉遣いが共通点であったため、頼漢が強い言葉を使ってすら、噛み合わなくなることがなかった。

 そして逆に、頼漢のこういうジョークは、少女に真に受けられてしまうのであった。

 

 要するに、冗談のつもりで言った内容が案外マジに取られてしまったのである。

 

「ふ、ふん……この話やめない? やめましょうよ、やめよ?」

 

「……俺も疲れそうだからやめとく」

 

 迂闊に外見も褒められねえな、と頼漢は内心にて呟く。

 

 少女は"こんな簡単にあたしのこと可愛いと思っちゃうなんて、チョロくて心配"と思った。

 頼漢は"この外見で褒めに弱いのちょっとチョロすぎて心配だな"と思った。

 

「お前が可愛い女の子じゃなくても、魔除けは渡してた。あんま勘違いするなよ。感謝してる」

 

「やだ、また言って……も、もう!

 いきなり世辞言うようになったからってバレバレなんだからね!

 お守りは大切にしとくから、ご利益があったらジュースおごったげる!」

 

「あんま勘違いするなよって言ったばっかだぞ!」

 

 ふぅ、と頼漢は一息吐く。

 

 今日は忙しない夜だった。

 出会いも再会もあり、希望も絶望もあった。

 大きな分岐があり、次に進む分岐を選ぶことができた。

 『これまで』とは全く違う『これから』が始まる予感が、頼漢の中に生まれていた。

 

「俺、家族が好きだ。母さんが好きだ。ずっと大好きで、ずっと感謝してる」

 

 星空を見上げ呟く頼漢の横顔を、少女が見つめている。

 

「だから母さんと話してくる。

 俺は、家族が幸せならいい。

 どんな選択を選んだとしても。

 母さんが幸せなら何の心配もねえ、ずっと思いっきり戦える」

 

「そっか」

 

 家族をとことん大切にしようとする人のことを、少女は嫌いになれない。

 

「失礼かもしれないけど……病気の人と会話になるの?」

 

「ならん。なるわけがない。十年近く正気で会話はしてないしな」

 

「だ、大丈夫なのよね? ついていこうか?」

 

「大丈夫だ。要らん」

 

「……あっ、ちょっと、さっきのお返しじゃないでしょうね!」

 

「ハッ、バレたか。本当に大丈夫だって。俺の家族は、俺が救わなきゃならないからな」

 

 心配する少女に、頼漢は苦痛を噛み殺すような言葉を吐いた。

 

 なおも心配する少女に対し、頼漢は不敵に笑って握った拳を見せる。

 

「こっちはこっちで勝ってくるから、そっちはそっちで勝ってこいよ?」

 

 少女はきょとんとして、笑って返し、握った拳を見せ返した。

 

「ナマイキ! まあ待ってなさいよ、あたしと、あたしの仲間は、最強なんだからね!」

 

 先の悲劇を思い出し、拳を打ち合わせるのを避けた頼漢は、少女と拳の背を打ち合わせ、挑発的に互いの幸運を祈り合った。

 

 少女は"もう大丈夫そう"と、頼漢の顔色を見て判断する。

 

 少女の年齢不相応な面倒見の良さも、この辺りで幕引きだ。

 

「あたしは弱いやつが嫌いとかそういうのないのよね。

 あ、頑張ってないやつは嫌いだけど。

 大事なのは頑張ってるかどうか。

 頑張ってるやつなら弱いやつでも別に嫌いじゃないわよ」

 

 真っ直ぐに、少女は頼漢の目を見つめ、本音をぶつける。

 

「だから、頑張って。

 成功しろとか言わないし。

 別に上手くいかなくてもいいからね。

 ちゃんと頑張って、頑張って、後であたしに『頑張ったぞ』って報告しなさい」

 

 頼漢が手を上げた。

 

 少女も手を上げる。

 

 何をしよう、と言うまでもなく。

 

 二人は笑顔でハイタッチして、そのまますれ違い別の道へ行く。

 

 互いの未来の幸を信じて。

 

 そうして、今はまだ交わらない二つの道は、また別たれて伸びていった。

 

 

 

 

 

 戻った少女を、公園まで少女に同行していた男が迎え、二人で帰路につく。

 

「長話だったな」

 

「うっさいわね」

 

「これからまた作戦会議だ。忙しくなるぞ」

 

 彼らは戦いの中に生きる者。

 

 頼漢とは別の戦場で、別の敵と戦い、別のものを守る者達。

 

「アリステラに滅びなきゃいけない理由なんてないわよ。だから、滅ぼさせたりしない」

 

 張りのある声に強い意志を滲ませた少女に、同行している男は、少し驚いていた。

 

「……小南、なんか元気になったか?」

 

「レイジさんの気のせいじゃない?」

 

 一人死ねば、一人死ぬだけではない。

 その家族も、その友達も、犠牲者を大切に思う全ての人が不幸になる。

 人を殺すことは、最悪だ。

 殺された人間の家族は悲しみ、その痛みを一生背負っていくことになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頼漢は自宅に戻り、ドアに貼り付けられた母親の伝言メモを見た。

 

「"友達の家に泊まる、帰るのは明日の夜"……か。

 ハッ、友達か。こりゃ駄目だな。

 明日には有り金全部毟られてるか、新しい借金作らされてそうだ」

 

 頼漢は堅い木の床にごろりと寝転がり、無造作にそのまま寝ようとした。

 

「……いや、先に色々整理しておくか」

 

 起き上がり、光の無い部屋の中で、大窓から入ってくる月明かりを頼りに、掃除をし始める。

 

 部屋の隅に積み上げられた、薬剤の包装のゴミ。

 アルミに小瓶に紙袋、そうしたものを全て捨てていく。

 

 机の上に広げられた無数の書類。

 それは、頼漢の母が教団に招き入れた者達のリストだ。

 教団に何人招き入れ、何人の人生を台無しにしたかで、組織内部での位置は決まる。

 そのリストは、頼漢が愛で母を許し続けてきた期間、頼漢の母が不幸にしてきた人の数のリストだった。

 

 壁の傷が顕になっている。

 それは、薬が切れた時期、全てを失い、愛する人に裏切られ、息子にさえ刺された哀れな女が、発狂して鉄の棒を振り回した跡だった。

 母親が今日、頼漢が居ない時間にカレンダーを攻撃でもしたからか、傷を隠すために下げられていたカレンダーが落ちている。

 頼漢はそれを、そっと戻した。

 

 反対側の壁にあるのは巡回表。

 頼漢の母の勧誘ノルマと、標的をどこでどう狙うかが詳しく書き込まれている。

 今度の標的は病院のようだ。

 病院の世話になっている重病人を狙い、不安を煽り、デマを吹き込み、教団に勧誘し、延命に使うはずの金を宗教が吸い上げる。

 そういう流れを頼漢の母が実行する予定が、びっしりと書き込まれていた。

 

「……止めねえと、な。

 俺もただの加害者だ。

 母親を止めねえ、加害者の息子だ。

 だから……責任持って止めるんだ……

 ()()()()()()なんて言えねえ。()()()()なんて言えるわけがねえ。……俺のためだ」

 

 膨大なストレスによって引き起こされる心の病は、『脳の損傷』である。

 すなわちそれは、不可逆の破壊だ。

 この世界の現在の医学レベルでは、その損傷は治せない。

 頼漢の母はもう、心を操る以外でやり直せる道はない。

 

「俺のために、俺に都合の良い母さんを作る、そんな最悪をする……そうだろ……!」

 

 分かっていても。

 苦痛はある。

 これから頼漢は、自分のために母親の心を好き勝手にして壊した父親をなぞるように、自分のために母親の心を改竄し、母が普通の幸せを掴めるようにする。

 『母さんを悪でなくして、母さんが幸せになれるようにする』という押しつけをするのだ。

 

 壊れた母はもう、自分が不幸であることすら分からない。

 不幸な人生を生きている自覚を持つことさえできない。

 だから幸せになどなれない。

 今の頼漢の母は不幸な人生を必死に幸せだと思い込もうとし続ける壊れたロボットで、ゆえに幸せになりたいと思うことすらできていないから。

 

 過剰に自罰的な頼漢を否定する麟児、あるいは千佳がこの場に居れば、感情的に反論の言葉を口にしていたかもしれない。

 その行為は正義ではないが愛ではあるはずだと、麟児なら言っていたかもしれない。

 けれど、そう言われた頼漢は、きっと首を横に振るだろう。

 

「背筋を伸ばして走り切れ、源頼漢。

 どんなに辛い時でも。

 どんなに苦しい時でも。

 どんな投げだしたい時でも。

 『するべきことだ』って思ったら……ちゃんとやんないといけねえことがあるんだ」

 

 死に際の身辺整理の如く、部屋を片付け終わった頼漢は、夜空を見上げる。

 

 そして祈った。

 母が宗教で祈っている神になど祈らない。

 空の向こうに神が居るなら、と、名前の無い神に祈った。

 どこかでこの世界を見下ろしている神が居るなら、と、何も知らない神に祈った。

 

「神様、お願いします。母さんは色んな人を不幸にしてきたけど」

 

 ただ。

 

「いつか死ぬ時、母さんはどうか天国へ、俺は地獄へ送ってください。どうか、お願いします」

 

 祈った。

 

 これからの母の人生と、それさえ終わった後の母の行く末の、幸を祈って。

 

 

 

 

 

 夜が明ける前に頼漢は就寝。

 ぐっすりと寝て、昼に目覚める。

 外に出て狩ってきた農業害獣ハクビシンを絞め殺し、いつものように雑草と、素の小麦粉と合わせて喰らう。

 メモの通り、母はまだ帰ってきていなかった。

 帰ってくるのは数時間後、すなわち夜になってから。

 

「先に行くか。ダチどもに、俺の答えを示さねえと」

 

 頼漢はいつものように適当な着こなしをして、街に繰り出す。

 

 街にはいつものように、色んな人が日常を送っていた。

 

 笑う人。

 走る人。

 買い食いする人。

 幸せそうな親子。

 楽しそうなカップル。

 街行く人を穏やかに見守る老人。

 

 皆生きている。

 各々の形で、自由に、平和に、平穏に。

 鬼に、妖怪に、宗教に……そういった外敵が現れなければ、きっといつまでも続いていく。

 永遠は無い。

 在る物は全ていつか壊れる。

 けれど、豊かな刹那が集まった、小さな幸せの連なりが、ここにある。

 

 それを尊いと、頼漢は思うから。

 

 日が沈んでいく夕方まで、ずっと、ずっと、街を歩いて、人を見た。

 

 心の迷いを断ち切るために。

 

「よっ、待たせたな」

 

「来たか、ヨル」

 

『別に待ってないけど……

 来た時に"待たせたな"って言っとけばちょっとサマになると思ってる性根が気に入らない』

 

「どうしろってんだよ」

 

 昨日の夜と同じ場所で、晴明と麟児が頼漢を待っていた。

 

 男三人、展望デッキの手すりに身を預け、日が沈みゆく街を眺めて語る。

 

「聞いてくれ、麟っち、晴明」

 

「ああ」

 

『どうぞ』

 

 地平線に沈む夕陽が、見ているだけで泣きそうなくらいに赤かった。

 

「俺は……命を助けてもらった。最初の妖怪との戦いの日のことだ」

 

 あの時の止血がなければ、頼漢は間違いなくそのまま死んでいた。

 

「源氏の子孫とかそういうのでもなくて。

 霊能力がとびきり高い女の子でもなくて。

 何も特別でもなくて。

 その辺歩いてるような普通の男の子で。

 そんな、どこにでもいそうな少年が……俺の命を救ってくれた」

 

 千佳は自分に勇気が無いと言った。

 頼漢も恐れ知らずなだけで、自分に勇気があるわけではないと言った。

 頼漢が思う勇気とは、車も含めた何もかもが切り刻まれたあの恐ろしい空間で、全く躊躇うことなく、走り寄って頼漢を救おうとした、あの少年の胸の奥にあった。

 

 『するべきことをやりきる勇気』が、あのメガネの少年にはあった。

 

「もうたぶん会うこともねえ。

 名前を知ることさえないかもしれねえ。

 知り合いでもなんでもねえんだから。

 だけど、それでいい。

 それがいい。

 なんでもない普通の男の子が俺を救って、俺があの男の子を含めた皆を救えたら」

 

 ゆえに、頼漢は思う。

 

「意味がある、って思えるんだ」

 

 この命は、あの少年に救われた命だから、あの少年に恥じる生き方をしてはならないと。

 

「この世界には意味があるって。

 皆の日々には意味があるって。

 この優しい平和には意味があるって。

 どこにでもいそうな子の手が、回り回って数え切れないほどの命を助ける……

 そんなことが起きるくらい、この世界はいい世界なんだぞって、言えるんだ、たぶん」

 

 子供の頃、頼漢は夢見た。

 今も子供かもしれないが、もう夢はない。

 地に満ちる光を見て、頼漢は思ったのだ。

 "あの幸せな人々の営みの中に混ぜてもらいたい"と。

 

 朽ち果てた彼の夢の根源は、人々の何気ない生活を尊いと思うものだった。

 

「だから、さ。

 『俺のするべきこと』は……

 『俺にしかできないこと』でもあって……

 それは、たぶん。

 この街にあるものを。

 俺がずっと欲しかった日常を。

 当たり前にこの世界にある素晴らしい幸福を。

 あの男の子が生きてる平和で普通な当たり前の毎日を。

 『守るべき』だと思ったものを、『戦うべき』だと思った俺が、守るってことなんだ」

 

 源頼漢は、『するべきこと』を見つけた。

 

 そして、初めて、そのために生きようとしている。

 

「居ちゃいけねえんだ。

 異世界の鬼も。

 人を襲う妖怪も。

 これまでの間違ってた俺も。

 ……今も間違ってる母さんも。

 全部、全部、この世界に当たり前にある素晴らしいものを、損なうものだから」

 

 過去の自分すらもまとめにまとめて、頼漢は全て否定する。

 

「壊れたまま続いてた俺の小さな世界を終わらせる引き金は、俺が引く。

 誰のせいでもねえ。二人も悪くねえ。ありがとうな。全部、俺が一生背負っていく」

 

 血を吐くような決意の言葉に、揺るぎない覚悟の戦士の瞳が伴っていた。

 

「二人の言う通りにするのが正しいと思う。

 そうすべきだと思った。

 だけど、最後に一回、母さんとしっかり話させてくれ。頼む」

 

 深々と、頼漢が二人に頭を下げる。

 

 夕陽に照らされ、途方も無い痛みの中で決断した頼漢を、二人の男が見守っている。

 

「母さんと話してくる。

 今日の夜が、俺の人生最大の決戦だ。

 俺は弱ぇ。

 母さんに流されて意見変えるかもしれねえけど……

 そんな自分にならねえよう、踏ん張って、頑張って、気合い入れてくる」

 

 頭を下げた頼漢を見守っていた二人が、顔を見合わせ、苦笑する。

 

「晴明さん、ヨルは……」

 

『……言いたいことは分かるよ』

 

「ヨルがここまで考えたんだ。

 俺たちの考えにもここまで歩み寄ってくれた。

 仮に最後に心変わりしたところで文句なんか言えるもんか。なあ、晴明さん」

 

『むう……しょうがないなぁ。

 これ以上なにかを無理強いしても、どう誘導しようがよくないことになりそうだしね』

 

 なんだかんだ、この二人は頼漢に隠し事をするし、頼漢を嘘や誘導で騙すし、頼漢の本意でないことをしたりしようとするけれど……根っこのところで、頼漢に甘いのかもしれない。

 

「ヨル。お前の人生を決める選択だ。お前以外の誰にも決められないさ」

 

「……ありがとな」

 

『一応言っておくけど、これは始まりにすぎない。

 (なれ)の人生に散らばる分岐点は指で数え切れないほどだ。

 この選択の後も別の選択が続いていく。これで終わりだと思わないようにね』

 

「おう、いつでも来い。いくらでも来い。そのたびに悩んで決めてやらぁ」

 

『気合いが入ってるじゃないか』

 

「ヨルはそういうやつですよ? バカで前向きで恐れ知らずで……とことん強いやつなんです」

 

 この友たちからの信頼に恥じないように。

 夜の公園で励ましてくれた少女の鼓舞に恥じないように。

 あの日、救ってくれたメガネの少年がくれた命に恥じないように。

 

 そう思うことで、いくらでも湧いてくる力があった。

 

 それがなんだか誇らしくて、頼漢はついつい、快活に笑ってしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深呼吸して、家に入る。

 源家に入るのにここまで緊張したことは、過去に一度もなかった。

 頼漢はもう一度深呼吸して、家の中でもう一歩を踏み出した。

 

「お、靴ある……母さん、起きてる?」

 

 しん、とした沈黙が返ってくる。

 

「まーためちゃくちゃ早く寝てるな……

 病気と薬でダブルで負荷かかってるからしょうがないんだが……」

 

 とはいえ、今日話すと決めた以上、後に回しても気力が萎える。

 頼漢は母を起こしてしっかり話そうと決めるが、その前に起こされた母が不機嫌である可能性を考慮して、先に母のための食事でも用意するかと考える。

 だがそこで、過去に廃品から修理した時計を見た頼漢が首を傾げた。

 

「あん? なんじゃこりゃ」

 

 壁にかけた時計が、逆向きに回っている。

 

「……?」

 

 よく見ると、台所の手洗い場の脇に、頼漢がニコイチで作った母の腕時計があった。

 時計の針が進んだり、戻ったりしている。

 

 頼漢が遠出する時に使う、ゴミ捨て場から拾ったデジタル時計を引っ張り出して見る。

 時間表示がめちゃくちゃで、日付も時間も分数も、全部がランダムに動き回っている。

 

「電気業者がなんかやったな。強力なスパークでも起こして機械全部ぶっ壊れたのか……」

 

 頼漢は困ったように頭を掻きながら、母がいつも寝ている奥の部屋へと向かう。

 

「母さん、母さん、起きてる? ちょっと話して起きたいことがあるんだけど―――」

 

 そして頼漢は。

 

 

 

 黒い土蜘蛛に、バラバラに切り刻まれた母を見た。

 

 

 

 一瞬で、怒りが、憎悪が、悲しみが、困惑が、驚愕が、爆発した。

 想いの閾値が壊れ、感情の弁が吹き飛ぶ。

 全ての感情が混ざりあって爆発したせいで、目の前の敵を殺そうとする殺意以外の感情が、一つ残らず消え去った。

 

「―――殺す」

 

 瞬時に蜘蛛切を抜刀。

 

 猛烈な勢いと人間離れした剛力で、蜘蛛切を土蜘蛛に打ち付けた。

 

『ん?』

 

 土蜘蛛が衝撃で吹き飛び、壁に叩きつけられる。

 

 それは、普通の土蜘蛛(モールモッド)とは明らかに違っていた。

 今のサイズは2m程度。

 だが攻撃を受ける瞬間、僅かに大きくなった。

 サイズを自由に変えられて、家の中にも入れる土蜘蛛ということだ。

 

 体色は黒。

 光を逃さない漆黒。

 モールモッドとは同色に見えない、宇宙の暗黒のような黒。

 

 その漆黒に、黄金の角。

 いや、角ではない。

 角のように見えるが違う。

 これは『珊瑚』だ。

 黄金の珊瑚が蜘蛛から生えて、それが角に見えていた。

 

 鬼。蜘蛛。どちらであるとも言い難い、おぞましい化物。それが、頼漢の母を殺した。

 

『ボーダー戦闘員はほぼ全員出征中。

 今ならボーダーの家族を全員首だけにもできるという話もあったはずだったが』

 

「死ね」

 

『これは……もしや、間違えたか』

 

 頼漢の追撃が、嵐のような勢いで振るわれる。

 黒い土蜘蛛は、それらを器用に受け切り受け流す。

 その間に、バラバラにされた頼漢の母の死体が白い炎に飲まれ、消えていく。

 

 振り切れた感情が壊れに壊れ、吹き出る感情が蜘蛛切に乗るも、あまりにも大きな感情が暴れ回るせいで言葉は逆に冷えていく。

 

 心の弁が、壊れてしまった。どうしようもないほどに。

 

「ブチ殺す」

 

 黒い土蜘蛛が振るったブレードが、ブレードを展開してもいない頼漢の斬撃に力尽くで弾かれ、途方も無い感情の暴走で脳のリミッターが外れた頼漢が加速していく。

 一撃一撃がトラックの衝突。

 斬撃の速度は風より速い。

 かつ、全ての攻撃が殺意に満ちた必殺狙い。

 人間離れした性能の源氏の肉体を、肉体が崩壊しても構わない出力で動かし、細胞結合が崩壊していくのも構わず限界を超えていく。

 

 生身に剣一本だけでこの領域に到達している源頼漢の攻勢を、黒い土蜘蛛は興味深そうに観察していた。

 

『これは面白い。生身か? どういう腕力だ?』

 

 土蜘蛛が振るったブレードを、左右への高速跳躍で回避。

 足を刈りに来た土蜘蛛の刃は、超高速の足踏みで踏み、力任せに床に叩き込む。

 筋肉が千切れる音を聞きながら、全力で振り上げた蜘蛛切で土蜘蛛の足を切り弾く。

 一瞬で蜘蛛切を四度振り、限界を超えた剛力で土蜘蛛の攻撃を全てねじ伏せた。

 

 この攻防に要した所要時間、実に1秒未満。

 

 もはや人間がしていい攻防の速度を超えている。

 

「ぜぇ、ゼッ、ガッ、コヒュッ、はっ、ハァッ、ゴヒュ、フゥー、フゥー」

 

 頼漢の全身は限界を超え、更に限界を超えるために命が削られ、細い血管は既に膨大な力に耐えきれず次々と千切れて、頼漢の両目からは多量の血が流れ落ちていた。

 

 血の涙で、頼漢は泣いていた。

 

『妙だな。

 ボーダーの人間ではない。

 この世界に他に強力なトリガー使いなど居ない。

 未知の駒、あるいは在野の規格外、と、なると。

 はて、迅悠一かその家族を狙うつもりだったが……勘違いだったか』

 

「殺す」

 

『確かにこの家には未来視反応があった。

 この家で繰り返し未来視が発動していた。

 迅悠一は母と二人暮らし。

 他に家族は無し。

 だからこそ確信をもって殺したというのに……

 これは参ったな。()()()()()()()()()()()()()がいたとは』

 

「苦しんで死ね」

 

『まあ、いいか』

 

 飛びかかる頼漢を見据え、黒い土蜘蛛が発光する。

 

 そして、全方位に放射されたトリオンの衝撃波が、部屋の全て、親子の思い出の全て、母の死体があった痕跡すらも含めて、全てを破壊し。

 壁も、床も、天井も、全てを粉々の灰燼と化し。

 頼漢を派手に吹っ飛ばした。

 

 

 

 

 

 晴明は全力で飛んでいた。

 麟児はタクシーを拾い、全力でかっ飛ばして貰っていた。

 二人は頼漢の家を目指して、焦る気持ちを抑えながら、最速で最短距離を進んでいく。

 

『急いでくれ! おそらくは源家だ!』

 

「何が起こってるんだ……!?」

 

()()()()()()()……どうなってるんだこれは!?』

 

「ヨル……クソ、なんで今日なんだ。頼むから、何も起こらないでくれよ……」

 

『……嫌な空気だ。私が死んで16年経って、頼光が妖怪に胸を抉られた、あの日のような……』

 

 

 

 

 

 現在、この世界には二人の未来予知能力者が存在する。

 一人は、安倍晴明。

 過去からの来訪者。

 そしてもう一人が、迅悠一。

 これから先の未来で、この世界を救う英傑に育っていく、未来の英傑の卵である。

 

 未来予知は反則だ。

 外世界の住人の大半が、そんなサイドエフェクトが存在すると想像もしないほどに。

 千年に一人程度でも「生まれすぎ」だと言えるほど、希少で強力な力である。

 

 その力が最も活かされるのは、未来の可能性を測定・改変しやすく、味方の助力を得ての未来改変がやりやすい、防衛戦であると言えるだろう。

 特に、味方の被害の軽減においては絶大な効力を発揮する。

 

 なにせ、死ぬかもしれない人間に「お前ここでこう死ぬよ」と言っておくだけで、死ぬはずの場所にその人間が行かなくなり、死が回避されてしまう可能性が高いのだ。

 本人に言っても何も変わらないほど強固な死の運命も、他の人間に「あいつを助けといて」と言っておくことで、複数人の力で未来を書き換えられる可能性が出てくる。

 自分で面倒な敵の駒を抑えておくことで悲惨な運命を無くしてしまうこともできる。

 ここまで強力な力は、そうそう存在しない。

 

 本質的に、未来予知の力を持つ者が"何が何でもこの人は守る"と思った人間を殺すことは、未来予知能力者を先に殺す以外の手段では不可能に近い。

 一人二人の犠牲を許容すれば、何万という数の人を守ることすらできるのが未来視である以上、その力を一人の守護に集中すれば、守れない人間などいない。

 

 だが、ここにその摂理を壊す者が在る。

 

 安倍晴明、迅悠一が観測できない『未来の落とし穴』において、この存在こそが、迅悠一のかけがえのないものを奪い去る()()()()()()()()()()であった。

 

 

 

 

 

 迅悠一はこれから、源頼漢の知らないところで、守ろうとしたある国の住人ほぼ全ても、仲間のほとんども、母も殺されるはずであった。

 未来予知能力者が"絶対に死なせたくない"と思った人間を殺すのは非常に難しい。

 しかし、殺されてしまう。

 迅悠一が守ろうとしたもの、ほとんど全て。

 迅悠一の能力をもってしても、その未来を回避することは不可能だった。

 

 何故、そうなったのか。

 その解答が、先んじて今日、此処に示された。

 安倍晴明は、何が何でも死なせてはならないと考えていた源頼漢の母親が殺される未来を、完膚なきまでに"読み逃し"ていたのだから。

 

 この敵は、最も辿る可能性の高い未来へと続く道筋で、頼漢の知らない未来視を持つ少年・迅悠一の母親を()()()()()()()、時の流れを歪ませる近界民(ネイバー)

 この敵に関わる未来を、未来視が見通すことはできない。

 愛する己の母親であろうと。

 相棒が愛する母親であろうと。

 守れない。

 

 身近な人間の死を避けることにかけては、いかなる特殊能力をも上回る未来視でさえ、この特異性を前にしては、大切な人の命を守ることさえできなくなってしまう。

 

 迅悠一の母の代わりに、源頼漢の母親が()()()()()()()()、偶然にまみれてそれでようやく、未来予知にすら視えない形で未来は変わった。

 

 誰かの母が殺されない代わりに、誰かの母が殺される。

 

 因果は、そうして帰結する。

 

 土蜘蛛の肉体は仮の器にすぎない。

 その正体は、妖怪を引きつける"百鬼夜行の時間"そのものであると、平安時代の認知・価値観によって解釈された悪意の者。

 時そのものに視られる悪意。

 鬼が如く、百鬼夜行を引き連れし近き世界の民、魔の中の魔。

 

 伝承名、『逢魔刻(おうまがとき)』。

 

 縄文時代には既に存在の記録がある、"夕暮れに異界から妖怪が現れ人を拐っていく魔の時間"と語られる―――異界より来たる化生の群れ。

 

 平安時代の稀代の陰陽師程度ではまるで年季が届かない、遥か遠き古代から地球の人間を食い物にし続けてきた、極大の長大周期で接近する、大彗星の如き乱星国家の住人。

 あまりにも長い年月を経た世界観の霊力(トリオン)が時間を歪ませ、未来視を狂わせる。

 遠い未来を望む者を食い殺す、遠い過去から這い寄り来たる侵略者。

 

 

 

 

 

 逢魔刻の狙いは、迅悠一の母親だった。

 そして、家に帰った迅悠一を母親の死体で動揺させ、そのまま殺すことだった。

 

 事前情報も完璧だった。

 迅悠一は母親と二人暮らし。家族は他に居ない。

 未来視の反応やトリオン反応は時間系のトリオン技術で測定可能。

 たった一人の家族を殺された動揺を突けば、未来を視て回避する反則の中の反則が相手でも、容易に殺すことができるはずだった。

 迅悠一が帰ってこないなどのアクシデントがあったとしても、その後の展開の布石にできるはずだった。

 

 未来視を源家で繰り返し使っていた幽霊がいて。

 その幽霊と相棒が家でトリオンを使っていて。

 偶然、その家の家族も母子二人暮らしで。

 ……そんな偶然があったからこそ、ものの見事に、敵は間違えた。

 頼漢のたった一人の家族を、特に意味もなく、勘違いで殺した。

 

 そして、勘違いに気付き、()()()()()()母親の死体も燃やした。

 

 その所業は、本当の、本物の、悪鬼そのものだった。

 

 

 

 

 

 一人死ねば、一人死ぬだけではない。

 その家族も、その友達も、犠牲者を大切に思う全ての人が不幸になる。

 人を殺すことは、最悪だ。

 殺された人間の家族は悲しみ、その痛みを一生背負っていくことになる。

 

 例外はなく、聖域もない。

 

 頼漢の瞳から流れ落ちるその血涙こそが、"奪う者"の理不尽に打ち砕かれた心の欠片。

 

 

 

 

 

 もう、源家もなくなった。

 倒壊した集合住宅から沢山の人が逃げていく。

 夜の闇の中、悲鳴が、鳴き声が、怒号が、無秩序にそこかしこから響いている。

 

 悲劇が広がる渦中の最中、全身血みどろの源頼漢が、夜を駆ける。

 

「トリガー・スタート」

 

《 蜘蛛切・真打起動 残り時間を表示します 》

 

 遮二無二、我武者羅に殺意を乗せて、頼漢は切り札を抜刀した。

 

《 参 》

 

 しかし、黒い土蜘蛛が全身に透明な障壁を展開すると、輝く刃は通らない。

 

「!」

 

《 弐 》

 

 無念無心に刃を振るえど、光の壁を超えられない。

 斬撃の連打が、音を響かせる楽器にしかなっていない。

 これこそが絶望。

 これこそが力の差。

 これこそが最初に晴明が頼漢の霊力に失望していた理由。

 

 霊力(トリオン)の大小は、絶対的な戦力差となって具現化される。

 弱い力で、強い力は撃ち抜けない。

 黒い土蜘蛛は、全力の一割にも届かない軽い出力で、全身を覆う穴のない球形のバリアを展開していた。

 

 穴が無い。

 隙間を差すこともできない。

 全身をうっすら覆っているだけの球形バリアなのに、それに傷一つ付けられない。

 

 天地を揺るがす剛力も、霊力(トリオン)の暴力だけは、覆せない。

 

《 壱 》

 

 黒い土蜘蛛と頼漢のトリオン量の差は、ゆうに4000倍以上あった。

 

 頼漢が死力を尽くして、それでようやく削れる分が1/4000。

 

 0.025%しか削れない。軽傷……いや、それ以前だろう。

 

 おそらく、土蜘蛛の方は、こんな微量の損失では、削られたことにさえ気付いていない。

 

《 零 》

 

 手も足も出ず、牙も爪も突き立てられず、本当に何もかもどうしようもないまま、切り札の光刃は時間制限を超過した。

 

《 蜘蛛切・真打を終了します 》

 

 光刃が消え、バリアが爆発する。

 

 要らなくなったバリアの内包エネルギーを爆破して行う攻撃が、頼漢をまたしても吹っ飛ばし、道端の大型トラックに叩きつけた。

 痛ましい金属音と共に、トラックがひしゃげ、頼漢が血を吐く。

 

「ぐ……!」

 

『たった3秒。

 蟻のようなトリオン量。

 ……考えすぎか。路傍の石だな』

 

 トリオン反応から頼漢のトリオン残量が完全に0になったことを把握し、黒い土蜘蛛は余裕たっぷりに勝利を確信した。

 

 猛烈な勢いで走行し、頼漢にトドメを差すべく走る黒い土蜘蛛。

 頼漢は肉も、骨も、内臓も、全てが危険域にあった。

 全てが危険域にあるというのに、その眼光は死んでいなかった。

 ゆえに、動く。

 

 血みどろの全身を豹の如く動かし、獣のような動きから俊敏なフェイントをかけ、そのまま土蜘蛛の足の一本に飛びつく。

 そして、土蜘蛛の足の一本に、蜘蛛切の柄を押し当てた。

 

《 武装 臨時接続 霊力吸収 》

 

『……!?』

 

「殺すと、言ったはずだが」

 

『モールモッドから作った武器なら、モールモッドからトリオンを吸うことも可能か……!』

 

 トリオンが尽きた頼漢ではなく、"黒い土蜘蛛の身体"から、新たに発動するためのトリオンを吸い上げ刃に補充する。

 同系統のテクノロジーは接続し、霊力(トリオン)をやり取りすることができる。

 それは、人から人へ輸血する仕組みに近い。

 ただし、奪うのはトリオンだ。

 モールモッドの足は、モールモッドの本体からのみ、トリオンを奪えるのである。

 

 だが。

 頼漢がトリオンを吸おうとしたその瞬間には、黒い土蜘蛛は攻撃準備を終えていた。

 蜘蛛の周りで、光が、震える。

 土蜘蛛が全身を覆う球状のバリアを展開し、同時にバリアの表面から生えた光の刃が、頼漢の動脈を大きく切り裂いていた。

 

「が、ふっ……」

 

『まったく。そんな弱さで何ができると思ったのかね』

 

 吹き出した血は致命の量。

 動脈からまるで滝のように血が吹き出していく。

 1Lペットボトルに収まらず、どんどん溢れてしまうほどの、絶死の量。

 

 軽い反撃で、いとも容易く、命を狩られる。

 これが生身という弱点を抱えた戦士の運命と、そう見るべきなのか。

 母を殺され、自分を殺され、勘違いで親子共々殺され、もののついでに殺した一般市民AB程度の存在として終わってしまうのか。

 

 いや、違う。

 

 そうはならない。

 

 源頼漢は―――"奪う者"を許さない。絶対に。何があっても。

 

 頼漢の殺意と憎悪に満ちた目を視た瞬間、黒い土蜘蛛の"中の存在"が、ぶるりと震えた。

 

『!?』

 

 頼漢の吹き出した血が、蜘蛛が生やしたトリオンの刃を、トリオンのバリアを、飲み込むが如く尽く喰らっていく。

 最初の土蜘蛛との戦いで見せた侵食力……どころの、話ではない。

 侵食力が上がっている。

 汚染力が上がっている。

 崩壊力が上がっている。

 頼漢の殺意が際限なく膨らむのと呼応とするように、血が持つ"怪異を喰い殺す"という性質が加速度的に強まっていく。

 

 血までもが殺意を持ち、憎い化物を喰い殺そうとしているかのようだった。

 

「トリガァ……スタァトォ……!」

 

 蜘蛛切のグリップトリガーが引かれ、最後の光刃が発動する。

 

《 蜘蛛切・真打起動 残り時間を表示します 》

 

 ()()()()()()()()()()意志の下、頼漢の全身全霊を込めた振り下ろしが放たれた。

 

 黒い土蜘蛛は全ての足で防御しようとするが、頼漢の動脈から吹き出している血が降り掛かってしまっており、足も刃も穴だらけ、膨大なトリオンは制御を失い暴走しかけていた。

 

《 参 》

 

『なんだ……なんだこの生き物は……本当に、本当に人間か……!?』

 

 力任せに押し込まれる刃が、どんとん足に食い込んでいく。

 少しずつ。

 少しずつ。

 少しずつ。

 黒い土蜘蛛が全力で抵抗しているのに、まったく押し返すことができず、押し込まれていく。

 

 食い込んでいく光の刃が、少しずつ黒い土蜘蛛の急所に迫っていく。

 

《 弐 》

 

 ゆっくりと万力で押し潰されるネズミの気分を、黒い土蜘蛛は味わっていた。

 全力を尽くしているのに。

 この男の数千倍のトリオンを注ぎ込んでいるのに。

 血に蝕まれ、血に食われ、全力を出すのを邪魔される中、人間とは思えない膂力で押し込まれる光の刃が近付いてくる。

 

『やめろ……来るなっ……!』

 

 死を恐れる心の色が、其処に浮かんだ。

 

《 壱 》

 

 ただただ任せに、頼漢は押し切る。

 憤怒のままに。

 憎悪のままに。

 殺意のままに。

 デタラメな膂力をもってして、岩を鉄の棒で押し潰すような力の掛け方をして、黒い土蜘蛛の急所を切断した。

 

《 零 》

 

 光の刃が消え、黒い土蜘蛛が動きを止める。

 

《 蜘蛛切・真打を終了します 》

 

 頭に角が生えたことで鬼と呼ばれる人がいる。

 心が外道であるがゆえに鬼と呼ばれる人がいる。

 だが、その二つにもう一つ、鬼と呼ばれる存在の定義を付け足すことが許されるなら。

 

 それは、比類なき剛力無双。

 "棍棒で人をすり潰してしまう力自慢の化物"こそが、鬼と呼ばれるに相応しい。

 

 

 

 

 

 頼漢が気付いた時には、黒い土蜘蛛は普通の土蜘蛛と同じ色に戻っていた。

 そして同時に、その頭から生えていた黄金の珊瑚もなくなっていた。

 角は消え、どこからか先ほどと同じ声が響く。

 

『トリオン体すら無しに、この器を負かすとは。末恐ろしい』

 

 その声が、段々と、段々と、遠ざかっていく。

 

『恐ろしい血だ……これではしばらくまともに活動もできない』

 

 遠ざかっているということは、逃げているということだ。

 

『アリステラが片付いた後、君がまだ生きていたらお相手しよう』

 

 それが頼漢に、"殺し損ねた"という事実を知らしめる。

 

「まさか……倒せてねえのか? 逃げたのか……あの野郎……!」

 

 頼漢は血涙を拭き、充血し血走った目で辺りを見回すが、敵らしきものは見えない。

 

 完璧に、逃げられてしまった。

 

「ごぽっ」

 

 血を吐く頼漢。

 動脈からの出血も無視はできない。

 頼漢はとりあえずの止血を行い、骨が何本も折れている体に鞭打ち、黒い土蜘蛛によって粉々にされた自宅へと向かう。

 もう、そこには何もないのに。

 

「誰か……母さんを……母さんを助けてくれ」

 

 母親だったものが、母親だった灰になり、風に吹き散らされた廃墟で、頼漢は跪く。

 

「母さんは……不幸な人なんだ……

 怪我で踊れなくなったのは運が悪かったから……

 詐欺師に目をつけられたのも運が悪かったから……

 宗教に取り込まれたのも運が悪かったから……

 やり直す可能性すら、0にされてて……

 本当はとても優しい人で……愛してくれて……幸せになるべき人なんだ……」

 

 これは本当の戦いの序幕。

 倒すべき敵を見つけるだけのプロローグ。

 家が一つ、家族が一つ、壊れただけの些細な悲劇。

 されど失った当人からしてみれば、世界が壊れたに等しい絶望がある。

 

 血の涙を上書きするように、透明な涙が流れ落ちていった。

 

「話が……話がしたかったんだ……

 ……母さんを、救いたかった、護りたかったから……

 諦めてたことを、麟っちと晴明が、希望を、選択肢を、くれて」

 

 一年後。

 今見えている中でも最良の未来でさえ、1600人以上の人が犠牲になる。

 この涙が、それだけの数、再生産されていく。

 立ち止まることは許されない。

 

「う、あ」

 

 本当の戦いは、まだ始まってすらいない。

 

「ああああああ」

 

 ゆえに、これは終わりではない。

 

 これは始まりである。

 

「ああああああああああああああああっ!!!」

 

 ただの勘違いで、ただ無意味に殺し。

 

 悪は、虎の尾を踏んだ。

 

 殺した塵芥の子も塵芥、その考え方が、最も恐るべきものを見落とした。

 

 それは光。それは至上。それは正道。それは暴力。それは慈しみ。それは希望。

 

 それは"奪う者"が作り上げた悲しみの底、最も暗き闇の底から現れる。

 

 

 

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