同盟国・アリステラでの大戦から幾日が経過した、ある日の朝の事。
旧ボーダー本部で暮らす小南桐絵の何気ない、過去と現在と未来が交錯するかけがえのないお話。
温かい布団に包まれ、ゆっくりと一定のリズムで呼吸を刻む。
背中を力なくベッドに預け、瞼を閉ざすこの時間はどんな時間と比べても比較できないほど快適で、安心できるものだ。
気遣う必要もなく、情報を処理する事もなく、ただ安らぎを満喫できるこの時間がいとおしい。
少女が今日もいつもの安眠を満喫していると。
ピピピ、と携帯端末のアラーム音が鳴りひびく。
「んーっ……」
音を頼りに手を伸ばし、枕の隣に置いてあった端末の画面を乱暴に叩き、そしてアラームを止めた。
アラームがしっかりと自分の役目を果たし、主に目覚めの時刻を知らせた中、しかし少女は再び頭を枕へと落とした。
まだ完全に頭が目覚めていない。起きようとして、だが脳が覚醒せずにまた夢の中へと少女を誘おうとする。
「小南! 起きろ! もう朝食出来ているぞ!」
「うーっ……わかった、わかった。すぐに行くから」
その時、部屋の扉を幾度とノックしながら男のハキハキとした声が部屋中に響く。
男の指示に小南は曖昧に答え、ゆっくりと上半身を起こした。
「ん、んーっ!」
両腕をあげ、眠気を払おうと背筋を伸ばした。
ようやく体も脳もしっかりと朝である事を理解し、少しずつ意識も明瞭になっていく。
軽い体操をすると、茶髪の少女・小南は両足をベッドから床へと下ろし、立ち上がった。
いつもと同じルーティンだ。
よく眠り、携帯端末のアラームに起こされて、しかし自力で起きる事は出来ず、誰かに声をかけてもらって、体操をして目を覚まして。
「……おはよう、皆」
そして、最近加わった、朝の習慣を行った。
小南は柔らかく微笑み、ベッドの上に建てられた写真たてに朝の挨拶を告げた。
写真には19人の男女が映っていた。
一人一人の顔をしっかり見て、それから寝巻から着替えようと手を伸ばす。
「やっぱり、まだ時間がかかりそう」
あくびを一つしながら、小南は寂し気にそうつぶやいた。
★☆★☆
旧ボーダー本部。
かつては19人もの隊員が在籍し、生活も共にしていたていた組織の中枢施設だ。
だが、今となってはこの建物には5人の隊員しかいない。
「ようやく起きたか、小南。おはよう」
「ん。おはよ、レイジさん」
私服に着替え、顔を洗った小南がリビングに行くと、大柄で体がしっかり引き締まった男・木崎レイジが慣れた動きで食卓に朝食を並べていた。
チーズが乗ったトーストに目玉焼き、野菜にヨーグルト。いつもと同じメニューが並んでいる。相変わらず味だけでなく栄養のバランスもとれた良いメニューだ。
「飲み物はどうする? 牛乳にするか? それともカフェオレにするか?」
「そう、ね」
さらに木崎は飲み物を普段から飲んでいる二択のどちらにするのか小南に問う。
これもいつも通りだ。その日の気分によって牛乳か、カフェオレか。たまに冷蔵庫に残っている場合は果物ジュースを飲むときもあるが、聞かないという事は今日はないのだろう。
さて、どうしたものかと少し小南は考えて、ある事を思い返して口を開く。
「じゃあ、今日はどっちもやめとく」
「ん? じゃあどうする?」
「今日はコーヒーでお願い。レイジさんも飲んでるやつで」
今日はいつもと同じ気分にはなれなかった。
想い人に良い面を見せようと、背伸びをしてブラックコーヒーを嗜んでいる木崎と同じものを飲みたいと告げると、木崎の目が見開く。
「飲めるのか?」
「わからない。でも良いでしょ?」
「俺は構わないが」
確認を済ませると木崎はそれ以上は尋ねず、もう一人分のコーヒーを淹れ始めた。
待っている間、小南は視線をあちこちに向け、耳を傾けて情報を集める。
しかし木崎がコーヒーを淹れる以外の生活音などは何一つ手に入らなかった。
「ボスは?」
「林藤さんなら本部だ。新入隊員たちへの対応協議、さらに同盟国の人員の配分のための会議に行ったそうだ」
「ふーん。ゆりさんは?」
「ボスと一緒だ」
「迅は?」
「いつも通りだ」
「はあ。なるほど」
この建物の中にいるはずの人員の所在を知って小南が小さく息を吐く。
小南と木崎、そしてあと3人。もう5人しかここにはいないとはずいぶん寂しくなったものだ。
「ほら、小南」
「ん。ありがとレイジさん」
専用のマグカップを両手で受け取る。
容器越しにコーヒーの温かい熱が掌に広がった。
すん、と匂いを嗅ぐとナッツのような香ばしい香りが鼻を伝う。
そういえば昔、ボスに頼んで一口だけもらったことがあったっけ、と懐かしい思い出がよみがえった。
ふー、ふーと息を液面にふきかける。
そしてマグカップをゆっくりと口元に寄せ、少しだけ口に含んだ。
「……苦」
「そうだろう」
よくこんなものを飲めたものだと表情が歪む。
年相応の反応に木崎が心底面白そうに笑った。
少しだけコーヒーを飲むと、マグカップを机に置き、トーストへと手を伸ばす。口いっぱいに詰め込み、時たま嫌な顔を浮かべならがもコーヒーも口に入れて吞み込み、そして目玉焼き、野菜と順々に消化し、最後にヨーグルトを食べ、そして最後まで残ったコーヒーをゆっくり胃の中へと流し込んだ。
「苦」
やはりこの味には慣れない。おそらくこの先ずっと美味しいと感じる時は訪れないのではないかと考えてしまうほどに。
いや、ずっとこのままでいい。
変わらなくていい。良かったのに。
「……苦」
改めてコーヒーを口に含むが、やはり感想は変わらなかった。
★☆★☆
「珍しいな。当番以外の日にお前が片付けの手伝いをするとは」
「何よ。別におかしくなんてないでしょ」
「まあいいが」
食器を水洗いしつつ、木崎が小さく笑う。
食事の準備や片づけは当番制となっている。特に小南は若いために他人の手伝いをするというケースは珍しかった。
人が少ない分片づける量も少ない。それでも二人いればより効率が良くなるため助かるのもまた事実だ。
「レイジさん」
「ん?」
蛇口から出る水の音に掻き消えてしまいそうな細々とした声で、小南が木崎に問う。
「また、ここに人が集まることなんてあるのかな?」
「…………」
「前みたいに、ここが騒がしくなることがあるのかな?」
らしくない、と小南自身も思うような声だった。
現在、この玉狛支部に在籍している者は5人のみ。
かつては19人もいた隊員の内、10人が先の大戦で命を落とし、一人は組織を抜け、3人が新たに出来た本部へと移っていった。
割合で見れば約1/4。以前は年齢性別様々な隊員が活気あふれる様子であったのに、今は静けさが場を占める事も多い。かつての面影は微塵も残っていなかった。
「さて、な。先の事なんて誰にもわからん。迅でさえそこまで見抜くことはできないだろう」
「そう、ね」
未来を視ることができるという男でさえ詳しい様子はわからないという話だ。まだ訪れていない先の事など誰にもわからないだろう。
至極当然の意見に、何も言い返す事は出来ず寂し気に口を紡ぐ。
「だが」
そう前提を告げたうえで、さらに木崎は続けた
「何が起こるかわからなくても今から備える事で良い方向へ変える事はできるだろう。それは今しかできない事だ。ゆっくりで良い。ゆっくりまた未来へ向かって歩いていけば良いさ。俺達は、それができるんだから」
堅物の男はやはり真面目な表情で、どこか優し気な声色でそう言った。
『俺達』、そう生き残った彼ら彼女らにはできる。
あの戦いで散った仲間たちに代わって、彼らの為にも戦い、未来を変えて、今度こそ誰も死なせないために強くなる事もできる。
そうすればおのずとまた人は集まるだろう。その言葉を最後に、木崎は話を締めた。
「……そうね。向こうの護衛の人もこっちに来るかもって話だし。あと少なくとも5,6人くらいは人が増えて欲しいかな。そうすれば、きっとまたここもにぎやかになるわね」
「ああ。そうなると良いな」
その言葉に背中を押されて、小南もいつもの明るい声で調子よく未来の展望図を口にした。
彼女の目には今いる5人の他、まだ見ぬ後輩たちと騒々しくここで集まり、他愛ない会話を繰り広げる光景が広がっている。
いつもと同じ朝は、いつもと違って静かに、明るい光が照らしているような気がした。