掴めそうで、すり抜けていくもの。
(※直接的な場面はありませんが、性的な表現をする単語が出てくるのでご注意下さい。)
【※設定の濃いオリジナルキャラが登場します。お手数ですが、作品をご覧頂く前に、シリーズ全体のあらすじ概要をご確認下さい。】
茫然とした表情のすずなの体を、義勇は、左腕でゆっくりと支えながら、そのまま起き上がらせた。いつの間にか、自身も上半身がはだけた状態になっていたが、先に、彼女の素肌をなるべく隠そうと、浴衣を整え始めている。
ふと、彼女の内股の辺りが、少し濡れたように艶めいていることに気づき、顔を再び真っ赤に染めながら、手拭いで軽く拭いてやった。
そんな彼をずっと見ていて、少し安堵した反面、どこか寂しさも感じたすずなは、自分が義勇を軽蔑して嫌ったと思われたと考え、胸元を隠しながら、慌てて口を開いた。
「…冨岡さん。あの、大丈夫ですよ…? 嫌じゃなかったです……」
遠慮がちに発せられた、彼女の至極大胆な言葉に驚き、義勇は内心焦りながら、気恥ずかしい思いを含んだ、怪訝そうな視線を向けた。恥じらって頬を薄紅に染めているが、変わらず曇りの無い珊瑚色の瞳に、偽りは感じられない。
一方、すずなは、自身の心に僅かに存在する、儚い勇気を振り絞り、長年募らせてきた想いを、ついに、口にした。
「…突然で驚きましたけど……私は、貴方を…お慕いしています……」
「…ですから、はしたないのは…承知ですが…貴方なら、構いません……」
不意討ちに放たれた、彼女の直向きで真っ直ぐな告白に、罪悪感で溢れ返りそうだった義勇の心の水面に、流星群が落下したような、大きな波紋と波しぶきが起こった。また彼女に触れたい衝動が湧き出したが、今度はなんとか、ぐっと、堪える。
何故、この娘は、己の尊厳を踏みにじられ、散々利用されてきたにも拘らず、またこのように、他人に全力で向き合えるのかと不可解に思う反面、どこか憧れに近い思いを抱いた。
しかし、状況が状況なだけに、努めて冷静さを取り戻し、燃え滾っていた感情を、必死に鎮める。
「…久世。俺が、さっきお前に何をしようとしたのか、本当に解ってるのか…?」
危ういくらいに無防備で、貞操観念を疑いたくなるような発言に対し、半ば呆れながら問いかけたが、こんなところも彼女らしくて、愛らしいと思ってしまう自分がいた。
これから行おうとしていた行為は、おそらく、彼女の想像の範疇を超えたものだ。自分も、長年、鬼殺に明け暮れていた為、そんなに知識がある訳ではないが、構わないというのは、言っても先程のような、恋仲の相手との色のある戯れ程度のものだろう。
性的な欲とは程遠い、無垢な愛情表現の一つのように捉えているような言葉に、義勇は躊躇いを隠せなかった。ますます、彼女を下手に傷つけたくない、大切に扱いたいという想いが高まる。
「…男女の契りのことなら、漠然とですが、知っています。経験は無いですが……」
「婚前交渉だぞ…? 褒められたものでは無い…… 」
「…………。」
困ったように黙り込んで、俯いてしまったすずなを眺めながら、義勇は、深く、重い自責の念を改めて感じた。性的経験が無い事は、彼女が巫女の家柄という点で想定していたはずだった。本来なら迂闊に手を出してはいけない、慎重に扱うべき女性だったのだ。
とは言うもの、決して軽薄な情ではなく、真剣な想いからの行いであったが、衝動的だったのは否定できない。この娘との未来まで考えた上ではなかった。
内実、片腕では満足に抱いてやることすら出来ないことを、情事の最中に痛感していた。仮に、婚姻を結び夫婦になったとして、まず、日常生活で支障が出るだろうし、彼女の負担になるのは間違いなかった。
更に、もし何かあった時、片腕だけで守れるのだろうか。逆に、自分が危険因子にならないだろうか。何よりも、自分には痣による余命が確定している。持ってあと三年未満、もっと早いかもしれない。大切な人に置いて逝かれる悲しみは、十分に解っているつもりだった。今まで辛い目に遭ってばかりいたすずなに、あんな身を裂かれるような痛い思いまでは、絶対させたくない。
「…俺を含む、痣を発現させた、柱の寿命の事は、知っているのか?」
「知っています。竈門炭治郎さんの痣のことを、全てが終わった後にカナヲさんから聞いて、風柱様と貴方にも、寿命があることを伺いました。」
「なら、何故、俺などと……」
思わず、昨日、右腕の痛みを治癒してもらった時と、似たような疑問をぶつけていた。近い将来、至極辛い思いをするに決まっている。何も短命の自分じゃなくてもいいだろうと、問いただしたくなっている。
「貴方は、今までで一番、清廉で、高潔で、温かいと思った殿方です。時間が短くても……叶うなら、側にいたいです。」
「無限城に出陣されたと聞いた時、二度と会えないかもしれないと、既に一度、覚悟しました。私だって、明日、何かの不運で死ぬかもしれないんですよ…?」
「…………!!」
頑なに閉じていた心の、最も柔い部分を開かれ、思い切り揺さぶられたところに、とどめの一言で撃ち抜かれたような衝撃が、義勇の奥底で弾けた。紺碧の瞳孔を見開き、変わらず真っ直ぐ見つめてくる、力強く朱に揺らめく瞳を見返す。
ある日突然、鬼という未知の脅威に曝され、自分と家族の命が脅かされた、彼女ならではの考えであろうことが、痛い程に感じられた。
この一年もの間に、産屋敷家の人脈で、縁談の話は幾つかあった。寿命の件があるにも拘らず、無惨を倒した元柱との婚姻話に飛びつく、藤の花の家紋の名家は少なくなかったのだ。
鱗滝師匠にまで諭され、命を繋いで子孫を残せるのならと、一度だけ見合いもしてみた。健康で家柄も申し分ない女性を勧められたにも拘らず、どこか他人事のように冷めた自分がいて、ただ自分の子を産んでもらうだけの関係を築くことに抵抗を感じた。
見合い結婚は普通の事例であるし、子供は、向こうの家が大切に育ててくれるだろうと思った。しかし、形だけの妻になる女性や、利害の一致しかない関係の夫婦の子は幸せになれるのかと、ずっと思い悩んでいたのだ。
「…それは、あくまで仮の話だ。お前に相応しい、もっと健康な良い男がいる、という事実も変わらない。さっきは、本当に済まなかった……」
すずなの並ならぬ覚悟に圧倒されながらも、内心至福に溢れていたが、必死に抑え隠しながら、すっぱりと切り返した。
「…そんな、謝らないで下さい……お慕いしてから数年経ちますが、気持ちは変わりませんでした。この数日間で、益々好きになってしまっています……」
「私に相応しい方って、何ですか? お慕いしているのでは…駄目なのですか? やっぱり、私は、貴方に相応しくない…という…ことですか…?」
自身の首元に触れながら震える声で問い始め、二つの朱の硝子玉から、幾つもの水滴が溢れ出した。出会ってから初めて、悲しみの感情を爆発させたすずなに、義勇は狼狽え、激しく動揺する。
どんなに苦しい時も耐えていた彼女が、自分の言葉で、こんなにも涙を流しているという事態に、かつて無い程の罪悪感に打ちのめされそうだったが、全身全霊を懸けて、精神を凪いだ。鬼殺に対して無情になる方が、まだ楽だと痛感しながら。
「違う!! “俺”が、君に相応しくないからだ。解ってくれ。」
「…わ…から…な…いです……いつか近いうちに来る、悲しみ…を避ける為に、貴方といられる時間が…何も無くなる方が、ずっと…辛いです……」
両手で顔を隠した彼女から、嗚咽の音が響き出した。本格的に泣き始めてしまったようだ。
思わず宥めたくなり、義勇は左腕を伸ばした。が、彼女の前髪に触れる寸前で、指を止め、引っ込めた。今度こそ、感情に流されて判断を誤ってはいけないと、文字通り、心を鬼にした。
いっそのこと、非情な酷い男だと嫌って、諦めて欲しいとまで思い詰めている。声を殺しながら、未だ泣きじゃくるすずなから目を反らし、義勇は、辛そうに眉間をしかめ、ぎりっ、と奥歯を噛み締めながら、衝立越しの自分の布団に戻って行った。
一刻前まで、熱く情を交わし、艶のある甘い空気に満ちていた部屋が、哀しい別れの予兆に変化していく。
宵闇の中、二人をずっと青白く照らしていた満月は、遠く離れた藍空の中、変わらず朧気に揺らいでいた。
──翌朝。雨が止んだ曇天の空の下、宿の前に二人は佇んでいた。
義勇は、このまま鉄道を使って、すずなを蝶屋敷近くの自宅まで帰すつもりだった。自分の屋敷まで一緒に戻ったら、別れる決意が鈍りそうだったからだ。
泣き腫らした顔をしたすずなの白目は、少し赤くなっている。まだ決心のつかない中、義勇の持っている買い物籠に目をやり、ふと、あの約束を思い出した。
「そういえば、まだ、御礼の料理をしていませんね……」
「礼ならしてもらった。もう痛まない。」
そう言いながら、自身の右肩を軽く動かし、哀しくも穏やかな表情を向けた。つられるように左腕の振動に合わせ、籠からはみ出た大根の葉が揺れる。
そんな彼を見て、決意はもう変わらないのだろう、とすずなは悟った。未練がましいのは重々承知だが、気持ちの整理は未だつかない。
「処方薬の残りは、後で直ぐに郵送する。」
そう伝えた後、最寄り駅まで送り、彼女の自宅付近までの切符代を渡した。『そこまでしてもらうのは気が咎める。』と、すずなは断ったが、義勇はその小さな手に握らせる。
これが、おそらく最後のやり取りで、もう二度と会わない、会えないだろうと、互いに予感していた。張り裂けそうに苦しい痛みが、其々の心に襲いかかる。
至極寂しそうな表情を浮かべながら、名残惜しそうに、すずなは、憂いの濃い眼差しを向け、義勇を見つめる。彼の姿を、脳裏に刻んで忘れないようにしたかった。
「…冨岡さん。本当に、色々とお世話になりました……さようなら。」
「…ああ。」
せめて最後は笑って別れたいと、何とか口元にぎこちない笑みを作り、切なげに微笑みながら、すずなは丁寧にお辞儀をした後、一見もせず、ゆっくりと、改札に向かって行った。
そんな彼女の後ろ姿を、義勇は身を裂かれるような感覚に耐えながら、視界から消えるまで、ずっと見送り、眺めていた。
重い足取りで、自分も元水柱邸に戻った義勇は、家に入った瞬間、昨日よりも殺風景に感じる、見慣れた空間に戸惑った。まるで、部屋中に咲き誇っていた満開の花畑が、一晩で枯れ落ちてしまったような、哀愁の漂う悲壮感に満ちている。
「…スズナハ戻ランノカ?」
「ああ。」
寛三郎は、すずなと一緒に帰って来なかったことに驚き、何かあったことを察したようだった。昨日、とても嬉しそうに出掛けて行った二人を見送ったのだ。今夜は夕餉を作ると、彼女ははしゃいでいた。そして、今の義勇は、整った目元や眉を歪め、辛そうに唇を噛み締めている。
「…ヨイ娘《コ》ジャッタノウ…義勇……」
「…ああ、そうだな。本当に……」
彼女の柔らかな優しい笑顔や、軽やかな笑い声が甦る。
「義勇…変ワッタノウ…アノ女子《オナゴ》ガ大切ナンジャナ……」
元々高齢だった寛三郎は、いつ寿命が来てもおかしくない状態だったが、弱々しい声で伝えた。
「…だからこそ、俺みたいな男が、一緒になってはいけない……」
自身に言い聞かせるように、義勇は呟いたが、末端は泡沫の如く、掠れ、淀んでいた。
【おまけ噺】
タイトルは『陽炎 稲妻 水の月』という日本古来の慣用句から。『手に届きそうで、掴めないもの』という意味だそうです。
本編は…ありがち(?)なすれ違い勃発です。義勇さんが、罪な男化したかもしれないですが、筆者の策略のせいなので、このまま温かい目で見守ってやって下さい……
あと、婚前交渉に関しては、当時の価値観故の流れなので、筆者独自の思想とは無関係ですのでご了解下さい。