『彼』と、水橋パルスィのお話。

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枯れない花

目が覚める。私がどんな気持ちであろうと、決まった時間に街は騒がしくなる。

 

「妬ましい…」

 

眠い目を擦りながら、そんなことを呟いた。街の騒がしさは薄い壁越しに私の耳を打つし、誰かの笑い声が絡みついて離れなくなる。…色んなことを引っ括めて、低い声でもう一度呟いた。妬ましい。狭い部屋には、いつも私の妬みが充満している。…そういえば、いい言葉を掛け続けた花は綺麗に咲くらしい。窓辺に置かれた花瓶を一瞥する。

あの花は、きっと綺麗には咲かないだろう。

 

服を着替えて、井戸から汲んできた水で顔を洗う。季節の影響は、閉鎖されたこの地底にも当然のように及ぶ。

 

そういえば外の世界には、シャワーというものがあるらしい。自動的にお湯が出る、如雨露のようなものだと彼は言った。自分の生活が便利になる道具を存分に使えるなんて妬ましい。私がそう言うと、彼はにっこりと笑った。

 

…また、思い出してしまった。私はどうにか忘れようと頭を振る。無遠慮に頭に染み付いた貴方の笑顔が妬ましい。私にこんなにも考え込ませる貴方が妬ましい。

 

考えたって仕方がないと知っている。私はいつも通り、橋に向かう。…特に異常はない。

 

きっと今日だって、何も変わらない一日だろう。誰かに話しかけられて、妬むべき場所を探して、それを口に出す。…反応は様々だけど、そうしている間は楽でいられた。私の、私たる所以だろうと思う。それが故に、私は私を好きになれないんだけど。

 

欄干に肘をついて、時間が過ぎていくのを待つ。そんな時間を、私らしいと思う。最近の私はどうかしていた。常にこうやって、自分よりも幸せそうな奴を見て下唇を噛みながら、世界の全てを呪うみたいな声で、妬ましいと呟くのが私だ。それ以上でも以下でもない。寧ろ、それ以下なんてものがあるなら見てみたい。

 

伸びをして、息を少しだけ長く吐く。いつも暗い地底の世界は、ぽつりぽつりと灯りが点在している。ぼんやりとそれを見ていると、なんとなく優しい気持ちになれる。儚くて、いつでも消えてしまう明るさを、愛おしいと感じるから。

 

こんなはずじゃなかったのに。そう唱えれば唱えるほど、とっくに無くなってしまったと思っていた暖かい感情が私を埋める。何かに彼を重ねて、それを愛することで埋まらない穴を誤魔化そうとしている。

 

そんな自分の行動が、心の奥を擽るようで。私はこの感覚を好きになれないのに、嫌いになれない。どれだけ彼が心の支えであったか、いつもこうして思い知らされる。

 

考えないようにすればするほど、彼は心の中で色付いていく。まだ鮮明に思い出せる彼の色々な表情が、私の全ての思考を奪う。

 

「…おや、誰かと思えば。珍しいわね、あなたがここに来るなんて」

 

気が付けば私は、こんな場所にいた。地底の奥深くにあるこの都の、その中でも危険視されている屋敷の中。その屋敷の主、古明地さとりの目の前。

 

「どうか…って、聞くまでもないようね」

 

彼女は皮肉屋で、心を読める自分の立場やその頭脳に自信を持っていて、自分が有利に立てるならどんな記憶でも呼び起こすことに遠慮や加減がない。だからこそ、私の頼みを聞いてくれると思った。

 

「『私を壊して欲しい』とか、そんなことを言うんじゃない?」

 

…やっぱり、全て見透かされる。でも、そこに嫌悪感はなかった。彼女と過ごすことに慣れたのもあるが、何より今の私は少しおかしかった。

 

「いつもの妬み節もすっかりなりを潜めて、傍から見たら妖精と変わらないわね」

 

クスクスと笑う彼女に、何の感情も湧かなかった。それよりも、早く私の願いを叶えて欲しいと思った。

 

「はぁ…じゃあ、お望み通り。今から貴方の心を壊すわね」

 

…そういえばいつから彼女は、私に対して敬語をやめたのだろう。ふと思いついたその疑問を口に出さず、そんなことを考えられないようになる瞬間を今か今かと待ち侘びる。

 

やがて私の胸に、確かな温かさが感じられた。

 

「今のあなたを壊すなら、これで充分よ、水橋パルスィ」

 

彼女は私の胸の中で呟いた。優しく回された腕が、確かに私の心を…心の壁を、壊してくれた。

 

私が赤子のように泣く間、彼女は何も言わなかった。

 

どうして私は、こんなことが分からなかったんだろう。人を大切に思うことや、人を大事にしてしまうことが、幸せな分辛いことだと。

誰よりも分かっているという顔をして、誰よりも分かっているつもりでいたのに。想定して、想像して、何度も言い聞かせても。

 

やっぱり私には、耐え切れそうになかった。心は体ごと引き裂いてしまうほどの勢いで、私の中で暴れている。そんな風に渦巻く感情を、私は知らなかった。…いや、忘れていた。

 

結局彼も、私の心についた傷のみが存在を証明してくれる虚像でしかなかったのかもしれない。一度味わって、忘れたくないからこんな姿になったのに。私は長い時の中で、この感情を忘れていた。

 

思い出させてくれた彼のことも、私は忘れてしまうんだろう。深く負った傷も致命傷にはなり得ない。私は明日も私のままで、それがずっと続くんだ。

 

忘れてしまいたい。刻み込んでおきたい。…私の心の声は、その二つを全く同じ声量で叫ぶ。どうしたらいいのだろう。どうせ刻み込んだって、その傷も治ってしまう。どうせ忘れようとしたって、暫く彼は消えてはくれない。

 

それでも、それを日々のせせらぎに流してしまおうと思えない。私は自分で、この感情を処理したい。

彼が私にくれたものの半分も、私は返せなかったから。…嫉妬に狂った私の半分も、彼は生きられなかったから。

 

…あぁ、私が望んだのは。確かに現実的な方法の一つだったはずなのに。

 

今の私にとってそれは唾棄すべき、論ずるに値しない逃避以外の何者でもなかった。

 

「…ねぇ、あなたって、本当に可愛い人ね」

 

涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を撫でて、彼女はにっこり笑う。

 

「久しぶりに心の底から人を愛して、どうだった?」

 

そんな質問、聞くまでもないじゃない。私の言葉は声にはならなかった。

もっと一緒にいたかった。もっと貴方の声が聞きたかった。もっと貴方の事を知って、私の事も知って欲しかった。何もかも足りない。私には、きっと覚悟が足りなかった。

貴方が隣にいることが、いつの間にか当たり前になってしまったことも。貴方が笑いかける顔が、いつか失われることに気付かなかったのも。後悔なんて、挙げ続けてもキリがない。…それでも。

 

嬉しかった。楽しかった。大好きだった。一瞬でも一緒にいられて、本当に良かった。私が私になったことを、初めて良かったと思えた。それだけで、私は充分過ぎるほどに幸せだった。

 

「また、その気持ちを忘れそうになったら。いつでも声をかけてくれていいわ。…それと」

 

まだ泣き止まない私を置いて、彼女は自分の椅子に戻ろうとして、振り返る。

 

「さっきの疑問への答えだけど。私、友達と妹には敬語を使わないのよ」

 

私は地霊殿を後にして、帰路に着くことにした。

この道は、彼とも歩いたことがある。彼女に…さとりに、彼の自慢をしに行った時に。

 

地底の世界は狭くて暗い。だけどこうして思い出で埋まっていくのなら、それで良かったと心から思える。ここでは殆どのものが、彼と私の思い出になっている。それは確かに積み重ねた日々の証明。私の毎日を照らす光だ。

 

また忘れそうになったら…か。

私はくるりと踵を返して、舌を出す。

 

「そうやって過去を無かったことにできる人達が妬ましいわ」

 

いつもより、いくらか高い声で。跳ねるようなトーンで。私の声は、さとりまで届いただろうか。…まぁ、どちらでもいい。

 

部屋に着くと、窓際の花瓶には、見たこともない花が咲いていた。薄く光を纏う、吸い込まれてしまいそうなほど美しい花だ。

 

「…そんなに綺麗に咲ける貴方が、とっても妬ましいわ?」

 

私は花弁を少し撫でる。それに呼応するように、花は揺れる。

綺麗な言葉をかけ続けると、綺麗な花が咲く。…私の妬みだって、確かに人の長所しか言わないのだから、綺麗な言葉だったのかもしれない。

 

彼がくれたこの花は、私が妬み続ける限り、きっと枯れはしないだろう。

私の性格を見透かしたようなプレゼント。全く…。

 

「貴方の全てが、とても妬ましかった」


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