ミラと同居生活を送って数日が経ったが、迎えが来ることもなく、ボーダーにバレることもないまま、無事平穏に毎日を過ごせている。
今となっては、ミラのいない生活なんて考えられないとすら思っている。家に帰って「ただいま」と言えば「おかえりなさい」と挨拶してくれたり、共同で掃除を行ったり、夕飯を作ったり作ってくれたり、そして視聴した恋愛ドラマについてぽつりと語り合ったりと、林田はそれなりの至福を実感していた。
あくまで、それなり。
テーブル越しからミラと話してみると、やはり婚約者への未練がちらほらと聞こえてくるのだ。文句とか不満は口にするけれど、その後はだいたい「まあ、そんなところも」と受け入れてしまう。
そんな一途なミラに告白しようとしても、絶対に絶対に断られるだろう。そもそも、世界に違いという大きな壁が立ちはだかっているわけだし。
そんなことだから、考えれば考えるだけ光明が見いだせない。こうなれば断られる前提で告白すべきなのか、近界民と結ばれるにはそれくらいの大胆さが必要なのかもしれないし。
――何度目かの雪が降りしきる、一月の朝。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
朝になって学校が始まろうとも、授業中に教師から笑い話を聞かされても、やがて賑やかな昼休みが訪れても、頭の中では無表情のミラばかりが繰り返し再生される。
恋は人を夢中にさせてくれるんだなあと、林田はぼーっと思う。
それでも食欲だけはマシに動いていたのか、林田は無言のまま、学生鞄から自作の弁当を取り出した。ちなみに弁当も、交代交代で作るというルールになっている(させた)。
――青い包みを広げ、白い弁当箱が姿を表す。いよいよもって食欲が増してきて、そっと蓋を開けてみれば、
「お、うまそうな弁当ですな~」
椅子すら動くほど、林田は大きく驚く。それに連なり、女の子も――宇井真登華も、「うおおっ」と飛び上がった。
「あ……ごめん、驚かせて」
「ううんううん、私の方こそゴメンね」
そう言う宇井は、何の躊躇もなく前の空席を占領し、林田の机の上に弁当箱を置いた。赤色の蓋には、黒猫のデフォルメイラストが描かれている。
「え?」
「ん?」
「いや、食べるの? ここで」
「うん、そだけど……あ、ダメ?」
「いやとんでもない、まさかそんな」
「でしょー? じゃ、いただきましょう」
宇井も弁当箱の蓋を開けて、いただきますの一礼をする。
――まあいいや。林田も、「いただきます」と告げた。
「やあやあ、聞いてくださいよ」
「どうしたの?」
「やーね、ここ最近のボーダー活動なんですけどね……」
瞬間、宇井がにやりと親指を立てる。
それを見て約二秒後、林田の顔から笑みがこぼれ落ちた。
「え、マジ? うまくいってるカンジ?」
「そうなんですよ~」
「やったじゃん!」
「やったやった。やあね、あれから色々考えてみたわけなんですよ。慎重に考えすぎるよりは、失敗してもいいから迷わず指示出しをしてみようって」
「うんうん」
「この方針を伝えてみるとね、隊のみんなからも『それがいい』って受け入れてくれた。だから私も、自信満々に、かつ三秒以内に指示を出すようにした」
宇井が、弁当箱からミートボールを掬って食べ始める。
「するとね、みんな元気よく動いてくれたんだよね。周囲からも『恐れ知らずになったもんだ』って言われて、まあ良い結果を残せるようになったわけですよ」
「流石」
林田が嬉しそうに言う。宇井も、にひひと笑う。
「でね、隊員のみんなも動き始めたんだ」
「と、いうと?」
「少しでも宇井の指示についていけるように、師匠を募って訓練をするって」
「お、いいなそれ。こういうのは、先輩がたの力を借りるのが一番だろうし」
「ね。今はもう、モチベがバリバリになりましたわ~」
「そうか。よかった、よかった」
林田がうなずいている間に、宇井がミートボールを差し出してきて、
「こんなふうになれたのも、すべてはあなた様のおかげっ。ささ、これをお受け取りくださいませ~」
「え、えー? いいよいいよ、ふわふわとしたアドバイスしか出せなかったし」
「そうだね、ふんわりとアドバイスしてくれたよね~」
宇井はそう言って、白米の上にミートボールをちょこんと置いてしまった。
やられた。ここで食べなければ、オトコがすたるじゃないか。
「じゃあ、貸し借りはこれでチャラってことで」
「おっけ~」
苦笑いが溢れたまま、林田は宇井のミートボールをじっくり味わう。
ソースの甘さが、味覚にすうっと伝わってくる。飲み込んでみても、ミートボールの余韻がほんのすこし残り続けていた。
「……にしてもさ」
「うん?」
「すごいよね、宇井さん達って。向上心がハンパない」
「まあ、やるからにはね」
「そうなんだ。いやはや、正義感が人一倍凄いんだろうなあ」
正義感と言ってみて、林田は楠木葵と間宮圭三のことを思い出す。
本来は近界民との戦いで忙しいはずなのに、あの二人は「困ったことがあったら力になる」とまで言ってくれた。間違いなく、正義感に溢れた善人そのものだ。
だのに自分は、色恋で近界民を匿っている。その判断を覆す気がないあたり、なおのことタチが悪い。
「……正義感か~」
「え?」
「いやさ、私ってばお金を稼ぐためにボーダーに入ったんだよねぇ」
「え、そうなの?」
「そうなの」
宇井が、水筒の蓋にお茶を注ぎ始める。
クラスのひとかどで、男子グループの恋バナが始まっていた。
「私さ、仮設住宅に住んでるんだよね。家が近界民に壊されちゃったから」
「――うん」
「そこだと猫が飼えなくてね~。だから、引っ越すための資金稼ぎをしようとボーダーやってるわけですよ」
「おお、えらい」
「いえいえ。そんなわけで、私はとくべつ熱血ってワケでもないフツーの女子学生ですよ」
あえて本当の理由を口にするあたり、宇井という女の子は本当に真面目なんだなと思う。
宇井は卑下するように告げたのだろうが、宇井に対する評価はすこしも揺るがない。
「そうかな。俺はべつに、それでもいいと思う」
「およ?」
林田が、ブロッコリーを口に頬張る。まだこの味には慣れない。
「猫は可愛くて癒されるからね、一緒に暮らしたいって思うのは当然」
「まあ、ね」
「それをモチベーションにして、ボーダーの一員として戦う。それは立派な生き方だよ」
自分だってモテたいが為に生徒会をやっているが、やるべきことをやっている自覚はある。
極めて私的な動機があるからこそ、今日に至るまで生徒会員を務められたのだと思う。
「それに宇井さんは、真面目にボーダーやってるよ。この前の相談で、宇井さんの気持ちの強さはしっかり伝わった」
林田は、宇井の目をしっかりと見据えて、
「ありがとう。いつも、この町を守ってくれて」
男子グループの恋バナがいよいよもってヒートアップする。お前に気があるんじゃないのかと囃し立てる者が現れた。
そして宇井は、目と口を丸くして、箸の動きを止めたまま、じいっと林田のことを見つめている。
――あれ。何か、間違ったことでも言ってしまったかな。
なんだか気まずくなって、水筒に入っていたお茶を意味なく飲み始めてしまう。宇井は何度かまばたいたあとで、口元がそっと緩んでいって、
「ありがとう。ボーダーが一番聞きたい言葉を、言ってくれて」
にこりと、宇井は微笑む。
そんな宇井を見ることができて、心の底から安堵する。
宇井とは一種のつながりがあるからこそ、こうして明るくなってくれた事がとても嬉しく思う。
――俺も、誰かを喜ばせる力があるんだ。だとすれば、きっとあの人も、
「ねえねえ」
「なに?」
空想から引き戻される。
「もしまたへこんじゃったりしたら、励ましてくださいっ。奢りますからっ」
「ああ、もちろん」
「おおっ即答っ! いやあ、やっぱり君はいい男だわ~」
「何をおっしゃる。俺はまだ、いい男なんかじゃないよ」
「どして?」
「どしてって……まだ、彼女もいないし……」
「そなの? いい男なのにフシギだね」
「遊んでるだろうっ」
「どうだかね~」
クラスのひとかどから聞こえてくる恋バナが、いよいよ最高潮を迎える。出席番号二十三番の遠山茂が、放課後に必ず告白するぜえと燃え上がっていた。
頑張れ。恋を羨む者として、心から応援している。
それからは他愛の無い雑談を交わしながら、昼ご飯を完食する。互いに弁当箱をしまい、力なく背伸びをした。
「林田君は、これからどーするの?」
「んー、読書でもしてるよ」
「読書? どんな?」
「あー、恋愛小説」
そう口にした途端、宇井が「ほう!」と声を上げる。流されるかと思いきや、まさか関心を持たれるとは。
「へえ~、いいねえ! 恋愛小説、小説か……活字はあまり読まないんだけど、読んでみようかなあ」
「んー、漫画は読む? そっちにも名作は沢山あるよ」
「ほんとに」
「ほんとに。教えてあげようか」
「おおきに!」
宇井が両手を合わせ、おどけるように笑う。そんな宇井を見て、林田もなんだかおかしい気持ちになってしまった。
授業開始のチャイムが鳴る。恋愛小説を鞄にしまい、数学の教科書を机の上に置く。
クラスに戻ってきた体育会系のグループが、「数学かぁ」とこぼす。既にあくびを漏らしている者さえもいた。
ふと宇井の席を覗いてみれば、たまたま宇井と目が合う。宇井は、手のひらをゆさゆさと左右に揺らすのだった。
□
生徒会の仕事を終え、少しばかり遅くなって家に戻る。いつものように「ただいま」と呟いて――反応がない。
リビングから音がする。聞き覚えのあるBGMとセリフが耳に届いてきた。推測するに、ファンタジー恋愛映画「一途」を試聴しているのだろうか。
今までは一時停止をしてまで迎えに来てくれたのに、今日はどうしたんだろう。
もしかして、ミラがいなくなってしまった?
林田は最悪の事態を想定してしまいながら、早足でリビングに駆け付け、
ミラが、じっくりと映画を見届けていた。
心の奥底まで安心しきって、でかい息まで漏れる。林田の存在に気付いたミラが、視線を向けて、
「ごめんなさい。つい、夢中になってしまって」
「いや、いいよいいよ。気持ちはすごい分かるから」
「そう。ありがとう」
ミラは礼を言って、ふたたびテレビへ釘付けとなる。
林田はおそるおそるミラへ近づいていって、そして勇気を振り絞ってミラの隣に腰かける。ミラは特に気にすることもなく、映画の行く末を見つめていた。
――「一途」とは、神に選ばれた勇者と聖女がファンタジー世界を救っていくファンタジーロマンス映画だ。アクションや雰囲気、適度にクサいセリフ回しが高く評価され、賞まで得たという経歴を持つ。
これだけ聞くと、さぞ真っ当な恋愛映画と思えるだろう。
「あ――」
ミラが声を漏らす。
林田が、それを聞き逃すはずがなかった。
――テレビの向こう側で、この世の悪が勇者を殺したのだ。
すべての苦しみや悲しみを受け入れ、ひたすらに他者へ慈悲を分け与えていた聖女が、勇者の剣を持ち、ただ一度の殺戮のための聖女の力を振りまいた。
愛から生じた真っすぐな憎悪に、漂うだけの悪意などかなうはずもない。
魔王の首はあっさりと斬られ、聖女の力により青く焼かれる。そして聖女は、死人のような足取りで勇者の亡骸へと歩みより、子供のように泣きじゃくりながら勇者を抱きしめる。聖女とはいえ、人を蘇らせる力はない。
そして聖女は、どこか遠い場所へ旅立っていく。憎悪に堕ちた自分に、人と触れ合う資格などないと思ったのか。勇者のいない世界なんて、生きていても仕方がないと想ったのか。
こうして世界に光が戻り、民衆が聖女と勇者の帰還を待ちわびて、物語は幕を閉じる。
――ほんとう、何度見てもやりきれない。けれど、究極的に愛を賛美した作品だと思う。
ミラはどんな感情を抱いたのだろう。スタッフロールが流れている間、林田はミラの横顔をそっと覗き見して、
ミラは、泣いていた。
声、なんてかけられなかった。だって映画は、まだ終わっていないから。
そっと、視線をスタッフロールへ戻す。
ミラはきっと、感情移入をしてしまえたのだろう。
気持ちはよくわかる、わかってしまう。
もしかしたら、もしかしたら、これがミラの結末になってしまうのかもしれないから。
スタッフロールが終わり、チャプター選択画面が表示される。林田もミラもしばらくは黙ったまま、それから何秒か何分から過ぎていって、
「――私は、ああならない」
ぽつりと、そんな言葉が耳に届く。
あまりに一途な言葉を前に、林田はミラに対する感嘆と、焦燥感を覚えていた。
「……さ、夕飯を作りましょう。今日は……あなたが当番ね」
「はいよ。じゃあ今日もパンケーキ作るよ、いつもより増やす」
「気を遣わなくてもいいのに」
「いいからいいから。ミラはべつのやつでも見ててよ」
「わかったわ」
言われた通り、ミラはテーブルの上からDVDを漁り始める。文字は読めないので、半ばジャケ絵の雰囲気でセレクトしているようだ。
ハマってくれているのは嬉しい。けれど、かえって恋に対する炎を燃え上がらせてしまっているような気がしてならない。
林田が夕飯を作っている間、ミラはDVDを再生し始める。見たところ、ミラは「恋の大喧嘩」を選んだようだ。ジャンルはドタバタラブコメディ、これは良い清涼剤となるだろう。
テレビの中のヒロインが天然ボケをかますが、ミラは口元は緩みもしない。けれどミラの瞳は、ずっとヒロインの行く末を見届けていた。
――
それからというもの、ミラは順調に恋愛作品の世界へとのめりこんでいた。
家事を一通り済ませた後は、例外なくDVDをプレーヤーへ挿入し、ソファに腰かけ慣れた手つきでリモコンを動かし視聴開始。この世界の文化にも、ずいぶんと馴染んだものである。
表情がぴくりとも動かないのは相変わらずだが、見終えた後は必ず「反応」を露わにする。コメディを見れば「おもしろかった」と言い、感動モノを見終えれば深くため息をつかせ、失恋を見届けたあとは無言のままでいるか、そっと涙を流す。
ミラの立場からすれば、失恋とは身近なものであると実感しているのだろう。だから失恋に対して拒絶を示すし、共感も抱いてしまう。
ほんとうに、婚約者に焦がれているんだな。
自分も、その中に混ざりたい。
――今日はミラが夕飯の当番だ。ここ最近はレパートリーを増やす事に躍起となっていて、カレーから餃子、パスタまで軽々と作ってしまう。
これらの料理も、元の世界で振る舞うつもりなのだろう。
けれど三門市は、今日も平穏を保ち続けている。近界民の気配は、まったく感じられない。
「……ねえ」
「なに」
テレビが点いていないからか、リビングはとても静かだ。
「本当に、彼らは来るのかな。もう数日が経つけれど」
「これくらいは想定内よ。世界を渡るには、それなりの準備が必要だから」
「そうか……」
確かにそうだ。隣町に行くだけでも大変だというのに、他の世界へ出かけるとなればめちゃくちゃめちゃくちゃ大変だろう。
この世界とミラの世界とは、いったいどれだけの距離があるのだろう。少なくとも、別れれば二度と会えないくらいには遠いはずだ。
ちらりと、ミラのことを見る。
自分とミラを隔てているのは、パスタと味噌汁が置いてあるテーブル一つだけ。何かを言えば反応してくれるし、手を伸ばせば触れることだってできる。
それほどまでに近いはずなのに、ミラの存在が偶像のように思える。
歩み寄りたかった。
「もし、もしもだけど」
「ええ」
「……ここで暮らす、っていう選択はあるかい?」
「ないわ」
即答だった。
「私が生まれた世界は向こうであって、ここじゃない。この世界には、あなたの好意で一時的に居候させてもらっているに過ぎない」
「……そう、かもしれないけど」
「あなたとは、本来は敵同士でしかないわ」
三門市の住民として、否定はできなかった。
けれど、林田としては納得したくはなくて、
「そうは、思いたくはないな」
「なに、友好関係でも築きたいの?」
林田は、こくりとうなずいた。
嘘はついていない、嘘は。
「あなたには感謝しているわ。住まいを与えてくれた上に、文化まで教えてくれたから」
ミラは、味噌汁を静かにすする。
「けれど、私とは契約を結んだ仲でしかない。これ以上肩入れするのは、互いのためにはならないわ」
無表情のまま、よどみなく言い切った。
そんなミラを前に、林田は何も言えなくなる。
――理性が言う。ミラとは結ばれない、相容れない。
けれどもミラへの情熱は、これっぽっちも消え失せないのだ。誰よりも静かなミラの性格が、赤い髪と目をしたミラの容姿が、ずっと婚約者を信じ続けるミラの信念が、林田の恋心を今もなおくすぐり続けている。
――先に林田が、夕飯を食べ終える。食器を運ぼうとした時、「私が洗うから」と念押しされた。ミラは生真面目だからか、当番としての務めを全うする傾向にある。
時刻は午後八時。今日も、三門市は揺れない。
「ミラさん」
「なに」
林田は、あえて余計なことを口にする。
「二人の婚約者に、会いたいかい?」
「ええ」
即答だった。
ミラと過ごして数日が経つが。自分は何者にもなれていない。
――
一月も半ばを過ぎたが、三門市は今日も雪に降られていた。
一度目は新鮮だなあと思うが、数回もすれば正直うんざりしてしまうものである。せめて、雪の中でデートでも出来れば話は別なのだが。
そんなことをぼんやりと思いながら学校を過ごし、宇井と昼飯を共にして、無事何事もなく放課後を迎えた。
林田は、うんと背筋を伸ばす。
今日は街に行って、新作DVDを買うつもりでいる。タイトルは「センパイコウハイ」、歳の差ラブコメディ映画だ。
映画館で見た時は始終笑えたものだが、周囲の客はもちろんカップルばかりであった。今となってはいい思い出である。
さて、行くか。
林田は学生鞄を片手に、そっと席から立ち上がり、
「あ、林田君」
横から宇井がとことこ近づいてきた。
林田は「どしたの?」と応じる。
「いま、ヒマ?」
「え? まあヒマっちゃあヒマかな。これから映画のDVDを買いにいくつもり」
「おーそうなん。んじゃー付き合ってもいいかな?」
「えっ?」
「えっ」
林田から予想外の反応を示されたからか、宇井は「はて」と首をかしげる。
「あ、あー、ジャマしちゃったかな?」
「いやいやいやとんでもない。むしろ俺なんかについてきていいの? ボーダーは?」
「今日はお休みなのだ」
「そうなんすか」
「そうなんすよ」
宇井が、嬉しそうな顔をする。
そんな宇井を見て、林田もなんだか笑ってしまった。
「まあ俺はいいけどさ、本当に買い物に行くだけだよ? 面白いことなんて無いって」
「話ぐらいはできるっしょ」
「まあーねえー」
ここ最近は、宇井と話す機会が増えたと思う。
宇井はよく笑うし、悪ぶったことを口にしないから、かなり気軽な気持ちで会話ができる。「あの人」とは違って、緊張なんて抱かない。
いつの間か、宇井の存在は癒しとなっていた。
「わかった。じゃ、町まで行こうか」
「おっけ~」
□
雪が降る道中にて、林田と宇井はあれやこれやと世間話に花を咲かせていた。隊についての大まかな近況とか、生徒会の苦労話とか、学校にまつわる怪しげな噂とか、とにかく話が途切れない。笑みも耐えない。
そうしている内に街一番の本屋が目に入って、ふと宇井が「あ」と声を漏らす。
「そうそう、君が勧めてくれた漫画だけどさ、超面白かったよ~」
「お、読んだんだ。な、面白いよなあ」
「うん。いや、恋愛漫画甘く見てました、甘かったですが」
「ねー、根本先生が描く恋愛漫画は本当にじれったくて、そこがよくて……」
「ねー! ほんっと、早くしろよ~って何度突っ込んだことやら」
「根本先生はねー、そこんところひでーからなあ」
「ほんとひどい人だよね。新作が出たら絶対買うわ」
「それなんだけど、来月に新作出すよ」
「ほんとに!」
宇井が喜色満面の笑みを浮かべる。すっかり恋愛漫画の虜となってくれたらしい。
仲間が増えてくれて、林田もご満悦だった。
「といっても、来月までちょっと時間はあるしな……ほかのオススメ、教えてあげようか?」
宇井は、親指をグッと立たせ、
「助かる」
「どこでも手に入る名作といえば……『サークルワールド』に『フェスティバル』、あとは『海に消える』かな」
「おっ最後のタイトルが気になりますな」
「おお、宇井さん。いいカンしてるねえ」
「えーどゆこと? キツいやつ?」
「さあ……」
「クッ、ガードが硬いや。でもありがとねー、参考になるわ~」
ちなみに失恋モノである。ネタバラシをしないよう、林田はなんてことのない顔を維持し続けた。
そう話していると、いつの間にやらDVDショップの前にまで着いていた。楽しい時間とは過ぎていくのが早い。
林田は、そのままDVDショップの自動ドアをくぐっていく。宇井も、何も言わずに林田のあとを追う。
□
新作DVDを買えたことで、林田はホクホク顔になっていた。家に帰ったら、あの人と一緒に見ようと思う。
そんな林田に、宇井は「よかったね~」と微笑む。まったくだと林田はうなずく。
そうして店から出て、宇井はふっと空を見上げて、
「おお、もう暗いや」
「ほんとだ。じゃあ家まで送ってくよ」
「え――いやいやいいよ別に、一人でも大丈夫」
「ここまで付き合ってもらったし、何より女の子が一人で夜を歩くのは危ないよ。だから送っていく、俺のことは気にしなくていい」
本心からの言葉だった。
生徒会員として、クラスメートの危機は見過ごせない。三門市に潜む危険とは、何も近界民だけではないのだ。
何より宇井にもしものことがあったら、自分は死ぬほど後悔してしまうだろう。余計なお世話と言われようとも、今日のところは送り届けるつもりでいる。
そして宇井は、そんな林田のことをじっと見つめていた。
微動だにしない宇井の反応に、林田は心の中で戸惑う。
何か間違ったことを言ってしまったか、それとも踏み込み過ぎたか。
「――わかった」
何てことなく、宇井から笑みが戻った。
「じゃ、お言葉に甘えさせていただきましょう」
「ああ」
そうして、林田と宇井は帰路についていく。すっかり暗くなってしまったが、三門市はまだまだ賑やかである。
林田と宇井も、まとまりのない雑談を好き好きに広げていく。途中で猫談議に入ったが、そのときの宇井はころころと表情を変えてくれて、ほんとうに楽しそうだった。
そして気づいてみれば、街はずれにある仮設住宅地に着いていた。楽しい時間というものは、早く過ぎ去ってしまうものだ。
「じゃ、私ん家はここなので」
宇井が、コンテナのような家を親指で差す。立てかけられた表札には「宇井」の文字があった。中に家族がいるのか、窓から黄色い照明が漏れている。
思うと、仮設住宅地まで足を踏み入れたのは初めてのことだ。街灯が少ないせいで、あたりがより一層と薄暗い。人気がないからか、どこか寒々しい。
ここまで追いやられたのも、すべては近界民が原因だ。
そして自分は、そんな近界民のことを私情で匿っている。何だか気まずくなってしまって、なんと言えばいいのか、
「今日はありがとう、楽しかったよ」
宇井の言葉で、現実に引き戻される。
「あ、ああ。俺も楽しかった、うん」
そして宇井は、ドアノブに手をかけて、
「またね、林田君」
ドアが、ぱたりと閉められる。「ただいまー」の一声が、薄く聞こえてきた。
――いつか、猫と一緒に暮らせますように。
林田は、仮設住宅地を後にしていった。
□
「ただいまー」
挨拶をしてみたが、反応はない。これだけで林田の全身から緊張感が溢れ出てきそうになるが、家の奥からシャワーの流れる音が聞こえてきて、瞬く間に力が抜けていく。
風呂か。
そして当然、林田恋太郎十六歳はあらぬ妄想を抱きはじめ――強く、頭を左右に振るう。
煩悩に抗うため、林田は早歩きでリビングへ入り込み、DVDが入った買い物袋をテーブルの上に置いては夕飯を作り始める。今日のメニューは炒飯と麻婆豆腐と味噌汁、あとパンケーキ。
しばらく調理に没頭してみれば、先ほどのピンクな思考なんて消え失せていた。やっぱり手を動かすのは大事だなあと思っていれば、
「あら、おかえりなさい」
ミラが、リビングに入ってきた。
艶やかな髪と、シャンプーの匂いを連れてきながら。
「新作、買ってきたよ」
「あら、そう」
ふたたび邪な妄想が湧いて出てくる。バレないよう、必死に歯を食いしばった。
調理をしながら、ソファに座るミラをちらりと覗き見する。今日は白いセーターとジーンズでまとめているようだ。ミラは可愛らしさよりも動きやすさを重視している傾向にあるが、これはたぶん、「いざというとき」に備えているからだろう。
ほんとう、ミラはプロ意識が備わっていると思う。もちろん、そんなミラのことも好きなのだが。
――数分後。林田はテーブルの上に夕飯を置く、ミラは「おいしそうね」とコメントする。こうした流れも、今となっては慣れてしまったものだ。
互いに「いただきます」と一礼したあと、林田がケースからDVDを取り出し、プレーヤーに挿入させる。ミラは淡々と夕飯を口にしているものの、視線は既にテレビへとくぎ付けにされていた。
そんなミラの横顔を見るのが、好きだった。
それからは、二人でラブコメディ映画「センパイコウハイ」を試聴していた。
歳の差がそうさせるのか、礼儀作法が空回りしたり、頼れる男アピールをしようと大失敗してしまったり、手と手を繋ごうとしてヒロインが悪戦苦闘を強いられたりと、とにかく嬉し恥ずかしいシーンが多い。林田も、たまらず噴き出してしまうことが多かった。
夕飯を完食し終えても、林田とミラはその場から動かない。開始一時間半後にようやく手と手が紡がれ、デートコースである美術館にてヒロインの解説がほとばしり、先輩がそれを「すげえすげえ」と囃し立て、気づけばもう夕暮れ。先輩後輩が帰路についていって、後輩の家の前で沈黙が続いて――ようやく、キスを交わしあったのでした。
林田はすっかりご満悦だが、ミラはやっぱり真顔だ。けれども林田は知っている、いまごろミラは映画の世界に浸っている事実に。
――スタッフロールが流れる。ミラが、己の手のひらをじいっと眺めはじめて、
「……手くらい、つないでみようかしら」
その一言に、林田の脈が大爆発を起こした。
ミラと手を繋ぐビジョンが、否応なく再生されてしまった。
だから、ミラがこちらを見ていたことに、数秒ほど遅れて気づく。
「なに?」
「あ、いや、その……いいんじゃないかな、うん」
「そう」
そう言って、ミラは「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
――わかっている。ミラが、誰と手を繋ぎたいかなんて。
けれども、どうしても、聞いてみたかった。
「ね、ねえ」
「なに」
「……誰と、手を?」
「あの二人と」
悪あがきの質問に対して、ミラは躊躇なく答えてくれた。
林田は心にもなく「だよね」と言い、食器の乗ったトレーをキッチンへ運んでいく。
――
一月もそろそろ終わりが近づいた頃、ミラとの共同生活は何事もなく続いている。
顔を合わせれば「おはよう」と言い合い、交代で朝食を作り、朝のニュースでも眺めながら食事を共にしていく。やっぱりミラは一つも表情を変えないけれど、これがクールビューティーという奴なんだなあと林田は受け入れている。
二人きりで日常を送るなんて、傍から見れば恋人そのものだ。
けれど実際は、ミラは婚約者のことしか見ていない。
たくさんの恋愛作品を試聴してからというもの、婚約者への想いは日に日に増しているように思える。この前なんて、手を繋いでみたいと口にしていたのだし。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
――考え事ばかりしていたら、あっという間に校門の前まで到着してしまった。
ふと空を見てみるが、そこには青白い空が広がるばかり。最後に近界民が侵略してきたのは、いったいいつ頃だったっけ。
まるで遠い昔のように思えるが、いつか迎えは来るのだろう。それまでに自分は、ミラの大切になれるのか。
何をどうすればいいのか、まるで分からなかった。ボーダーに落ちた自分が、婚約者以上の男に成り上がれるものか。
教室に入る、席につく。
諦めることこそ、正しい選択なのかもしれない。ミラとは本来敵同士であり、そもそも住む世界が違うのだから。
そうだろうけれど、それでも、ミラの心を自分のものにした、
「おはよー」
耳元で声をかけられ、椅子が動くほど驚いた。
現実世界を見渡してみれば、若干体勢をのけぞらせている宇井の姿があった。
「あ、ありゃ。考え事してたかな? ゴメン」
「い、いや、いいよ。おはよう、宇井さん」
なんとか笑う。宇井も、たははと力なく苦笑い。
「いま、話しかけてもいい?」
「いいよ」
「うし。あのさ、『海に消える』読んでみたよ」
「あ、マジで? どうだった?」
宇井は、物悲しそうにうつむいて、
「……いい失恋でした……」
「そうか……」
「つかれました……」
「そうだよねえ……」
そして宇井は、ゆっくりと顔を持ち直し、
「でも、恋っていいなあって思った次第であります」
「だよな」
林田も宇井も、おかしそうに顔を明るくした。
「やーホント、恋愛モノもいいよね。今まではネコ漫画を読んで癒されてたんだけど、こういうのもいい、いいですわ」
「でしょ?」
「うん。調べてみれば数多くの名作があるみたいだし、これからは忙しい日々が続くかも」
「漫画は逃げないから、ごゆっくりと味わっていただければ」
「そーする。いやー、林田君には感謝してもしきれませんわ」
「俺はただ教えただけだよ」
「先導してくれるのは重要な事ですよ、君ぃ」
オペレーターの宇井が言うからか、その言葉の説得力がとても重く感じる。
――その時、教室の引き戸が音を立てて開かれた。の前に恋バナで盛り上がった遠山茂と、出席番号十二番の石沢朱美が、手を繋ぎながらで入室してきたのだ。
どうやら告白は成功したらしい。恋に恋する男として、心から祝福した。
「おお、遠山クンやったんだねえ」
「そうだなあ」
まるで他人事のように言う。手前勝手な恋に振り回されている身分のくせに。
「ねー林田君」
「何?」
「林田君は、どういう恋がしたい?」
「え? そうだなあ、俺は、」
間、
「えっ、えっ? 俺っ? えっ?」
「うん、君」
「いや、俺は……その……」
「あ、もしかしてトップシークレットだったかな? ごめんごめん」
宇井が両手を合わせてきて、林田はすぐに「違う違う」と首を振るう。
実際のところは、トップシークレットそのものの初恋を抱いてしまったわけだけれども。
「あー……そだなあ。俺のことを好きでいてくれるのなら、どんな恋でもいいかな」
嘘は言っていない。あの人と出会うまでは、「モテたい」と常に意識していたから。
今となっては、あの人のことばかりを考えるようになった。何をどうすれば受け入れられるのか、どうやれば婚約者という壁を乗り越えられるのかがさっぱりわからないけれど。
「ふーん……」
そして宇井は、そんな林田の答えを聞いて神妙そうにうなずいていた。感情が読めない顔。
「そっかー」
それから、宇井は、
「そっかー……」
もう一度、そう言った。
そして、チャイムが鳴り始める。教室がざわつき始めた。
「あ、そろそろ授業か。じゃあ昼休み、また趣味語りしよーねー」
「ああ……え? 予定早くない?」
「あら、ダメだったかしら」
「いや、いや、そういうわけじゃないよ」
宇井は、にっこり顔になって、
「おし、決まり。じゃあまたね~」
宇井は手をひらひらさせながら、席へ戻っていった。
一区切りついて、椅子の背もたれに身を預ける。
ここ最近は、宇井と話すことが多くなった。発した言葉なら、あの人よりもはるかに多いんじゃないだろうか。
まあ、あの人はあまり喋るタイプじゃない。自分の付き合い方がヘタクソだから口数が少ないとか、そんなことはないはずだ。たぶん。
――婚約者の前では、よく語るかもしれないのに。
邪念を払うように、首を払う。引き戸が開けられ、教師が挨拶とともに教室へ入ってくる。
□
放課後。自宅に戻って「ただいま」と言えばミラが出迎えてきて、真顔で「おかえりなさい」と告げた。今日も、ミラと一緒に過ごせるようだ。
流れでリビングに入ってみれば、テーブルの上には「笑いたい」というDVDと、手鏡が置いてある。テレビは点いていない。
何をしていたのかを聞くと、ミラは手鏡を持って、
「笑顔の練習をしていたの」
ドラマのようなセリフを聞かされて、林田は大いに動揺した。
「え……なんで?」
「笑顔がうまくなりたいから」
ソファに腰かけたミラが、手鏡に注目しては笑顔をつくりはじめる。もちろん林田は恥じらいと興奮を覚えてしまったわけだが、なんでいきなり笑顔なんて――DVDが目に入る。あれは、無表情系ヒロインが笑顔を生み出そうと躍起になる恋愛ドラマだ。
そしてミラは、意外に影響されやすいタイプでもある。
合点がいったが、それで林田が冷静になれるのかといわれればまるでそうでもなく。
「……うまくいかないわね、ぎこちない」
「そ、そう? すごくいい笑顔だと思うけど」
「無理やりすぎるわ、こんなの」
「そ、そう」
うまく笑えているように見えるが、ミラはぜんぜん納得がいっていないようだ。生真面目だなあと思う。
それにしても。
そのぎこちない笑顔の先にいるのは、きっとあの「二人」なのだろう。林田恋太郎という敵なんざ、お呼びじゃない。
羨ましかった、とても羨ましかった。めちゃくちゃ羨ましかった。
顔をぬぐう。今の自分は、きっとひどい顔をしている。
「――これじゃだめね。怖がられちゃう」
その言葉が耳に届いた瞬間、林田の口が勝手に動いていた。
「それって、婚約者のことかい?」
「ええ」
即答。
「やっぱり、元の世界に帰るつもりなんだね」
「ええ」
「……それなんだけどさ」
「なに」
林田はすがるように、言った。
「俺も、君の世界に連れて行ってくれないかな?」
予想外の言葉だったのだろう。めずらしくミラが、過敏な動きで自分のほうを見た。
「どうして」
「そ、それは…………ミラさんと、もっと話がしたいから。せっかく、交流が持てたのだし」
本当のことは言った。
本音はまるで言えていない。
そしてミラは、そんな林田に対してあきれたため息をついた。
「だめね」
「どうして」
「こっちの世界の住民は、例外なく『ひどい目』に遭うからよ」
林田の意識と、背筋が強張る。
――ミラは、無表情を貫きながら、
「あなたも例外じゃない。私と交流なんて許されず、ひたすら傷つけられる毎日を送り続けるだけ」
「あなたと私はあくまで敵同士、決して相容れない存在なのよ」
嘘なんて、まったく感じられない声。
「もちろん、契約は守る」
ミラは、林田を目で射抜いたまま、
「私のことは忘れて、あなたはこの世界で生きなさい」
ミラには、黒い角が生えていた。
自分には、そんなものなどない。
それが、答えだった。
林田は返事もしないまま、部屋に戻る。制服のままベッドに寝転がって、ひたすらにミラのことばかりを考え始めた。
この初恋は、間違いでしかなかったんだろうか。
たぶん、そうなのかもしれない。
でも、ひとたびミラのことを思うと、いつだって体が熱くなってしまうのだ。
――結ばれたかった。
それから数十分後。笑顔をつくりながら「バカなことを言ってごめんね」と言ったが、ミラは「別にいいわ」と返し、夕飯を作ってくれた。