目覚まし時計が鳴る五分前に目を開け、アラームのスイッチを切っては慣れた手つきで制服に着替える。
時刻は6時半。カーテンを開けてみれば、2月の薄い青空が恋太郎の目をくらませた。
さて。
部屋のドアを開け、廊下に出る。一階から人の気配、フライパンの焼ける音が聞こえてくる。
恋太郎は無表情のままで階段を下りていく。「もしかしたら」の希望を胸に添えながら。
「あら、おはよう。恋太郎」
「おお、今日も早いなぁ」
父と母が、今日も恋太郎のことを出迎えてくれた。
――2月に入って数日後。仕事を終えたらしい父と母が「戻ってくるわね」「お土産持ってくるからなあ」とメッセージをよこして、二人そろって家に戻ってきたのだ。
晴れて顔を合わせると同時に「近界民に襲われなかったか」とすごく心配されたが、恋太郎は「大丈夫だった」と告げた。嘘はついていない。
そういうわけで、これからの朝食は父と母が用意してくれることになった。
日常が、戻ってきたのだ。
□
あの人と別れて以来、恋太郎は生徒会活動と勉強に没頭していた。
三門市への罪滅ぼしがしたかったから、というのも間違いではない。けれども実際は、それしかなかった、というのが正しい。
生徒会お悩みボックスに何かしらの投稿があった際には、恋太郎はすぐに動いた。時間があれば勉強に没頭していたし、三門市が近界民に襲われれば真っ先に救出活動に勤しんだ。
その結果として教師からの評判が上がったり、宇井真登華から「でかした」と褒められたり、時には新聞に取り上げられたりもしたが、内心では裏切り者としての申し訳なさと、あの人がいない空しさが拭い切れないままだ。
――だからか、時おり窓から空を眺めていることがある。近界民の再来を待っているのか、もしかしたらあの人が降ってくるのを期待しているのか、自分でもよくわからない。
そんな日々を過ごしている恋太郎だが、趣味はまるで変わってはいない。相変わらず恋愛ドラマは見るし、小説だって読む。
ただ最近は、それらを見て笑ったり泣いたりはしていない。
恋という夢物語から、醒めてしまったせいなのかも。
それでも何だかんだでやめられないあたり、自分は恋が羨ましくてしょうがないんだなあと思う。
――2月に入って数日後。根本先生が描く新作の恋愛漫画が発売されたということで、恋太郎はふらりと休日の街並みへ立ち寄った。
時刻は十一時頃。今日は天候に恵まれているからか、ずいぶんと暖かい。道端に落ちている雪も溶けかかっている。
長い交差点を通り抜けてみれば、待ち合わせスポットである猫の像が目に入る。像の足元には、カップルらしき二人の男女が談笑しあっていた。
いいもんだね。
心の中でぼやきながら、恋太郎はビル街の合間に溶け込んでいく。色とりどりの広告と人の声を潜り抜け、バーガークイーン三門市本店を横切って、ようやく三階建ての本屋が見えてきた。
漫画は残っているだろうか、売り切れていたらそれはそれで。
そんなふうに思いながら、恋太郎は店の中に入っていく。
白い壁がよく目立つ、広々しい店内が恋太郎を出迎える。見慣れた光景を前に、恋太郎は静かに息をついた。
新作が置いてある中央フロアにまで歩んでみれば、台の上には漫画がびっしり並べられている。表紙には、涙を流している女の子がひとり。傍にある立て看板には、派手過ぎないフォントで「根本先生、待望の新作」と書かれていた。
どうやら、余裕で間に合ったらしい。
それにしても、表紙からずいぶんと攻めてるなあと思う。またビターな内容でも描いてくれたのだろうか。
――いまの自分に、ぴったりじゃないか。
なんだか苦笑いをこぼしながら、恋太郎は本を取ろうと手を伸ばし、
指と指が触れた。
誰だろう――そう思って、顔を上げてみれば、
「あ」
「あ」
同時に声が出たと思う。
あまりに見知った顔だったからこそ、恋太郎は次に何をすべきかまるでわからない。
「おお~、偶然だねえ。恋太郎も、これを買いに?」
宇井真登華が、顔をにこりとさせながら聞いてくる。
質問されて、ようやく意識が走り出す。
「そ、そうそう、買いに来たんだよね。そっか、真登華もか」
「そーそーそうなんですよ~」
そう言って、真登華が本を手にとる。
「いやはや、楽しみだったんだよねえ。表紙からして、何かビターな雰囲気がするけど」
「だなあ……先生が描いているしなあ……」
ちなみに根本先生は、五本ほど恋愛漫画を描いている。そのうち五本が、報われない結末を辿るわけだが。
表紙を見るに、今回もビターエンドは確定らしい。根本先生のファンなら、「知ってた」と答えるだろう。
「ま、読んで結末を見届けましょうか」
「そだね」
恋太郎も本を手に取り、二人して会計に向かう。こうして今日のミッションは、難なくクリアしたわけで、
「――ところで恋太郎」
店の外に出ると同時に、真登華から声をかけられる。
「今日はさ、何か予定ある?」
「え? どういう?」
「その~……恋太郎に、聞きたいことがあって」
なんだろう、何かしでかしたのか。それとも、あの人を匿ったことがバレたのか。
そう思うと、身も心も強張り始める。
オペレーターである真登華の動向に、不安が生じた。
「恋太郎さ、何かあった?」
「う――」
声が漏れてしまう。
真登華は、「うん」とうなずいて、
「最近の恋太郎はさ、何かこう、遠く見えるんだよね」
「……え?」
「私と話している時、どこかぼんやりしてる。なんていうのかな、眠そう……っていうのかな?」
やっぱり、顔に出てしまっていたのか。
真登華に失礼な態度をとったようで、つい目を逸らしてしまう。
「あと、窓の外をよく見るようになったよね」
見られていたのか。
堂々と上の空になっていたわけだし、バレても仕方がないのだけれど。
「そんな君のことがさ、とても気になってた」
真登華が、不安そうに眉をひそめる。
そんな真登華を見て、胸の内から罪悪感がじわりと溢れてくる。一瞬でも疑ったことを、心より恥じる。
こんないいひとを、これ以上不安になどさせてはいけない。自分だけが抱えるべき罪に、巻き込んではいけない。
「い、いやあ、ちょっと失敗しただけ。それだけだよ」
からっと笑ってみせる。嘘はついていない。
「そういうことだから、真登華が心配する必要なんてないよ。うん」
白々しく腕時計を見て、
「気にかけてくれてありがとう。じゃあ、その、また学校で」
そう言って、恋太郎は真登華に背を向け、
「待って」
手を、掴まれていた。
「――え?」
真登華の顔は、どこまでも真剣だった。
「私でよかったら、話ぐらい聞くよ」
「……どうして、そこまで」
「放っておけないから」
無表情のまま、真登華はそう言った。
その顔は、まるであの人のようで――あの人と違って、真登華は自分の手をとってくれた。
この誠実さを、振り解けるはずがない。
「遠慮することないよ」
「……いいの?」
うなずく。
「君には、こうしてお世話にさせてもらったしね」
ああ――
そういえばそんなことも、あったっけ。
不思議な廻り回りに、なんだか笑みがこぼれてしまう。
真登華も、にっと笑って、
「ここじゃ話しづらいだろうし、バーガークイーンで話さない? 奢るからさ」
まいった。
そう言われたら、頷くことしかできないじゃないか。
気まずそうに、けれども救われた気がして、口元がつい曲がってしまう。
それを見た真登華は、いつもの顔で微笑んでくれていた。
□
バーガークイーンで注文の品を受け取り、恋太郎と真登華は二人そろって二階の飲食コーナーまで移動する。
無言のまま向かい合わせで席に座り、真登華が「どうぞ」と手で促す。
ここまで来たからには、話さなければならない。そうしなければ、きっとロクに前も進めないだろうから。
「……俺さ、フラれたんだよね」
「え?」
なんとか笑えたと思う。
――前から好きな人がいたんだ。綺麗で、聡くて、とても恋に一途な人だった。
……その人にはね、素敵な婚約者がいたんだ。でもね、その人のことが本当に本当に好きだったんだよ。
でも結局、婚約者には勝てなかった。その人は、婚約者とともに遠い場所へ旅立っていったよ。
でもね、その人は最後にこう言ってくれたんだ。幸せになりなさいって。
……優しいよね。恋のジャマばかりした俺に対して、そんなことを言ってくれるなんて。
とまあ、そんなことがあって、すごくへこんでた。それだけの話なんだ。
嘘は言っていない。
ただ、核心を話すわけにはいかなかった。真実を知ってしまえば、ボーダーの一員として余計な負担をかけてしまうだろうから。
三門市を裏切った罪は、自分だけ背負えばいい。そんな奴がフラレ虫になるだなんて、実にお似合いの結末じゃないか。
そんな恋太郎を前にして、真登華は真剣な顔つきを崩さない。何も口にしないまま、目線を下に向けて、何か考え事に没頭していた。
そこまで、本気にならなくてもいいのに。
それでも真登華は思考する。お喋りすら許さない雰囲気にかられて、恋太郎は何をすることもできない。
静かすぎて、客の笑い話がよく聞こえてくる。どこかで携帯のメロディが鳴った。急にくしゃみが響いてきて、背筋がびくりと動く。
「――ねえ」
「な、なに?」
無表情のまま、真登華がそうっと視線を合わせてくる。
「君はさ、その人に全力でアプローチしたの?」
「え? ま、まあ」
「告白はした?」
「した」
「……なあんだ」
答えを聞いて、真登華がふっと笑いはじめる。
「君はもしかして、婚約者より魅力がなかったからフラれた……とか考えてない?」
「……思ってる」
「それは勘違いだよ」
恋太郎の目が丸くなる。
そんな恋太郎を見て、真登華はくすりと微笑み、
「君がフラれたのは、単に出会うのが遅れたから。それだけだよ」
「……そんな、まさか。そんなはずないよ」
「ええ? かっこいいくせに、卑下なんてしちゃダメだよ」
「……え?」
真登華はようやく、バニラシェイクを口にした。
「君は誰かを助けられる人でしょ? そんなの、かっこいいに決まってるじゃない」
ストレートな物言いに、恋太郎の内心がかっと熱くなってしまう。
「……言い過ぎだよ」
「ううん、私はそう思ってるから」
ぐうの音も出ねえ。
「……だからさ」
真登華は顔を明るくしたまま、言う。
「君の魅力が足りなかったんじゃない。運が悪かったから、初恋が上手くいかなかっただけ」
どこかで聞いたような言い回しをされて、何度もまばたきしてしまう。
「最初に君と出会っていれば、その人は君に惚れていたと思うよ。オペレーターとして、それは保証する」
軽い口調で言うが、きっと考えに考え抜いた結論なのだと思う。だって自分も、そうやって真登華に助言をしたことがあるから。
苦笑が漏れる。人の縁とは、こういうふうに回るものなのか。まるでドラマだ。
「……そっか、そういうもんか」
「そーそ。さ、飲んで食べて」
「そうする」
真登華の顔を見ていたら、なんだか張り詰めていた気が抜けてきた。
これが人柄なんだなあと実感しながら、「いただきます」とハンバーガーを食べ始める。
「で、さ」
「何?」
「君はさ、まださ」
そこで、真登華の言葉が止まる。
ハンバーガーも口にしないまま、真登華は斜め下に視線を逸らすばかり。何か、言いづらそうにしているような。
急かすことはできない。ただ、待つだけ。
「そのー……」
「うん」
「――恋とか、そういうのに興味ある?」
その質問に、恋太郎は「そうだなあ」と前置きし、
「最初は、恋なんてこりごりだと思ってた。俺なんぞが出来るはずないって、そう思い込んでた」
「……うん」
「でも真登華のおかげで、ちょっとは頭が冷えたかな? 好きな人が出来るまで、まあ、お預けってことで」
最初は、ヤケクソのあまり卑下にかられまくっていた。
けれど真登華が、それは違うと訂正してくれたのだ。そろそろ付き合いが長くなる真登華の言葉だからこそ、疑うことなく信じられた。
「……ほお~……そうなの……」
その真登華は、まるで興味深そうにうんうんと頷いていた。
なんだろう、このリアクションは。
何かまずいことでも言ってしまっただろうか。身構えるあまり、握りこぶしを作ってしまう。
「んー、そっかー……そっかー……」
真登華の口に手が当てられる。「んー」とか「あー」とか、くぐもった声で唸り始める。
「……うし」
スイッチが入ったらしい。
それに伴って、恋太郎の体に力が入る。
「今の私ってば、フリーなんだけどさ」
うん。
「よかったら、お付き合いしてみない?」
真登華が、たははと笑う。
つられるように、恋太郎もわははと声に出して、
「えー……え? 何? えーっと、確認するけど、もしかして……レンアイ的な意味で?」
「そーそ! 恋愛的な意味で!」
「そっかあ……」
あ、これ告白なのか、
「え!?」
「あ、あはは……ごめんごめん、びっくりしちゃうよね、いきなり言われちゃあ」
「い、いやまあ、その……本当なの? マジなの?」
「マジだよ」
真登華という女の子は、決してこういう嘘をついたりはしない。
けれど告白という一世一代の言葉となれば、本能的に疑ってしまうわけで、
「お、俺なんかのどこが」
「あっ、『なんか』なんて言っちゃだめだよ。さっきも伝えたけど、君は運が悪かっただけなんだから」
「は、はい」
「……まあ、あれですよ。恋太郎の人柄とか誠実さとか、そういったものを見てきたから、かな?」
「そう、なの」
「そうなんですよ」
そうか。
そういうふうに、人は人を好きになっていくのか。
数多くの恋愛ドラマを見てきたはずなのに、いざ自分のこととなるとまるで実感が湧かない。
「……あの」
「なに?」
「俺は真登華のことを、善い話し相手だと思ってる。だから、いきなり異性として見るのは、難しいというか」
「ああ、そうだよね」
そう言われるのは予想していたのだろう。真登華は惑うことなく、「うん」と首を振って、
「だからさ、最初はさ」
「うん」
――あ。
次に告げる言葉って、もしかして、
「お友だちから、始めませんか?」
ああ、やっぱりそれを言うのか。恋愛モノの定番を。
ドンピシャだったからか、思わず笑いが込み上がってしまう。真登華も顔を赤くしながら、くすぐったそうに微笑んでいた。
うん。
言おう。勇気を振り絞ってくれた女の子に対して、嘘偽りなく本心を伝えよう。
「真登華」
「うん」
「俺はまだ、真登華のことを友人だと思ってる。だからこれからは少しずつ、ゆっくりと、真登華のことを好きになっていこうと思う」
「……わかった」
その言葉で十分だったのだろう。
「恋愛漫画で培ったテクニックを、あなたに見せてあげる」
真登華は、顔いっぱいの笑顔を咲かせていた。
――ああ、それは確かに凄そうだ。期待できそうだ。
お会計を済ませたあと、恋太郎と真登華は目的もなく、夕暮れになるまで街中を歩き回った。
□
あの日から、真登華と一緒に居る時間が増えた。
まず教室に入れば、真登華がおはようと声をかけてきて、それから他愛の無いお喋りをする。読んだ本の内容について、ボーダー活動についてのあれこれ、休日はどうするか――ほんとう、他愛の無い話ばかりだ。
昼休みになれば、大抵は真登華と一緒に昼食をとる。自作の弁当を見せ合って張り合ったり、とっておきのおかずを交換したり、猫とか恋とかについて語り合うのがほとんど。
そして放課後が訪れれば、決まって真登華と下校するようになった。向かうコースはもちろん、真登華が住む仮設住宅地まで。
雑談に興じている中、真登華が時おり「いつもエスコートしてくれてありがとう」と言うことがあるが、恋太郎は当然のように「女の子を届けるのは男として当然」と告げる。そのたびに真登華は顔を赤くしたり、恥ずかしげにお礼を口にする。そんな真登華を見るたびに、恋太郎はどこか爽快めいた気分を覚えてしまうのだった。
放課後となれば、時には生徒会の仕事が挟み込まれることもある。そんな時は、真登華が「手伝うよん」と手を貸してくれるのだ。
生徒会の皆も真登華の手際の良さは高く評価していて、生徒会長にいたっては「ぜひ生徒会に!」とスカウトするほどだ。当の真登華は「ボーダー活動もあるので、ごめんなさいっ」と断っているのだが。
そして時には、真登華にボーダーとしての活動が割り振られることもある。そうなると朝から欠席だったり、放課後になって共にボーダー本部まで送り届けることもあったり。
前者のケースになると、一度も真登華の顔を見ることもないまま一日を過ごすことになる。けれども時間を見計らってメッセージを送ってきてくれるから、寂しいなんてことはない。
ここ最近は早打ちのコツも覚えたお陰で、テキストのみで話題の恋愛ドラマについてあれやこれやと議論することもあったり。
そして休日となれば、真登華と一緒に街中を歩き回る。コースなんて定めていないが、腹が空けば洋食和食ジャンクなんでもござれ、遊びたくなったらゲーセンやカラオケ、そして面白そうな恋愛映画があったら最優先で映画館へレッツゴーという仕組みだ。
――これはこぼれ話になるが、出かける直前に父と母がお金を手渡すようになった。父曰く「奢ってかっこいいところを見せなさい」母曰く「出かける時のあなた、いい顔してる。ガールフレンドができたんでしょ?」
ほんとう、親に隠し事なんてできないね。
恋太郎と真登華は、そんなふうに毎日を過ごしていた。
なんでもなくて、これといった未知なんてなかったけれど、真登華はまちがいなく自分のことを見てくれた。別れを惜しみあうことだって、何度もあった。
そんな真登華のことを見届けていくうちに、恋太郎は段々と、こう思うようになった。
――ああ。この人と出会えて、本当に良かった。
□
暖かい青空が広がる6月。休日がやってきて、恋太郎は朝の十時から家を出る。これから、真登華とデートを行うために。
集合時間は十一時だが、恋愛ドラマ愛好家として「ごめん、待った?」「大丈夫、今きたとこ」を実現させたいのは極めて当然といえる。
だからこそ先んじて待ち合わせ場所に辿り着こうとしているのだが、ゴール地点には既に真登華の姿があって、目が合えば軽やかにピースサインを決めてくる。こうなった時点で「敗北」は必至だから、恋太郎は気まずそうに「ごめん、待った?」と口にするしかないのだ。待ってましたとばかりに、真登華も「ううん、今きたとこ」と言うのが一連のお約束である。
今日こそは必ず一着を取るぞ。一時間前行動だ。
デートに対する高揚感と、真登華と出会える緊張と、ユルい勝ち負けを意識しているせいで、恋太郎はなんだか笑ってしまう。
住宅地を抜けて、街並みへつづく長い横断歩道を前にする。信号は赤い、猫の像の前には――負けたあ。
まあいいや。
苦笑いをしながら、今か今かと青信号を待つ。
横断歩道に居るのは、自分と、向こう側にいる誰かだけ。
車が通りがかって、信号機がようやく青になる。視覚障碍者のための警告音が、空に響き始めた。
もう少しで真登華に会えるからか、恋太郎の足はいささか速い。やがて向こう側から歩んでくる人影が、徐々に明らかになる。
背からして女性かな、少し大きめの黒いハットが目立つ、白いブラウスに動きやすそうな青いジーンズを着こなし、肩まで伸びる赤い髪がとても特徴的で、
強烈なデジャブに襲われる。あの人との思い出がフラッシュバックした。
ここが横断歩道でなければ、足なんて止まっていたと思う。その人は少しずつ、少しずつ俺に近づいてきて――くすりと、笑った。
それは、見た者の心を引き込む悪魔の微笑みだった。
決して見過ごせない魔性が、女性から伝わってきた。
この交差点を渡り切ってしまえば、たぶん、あの人とはもう会えないだろう。
だから、俺は――
「お待たせ、真登華。待った?」
「ううん、今きたとこ」
「本当ぉ? 待ち合わせにはまだ四十分もあるぞ?」
「たはは、まあ君とのデートが待ちきれなかったってことで」
「そうなの?」
「そーなの」
「じゃあいいや」
そうして俺は、真登華の手をはじめて握った。
真登華は驚いた顔になって、俺のことをじいっと見る。
「俺のことを好きになってくれて、本当にありがとう」
真登華は、無言で言葉を聞いている。
「これからは、君を幸せにするために生きるから」
警告音が、ふっと消えた。
「今後も、よろしくお願いします。……本当に好きだよ、真登華」
しばらくして、しばらくして、真登華はようやく笑ってくれた。
「うんっ」
真登華も、手を握り返す。
「よしっ、今日は派手に遊びますか~」
「金なら任せろっ、親が援助してくれたからな」
「いや~奢られっぱなしはどうかと思うよお」
「カッコつけさせてくれよ」
「いいよいいよそんな、君はいつもカックイイんだし」
「やめなよ不意打ちするの」
「えー? こういうセリフって不意打ち気味に言うのがポイント高いんでしょ? 映画で習った」
「まあなあ」
「でしょー? ……あ、そだそだ、重要なお知らせがあるんですけど」
「何?」
「ふふふ……もう少しで、猫と一緒に暮らせそうなんですよぉ、これが」
「! マジか! もしかしてもしかして?」
「隊員のみんなが張り切ってくれたお陰で夢が叶いそうなんですねえ、これが」
「った! よし、今日は奢るぞ!」
「っしゃー!」
生真面目な表情をしたスーツ姿の男が俺たちを横切り、赤ん坊を抱きしめている家族に道を譲る。ほかにも若いカップルが目に入ったり、携帯電話を片手に何かを話している青年とすれ違って、今日も人が絶えない。
真登華たちが守ってくれている三門市は、今日も平和だった。
―――
――お幸せに
これにて、「好きだったよ、ミラ」はおしまいです。
ワートリ杯が開催されるということで、「自分も何か書いてみよう」と思いこの小説を書き上げてみました。
初めてのワールドトリガー二次小説ということで、最初は難しいイメージを抱いていました。ですがバトルシーンをカットすれば、スムーズな青春物語が出来るんだなあと実感しています。
バトルシーンを書けるワートリSS作家は本当に凄いです、強いです。
ミラを選んだのは、「!」となったキャラクター像であったのと、敵との報われない恋を書きたかったからです。
婚約者という設定を活かそうとしたら、ハイレインもランバネインも上手く動いてくれました。
真のヒロインである宇井真登華ですが、選んだ理由は「!」となったキャラクター像であったのと、恋をしたら夢中になりそうだったからです。
ワートリは日常シーンが最低限なので、好きに書けて本当に楽しかったです。
オペレーターとの、メタルな恋愛が描けたと思います。
楽しい企画を立ててくださった龍流様、本当にありがとうございました。
ワートリSSを書くきっかけを与えてくださり、心から感謝しています。