「どうやってここに入ったんだ?屋上の鍵は施錠されてるはずだが」
「茶柱先生にお願いしてね」
屋上への出入りは年々風当たりが強くなってきている。屋上が危険ということと、龍園の一件もあってか生徒が屋上に入ることは容易ではない。
「最初はめちゃくちゃ心配されたけど、きよぽんの名前を出したら少し黙って、何故か普通に貸してくれた」
友人が退学し、次の日に学校を休んだ。かと思えば、昼から登校して、放課後に屋上に行きたいと言う。何も知らない人間がそれだけを聞けば、最悪の展開を予想するのも仕方なくは無い。
普通なら茶柱もついてくるところだが、オレの名前が出たことで、大丈夫だろうとでも思ったのだろうか。詰めが甘い。それが嘘だったならどうするつもりなのだろうか。
とにかく余計なことをしてくれたものだ。
「ねぇ、きよぽんって何者なの?数学のテストで100点をとってたし、茶柱先生はきよぽんの名前出したらすぐに鍵をくれた」
さすがに波瑠加も、オレが普通の生徒とは少し違うということに気づき始めていた。
「昨日の愛里を退学させたとき。あのときのきよぽんは、なんていうか別人みたいだった」
波瑠加だけでなく、クラスも不審に思っているだろう。いつもは大人しく、人畜無害そうなオレが、突然饒舌にしゃべりだし、そしてクラスメイトを一人退学させた。
「昔から数学だけは得意だった。それに茶柱先生とは少し仲が良くてな、オレなら波瑠加に万が一のことがあっても大丈夫と信頼してくれてるんだろう」
波瑠加は真剣な面持ちで、黙って話を聞いている。
「波瑠加はオレが普通に喋れることは知っているだろう?普段はみんなの前では喋ることは少ないが、あの時は必要だと思ったから話したまでだ」
「…まぁ、今はそういうことにしておいてあげる」
納得がいっていないようだったが、頭を振り、波瑠加はすぐに切り替える。
どうやら話はここからが本番のようだ。
「単刀直入に聞くけど、愛里を退学させたのは誰かに強制されたとか、脅されたとかじゃなくて、本当にきよぽんの意思なの?」
なるほど。それがお前がオレに一番聞きたかったことか。
佐倉愛里がオレに好意を抱いている。そのことはオレももちろん知っていたし、波瑠加もオレがそのことをわかっているかどうかは、クルーズ船のプールで最後に確認している。
そんな時、愛里達にとってある事件が起きた。
それが、オレと恵が付き合っているという事実である。当然、波瑠加達は混乱しただろうし、愛里が泣いて落ち込んだとも聞いている。だが、波瑠加の話を聞く限りだと、愛里はまだ諦めていないようだった。
そして、先日の特別試験。愛里は他でもない、好意を抱いているオレによって退学を言い渡された。
「私は今でもきょーちゃん…ううん、櫛田さんが退学すべきだったと思ってる。少なくとも愛里はここに残るべき子だった」
波瑠加は最後まで愛里が退学することを拒んだ。しかし愛里自身の退学するという頑なな意志を、彼女は止めることができなかった。
「もちろんオレも愛里には退学して欲しくなかったし、させるつもりもなかった。だが、あの場で櫛田が退学になる流れを堀北が止めた」
櫛田にしてみれば、予想外からの擁護だっただろう。いや、正確に言えばそれは擁護などではなかった。櫛田からは堀北は理解できない存在に見えただろうな。
なぜ目の敵にしていた人物が、私を庇っているのか。
なぜ私の本性を知りながら、離れていかないのか。
そんなふうに思っていたはずだ。
そして堀北の言葉はクラスメイトの怒りを鎮静し、黙らせた。
「となればオレにはもう櫛田を退学させることは不可能だ」
「でもきよぽんなら…きよぽんなら堀北さんを止めれたんじゃないの?」
「買いかぶりすぎだ。オレはそんなに優秀な人間じゃない。それにオレは堀北の指示で今まで動いていただけだ。そんなオレが櫛田を退学させると言っても、堀北は聞く耳を持たなかっただろう」
何気なくふと空を見上げると、昼まで晴れていた空はいつの間にか雲に覆われ、日差しが遮られている。やがて空には暗雲が立ち込め、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「確かに愛里はこれから成長して文化祭や勉強面で活躍することになったかもしれない。だが、それはクラス全員に言えることだ」
佐藤や松下、みーちゃん達が企画したメイド喫茶を始め、クラス全員が積極的に堀北に企画書を提出している。
それぞれがAクラスに上がるため、オレたちのクラスは今成長している。
「逆に言えば、愛里は昨日までに成長するべきだった。『クラス内投票』では特に思い知ったはずだ。この学校の残酷なシステムを」
『クラス内投票』で一度退学候補に上がった者達のほとんどは危機感を得た。あの頃から池や須藤たちは確実に成長している。具体的に言えば、須藤は動機は不純とはいえど、学力面を堀北に教えてもらうことで向上させている。
生まれつきの身体能力を伸ばすことや、社交性を改善することは難しい。しかし、分かりやすく数値化できる勉強は伸ばすことができる。あの特別試験から時間は十分にあったはずだ。
「それは、結果論じゃん」
「そうだ、結果論だ。だから俺たちは最善の未来を選択出来るように、常に最悪の結果を想定して動く必要がある。あの場面での最悪の結果は、クラスが文字通り崩壊し、試験に失敗することだった」
オレはあくまで理屈で話を進める。
「わかってる…。わかってんのよそんなこと…」
これが愛里ではなく他の生徒だったなら、当たり前だが波瑠加はここまで思いつめることは無かっただろう。彼女は今『感情』で動いている。『感情』で動いている人間にいくら『正論』をぶつけても、大した効果は得られない。ここでオレも『感情』で答えることは簡単だ。
だが今のオレには、それをする理由も意味もない。
「私ね、中学でちょっとトラブっちゃってさ。内容は詳しくは言えないけど、不登校になったの」
そうして、波瑠加はぽつぽつと語り始めた。
「とにかく中学の誰とも同じ高校に行きたくなかった、だからここに来たの。最初はもちろん友達なんてできないし、男子たちはイヤらしい目で見てくるし、やっぱり学校なんてクソくらえって思った」
手すりを握る波瑠加の手に力が入る。
中学で波瑠加がどのような目にあったのかは詳しくは知らない。だが、大方予想はつく。
波瑠加は大人顔負けのスタイルの持ち主だ。彼女のそれを羨む女子は少なくないだろう。先の発言と、重度の男嫌いということを踏まえれば、最悪そういう目にあったというのも想像にかたくない。
「でもみやっちと出会って、勉強会ではゆきむーに出会って、きよぽんに出会って───そして愛里に出会えた。そこから毎日が楽しかった」
数少ない楽しい思い出を一つ一つ、まるで宝物を自慢する子供のように彼女は話す。
「クルーズ船でのプールは恥ずかしかったけど、愛里と一緒なら平気だった。みやっちとゆきむーは必死で見ないように努力してたよね。きよぽんなんて相変わらず私たちのことをイヤらしい目で見なかったし」
思春期の明人達にとって、あの二人の水着姿は絶景に見えただろう。かく言う俺も、視線が吸い寄せられそうになるのを何とか理性で抑えた。
「でもね、思ったの。きよぽんは確かに顔にあんまり出ないし、イヤらしい目で私達のことを見ない。でもそれって───
ただ私達に興味がないだけなんじゃないかって」
それは、偶然か。それとも女としての勘か。
いずれにしてもそれが波瑠加が思い至った結論であった。
「そんなことはない。オレだって───」
手すりから離した手で素早くオレのネクタイをつかみ、グイ、と引っ張って自分の顔へと引き寄せる。あとほんの少しで唇同士が触れ合う距離。フェンスに押し付けられ、股の間に足を入れ、胸をオレに押し当てる。
「ほらね、なんの反応もなし。ゆきむーかみやっちなら今頃顔真っ赤だよ。でも、それが普通」
そうか、そういうものなのだろうか。
「いきなりでビックリしただけだ。急にこんなことをされたら誰でも驚くだろ。現に今、オレの心臓はバクバクだ」
近くで見て気づいたが、波瑠加の目にはクマができており、赤く腫れている。ろくに寝ることもできず、一晩中泣いていたのだろう。
「とりあえず離してくれないか」
「私の目を見て答えて。きよぽんは愛里のこと、どう思ってるの?」
こちらの発言を無視して、波瑠加はオレの目を覗き込む。表情を読み取ろうするが、当然読み取れることなど何も無い。
「昨日、最後に愛里に会ったの。そしたらあの子なんて言ってたと思う?」
『清隆君のことは責めないで、悪いのは全部私だから。私は一足先に外でみんなを待ってる』
『波瑠加ちゃんのおかげだよ。私に勇気をくれた、だから一歩前に進めたの』
『本当にありがとう───波瑠加ちゃん』
「あの子はまだ…諦めてなかった。きよぽんのことが、好きだったッ…!」
「あぁ。本当に、嬉しいことだ」
波瑠加の目から大粒の涙がこぼれている。
それだけ愛里はオレのことを想ってくれていたということだ。そのことについては素直に嬉しいとは思う。
「そんな愛里が退学したってのに、クラスの連中は落ち込むばかりか、楽しそうにワーワーやってんの。まるで最初から愛里がいなかったみたいに…!」
昨日の今日のことなのに、クラスの連中の雰囲気が明るかったことに理解できなかっただろう。正確にはそれは茶柱によるものだが、今はただ波瑠加の話を聞くことだけに徹する。
「私には無理、クラスの連中みたいには切り替えれないッ!きよぽんみたいに割り切れないッ!…きよぽんみたいには…なれないッ」
ついにはその場で膝をつき、泣き崩れる。
「波瑠加はオレにはなれないし、オレみたいになる必要も無い。むしろそのままでいていい」
クシャクシャになった泣き顔で、オレのことを見上げる。
ひどい顔だな。これではすぐには教室には戻れないだろう。
「これから卒業するまで、ずっと愛里のことを忘れるな。それが佐倉愛里という人間がここにいたという証明になる。オレも明人も幸村も、決して愛里のことを忘れない」
オレはしゃがむと、彼女の涙を拭ってやる。クマを隠すためなのだろうか。自然な程度のメイクが少し落ちている。
「オレはもう行く。落ち着いてから、波瑠加も今日は早く帰るといい。このままだと風邪を引く」
それだけ言うと立ち上がり、出口に向かって歩き出す。
「きよぽんは絶ッ対後悔する!愛里が退学したことに、例えAクラスで卒業しても、愛里がそこにいないことに、ぜったい後悔するッ!」
オレは一度立ち止まったが、それから振り返ることなく扉を開け校舎へと戻った。