俺が今進んでいる、この暗いトンネルは、本当に「先」へと続いているのだろうか……?

 人間界で、人間とサキュバスの共存が始まってから早二十年。それなりに気軽に行けるようになった魔界へ観光にやって来た青年が、やばそうな女に話しかけられて仲良くなる話。

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カチリカと過ごした夢の中

 車両も、ホームも、改札も。細かいデザインを除けば、降り立って真っ先に目に映る物の全てが、まるで人間界からそのまま持ってきたかのように馴染み深い素振りをしている。駅の外にはちょっとした緑が茂っていて、モンシロチョウによく似た生き物が視界を横切っていった。

 ICカードをかざせば開く改札の扉を抜ければ、いよいよという感じがする。絵になる程度にほどよく浮いた白い雲と、不気味なほどどこまでも広がる空の青。晴天の日差しが縁取る駅の日陰との境目が、観光地の県境よろしく「ようこそ!」と言っているかのように錯覚した。

 ……人間界でサキュバスと人間の共存が始まってから、いつの間にやら二十数年。今となっては我々人間にとっても、こんな風に魔界へ観光に来ることはさして難しいことではなくなっていた。

 ……未だに難しいままのことは、それとはまた別のところにあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スポーツと食事、女性を誘って断られづらそうなのはどっちだと思う?」

 その日、俺と友人の糸原は昼食にナポリタンを食べていた。外食だ。しかも一人では絶対に来ることはなかったような、ビルの入り口を降りて行ったところにある専門店とやらに来ている。ついさっき糸原がスマホで適当に見つけた店だ。

 暇な土日のことだ。彼が「近所の本屋にはいくら探しても売っていない」という本を求めて、俺たちは二人して東京の方まで出てきていた。

 フォークでスパゲティを食べることが下手くそな自分にとって、箸も用意されているその店の懐の深さについてはよく印象に残っている。

「どっちもだろ」

「強いて言えばだよ、強いて言えば。イケメンだったらとか金持ちだったらとかじゃなくて、強いて言えばどっちだと思う」

「強いてねぇ……。なら、そりゃスポーツなんじゃないか? 食事っていうのはなんか重いだろ。魂胆を感じるっていうかさ。その点スポーツはものすごく趣味が合うとかなら…………。いや、それでも二人きりは不自然か……」

「それって夕食に誘う時の話だろ?」

「食事がってこと? そりゃあだって、……あぁそうか」

 まさか啜るわけでもないのに箸を使うこちらに対して、糸原はフォークとスプーンを器用に駆使してナポリタンを食べる。そして食べながらだからこそ、俺の話の意図を理解したようだった。

「昼飯を一緒に食う機会くらい、まぁあるか」

「だろ? そりゃこうして仲良くお出かけするかは分からないけども、異性と二人、なんらかの外行きの用事を負うこともあるだろうよ、人生には。そしたら言えるはずだ、どこかで昼食にしないか? って」

「あぁー。そういえば営業やってる親父が言ってたな、新しく入った部下が女子だから会話に困るって。一緒に外回りすれば昼飯を共にすることもあるってことか」

「そうだ。つまりスポーツor食事なら、解釈の仕方によっては後者の方があり得やすいってことになる。これは重要なことだと思うんだよ」

「何が? 話が見えてこないが。……ていうかこの店、チーズないの? 粉のやつ」

「そこにあるだろ」

「あっ、マジだ」

 わざわざ探したわりに、あるいは目の前にあるのを見逃していたこと相応に、彼は粉チーズを控えめにナポリタンへ振りかける。それを眺めながら俺は、ラベルに書いてあるアルファベットが「パルメザン」を意味することを理解するまでに少し時間を要した。自慢ではないが頭が悪いのだ。

「で、なんだっけ。チーズかける?」

「かける。……で、人間の中にもさ、セックスのことをスポーツ扱いする奴がいるだろ?」

「あぁ、いるにはいるかもな」

「一方でサキュバスは、セックスのことを食事のようなものだと捉えているらしい……という話をよく聞く。だから、つまり問題は」

「ははぁ分かった。その「食事」が」

「そう! 昼食なのか夕食なのかなんだよ」

 店内のBGMが、有名なのかどうかも俺には分からない洋楽から、なぜか急にアニソンへと切り替わる。それも流行り物とかではなく、どちらかといえばニッチな物に。

 飲み干してしまった水を注ごうとすると、不透明なピッチャーが思ったよりも重かった。そちらに意識を持っていかれる。

「なるほどな、一理あるよ。……でもな伊古田、大事なことを忘れてるんじゃないか」

「あぁクソッこぼれた。大事なことって?」

「童貞ってやつはな、女性をセックスに誘えないことと同じくらい、女性を食事に誘うことも出来ないから、童貞なんじゃないのか? 「童貞」の定義は精神にあるんだよ。お前、女子を昼飯に誘ったことあるか? そりゃ俺だって、自分が親くらいの年になった時のことは考えてないけどさ」

「……最後に女子と飯を食った記憶は」

「うん」

「中学校の給食だ。俺の中学、食堂があったから。クラスごとに座るやつが」

「お母さんにもらうバレンタインチョコみたいな話だな。その時に女子と楽しくお喋りを?」

「女子とはどうだったかなぁ。隣の席の男子とは、まぁ盛り上がった日もあったよ」

「それはおれも毎日だった」

 ふふんっ、と糸原は満足そうに鼻で笑った。別に何も面白くはない。

 彼よりも少し早く皿を空にしてしまったので、パルメザンチーズの容器を手持ち無沙汰に持ち上げ眺めてみる。米国から来た物らしい。なんとなくイタリアかと思っていたのに。

 フォークをくるくる回してスパゲティを絡め取りながら、糸原は唐突に言う。

「そういえば伊古田って今何の仕事してるんだっけ?」

「ピッキングのバイト」

「何の?」

「プラモのパーツ。なかなかレアだろ」

「へぇ〜」

「しかも結構近いぜ。最寄りから二駅、八時三十三分の電車に乗れば余裕で行ける上に座れる」

「座れるって二駅だろ」

「そうなんだよな、逆なんだよ。ピッキングってずっと立ってやるんだ。足を棒じゃなくて飾りにしてみたいもんだよ俺も」

「スベったな」

「早く食え」

 グラスの中の水を一気に飲み干し、またそこへ暇つぶしの飲料水を注ぎ直す。するとその間に糸原は「ごちそうさま」と手を合わせた。

 ピッチャーは相変わらず重かったけれど、今度は「この店を出る時に自分の財布がどれくらい軽くなるのか」ということに意識を持っていかれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日陰から一歩出ると、思っていたよりも遥かに日差しの熱は穏やかだった。春の陽気とでも言うべきか、自然の物とは思えないほどただただ心地の良さがある。……それとも、何もかもサキュバスへの期待が生み出す錯覚なのだろうか?

 降り立った魔界は、本を求めて足を伸ばした東京に比べてしまえば少し田舎っぽい場所だった。余っている土地が多いし、ちらほらとある建物は全て背が低く、何やら清らかな小川まで流れている。けれど駅の近くだということもあってか、スーパーだの病院だの銀行だの、あとついでにパチンコ屋だのといった建物は数軒目につくので、生活する上でそこまで不便ということはなさそうだ。

 ……いや、というか、スーパーとか病院とか銀行とかパチンコ屋が、初見で「それ」と分かる見た目で建っているものなのか……。一瞬、ここは本当に魔界なんだろうか? という不安が頭をよぎった。手違いでただの日本の田舎に来てしまったのではないかと。

 けれどまぁ、たった二十年足らずで人間界に馴染んだサキュバスたちの故郷であるからには、それくらいの馴染み深さであってむしろ然るべきなのかもしれない。もしも彼女らが剣と魔法と希望の国からやって来ていたなら、資本主義と鬱屈と変態の国である日本との文化の違いにもっと苦戦していただろうから。

 人間界でも有名なラーメンのチェーン店が目に入り、またしても「魔界……?」と疑わしくなってくるけれど、気を取り直してまずは今日の宿を探すことにする。どこにも予約はしていない。そういう風に計画的に進める旅は苦手なのだ。あるいは、見ず知らずの他人へかける電話その物が。

「あの、もしかして観光の方ですか?」

 地図を片手にきょろきょろしていると、それが目についたのか一人の女性が話しかけてきた。

 あぁそうなんですよ、と振り返った矢先、目が飛び出そうになる。目が飛び出る勢いのまま鼻の下も伸びそうになる。そこには散歩中の犬のリードを引いた、とんでもなく巨乳な美女がいた。間違いなくGカップ……いやそれ以上ある。そして谷間を隠そうともしない服装をしていらっしゃる。

 出たなサキュバス。人間界に適応して、人間界の公序良俗に気を遣っているタイプとは違う、本物の本来のサキュバスだ。そうに違いない。

 ……と初めは本気で思ったものの、サキュバスの見分け方は主に下腹部の淫紋の有無を確認することであって、それ以上に単純な手段はない。決めつけは良くなかったかもしれないと思い直す。胸が大きくて谷間の見える服を着た人間の女性なんて、探せば五万といるだろうから。

「……あぁそうなんですよ、念願だった魔界観光に来たんですけど、宿を決めてないものでして。これから探すんです」

「まぁ、そうなんですね。こんな田舎の方に来てくれる人がいるなんて、こう言っていいのか分かりませんけど、珍しいですね」

「いやー、まぁ、そっちの方が旅行〜!って感じがするかなぁと思いまして。ははは」

 会話の最中、コントローラーのスティックが壊れたFPSゲームみたいに、油断すると視線が胸の方へ吸い込まれて行ってしまう。抗わなければならない。仮に相手がサキュバスだったとしてもだ。彼女らの言う「食事」が、昼食なのか夕食なのか分かるまでは特に。

 本能的に巨乳に目を引かれる反面、俺は確かに怯えていたようにも思う。世界を一つ渡ってまで来たこの場所で、「そういうこと」を非難されたら、一生立ち直れない気がするのだ。

 幸い、適当に会話を成立させることはそれなりに得意だった。電話ではなく、相手を楽しませる必要もないなら、会話その物は怖くない。だから今は己の視線の行く先にだけ気を配っていればいい。

「なるほど、そうかもしれないですね。ぜひゆっくりしていってくださいね。……と言いたいところなんですけど、すみません、このあたりで泊まれる場所には詳しくなくて……。ないってことは全然ないと思うんですけど」

「あぁいえいえ、大丈夫ですよ。ぼくもなんとなーく宿があるっぽいことだけは調べましたから」

「そうなんですね。それだと、そうですね、……かわりと言ってはなんですけど、よかったらいいお店とか紹介しましょうか?」

「お店?」

「はい、お店。……あれ、もしかして「そういう目的」ではない感じですか?」

 そこまで言われて、何の話をしているのかをようやく理解する。人間界の法や倫理からは、ある側面においてある程度解放されているこの魔界に、サキュバスの故郷に、足を運ぶ者……特に男の目的は偏っているのだろう。実際、俺もその一員としてここにいる。

 だからこそ、リュックサックの中身を思い出しながら、返すべき言葉を見失った。

「あー、いや、それはですね、なんというか、まぁそうなんですけども……。でも、あの、あれを持ってるんですよ、あれ。そういうキャンペーンがあって」

「あれ、と言いますと」

「あぁ、あの、チケットです。割引券みたいな、もらえたんですよそういうの。決まったお店のやつを」

 糸原の冷徹な、それでいて現実的な言葉が思い起こされる。何が「適当な会話は得意」だ。精神的な童貞のオーラが、「あの」「あれ」といった音となって滲み出ていく。いや、滲むどころかむしろ滴るほどに。

 ひとたび返答にあたふたし始めると、そういうタイミングでこそまずいことに、俺は視線の制御をも失いつつあった。

「あぁ、そうだったんですね。そういえば人間界の方も何年か前は、観光客を増やすためにそういうことをしていたんでしたっけ」

「さ、さぁ……? あまり詳しくはないですけど」

「あ、すみません、わたしもなんです。……じゃあそろそろ行きますね。これといって何もないところかもしれませんけど、どうか良い旅を」

「ありがとうございます」

 あまりにも名残惜しいが、巨乳美女と別れる。

 別れたあと、彼女が持つリードの先にいる犬をなんとなく目で追ってみた。小型犬のわりに、話している最中に吠えるでもなくちょこまか動くでもなく、視界に入らない足元でおとなしくしていた賢い犬だ。今はとことこ軽快な足取りで再開された散歩を楽しんでいる……。

「あっ」

 そして俺は、あまりにも遅すぎることに気がついた。

 その犬には首が二つあった。ケルベロス……と呼ぶべきなのかは分からないけれど、魔界の犬種であることに違いはない。魔界では「人間界では一般人の飼育が禁止されている、魔界固有の動物」が普通に飼われていたりすると聞いたことはあったけれど、あれがその一種なのだろう。

 小さくて丸っこくてもふもふした感じの犬では、地獄の番犬ケルベロスのイメージには合わないけれど……そんなことはどうでもよくて、いや、よくはないけれど、だからそうつまり、とにかく俺の「ノーリアクション」は失態だったのだ。

 念願の魔界旅行に来て、初心者丸出しできょろきょろしているような人間が、双頭の犬を見てスルー対応をするわけがない。俺がそれを「見ていないこと」が彼女にはバレていた。そしてきっと同時に、ならばどこを見ていたのかということも……。

 経験上、断言出来ることがある。女性は男性の視線に対して、男性が思っているよりも遥かに敏感である……ということだ。もしかしたらバレていないかもしれない……なんていう希望的観測は慰めにすらならない。

「はぁ……」

 分かってはいたけれど、これが現実かと思い知る。サキュバスは、自分の胸に視線を向けられていることを分かっていたとしても、「そんなに気になるなら触ってみますか……?」とか言ってきたりはしないのだ。それは人間界でも魔界でも変わらないことだ。……当たり前のことだと言われればそれまでだけれども、でも、なんかこう、ため息が出てしまった。

 サキュバスはセックスのことを食事のような物だと思っているらしい。それが具体的にどの程度の意味合いを指すのかは分からないけれど、一つ確実なのは、そこには何かしらの「最低限」があるということ。例えば「食事に誘う」に該当する行いにしても、人間にとって「ナンパ」は最低限以下の行いとされることが多い。そういう感覚が、サキュバスの中にも人と大差なく存在しているという話だ。

 サキュバスだって、「性的なことなら何をしても許してくれる」というわけではない。悪い意味で、軽く洗礼を受けた気分だった。

 さっきの女性は、俺の視線に「気付かないフリをした」だけで、肯定したり受け入れたりしてくれたわけではない。それは、それは普通のことだ。そういうフリをしてもらえるだけありがたいことなのだけれど、でも……。でもそれは、人間界にもある温情だ。温情をもらえるだけありがたいのは分かっている、分かっているつもりではあるけれど……。

 リュックサックの中にあるチケットが、途端に頼りなく思えてくる。俺は、魔界に期待を寄せすぎたのだろうか。頭が悪いばかりに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無事に宿を見つけた俺、伊古田ミツルは、その日の晩には結局チケットを握りしめていた。ここからそう遠くはない場所にある、徒歩で行ける距離の風俗店の割引チケットを。

 今どき、人間界の風俗にだってサキュバスはいる。というかむしろ、その分野において人間はサキュバスに敵わないことが大半であり、人間界においても風俗嬢のほとんどはサキュバスだと言って過言ではない。サキュバスとヤりたいだけなら、わざわざ魔界まで足を運ぶ必要はないわけだ。

 ならなぜ魔界に来たのか? それはもちろん、人間界にはない何かを期待してのことだ。来て五分で「ケルベロスを連れる巨乳美女が話しかけてくる」というイベントが起こったあたり、その期待はいくらか満たされたことになる。それと似たような出来事なら、あの後だって日が沈むでの間にもう何回かあった。

 けれど、それだけなのだろうか? 人間から見た魔界は今や、ハワイに並ぶほどの「憧れの観光地」として有名になっている。移住する人さえいる。その「憧れ」の形はハワイほど純新無垢ではないにせよ、それだけ人を惹きつける強い何かが世に浸透しているから、俺のような「実体のない憧れ」を持つ人間も現れるのではないか。魔界には必ず「何か良いもの」があるのだ。そうでなければ憧れは蔓延らない。俺はまだそれを体験していないように思う。

 そしてそれが、ただ散歩をして、宿に止まり飯を食うだけでは得られない体験だというのなら、向かうべき場所は一つしかない。「本場」を確かめに行く。

「ここか……」

 目的の店を見つけては立ち尽くす。相変わらず、建物の雰囲気自体に特別な異界感はなかった。強いて言えばアウェーの雰囲気はひしひしと感じるけれど、それは乗り越えるべき壁である。今まで風俗という物を利用したことはないけれど、人間誰しもそこから始まるのだから。

 意を決して、店内へ足を踏み入れよう……としたその時。

「お兄さん」

 虫の音が聞こえるような静かな夜の闇から、するりと忍び寄るような声がした。

 なぜか、俺は最初、その女性が刃物を持っているのかと思った。実際には手ぶらだったのに。

「チケット握りしめて、観光の人?」

 幻想的な白髪の、やけに線が細い女性だった。月光を押しのける人工的な明かりに照らされた彼女の、髪と同じ真っ白なその服装になぜか不吉さを覚える。……その女性は、魔界へ来てから見たものの中で一番、何かが異質だった。双頭の犬よりも、もっと「別物」な感じがする。

 そして、魔界で出会う女性というものは、一人の例外もなくいちいち美人であるものだった。

「そうですけど」

「やめといた方がいいよ」

「え?」

「風俗ってね、相性の合う女の子を見つけてからが本番なんだよ。たった一回で思い出を作ろうって考え方は、確率的に考えて反対かな、私は」

「……だからって行かないよりいいでしょう」

 やらずに後悔するくらいなら何とやら……だ。我ながらひどい話だとは思うけれど、そうでなければもはや何をしに魔界へ来たのか分からなくなってしまうのだから。

 ……しかし、ふと「それとも」と思う。そして思うだけにとどまったその言葉を、その女性が心を読むかのようにして引き継いだ。

「私としようよ」

「え?」

「タダでいいよ。だから気に入らなかったら、またここに来たらいいでしょ? 魔界の風俗は二十四時間だもの」

「……なぜ?」

「なにが?」

「なんでそんな、都合のいいことを言う?」

 サキュバスとはいえ、あまりに怪しい。セックスが食事と同等の物だったとして、それでもこれは逆ナンというやつである。……サキュバスというのは、そういう好都合を叶えてくれる存在ではないのだと、今日はまだ日が高いうちに学んだのではなかったか。

「お腹すいてるの。ね、人助けだと思って」

「いや、怪しい」

「それはそうかもだけど……。でも、魔界にそういうことを期待したりしないの?」

「それは……」

「本当は目につく限りの女と、手当り次第ヤってみたりしたいんでしょ、お兄さんも」

「いや、そこまでは」

「もし出来てもやらない?」

「……どうかな」

「童貞なんだ?」

 見透かしたように得意げな顔をするその女を鼻で笑ってやりたい気分に駆られるが、張り合うのもバカバカしい。なにより彼女の言葉は、そもそもが非童貞に対するひどい偏見だった。

 ふらふらと、素面のくせに危なっかしい足取りで、しかし妙に素早く、彼女は俺の腕に抱きついてくる。避けようと思う機会を失うような、それは奇妙な足取りだった。

「しようよ、ね? 一回だけでいいからぁ」

「…………」

「じゃないとどうせ、観光終わったあとに後悔するよ?」

「うっ、それはたしかに……」

 否めない。逃がした魚はなんとやらの法則がきっと発動するだろう。そして糸原に笑われる。お前は結局、風俗でセックスをしてきただけで、精神的な童貞を卒業してはいないのだと。

「煮え切らない態度なのは、もしかして忘れてるの?」

「なにを……?」

「サキュバスは人に危害を加えない。それは、魔界でも同じことだよ」

「……まぁな」

 ……そう、人間界にも魔界にも、そういうルールがある。

 それは人間よりも色々と優れた力を、例えば魔法を扱える存在であるサキュバスが、人間と対等な関係を築き共存するために必要なルールだった。それが律儀に守られてきたからこそ、現在の人間界と魔界の友好関係が成立していると言っていい。

 俺だって、魔界観光には漠然とした期待を持ってやってきた。まさに今その期待が満たされようとしていて、危害を加えられることはないと分かってもいる……。理屈で考えれば、この白髪の女性の誘いには乗るべきだ。……けれど何か、本能的なセンサーが、理屈ではないところでアラートを発していた。何かがおかしいと。

「じゃあ、私のことが気に入らない……?」

「そういうわけではないけど」

「分かった、じゃあ私の方がお金払うよ。それならどう?」

「はぁ? なんでそこまで」

「言ったでしょ、お腹すいてるの。ね?」

「……分かったよ」

「やった!」

「でも金はいらない。むしろそっちが払えというならある程度は払う」

「ううん、いらない。あんまり自信ないし。でもそうと決まれば早く行こうっ、お兄さんが泊まってるところどっち?」

 チケットを握りしめていなかった方の手が、当たり前のように恋人繋ぎで握られる。宿の方向を指さして歩きながら、俺はついに怪しさの正体に思い当たった。

 この娘、人間界で言うところの未成年なのではないか……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女性の手を握った経験は前からあった。だからこそ分かるけれど、彼女の手は痩せすぎている。皮と骨の感触が印象深かった。

 微かな川のせせらぎと、遠くを走る車の音が聞こえる夜道を、初対面の女性と手を繋いで歩く。時々人とすれ違ったけれど、誰も特別こちらに注目することはなかった。

「私、カチリカ。お兄さんは?」

「名前? 伊古田」

「イコタ。どんな字?」

「イタリア、古い、田んぼ」

「へぇ、なんか四角い名前」

「漢字は大体そうだよ」

「ふーん?」

 自分で言ってから、平仮名も片仮名も全てわりと四角いことに気が付いたけれど、面倒なので特に訂正はしなかった。

 宿に戻ってくると、ロビーには昼間来た時と同じ受付の女性が立っていた。愛想の良い挨拶をしてくれるその女性は、俺の隣のカチリカをチラと見ることさえしない。

 キーを挿して借りた部屋の扉を開くと、俺の背後について来るカチリカは「お邪魔しまーす」と様子を伺うような声で言う。

「深い意味はないけど」

 まるで一人暮らしの彼氏の家に初めて来たかのように、ただの宿の一室をあちこち見回す彼女に対して、俺はそれを聞いてみたくなってしまった。

 純粋に出来心だった。悪意なんて物は誓って無い。

「もしここにきて、十人くらい男がいたらどうするつもりだった?」

「え?」

「それで鍵を閉められてしまったら、どうするつもりだったんだ?」

 部屋を見回す彼女に目を向けたまま、ガチャンガチャンと、後ろ手に鍵を二度回す。二度回したのだから、当然部屋に鍵はかかっていないまま。あくまでもジェスチャーである。

「それは、びっくりするかな。普通に」

「……それだけ?」

「うん。なんでそんなこと聞くの? 呼ぶ?」

「呼べるか。今から魔界に来いって?」

「あはは、一時間以上かかるもんね。寝ちゃうって」

 そう言われて、糸原と行った東京の旅(旅と言うほどでもないけれど)を思い出す。東京も魔界も大して距離が変わらないのだから、自分が生まれる前の世界ではサキュバスが空想上の生き物だったなんて話は、年々実感を薄めていく。かといって、まだ完全に馴染みきっているわけではないことだって分かるけれど。

 小学生の頃にあった社会の混乱と、急速な変化、適応が、朧げな記憶や印象として頭の片隅には残っている。俺たちは時代の変化の割を食った世代だ、これからの奴らは子どもの頃からもっと上手く学ぶぞ……と糸原が愚痴っていた記憶も、鮮明に。

 綺麗に畳まれていた布団を広げ、彼女はその上で服を脱ぎ始めた。恥じらいの概念はそこからは感じ取れない。ストリップに見とれるような間もなく、彼女の身につけていた全ての布はあっさりとその場に落ちる。ああいった物を確か、誉れの墓地というのだったか。

 夜の闇の中では気付きづらかったけれど、彼女の肌は髪に似てひたすらに白く、色の薄いものだった。それ自体は、いっそ不安になるほど美しいことだったけれど、実際の視線はもっと別なことに注目させられてしまう。それはきちんと下腹部に確認できる淫紋のこと……でもなかった。

 骨だ。肋骨のシルエットが、掴めそうなほど濃く浮き出ている。線が細い、痩せている、というレベルではないことが、手を繋いだ時よりも十倍増しでハッキリと感じ取れた。

「お金取りたくなってきた?」

「え?」

「言ったでしょ、自信ないって」

 思い出す。昔に学び、今日の昼間にも思い出したはずのことを。……女性は男性の視線に対して、男性が思っているよりも遥かに敏感だ。

 視線を紛らわせる努力さえつい忘れていた。視線の吸い寄せられる位置は昼と変わらず、変わったのは、それが脂肪か骨かということだけ。

「……正直に言った方がいいか?」

「うん、いいよ」

「なら、……面白くなってきたって感じだ」

「えぇ? なにそれぇ」

 カチリカは、何かの拍子に砕けてしまいそうな体を折り曲げておかしそうに笑った。大して何も面白くはなかったけれど。

 例の奇妙な足取りに腕を引かれて、こちらも布団の上まで連れて来られる。

「お兄さんがしたいこと何でもしていいよ」

「なんでも?」

「うん」

「それは嘘だな」

 魔界もサキュバスも、人間の男にとっての都合の良さを体現する存在ではない。人とサキュバスは「共存」しているのだ。「なんでも」はあり得ない。たとえ全てのサキュバスが、実際に寿命以外では死なないことを加味したとしても。

 カチリカの、本当にへし折れそうな首に両手を添える。男なら喉仏がある位置に、わざと親指を押し当てて。

「こういうことをする奴もいる」

「いいよ」

「俺は違う。……電気はつけたままでいいのか?」

「消したい?」

「消したがる童貞はいないだろ」

 彼女の肩に手を当てながら、冷静に考えて、おかしな状況だと思った。もしも駅から出た瞬間に紐のような水着を着たサキュバスたちが出迎えてくれていたなら、今だって「そういうものか」とも思っていたのだろうけど、実際のここはそういう世界じゃない。そんな世界はどこにもない。けれど、それなのに現状はこれである。向こうから声をかけてきた妙な少女を部屋に連れ込んで、それから……。

 ……俺は生まれて初めて、女を押し倒した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 観光客の男に見下ろされ、息を切らした白髪の少女が、骨の浮き出た胸を上下させながら言う。

「全っ然、童貞じゃないじゃん……」

「誰もそうだとは言ってないからなぁ」

 とはいえ、そういったことは体を重ねれば単純にバレるものなのだな……ということは、俺も今初めて知ったのだけれど。

「電気を消したい童貞はいないって言ったのに」

「一般論だよ。君が俺を童貞だと思っていたから、からかったんだ」

「ふーん。風俗の前で足踏みしてたのに、じゃあ女自体には慣れてるんだ」

 今度こそ事実を見抜いたそのサキュバスは、目を閉じて数度深呼吸をすると、乱れた呼吸をあっという間に整える。

 女性自体には慣れている風俗童貞……と表現されると、おおよそ事実ではあるものの、ひどく極端な聞こえ方がしてしまう物だった。女性を金で買うことをしない人間性は悪い物ではないだろうけど、私生活の方で女性に困っていないような印象を受けるその言い回しもどうなのだろう……?

 そう考え始めると、サキュバスとしてステレオタイプな見方が何であるのかが、じわじわと気になってきた。カチリカに聞いてみようとする。

 ……死んでいるのかと思った。呼吸が止まっているように錯覚したから。

「カチリカ……?」

「なに?」

「……風俗童貞のイメージって、サキュバス的にはどうなんだ?」

 少し意外そうな顔をされる。まるで自分だけが覚えていると思っていた過去の些事について話を振られた人のような顔を。

「どうって、特に何も。行く人もいるし行かない人もいるでしょ」

「女性を金で買う男と、金をかけずに女性に慣れた男、二通りの見方があるだろ。どっちだと感じる?」

「えぇ?」

 今度こそ本当に意外そうな顔をされた。信じられない、とその顔に書いてあった。

「お兄さん、女に困らないタイプなんだ」

「なんでだ」

「お金をかけないっていうから。向こうから来るんでしょ?」

 一人、具体的な女性の顔が思い浮かぶ。ネットで知り合った、かつて友人だった女性の顔が……。

「向こうから……。……まぁそのあたりはなんとも言えないけど、でも経験人数は一人だ。今日二人になった。それを困らないと言うものなのか……?」

「その一人とは、今も?」

「いいや全然。だから困ってる方だろ」

「なるほど……」

「何が……?」

 上体を起こし、腕をつっかえにして座っているこちらに対して、一向に起き上がる気のないらしいカチリカが見上げて言う。

「大抵の男っていうのは風俗じゃなくても、女を抱くためにお金を使うものなんじゃないの? 自分をいい男に見せようとしてさ」

「……あー」

「いるんだねぇ、ケチな男に抱かれてあげる人って」

「どの口が言うんだ……」

 べぇ、とカチリカが舌を出す。軽蔑の意図は感じ取れなかった。

「それにしてもさ……」

 ため息混じりに、痩せた少女は言う。

「お兄さん、すごく普通のセックスをするんだね。意外だった」

 俺はその時、幼く、貧弱そうな彼女の見た目の中に、そこに確かに「サキュバスらしさ」を見たように思う。サキュバスとの付き合いなんか今までほとんどなかったけれど、それが「らしさ」だということは直感的に分かった。

 いわゆる、百戦錬磨の顔。今まで食べたパンの枚数を覚えていない顔が、カチリカという少女の中にもあるのだ。サキュバスなのだから。

「悪かったな」

「わざわざ魔界の風俗に遊びに行こうとする人なんかさ、やばい性癖の人しかいないと思ってたのに」

「偏見だ……と言いたいけど、そういうものなのか?」

「まあ、大抵は」

「へぇ……」

 だとすれば、きっと身体に負担のかかるような過激なことをする男もいたのだろう。そんなに痩せた体でよく耐えられたものだと感心する。正直、普通に抱いているだけでも不安になるような感触がしたくらいだ。とはいえサキュバスの体は、全員がほとんど不死のレベルで丈夫らしいけれど。

「お兄さんの性癖って何なの?」

「分からないか?」

「うん」

「特にないよ。「普通」だったんだろ」

「本当に〜?」

 いかにも疑り深く、いたずらっぽく笑って彼女は言う。けれどそれとは裏腹に、寝転がったままその白い身体を布団に同化させて消えてしまいそうな、一種の儚さもそこに同居していた。

「普通の人は、男が十人もいたらどうする気だったんだって、鍵をガチャガチャ脅したりしないよ」

「……あれは脅したわけじゃない」

 客観的にはそういう風に映るだろうと、分かってはいたのだけれど。確信犯ではあっても、それはあくまでも演出のつもりだった。

 何せ俺の知識が正しい物ならば、サキュバスという生物は皆魔法の力を持ち、それによって人間とは比べ物にならない膂力を有しているというのだから。十対一ならともかく、二人きりでは脅しも何もない。

「そうなの? でも、やっぱり普通の人はあんな話しないよ。本当に注意を促したかったなら、部屋に入れる前に言うべきだろうし」

「それは……、まぁそうか」

「だから絶対すごいことされると思ってたのに、あーあ、つまんないセックス!」

「うるさいな……」

 言葉の通りに、心底そう思って口に出した。けれどカチリカは、不愉快さを顕にされて怯むタイプではないようだった。彼女のこのインファイトなコミュニケーションは、虚勢ではないということだ。

「まぁいいや。じゃあお兄さん、これはダメ元で、お兄さんの優しさに賭けて言うんだけど」

 細く固い感触の五本指が、俺の腕を掴む。

「絶対に痛くしないから、お兄さんの体、傷つけさせてくれない……? 私、怪我してる男の人が性癖なの」

「……は?」

 その時を境に、俺は状況をようやく理解していくことになる。

 俺が彼女を部屋に連れ込んだのではない。彼女が俺の部屋に潜り込んできたのだと。「誘われた」のはどちらだったのかということを。

 時計の針は頂上を超えて、日付は数分前に変わっていた。特に大人にとっては、夜はここからが本番になるということもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 詳しく話を聞いてみると、彼女の基本的な思惑はこうだった。

 まず適当な男に声をかけて、性行為に及ぶところまで行く。その際、相手の過激な欲求を引き出すように努め、あわよくば暴力的な行為を誘発させる。

 事が終わったあとの男というのは賢者タイムにより勢いを失うので、その状態の男に適当なアピールをすれば、すでにやってしまった過激な行為に対して「罪悪感」を抱かせることが出来る。それは彼女の脆そうな痩せぎすの体があれば、なおさら威力を増すことだろう。そしてその罪悪感を利用して、彼女はいよいよ本題を、自分の欲を押し通そうとする。

 ……というのが、カチリカというサキュバスのやり口であるらしい。つまり今回に関してはそれがまんまと失敗したということになる。

「で、怪我した男が性癖ね……」

「うん。正確には、怪我の治療跡のある男が性癖。絆創膏からギプスや松葉杖、管を繋がれた体だって、とにかくそういう物が私は……」

「あー、分かった分かった。大体分かった」

 無論、いくら罪悪感があったところで、怪我を負うことを良しとする男は少ない。そして何より「サキュバスは人間に危害を加えない」というルールもある。

 そこで登場するのが、カチリカの魔法というわけだ。大抵のサキュバスはまるで少年漫画のように、膂力の強化とは別に、各々異なる性質の魔法を扱えるのだと聞く。カチリカの場合のそれは「痛覚の遮断」と「超再生能力」であり、どちらも自分・他人を問わずに適用できるらしい。

 つまり彼女の要求はこうだ。痛みは一切感じさせない、傷は最後には一瞬で治す。だからあなたが怪我をしてボロボロになっているところを見せて……と。

 性癖もさることながら、そんな魔法が使えることを隠して「暴力に対する罪悪感」を誘おうとするあたり、彼女がかなりやばい女であることが察せられる。

「お願いお兄さん、私の趣味に付き合って。そしたら私もお兄さんの言うことなんでも聞くから」

「つまらないセックスでも?」

「うん!」

 満面の笑みで首肯される。

 そこはかとなく狂気を感じた。

 しかしまぁ、「言うことを聞く」というのは、魅力的な条件ではある。それは「どんなセックスをしてもいい」よりも魅力的なことだ。特に、このカチリカというサキュバスに対する場合はそうだ。

 好奇心や興味といった物は、何も性行為の中にだけある物ではないのである。

「なんでも言うことを聞くというのは、「どんな質問にでも答える」という意味も含むと受け取っていいのか?」

「いいよ」

 ロクな確認もせずに、やはり即答でコクンと了承される。それが彼女の内に秘められる無限の余裕を表しているとは、俺には思えなかったけれど。

 余裕ではなく、油断があるようにしか見えなかった。

「なら、話に乗ってもいい。苦痛なし、後遺症なし、セックスも質問もし放題……あと嘘をつかないってことなら」

「本当? よかった〜、それなりに優しく抱かれた時はどうなることかと思ったよ。……よし、じゃあ早速一つ、お兄さんから質問?とやらをしてもいいよ。責任を持って答えるから」

「わかった。……カチリカって何歳?」

 それを聞くために話を受けたと言っても過言ではない。

 性行為がメインの栄養源であるサキュバスという種族に関して、人間が考えるような定義の児ポは存在しない。しかし自覚という物は必要だろう。人間である俺が、今何をしているのかということの自覚、すでに何をしてしまったのかということの自覚は。

「三十四歳」

「若い」

「お兄さんは?」

「今年で二十四になる」

「若い」

 サキュバスの寿命は五百年近いと聞く。だとすれば人間の五倍は確実にあるわけで、三十四歳は相対的にとてつもなく若い。

「まあでも良かった。本物の未成年とかだったらどうしようかと」

「そう見える? 法的にはどっちもセーフだけど」

「気持ちの問題だよ」

「ロリコンではないんだ? ……いや、童貞っぽいのに童貞じゃなかったから、ロリコンっぽくなくても実は……?」

「疑心暗鬼だ」

 女性の年齢について、これといって「このあたり!」という好みはない。けれど二十年前に比べれば、きっと社会に軽度のロリコンは増えたのだろう。仮に高校生のことを「子ども、ロリ」と呼ぶとするなら、サキュバスの中にはそれはもうたくさんの合法ロリがいる。

「まぁなんでもいいんだ、お兄さんの本性はなんでも」

 寝転がったまま亀のように這い、カチリカは自分の衣服を漁り始める。部屋に入ってすぐあっさりと脱ぎ捨てた白い服の中に、何が忍ばせてあるのかと思えば……それはカッターナイフだった。

 あの時感じた危うい雰囲気は、気のせいではなかったのか。

「ね、怖かったら目をつむってていいから、切っていい……? 痛くないから」

「ちょっとでも痛かったら?」

「傷を治して私は帰る」

「……まぁ物は試しだな」

 とりあえず、カッターで切る部位と言えばここだろうと思って、握手を求めるような形で左腕を差し出す。甲を切るか腹を切るかは任せるつもりだった。しかし、

「あ、こっちにしよう? お兄さん右利きでしょ」

 と言って、なぜかカチリカは俺の右手を取る。

「そっちが利き手なんだが」

「うん、それでいい」

「なにが……?」

「まぁまぁ、ちょっと切るだけだから。私に任せて」

 よく分からないけれど、本当にちょっと切るだけなら、確かに右でも左でも腕でも足でもどこでもいい。どうせ最後には全て治る手はずになっているのだし、全ては些細なことのはずだ。

 右腕を掴み、針の穴に糸を通すような慎重さでゆっくりと刃を近づけるカチリカ。その顔はあっという間に、恍惚と期待の色に染まっていた。それどころか、並々ならぬ興奮からか彼女の息遣いは再び荒くなり、そのうち喉の奥から不気味な笑い声さえ鳴らしだしそうな、異様な様相を垣間見せる。

 ……もしかして、変態男にがっつかれる少女の気持ちとはこんな物なのだろうか、と俺は思った。

「あ、お前っ」

 カチリカは腕の甲よりも腹、脆い方を切った。それもそれなりに深く刃を入れた。思っていたよりも量のある血が傷口から流れ出し初め、俺は下にある真っ白な布団の心配をした。

 実際にはその血は垂れ落ちることなく、素早く大量のティッシュペーパーを当てたカチリカのよって全て受け止められることになる。そう、ティッシュ、布団のすぐ側にあった物だ。彼女はセックスをしていた時からずっと、この瞬間のことを考えていたに違いない。そういう素早さだった。

 ある程度血が止まると、彼女はその傷口を愛おしそうに見つめ始める。けれどそれはどこまで行っても単なる傷口であり、俺からは単なるグロ画像にしか見えない物だったから、変態と化した彼女の姿もろともすぐに視界から外してそっぽを向く。

 確かに痛みは一切感じない。……けれど、ぬるりとした感触が腕の上を這った。

「なにしてんの……?」

「傷口って舐めたくならない……?」

「自分の傷ならな……」

 いくら拭っても少しずつだけ流れ続ける血を、彼女はぺろぺろと小さな舌で舐めとっていく。普通に考えれば血の味なんか不味いに決まっているけれど、サキュバスの中にはいわゆる精飲の趣味を持つ者も多いと聞く。そして血液と精液には「体液」「どう考えても不味い」という共通点があると言えないこともない。サキュバスにとっての「血の味」と、人間にとってのそれは違っていたりするのだろうか? ……一度考え出したらどんどん気になってきてしまう。

 けれども幸い、俺はその疑問に対する答えを実質的に知っているに等しい。サキュバスについて浮かんだ疑問は全てそうだ。ついさっきから俺はそういう立場を得ている。

「カチリカ」

「なぁに」

「血はどんな味がする?」

 ちゅう、と傷口を少し吸ってから、少女は答える。

「お兄さんが舐める時と同じだよ」

「というと?」

「雨の日の鉄棒の味」

「……物好きだな」

「えへへ」

 またしても彼女は脱ぎ捨てた服を漁る。今度は絆創膏を取り出してくる。手際よくそれを傷口に貼り付けると、また愛おしそうにその部分をさすった。

「メンヘラみたいになったねぇ」

「治すんだろ?」

「今度じゃダメ?」

「……俺が人間界に帰るまえには治してくれ」

「分かった」

 満足そうな表情を見せるカチリカ。その笑みから察するに、今後まだまだ傷を増やしていくつもりなのだろう。落書きをする子どもみたいに。

 彼女は一度置いたカッターを再び握りしめる。かちかちと刃の伸びる音がして、次にその細すぎる五本指が鷲掴みにしたのは俺の頬だった。

 いや、頬というよりは、「顔」を掴まれたのだ。

 人体の質量として不適切とも思えるほど軽い彼女であっても、完全な不意打ちで全体重を利用すれば、背もたれもなく座っている男の体くらいは押し倒せるものだった。馬乗りになった白髪の少女を見上げれば、天井の照明が後光のようにそれを照らしている。

 あるいはその白い光は、俺のことを、手術台の上の被検体のように照らし出していた。

「目の下、切っていい?」

「は?」

「じっとしててね」

 その迅速で容赦のない手つきは、俺に拒否権を与えなかった。視力が惜しければ体を凍りつかせるしかない。……そのかわり、拒否権と同じくらい痛みも存在しなかった。

 涙袋の、さらにその下。横一線に付けられた切り傷からじわりと溢れた血液は粒となって、頬に一筋の線を引くように流れ落ちていく。カチリカはすぐにそれを拭うと、もったいなさそうに数回だけ舌を這わせてから、傷口を絆創膏で隠した。

 ……呆気にとられるしかない。目元に刃を近づけられる恐怖に鳥肌が立った。けれどそれと同時に、恐怖とは別の不思議な感覚も押し寄せてくる。

 俺は、頬を一粒の液体が流れていく感覚に懐かしさを覚えていた。ずっと前にそれを拭ったのは、自分自身だったのだと。

「絆創膏だけだと芸がないね」

 馬乗りになったままのカチリカがこちらを見下ろして言う。

「やっぱり怪我の治療跡といえばガーゼとか、包帯とか、「白」がないと。……お兄さん、この旅行は何泊の予定で来たの?」

「二泊だが」

「よかった! じゃあ私、明日は家からいろいろ持ってくるから、また付き合ってね」

「また?」

「うん。旅行の間、私と遊んでよ。なんでもするって約束はちゃんと守るから。……それとも風俗の方がいい?」

 捨てられた子猫のような懇願の目の中に、得体のしれない魂胆が潜んでいるような気がする。それはそうも感じるだろう。なにせ会って数時間もないうちに、痛まないとはいえ、目のすぐ下をカッターで切られているのだ、こっちは。

 けれど、次の彼女の言葉が、俺の感情から正常な感覚を失わせた。それはまるでこちらの心の中の……さらにその向こう側を、深層の底を見透かしているようだった。

 だから俺は面食らい、彼女の要求をすぐに否定することも肯定することも出来なくなる。

「……でもねお兄さん、分かってるのか知らないけど、サキュバスにだって「なんでもさせてくれる人」は滅多に居ないんだよ……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その道筋は暗い、暗いトンネルだった。

 ふと気が付くと豆電球のような、あるいは狐火のような、規則的かつ無数に設置された小さな照明だけが頼りの暗闇の中にいた。人間界と魔界を繋ぐゲートは長く暗いトンネルの様相をしていて、道中の光源はトンネル内ではなく、列車の車両内に備え付けられた照明でもって確保されているのだ。

 ひとまず、座席の背もたれに身を預けて考える。もう何時間くらい乗っているだろうか? 時刻表いわく二時間もしないうちに目的の駅へ着くらしいが、ぼーっとしているうちに時間の感覚は死んでしまった。一時間以上乗っている気もするし、さっき乗ったような気もする。……あるいは、

「……あっ?」

 ハッと気が付く。俺は慌てて左右を確認した。

 車両内に、俺以外の乗客が一人も乗っていなかった。そんなことはないはずなのに。

 時間の感覚は忘れても、そのことだけはハッキリと覚えている。乗客は、絶対にもっと何人も乗っていた。一度トンネルに入ったら途中下車なんて概念はないはずだ。みんなどこへ行ったんだ? 

 …………俺はこのままこの列車に乗っていて平気なのか?

 この列車は本当にちゃんと目的地に、「トンネルの先」に向かっているのか……?

 ガタンゴトンと、線路と車輪の奏でる重音が足元から響いてくる。俺は思わず席から立ち、窓に顔をはりつかせて外を見た。……やはりそこには闇があるばかりだった。「黒」以外には何もない「道中」が、あとどれくらい続いているのか分からないそれが、ひたすら視界を覆い尽くすばかりだ……。

 突然、列車が「跳ねた」のではないかというほど、大きな揺れが起こった。

「うわっ」

 立っていられずよろめき、咄嗟に何かに掴まろうとする。心臓に悪い浮遊感の中、俺が利き手で掴んだ物からは、何か不吉な硬質感が伝わった。硬いのに、同時に脆さを感じさせるような感触がする。

 お兄さん、と呼ぶ声がして、俺は我に返った。

「お兄さん、朝だよ! 朝ごはんの時間、始まっちゃうんじゃないの?」

 天井からの眩しさに耐えてなんとか薄目を開けると、面倒くさそうな顔をしたカチリカが俺の体を揺すっているところが見える。俺はそんな彼女の片手を無意識に握りしめていた。

 寝ぼけ眼で上体を起こすこちらを見て、彼女はため息まじりに「おはよう」と言った。

「おはよう。……変な夢を見た」

「夢?」

「電車が信じられないほど揺れるんだよ。ぼよんって」

「楽しそうじゃん」

 ついでに打ち身でも作ってくれればいいのに、と彼女が心の中で言った気がした。一晩寝たくらいで彼女の何をそんなに理解した気になっているのか、我ながらよく分からないけれど。

「それじゃあ私は一旦家に戻るから、お兄さん、ご飯終わったらここにいてよね」

「わかってるよ」

 ばいばい、と手を振って、カチリカは心なしか機嫌よさそうに部屋を出て行った。次に彼女に会う時には、ガーゼとか包帯とか、それを使うにふさわしい状況を作る物だとか、とにかくロクでもない物を携えているのだろう。

 俺は結局、彼女の申し出に乗ることにした。残り一泊と二日の旅の間、暇な時間はギブアンドテイクの関係であることを約束したのだ。そしてこちらにはロクな観光の予定も知識もなく、暇な時間というのは要するに飯や風呂やその他諸々以外の全てを指しているように思えた。

 ……いや、昨晩は風呂も部屋に備え付けられている方に一緒に入ったから、その気になれば本当に全ての時間が「暇」に該当するのかもしれない。そう考えれば確かにまぁ、風俗に行ったとして、同じ待遇は得られないだろうなとは思えてくる。

 つまり今ある状況は、「異常」なのだ。

「あっ、あいつ……」

 歯を磨こうとして洗面台の前に立ったことで自分の顔が鏡に映り、目の下の絆創膏が目立ったので剥がしてみると、その下の傷は全くもって治ってなどいなかった。カチリカは魔法をサボったのだ。

 一晩にして顔に傷のあるワイルドな男になってしまったが……、まぁ、特にツッコミを入れてくる他人もいないだろう。そう高をくくって、とにかく宿が用意する朝食を食べに行くことにする。カチリカが先に戻ることを考えて貴重品は持ち出し、部屋の鍵を開けっぱなしにしておく。

 ……と、そうしたはずなのに、腹を満たしてからいざ戻ってきてみると、彼女は俺の部屋のドアに寄りかかる形で廊下に立っていた。昨日と同じくらい真っ白な服を着ているけれど、デザインが若干違う。着替えてきたのか。

 いろいろ持ってくるから……と言っていた彼女の手からは、救急箱がぶら下がっていた。しかし俺にとっては救急箱その物よりも、その程度の手荷物でさえ見ているこちらが不安になるような、あまりにも細い腕が目に付いた。

「おい」

「あ、お兄さん。絆創膏剥がしちゃったんだ」

「治ってなかった」

「人間界に帰るまでに治すって話でしょ」

「そうだっけか……? というか、開いてるんだから入ってればいいだろ」

「え? あ、本当」

 ドアノブを引いたカチリカは間抜けに口を開ける。開くかどうか試しもしなかったのか……。

「なんてね、知ってたけど入らなかったの」

 嘘か真か、そう言って微笑みながら彼女は部屋の中に消えていった。俺も後を追う。適当な場所に救急箱を置く彼女の背中を見ながら、今度は一度だけガチャンと鍵を回した。もちろん何の脅しでもない。部屋の鍵というのは、何はなくともかけておく物だ。

「昨日知り合ったばかりの他人がさ、帰ってきて我が物顔で部屋にいたら嫌でしょ? あらかじめそういう話になっていたとしてもね」

「なぜ?」

「そういうものじゃない?」

「……あぁ、どうかな」

 そう言われると、遊ぶ約束をしたはずの友達が突発的に不在で、家の中で待たせてもらうことも出来ずに追い返された小学生時代のある日を思い出す。冷たいと感じないこともなかったが、理屈は分かることだ。カチリカの言うことはその延長線上にあるものだろう。

 昨日来たばかりの時と全く変わらない状態に綺麗に片づけられていた布団の上に、ソファに座るような勢いで腰を下ろした彼女は俺を見る。

「それでお兄さん、今日の予定は?」

「特にない。せっかく来たんだから散歩くらいはしたいが」

「今から?」

「どっちでもいい」

 散歩に出ることで昨日以上に面白い物が見られるのか、それは分からない。昨日の時点で双頭の犬と、それから本人の足元を見なければ気付かないくらいの、若干の浮遊をする女性は見た。けれど後者は珍しくない。羽根も無しに空を飛ぶサキュバスは人間界でも見られるものだ。

 だから直感的には、俺が見るべきものはむしろこの部屋の中にあるように思える。「ある」というより、「いる」のだけれど。

「確認なんだが、なんでもしていいっていうのは」

 わざと彼女の胸元を見ながら言う。

「例えば君を裸にひん剥いて、外を連れ回しても」

「あっ、それはダメ!」

 まるで叱りつけるような勢い。

 顔には出ていなかったと思うが、その遮る声に、内心では心臓が跳ねる。

「あ、ううん、夜遅くとかならいいんだけど……。とにかく今はダメ」

「どうして」

「どうしてって、バレたら普通に犯罪だよ? そういうのはこっちの世界でも」

「それは分かってる。つまり犯罪は無しってことか?」

「うん。そこは、お願い」

「…………」

 ほらな、という一言が喉まで上がってきて、理性がそれを押しとどめる。それを口に出してしまえばお前はただのアホだと、自尊心という名の理性が働く。

 エロ漫画に出てくるようなほぼ裸みたいな恰好のサキュバスは、魔界だろうと少なくとも公共の場には存在しない。魔界はなんでもありの場所ではないのだ。公共の場には秩序や倫理や常識が、基本的には人間界とよく似た形で存在している。例えば裸で歩くなとか、例えば青姦をするなとか、そういうルールはある。客引きの類がどうなっているのかまでは知らないけれど……。

 俺はそういうことを元々知っていたからこそ、「なんでもする」というカチリカの言葉に「嘘つけ」と返したのだ。そして実際にそれは嘘だった。それはそうだ、それが当たり前なのだ。

 ……まぁ当たり前にしたって、嘘は嘘なのだけれど。常識がなんであれ、出来ないことを出来ると言うことに全く罪がないとは、俺は思えない。

「ご、ごめんね……?」

「別に、俺にそういう趣味はないからいい。けど「なんでも」ではなかったな」

「うん……」

「というわけで、念のためこっちにも拒否権が欲しい」

「拒否権?」

 さも「なぜそんな物が必要なんです?」という顔をして、カチリカが遠くから俺の瞳をのぞき込んでくる。それだけ自分の魔法の安全性に自信があるということか。

「そっちに例外的な「無理」があるように、こっちにだって「無理」があるかもしれない。だからそっちが一つ断った分、俺にも一つ拒否権が欲しい」

「ふぅん……? まぁ、別にいいけど。でもアレもコレも無しっていうのはやめてよ? 私だってちゃんと「夜遅くならいい」って言ったんだから」

「あぁ分かった。そこはまぁ、その時が来たらすり合わせるということで」

「うん。了解」

「…………」

「…………」

 話が一つ片付くと、部屋の中に妙な沈黙が流れる。取引じみた会話、あるいは糾弾じみた会話というのは、丸く収まったとしてもこうなってしまうのが難点だ。

 けれども、俺は目の前の少女から「何をしてもいい」と言われている。それが第三者を巻き込む犯罪ではない限りは、という注釈付きだったとしても、それは破格の特権であるはずだ。

 対戦ゲームをする時の気持ちを思い出し、小さく密かに息を吸い込む。何かを「通す」ために必要な心というのは、「通ると思って通すこと」だ。通ると思うことが出来ないのなら、それは通らない。……テレビゲームの話だけれど。

「ところでカチリカ、俺には夢がある」

「夢?」

「うん。それはいくつもあるけど、今その一つを思い出した」

「うん」

「……まだ人生で一度も、午前中からセックスをしたことがないんだ」

 ぷはっと噴き出して、カチリカは腹をよじらせながら笑った。そこまで面白いことを言ったつもりはないのだけれど。

「あはは、いいよ。おいで?」

 今日も昨日に似て白い服を着たその少女が、俺を迎え入れるべく両手を広げて微笑む。彼女に抱き着けば昨日と同じように、その衣服の先には肋骨の感触があるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正午を過ぎる頃、情けないうめき声を経て、俺の左腕はギプスや肩からかかる包帯によって固定されていた。完成した「それ」を見てカチリカはうっとりしている。

「お兄さん、素敵ですねぇ……」

「敬語になるほどにか」

「うん。特に「うっ……!?」っていうあのうめき声がもう……!」

「言うな」

 昨日、なぜ彼女がわざわざ俺の利き腕を切ったのか理解した。利き腕ではない方はこうやって、切り傷などもはや見えない状態にするつもりだったのだ。初めからそのつもりだったのだ。

 カチリカの「痛覚を遮断する魔法」は、逆に言えば「痛覚しか遮断してくれない魔法」だった。今までの人生に骨折の経験は無かったが、無かったからこそ、いざ折られてみれば痛み以外の「感覚」に怖気が走った。そしてそれは顔にも声にも出てしまった。その声を聞いた時の、骨を折った張本人の歓喜の表情はたぶん一生忘れない。

 カチリカという女は、思っていたよりも結構なサイコパスなのかもしれない。俺の心の中には再び危機感が舞い戻って来る。痛覚を遮断したところで、危機感は無痛の状態を貫通してくるものだ。

 人に大怪我を負わせて喜んでいる彼女が恐ろしいというのではない。「人の骨を折り慣れている彼女」が恐ろしいのだ。折り方も、折れた腕の固定も、彼女のやり方は異様に手際が良かった。

 ともかく、サキュバスは皆魔法により人並み外れた膂力を持っているという話は、これで十分すぎるほど実感したことになる。そこまで体を張って実感したかったわけでもないけれど……。

「これ、本当に治るんだろうな……?」

「一瞬だよ。なんなら一回治してもう一回する? 私はそれも興奮するけど」

「やめておく」

 とはいえ片腕が使えないのでは普通の性行為にも支障が出る可能性は大いにあるから、性欲と怖気を天秤にかけなければならない時がいつかは来るかもしれない。……具体的には今晩中に来るかもしれない。

 しかし逆の考え方もある。ピンチはチャンスなんていう、ポジティブと馬鹿の境界線を見失ったような言葉を支持するわけではないけれど、無痛で骨折をして、無痛で「骨折をしたあとの生活」を体験できる機会は、きっとこの魔界観光の旅を逃せば二度とないだろう。やれることはやっておくべきなのではないか。

「さて、これでギブアンドテイクは一件落着したわけだが……。俺はちょっと散歩に出ようと思う。カチリカはどうす」

「えっ、ついて行っていいの……!?」

 はぁはぁと不自然に乱れた息遣いに加え、何らかの狂気を孕んでいるとしか思えないその瞳。食い気味の問いに、さっきの露出散歩の例え話が脳裏をよぎる。もしかして彼女にとって、怪我人との散歩はそういう行為に近い扱いなのか……?

 あぁきっと魔界にはこういう狂気が水面下にいくつも蠢いていて、人間の男たちを魅入らせる物というのもまたその狂気なのだろうな……と、なんとなく理解したような気分になる。サキュバスの故郷である魔界という場所では、秩序のすぐ傍で、機会に恵まれない者には見えない場所で、男にとって好ましい何かがジッとこちらを覗いているのだ。そして確率的に、それと結ばれる人は大勢いる。

 俺も、その一人なのだろうか。カチリカの趣味に危機感を覚えることはあっても、嫌悪を感じるようなことはなく、注釈付きの「なんでもしていい」という言葉には今のところ心地よさを感じている。……この感じが、男なら誰もが求める感覚というやつなのだろうか。

「いいよ。行こう」

 宿の受付には、昨日と同じ女性が立っていた。そして彼女は愛想の良い挨拶はしても、こちらの「変化」には一切興味を示さない。あるいは何らかの理屈で、それが「無問題」だと見抜いているのかもしれない。

 昨日ぶりに日の光を浴びると、室内でじわじわと腐りつつあった精神的な何かしらが浄化されていくような感覚が湧いた。残念ながら、別にその感覚を尊んでアウトドアな陽キャになれたりはしないのだけれども、俺は。絶対に。

 適当にまだ通ったことのない道を歩いてみる。すると何やら美味そうな店だとか、遠くに見える見たことのないロゴのショッピングモールだとか、スズメみたいな見た目でオウムのように機械的な人語を鳴く鳥を見つけた。そして極めつけに見ごたえのあったものは、姿はほとんど人間と同じだけれど、明らかに頭から角が生えていた男性の存在だ。そういうサキュバス以外の「異種族」が、コンビニから煙草だけ買って出てきていた。人間界で言うところの人種のポジションが、魔界では異種族になっているのだろう。平常時の見た目で明らかにそれと分かる異種族なんて、人間界の方では俺はまだ見たことがなかった。

 俺が目についた物への素朴な感想を口にするたび、折られずに空いている右手と恋人繋ぎをしたカチリカは嬉しそうに相槌を打ってくれる。しかしその愛想の良さの内にそこはかとなく発情の念を感じるものだから、何様のつもりだという話だけれど、俺は彼女の将来が心配になってしまった。まだあと四百年以上の人生を、ずっとその性癖で生きるのだろうか。……余計なお世話か。

「あ」

 ぐるりと回って知っている道に戻ってくると、遠くに見覚えのある犬と、それを連れた女性の姿を発見した。昨日会ったサキュバス、俺が魔界に来て初めて会ったサキュバスだ。……いや、おそらくはサキュバスであろう女性だ。もしかしてもしかすると、魔界に移住して念願だった珍しい犬種を飼っている人間の女性である可能性もある。

「どうしたの?」

「向こうにいる犬の散歩してる人、昨日ちょっと話したんだ」

「へぇー。巨乳だね」

「あぁ、ってそこじゃなくて、とりあえず避けるぞ」

「なんで?」

「この腕の説明が面倒くさい」

「階段で転んだって言えばいいのに」

 そうは言いつつも、彼女も迂回には素直に従ってくれる。向こうが何をしたわけでもないのに避けるとはなんとも心苦しいけれど、昨日ちょっと話しただけの他人の骨折を心配したフリしなければならなくなっては、それはそれで向こうだって面倒だろう。

 しかしそれはそうと、カチリカの「階段で~」の発言によって急速に、俺は自分の立場がよく分からなくなってきた。だってその言い回しは完全に「DVを隠す人」のそれなのだ。なまじ痛みがないばかりに、俺は自分のことを「ロクな代償も払わずに少女の体を好き勝手にする男」だと認識していたけれど、実際の立場はもっと別なのか……?

「魔界の散歩はどう?」

 見覚えのある道に戻ってきたことを「終了」だと捉えたのか、締めくくり風にそんなことを聞かれる。

「そうだな……。なんというか、ささやかに楽しい」

「それはよかった。試しに人間界の方にはないタイプのお店とかにも入ってみたら? ささやかに美味しいかもよ」

「あー、まぁな」

 腹が減ったから何か奢れと、彼女はそう言っているのだろう。俺だって気持ちとしてはそういうことをして見栄を張りたいところもある。しかし……。

 自分より少し背の低い彼女を見下ろして、その弁解は言い聞かせるような声音で俺の口から出た。

「ところでカチリカ、俺は昨日、さっきの巨乳の女性から言われたんだ。魔界観光ならもっと都会の方がいいですよって」

「へぇ。まぁ、一理あるよね。都会はいろいろと最先端だから。流行とかさ」

 魔界へ遊びに来る男の目的なんか一つしかないんだから、都会の方が平均的なレベルは高いよね……というニュアンスを言葉尻から感じる。昨日の女性だってそういえばそういうニュアンスを出していたかもしれない。

「で、なんで俺は都会を選ばなかったと思う?」

「……田舎の女が好きだから?」

「そう見えるか」

「まだ分かんないよ」

 会って二日目、セックス二回目の仲では、それもそうだ。であるならば真っ先に出てきたその回答は、サキュバスの視点で見た「わざわざ魔界の田舎に来る人間の男」の一般的な印象なのか……?

 まぁ、もしもそうだとすれば、こちらにとっては好都合なのだけれども。取るに足らない有象無象の一人として認識されていた方が、実態を知られるよりはまだマシであるように思う。……今となってはそれを隠すことも出来ないけれど。

「答えはな、都会は物価が高いからだ」

「あー、貧乏なんだ」

「……その通り」

 ストレートに言ってくれる。けどそれはいい。問題は「なんでもしていい」の中に「開き直ること」が含まれているかどうかだ……。

 ……と思っていたのだけれど、次の一言は予想の斜め上から来た。

「じゃあ奢ってあげようか? せっかく来たんだし」

「え」

 途端、俺の頭の中には「未知」の象徴として、壮大な銀河が広がった。

 その銀河の中から俺の舌を通して、ほとんど自動的に言葉が紡がれる。いや、紡がれるというような美しい物ではない。吐き出されたのだ。

「……夢だったわけではないけど」

「うん?」

「女性に飯を奢られた経験は一度もなかったな……」

「あぁ」

 カチリカは悪意を混じらせず、勢い押しのお笑いに根負けしてしまった時のような苦笑を浮かべた。

「じゃあ奢られ童貞だね。私がリードしてあげる」

 今までとは逆に、彼女がこちらの腕を引いて歩く形になる。

 その数分後に、俺は片腕が使えない人の食事がいかに不便なのかを知ることになった。……それから、家族と来たわけでもないのに「支払い」をただ待つだけでいるような時間は、それはそれはとても長く感じるのだということも。

 けれど確かに、人間界では見たことのないその料理はちゃんと美味かった。

 いくら食後の運動を挟んだとはいえ朝食からあまり時間が空いていなかったから、腹が膨れすぎたきらいはあるけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事の話ばかりになるけれど、夕食を部屋に持ってきてもらうことが可能だと知った時が、案外こっちへ来てからの一番の驚きだったかもしれない。人もサキュバスも怪我人には優しい。

 けれど、カチリカのような異性と二人きりの部屋に入れば何が起こるのかは大体予想がつくことであり、その予想を実践でなぞることは、厚意をないがしろにすることになるのだろうか? 自分と彼女以外の誰にも見られていないからこそ、俺にはそれが分からなかった。

「お兄さん、今日はありがとうね。とっっっても楽しかった」

 そう言いながら、彼女はまたこちらの体の一部に舌を這わせている。けれど、今回ばかりは、傷口から流れる血の味を知るためにそうしているわけではなかった。……やがて興奮を煽るためにわざと出しているかのような水音が響き始める。

 俺もそろそろ「なんでも」の方針を見出してきたのだ。なんでもしていいと言われれば、場合によっては逆に何をしていいのか分からなくなることもあるのだろうけど、俺はそうはならずに済んだ。カチリカとのギブアンドテイクに俺が託す物は、「未体験」だと決めている。

 ゲームの実績トロフィーを地道に埋めていくみたいに、せっかくのこの機会を、様々な未体験の「実績解除」に費やそう。一度そう決めてしまえば、頼むべきことは次々と思いつくものだった。たかだか二十四年の人生、体験したことのないものの方が多いに決まっている。だから知っている限りを「手当たり次第」だ。

 具体的には、例えばそれは今やっているように、こちらが何かをしている最中に彼女に「そういうこと」をさせるという行いであったりする。……まぁ相手の有無に関わらず、そもそも下半身を露出して飯を食うこと自体が初めてだったのだと、やってみてから気が付いたのだけれど。

 そして、やってみて初めて気が付いたことにはまだもう一つあった。夕食を半分くらい食べ進めたあたりで、カチリカにストップをかける。

「もうおしまい?」

「うん、もう十分知見を得た」

「知見? なにそれ?」

「……初めて脱衣麻雀ゲームをやった時のことを思い出したってこと」

「どういうこと……?」

 そう、あれは俺が高校生の頃だ。俺が麻雀のルールを覚えた理由の三割くらいはそこにあった。

「脱衣麻雀っていうのは、「脱衣」のためにすると麻雀が邪魔だし、「麻雀」のためにすると脱衣が邪魔なんだよ。今、それと全く同じ感覚が起こった」

「え、それが醍醐味なんじゃないの……?」

「それが俺には分からないってことだよ。骨付きチキンと骨無しチキンがどっちもあるのに、わざわざ前者を選ぶような人の気持ちと同じくらい分からない」

「へぇー」

 エロはエロ、麻雀は麻雀という風に分けた方がいい。それと同じで、食事は食事、性行為は性行為に分けた方がいい。けれどそれは、まず実際にやってみなければ分からないことだった。

 だってそう、俺だってつい数分前までは、それが醍醐味だと信じていたんだから。邪悪だけれど男の夢だと思っていた。現実は案外そうでもなかった。

「それより、普通にこっちに来て食べさせて。利き腕しか使えないっていうのはハードモードすぎる」

「はーい」

 ちゅ、と最後に、今まで舐めていた場所に口づけのようなことをしてから、彼女の視点はテーブルよりも高い場所へ戻ってくる。そして「どれが食べたい?」と聞いては、危なげない手つきで所望の品を一口大に分け「あーん」としてくる。

 もしかして、性癖の延長線としてこういったことにも慣れているのだろうか? のんきにそんなことを考えながら口を開けていると、箸の先が急激に引き返していった。

「あっ」

「へへっ」

 彼女が箸で持ち上げた物は、彼女自身の口の中へと吸い込まれていった。

 そしてもぐもぐと咀嚼しながらしたり顔で笑う。単なるいたずらなのか、なんでもするとはいったもののそれにしたってちょっとひどい扱いを受けたことへの仕返しなのか、それとも……。

「おい……。まぁ食べたいならいいけども」

「そんなこと言ったら全部食べちゃうよ?」

「どうぞ? 君はなんというか、いくら食べても食べ過ぎってことはないだろ」

「もう、拗ねないで」

 今度はすんなりと箸がこちらの口元まで来る。

 これも今日初めて知ったことだけれど、普通にセックスをするよりも、こうして食べさせてもらったりしている方が「なんだかすごいことをしている」という感覚は強い。自分が偉くなったように錯覚するというか……そういう感じだ。それを思えば彼女の言う「つまらないセックス」という言葉にも、我ながら若干同意してしまいそうになる。食事からそういった感覚を得られるなら、セックスは本来より一層そうであるべきなのかもしれない……と。

「お兄さんも、今日見たような巨乳の方が好きなの?」

「またエロ漫画で聞き飽きたような台詞を……」

「あはは、まぁどっちでもいいんだけどさ。でも私を太らせたいなら、ご飯を食べさせるよりどんどんセックスするべきだね。サキュバスなんだから」

「あぁ、そうか」

 サキュバスだって人間と同じ物を食べることが出来るし、栄養にだってなるらしい。けれどそれは、性行為と比べれば効率が段違いに悪いことなのだと聞く。だからひょっとすると、サキュバスにとっての「ダイエット」は別の意味での禁欲になるのかもしれない。

「じゃあこのあとしよう」

「いいよ」

「……で、今また一つ思いついたんだけど」

「おお、今度はどんなプレイかな」

「いや、プレイじゃなくて質問の方。……パパ活ってあるだろ?」

 女性に昼飯を奢ってもらったその日に話題に出すと、なんとなく想像上の「他人という概念」から白い目で見られるような印象のある話だけれど、今思いついたのだから仕方がない。

「あれってご飯を奢ってもらうかわりにセックスをするっていう、そういう話だよな?」

「大体はそうだね。ご飯というか、現金がメインなのかな。あとは服を買ってもらうとか、色々あるみたいだけど……。はい、あーん」

「ん……。……で、俺はパパ活について全く詳しくないから、それについて一つ疑問に思うんだ」

「なにを?」

「ご飯食べたあとにセックスして苦しくならないのかな、って」

「あー」

 食事の直後のセックス。それは俺にとって未体験の行いであり、今から数分後に実践しようとしている行いでもある。興味、好奇心、質問したいことというのは、そうやって連想ゲームのように湧いて出てくる物だった。

「うーん……。まぁ、私も詳しくないからなぁ……。控えめに食べとくとか? 小食アピールも出来て一石二鳥! みたいな」

「やっぱりそういう微妙な感じか……? 一回「先にセックスすればいいのでは」と考えたことがあるんだけど、パパ活おじさんのことってそんなに信頼できないもんな……と思って」

「あー、そうなのかもね。もらう物は先にもらっておかないと」

「そうそう」

「そう考えると、お兄さんはいい人だったね」

「俺……? なにが?」

 今の話と何の関係が……? と理解が追い付かないまま、とりあえず水を飲む。それくらいは片腕だけでも楽に出来ることだった。

 ランダムな料理を箸でつまんで、カチリカがこちらの口元まで持ってくる。そろそろ完食も近い。

「やることやったら、適当に逃げちゃってもよかったのに。……怖いんでしょ? 怪我させられるの」

「怖い? 痛くないんだからそんなことは……あぁでも骨折はたしかに」

「ふーん?」

 見透かしたような態度で彼女は俺の目を覗き込んでくる。……それはまぁ、いくら痛みがなかったとしても、暴力への恐怖その物をたったの二日で完全克服できる人間など、存在しないのではないかとは思うけれども。

 しかし「逃げてもよかったのに」なんて飄々とした態度で言う彼女に、俺はなんだか精神的に負けた気がして、ちょっと反論してみたくなった。

「カチリカは俺が義務感で逃げなかったと思ってるのか?」

「義務感?」

「そういう約束をしたんだから、っていう義務感。良心、優しさって言い換えてもいい」

「……さぁ? どうなんだろう。お兄さんはなんで逃げなかったの?」

「……強欲だからだよ」

 一度抱けたのだから十分な儲けだ、あとの面倒なことは反故にしてさよならにしよう……というような考え方が、俺には理解できない。だってその「面倒」とやらをどうにかすれば、同じだけの「儲け」がもう一度舞い込むのだ。それもきっと二度や三度ではなく何回も何回も……。そう思えば、そんなチャンスをみすみす逃がすなんてあり得ないと感じる。

 まぁ、それは今回のカチリカとの約束が俺にとって都合のいい物だったから……というのが大前提にある考えなのだけれども。これがもっと明らかな苦痛や、あるいは単純に金が絡むことだったとしたら、俺としても「絶対に逃げるなんてことはない」とは言い切れない。なにせ奢られ童貞を卒業するような男だ、その人間性の高は知れている。

 それに、対価さえあれば努力が出来るというなら、俺の人生はこんなことになっていないはずなのだ。

「強欲かぁ。また何回でもヤりたいからってこと?」

「そう」

「なるほどねー」

 夕食の最後の一口を運び終えて、カチリカはサキュバスらしい笑みを浮かべる。妖艶という意味ではなく、猛者という意味でのサキュバスの顔が垣間見える。

「それは、約束を守ってくれる男の人は、きっとみんなそうなんだと思うよ。最高だよね、私たちはセックスをしていればお腹いっぱいになれるんだもん」

「…………」

 サキュバスに対して男女関係の闇の話を振ること自体が、あるいはそこで得てしまう妙な敗北感から逃れようともがくことは、もしかしたら馬鹿のすることなのかもしれないと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局単調さから抜け出せなかったセックスのあと、そのまま力尽きて眠ってしまいそうだったカチリカが、ぱちりと突然目を開いた。

「お兄さんってさ、お尻には興味ないの?」

「え?」

「アナル。しようと思えば出来るけど」

「あー……」

 そういえばそれも「未体験」だった。俺が経験したことのある性行為なんて、それこそ「普通」な、サキュバスに言わせれば「つまらないセックス」だけだったから。

 しかしまぁ、言われるまで思いつきもしなかったということは、そこに対する興味なんてその程度だったということでもある。体位によってはしている間ずっと見えているっていうのに、それでもその試みを思いつきもしなかったんだから。

「興味なくはないけど、それほどでもないかな」

「いいの? 試さなくて後悔しない?」

「後悔か……」

 それは…………するかもしれない。人間界に戻ったあと、二度と試す機会がないことを日に日に実感して、あの時やっておけば……と思う日が数え切れないくらい発生してしまうかもしれない。例えばエロ漫画にその手の描写が出た時に、その表現にどの程度のリアリティがあるのだかないのだか全く判断がつかない時なんかに。

「じゃあ試してみてもいい……?」

「いいよ」

 言って彼女は、脱ぎ捨てた服の中から小さな銀色の袋を取り出してきた。どうやらローションらしい。カッターナイフとはまた別の意味で、そういう持ち歩き方をしていることにインパクトがある。

 そして数分後……。俺はなんとも言えない気持ちになって彼女の尻を見下ろしていた。

「どうだった?」

「……正直に言った方がいい?」

「もちろん」

「なんか、普通にセックスの方がよかったなって」

「おおー、知見だね」

 そういう言い回しをしては、彼女は楽しそうに笑う。別に何も面白いことはないと思うのだけれど。

 とはいえそろそろ俺にも、彼女のそういった振る舞いのありがたみが分かってきた。こういった知見の収集に、実績解除に、こんな風に明るく付き合ってくれる人は、きっと魔界中を探してもそうはいないのではないかと。

「さて、じゃあ次は私の番かな」

 んしょっ、という声と共に細い身体が起き上がる。カチリカの目は明らかに何かを企んでいた。慰みものにされることと引き換えの、あるいは玩具にされることと引き換えの、当然の権利を従えた狂気の目だ。

「お兄さん、アナニーってしたことある?」

「は? ないけど」

 インターネット以外では初めて聞く単語に面食らう。女性の声でそんな単語を聞く日が来ようとは。

「私ね、初めてお尻でした時、切れちゃったんだよね。治せるからいいんだけど、……その時からずっとやってみたかったことがあるの」

「まさか……」

「ダメ……?」

 可愛らしく小首を傾げる彼女の手にはすでに、あろうことかカッターナイフが握られていた。太すぎる棒状の物とかでさえなく、刃物ときた。

 それを見て迷うことなど何一つなかった。まさに、俺が手に入れた権利の使いどころがやって来たように思う。

「ダメ!」

「えっ」

「拒否権を行使します」

「なんで!」

 俺が拒否された時とは違い、彼女はまさか断られるとは思っていなかったようだ。心底驚いたようなその表情にこっちが驚かされる。どういう自信があったらそこで驚けるんだろう。

「いや、確かに聞こえは怖いかもだけど、絶対に絶対に痛くないよ? 私が後ろからするだけだから、お兄さんには何も見えないし怖くないよ?」

「ダメです」

「で、でも、一度でいいから男の人のお尻から血が流れるところが」

「ダメです」

「なんでぇ……」

 言葉のニュアンスから察するに今までも何人かから断られてきたのだろうに、その上で「なんで」なんて感想が出てくるのが重ね重ね謎だった。ダメ元ではないのだろうか?

「なんでって、嫌でしょ普通に。大体アナニーの話もはや関係ないじゃん。刃物じゃん君が握ってるのは」

「手っ取り早いかなって」

「クレイジー」

「しょうがないでしょ、好きなんだから!」

 それはその通りだと思うけど、己の身の危険を前にしてなお他人の嗜好を尊重するような超人になれだなんて言われても困る。俺には荷が重い。

「うぅ……分かったよ、約束だもんね……。拒否権を認めます……」

「どうも」

 泣く泣く、しかしあっさりと、こちらの主張は受け入れられた。狂気の人であるカチリカに、そうとは思えないほどの聞き分けの良さがあることには良い意味で驚かされる。

 けれどこれで拒否権の一対一交換は終わってしまった。この調子だともう一回くらいはそれを確保しておく必要があるように思う。社会的なルールとはまた別の角度からの無理難題を考え出して、カチリカに一度ぶつけておかなければ。そうすればきっとこの先何があっても、彼女は今のようにおとなしく拒否権を認めてくれるだろうから。

 ……いやそれとも、「拒否権」と「彼女が俺の拒否を突っぱねられないこと」とは、意外と無関係だったりするのだろうか? 「サキュバスは人間に危害を加えない」というルールがそれだけ重いということなのかもしれない。彼女はそのルールに従っているのであって、これで相手が普通に性癖がおかしいだけの人間の女性だったら、俺は今頃死んでいたような気もする。

「でもこれだけ教えて! 怪我をするって意味ではどれも同じなのに、なんでお尻はダメなの……? 今までの人もみんなそうだった……」

「みんなって、何人くらいとしてきたんだ」

「そんなの数えてないよ」

「あ、そう……」

 そこはさすがに、サキュバスに聞いた俺が馬鹿だった。

「教えてよ、どうしてダメなの」

「どうして、ねぇ……。それはちょっと、説明しろと言われると難しいけど……」

「えー……」

「いや、頑張って言葉にするよ。してみるよ」

 不服そうな少女を納得させるために、俺は感覚的な話の言語化に努める。

 なぜ骨折や、腕とか顔の切り傷は良くて、彼女のやりたがっていることはダメなのか……と聞かれると、言葉で説明しようとすればするほど話は難しくなる。痛みはないし恐ろしい物を目に映すこともない、という彼女の主張にもかなり理があるように思えるからだ。

 けれども、そう、強いて言えば、「恐ろしい物を目に映すこともない」というその「工程」自体に、この話の論点があるのだと俺は思う。

「なんでダメかって言われると、そこはそうだな、尊厳の問題……ってやつなのかな」

「尊厳?」

「暴力っていう物にはいろいろ種類がある。カチリカの魔法がある前提で考えれば、例えば爪を剥がされるのは全然怖くないだろう? 痛みは感じないし、見た目の恐ろしさだって、ただ目を閉じていればそれで済むだけのことなんだから。……いや、骨折の時みたいに嫌な感覚はあるのかもしれないけど、まぁそんなのは些細なことだ」

「うんうん」

 敷かれた一枚の布団の上に座って、裸の少女が真剣な顔で何度も頷く。何の時間なんだこれは……という感覚に苛まれてしまうのは、賢者タイムのせいだろうか。

「で、そういうのとは逆に、魔法があってもされると嫌な暴力っていうのがある。それは例えば……顔を足で踏みつけられるとかかな」

「顔を……?」

「寝転がってるカチリカの顔を俺が踏みつけたら、なんか嫌な感じがするだろ? 屈辱っていうかなんていうかさ。その線で行くとさっきの食事の時も結構アレだったんだけど……」

 痛覚を遮断する魔法は、心の痛みまでは取り払ってくれない。侮辱的な行為や、あるいは単純な言葉の暴力についても、カチリカの魔法は特に何も助けてくれはしないだろう。重要なのはそこだ。

「で、君の言う通り、痛みや後遺症の心配はないとして、ちょっと絵面を考えてみてほしいんだ。俺が君に尻を差し出す絵面をさ……」

「絵面……」

「俺はそれが嫌なんだよ。かなり嫌だ」

 行為中の俺たちを映す鏡なんて有りはしないのに、そんな時ばかり自分は精神的に、第三者的な神の視点を手に入れて、あまりの見苦しさにいたたまれなくなってしまうことが容易に想像できる。視界の外のカチリカに向かって、座薬を入れられるような姿勢で「終わったー?」とか言うのか……? 絶対に嫌すぎる。

 ところがまずいことに、そういう感覚を一番理解してほしい相手は、俺の必死の解説もむなしくポカンと間抜けな顔をしていた。

「うーん、よく分かんないかも」

「なんで……」

「私にお尻を見せるのが嫌ってこと?」

「まぁ、端的に言うとそうだけど」

 もうその聞こえの悪すぎる問答からして最悪だ。

「えー、でも、それが嫌って言う人はあんまりいなかったけどなぁ。舐められるの好きな人とか何人かいたけど、みんな切られるのは嫌だって。それに私も別に顔は踏まれたっていいし、ご飯の時のも別に嫌じゃなかったし」

「……知らん、俺は。そんな奴らのことは。尊厳っていうのは人それぞれなんだよ」

「えー、そういう物なの?」

「そういう物なの」

「へぇー……。……じゃあ私、それは知らなかったなぁ」

 一瞬、カチリカの表情にぞっとするほど暗い心情が見えた気がした。しかし次の瞬間にはそれが消えている。どうして一瞬そんな顔をしたのか、目の錯覚だったのかはよく分からないけれど。

「でも後悔しない? あの時あの女に尻を向けてればよかった~二度とそんな機会ないのに~ってならない?」

「ならない。断言できる、絶対にならない。モーツァルトの名を聞いてもだ」

「え~、なってよ~」

「無理」

 言われてみれば、彼女がカッターナイフ片手に望むことも「未体験」の範疇ではあったけれど、おかげで「未体験ならなんでもいいってわけじゃない」ということを理解した。「好奇心」を上回る「抵抗」が俺にだってあるのだ。

「ふーん? じゃあいいや、そこまで言うなら。他にもしたいことあるし」

「例えば?」

「目に怪我をして、眼帯を付けてるお兄さんが見たいなぁ。ガーゼの眼帯持ってきたの」

 全裸のまま立ち上がり、今度は救急箱をガチャガチャと漁り始めるカチリカ。何かの模型や化石を彷彿とさせるような浮き出方をしたその背骨を眺めつつ、そもそもの話を問いかけてみる。

「思ったんだけど、カチリカは怪我その物というより、その治療跡が好きなんだよな?」

「うん、そうだよ。生傷その物より、そっちの方がいいの。着エロに近い感覚っていうかさぁ」

「それはよく分からんけど……。でも、ってことは別に怪我なんかしなくたって、眼帯なら眼帯だけ普通に付けとけばいいんじゃないのか?」

 バッ! と彼女が圧倒的な勢いで振り向く。その目は偏執的に見開かれていた。

「ダメだよそんな嘘っぱち! そんなのは嘘じゃんか……!」

「あ、そう……」

「私、仮病は許せても嘘の怪我は許せないから」

「さいですか」

 彼女の性癖の定義みたいな物を探ろうとしても火傷するだけだな……と感じて、二度と余計なことは言わないと心に誓った。

 やけに長い間救急箱を漁っていると思ったら、布団の上に戻ってきた彼女の手には二つの物が握られていた。一つはガーゼの眼帯。もう一つは、謎の小瓶。中には何らかの寒色の液体が入っている。

 とても嫌な予感がしたけれど、一応聞いてみた。

「その液体はなに……?」

「これは、目に入れちゃいけないやつ」

「わぁ……」

 もしかしてこの人にとっての天職は拷問吏なのでは? と思わずにはいられなかった。けれどもそれは一応尊厳に対する攻撃ではないから、尻の穴をざくざくされるよりはマシであるように思えないこともない。ロクな二択ではないが……。

「なぁ、怪我っていうのは本当に全部魔法できっちり治るんだろうな」

「治るよ。試しにちょっと治してみる?」

「頼む」

 はーいと返事をすると、カチリカはおもむろに手を伸ばし、俺の頭を撫でた。よしよしと愛でるように、それなりに念入りに。そしてそれから、右腕に貼られている絆創膏をぺりぺりと剥がした。

 かなり深めに入っていたはずの傷が、跡形もなく消えていた。自分で目元に触れてみると、顔にあった横一線の切り傷も消えている。しかし骨折した腕は依然として動かなかった。

「腕はまた折るの嫌だろうから、そのままにしといたよ」

「なるほど……」

「これで信用してくれる?」

「まぁ、せざるを得ないな」

「じゃあこの薬品、お兄さんの片目に目に入れるね……?」

「……お、おう」

 そういえばついさっき、見た目の恐ろしさは目を閉じていれば解決するなんて話をしたのだったか……? さっそく例外が現れてしまった。

 ……相変わらず痛みはなかった。けれど、ものの数秒で、俺の右目の視力は失われてしまった。そしてその上に蓋をするように眼帯が当てられる。すでに失明したのでは眼帯を当てたとて「治療跡」とはまた別物である気もするけれど……。カチリカがそれでいいなら、それでいいのかもしれない。

「お兄さん、どんどん素敵になっていきますねぇ……。腕と顔の切り傷、もう一回付け直してもいい……?」

「はい、もう好きにしてください」

 その後彼女は、自分で施した傷や怪我の跡に頬擦りをしたり、かと思えばたまに引きの視点を楽しんだりして、うっとりとした顔でいつまでもそれを堪能していた。

 動物園の動物になった気分でされるがままになりつつ壁にかけられた時計を見てみると、そろそろ日付も変わろうとしている。放っておくと一晩中でもそうしていそうなカチリカを適当になだめて、今日のところはもう寝ることとしよう。あぁでもその前に風呂に入らないと、いよいよ俺の体も介助が必要な状態になっていることだし……。

 ……と考えていると、不意にあることを思い出してしまった。一日の終わりを感じたからだろうか? ……楽しい魔界観光も、ついに明日で終わりになるのだということを、大きな実感を伴って思い出してしまう。

 明日は午前中に宿を出て、午後までには帰りの電車に乗り込み人間界に戻らなければならない。そうなれば当然、カチリカとの関係もこれまで……ということになるだろう。

 それを考えると、まるで夢から覚めてしまうような気分になる。今から明日が憂鬱になってしまう。……それは、それだけは絶対に良くないことなのに。

 夢から覚めることを喜べるだけの現実が、長く暗いトンネルを抜けた先に待っていてくれればいいのになぁ……。憂鬱さからそんなことを考えた。けれど、もしそんな現実があるのだとしたら、そもそも俺は魔界観光に行こうなどとは思いもしなかっただろう。

 夢は夢、現実逃避は現実逃避。いつまでも続けられるわけじゃないことは、初めから分かっていたはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 言われた通り、切符売り場の近くの柱を見に行ってみると、伝えられていた通りの服装をした女性がそこに立っていた。

「もしかして、○○さん?」

「もしかしてイコタさん!? わぁー、初めまして! っていうのもなんか変ですけど! あはは」

 出会い系サイトに登録したわけでもなく、ただ趣味のゲームのためにインターネットで遊び相手を募っていたら、いつの間にか彼女と親しくなっていた。そして偶然にも住んでいる場所が近く、まさかオフラインで会うことになろうとは、実際に生身の彼女を見るまではどこか嘘なのではないかと疑っていたものだ。

 まずは昼食を共にした。聞いた話、大抵の女性はそういった洒落っ気の欠片もない店を嫌うらしかったけれど、彼女はファミレスでも普通に楽しそうにしていてくれた。会話には困らなかった。共通の趣味の存在は無敵だったのだ。むしろそうだからこそ、こうして会うところにまで至ったのである。

 食事を終えたあとはカラオケに行った。彼女の歌う曲は俺の知らない曲ばかりだったけれど、むしろそうして一緒に過ごさなければ一生知らなかったかもしれない良曲を知ることが出来て楽しかった。

「○○さんって歌上手いんですね」

「イコタさんもですよ。音痴とか言ってたのに、全然じゃないですか」

 それがお世辞だということは分かっていても嬉しかった。

 そしてそれから俺たちは、頻繁に会って遊ぶようになったのだ。月に何回か会っていた。一緒に買い物に行ったり、映画を見たりもした。いつか新作ゲーム関連の大きなイベントに行こうなんて話もしていて……。

 ……大きなベッドの上で、はだけた服の彼女に跨っていたのは、そのうちの何回目のことだったのかは、もう思い出せなくなっていた。

「伊古田さん、気持ちよかったですか……?」

 聖母じみた微笑みを浮かべる○○に俺は答える。

「うん、すごく、すごかった。ありがとう……」

「……君、いつか女の人に刺されるよ」

 それは凍てつくような無慈悲な声で、いつの間にか○○が俺を睨み付けていた。

 殺意さえ感じるような両の手のひらが、ドンと俺の胸を突き飛ばす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ビクッと全身が震えて目が覚める。夢を見ているとたまにある、落下の感覚で目が覚めるあれだ。

「……まだ二時か」

 スマホ画面の強烈すぎる明るさに顔をしかめながら時刻を確認すると、眠り始めてからまだ二時間も経っていなかった。隣で眠っているはずのカチリカがもぞもぞと動く感触がある。

「お兄さん、起きたの……?」

「そっちは、寝てないのか?」

「うん、私ショートスリーパーだから」

 それにしたってそろそろ寝ておいてもらわないと、俺が明日の朝飯を逃しかねない。モーニングコールの役割は彼女に期待している。

 気分の悪い目覚め方をしてしまったせいか、どうもすぐに再び寝付く気にはなれなかった。目が冴えてしまった。スマホでも見て暇を潰すか……と思ったけれど、余計に眠れなくなりそうな気もするし、部屋を暗くしたままではいくらなんでも目に悪すぎる。ただの視力悪化もカチリカの魔法は治せたりするのだろうか? あるいは彼女自身が、電気のついた明るい部屋でも問題なく眠れるだとか……。

「…………」

 少し手を動かせば分かるように、カチリカの小さな体は依然として俺の隣、胸の中にある。魔界まで来て、眠れなくてスマホをいじるだなんて、何か違うんじゃないかという気がしてくる。

 気まぐれに、彼女の頭を撫でてみた。その白い髪の撫で心地は、今まで散々触れてきた骨の感触とは対照的に、とても柔らかなものだった。

 彼女がこちらを見上げたことが、暗闇の中でも気配で分かる。

「眠れないの……?」

「まぁな」

「……する?」

「うーん、せっかく風呂入ったあとだしなぁ……」

 我ながらずいぶんな贅沢を言うようになったものである。人間界に帰ればセックスのあてなんか一切ないくせに。

 あえてその贅沢を楽しむべきなのか、一度でも多く彼女の体を味わっておくべきなのか……。こちらを見上げる少女を撫でながら悩む。ふわふわした髪の感触が気に入った。

「……お兄さんってさ」

 されるがままに甘んじているカチリカが、今までとはどこか違うトーンで言う。

「他では出来ないことを、やってみたい人だったりする……?」

 十分すぎるほどの対価と安全を提供しているとはいえ、人に大怪我をさせても平気な顔をしている彼女が、この時ばかりはなぜか、恐る恐る言葉を選んでいるような印象があった。

「バレたか」

「やっぱりー。なんかそういう感じがしたもん、出来るだけのことをやっとこう、みたいな」

「悪かったな。……それも明日で終わりだ」

「悪くなんかないよ。楽しかったもん」

 過去形の言葉が、俺の胸をいとも簡単に締め付けてくる。

「でも、だとしたら分からないんだけど」

「うん?」

「それならやっぱり、拒否権なんていらないんじゃないの? やったことないことは、全部やってみたらいいのに」

「……言っただろ、尊厳の問題だって。興味より優先する物なんだよ、それは」

「……そっか」

 意外と諦めが悪いのか、と思った矢先だった。予想外の問いが彼女の口から投げかけられる。

「お兄さんは、もしも私が犯罪者だったらどう思う?」

「はぁ?」

「前科持ちだったら……って言い換えてもいいかな」

「……あるのか? 前科」

「あるって言ったらどうする?」

 突拍子もないわりに、その言葉の中におどけた調子はなかった。

 どうする、と言われれば、失礼ながら「まぁ言われてみれば……」みたいな感想が浮かぶけれど、それは口に出してしまってもいいものなんだろうか……?

 無難な答えは、すんなりとは思い浮かばない。そうして言葉に詰まる俺の生み出した沈黙を、彼女がどのように受け取ったのかは分からないけれど。しかし何にせよ彼女はたたみかけてきた。

「もし私が犯罪者だったら、私のこと嫌いになる? それともすでに嫌い?」

「どうしたんだ急に。……嫌いだと思うのか? これだけ好き勝手しておいて。君が言ったんだぞ、君みたいなサキュバスは探して見つかるものじゃないって」

「……そっか。じゃあ言うけど、お兄さん、私はね」

 カチリカの声が、暗闇の中でほんの少しだけ震えている気がした。

「私が犯罪者でも、お兄さんが「前科持ちの女とヤれるなんて貴重な体験だ、ラッキー」って思ってくれたらいいなって思うの。……どう?」

「どうって……」

 確かに捉え方によっては、それも「未体験」の内だ。尊厳に関わるようなことでもない。ラッキーかアンラッキーかで言えば、まぁラッキーに該当するのだろうなとは思う。処女だ非処女だという話と違って、前科の有無がセックスにどんな影響を及ぼすのかは想像もつかないけれど。というか影響なんて無いんじゃないか。

 ……しかし、そんなこととは関係なく、それが彼女のカミングアウトだというなら、聞かされた俺がかけるべき言葉は一つしかない。

「そりゃ思うさ。ラッキー、またとない体験だって。なんといっても俺の身の安全は保証されているわけだからな」

「……えへへ、そうなんだ。まぁ私に前科はないんだけどね」

「ないんかい!」

 それは結構なことだと思いますけどね! じゃあなんだったんだ今の話は……。

「まぁまぁ、でもお兄さんがそういう人だって分かって安心したよ」

「なんで安心するんだ」

「私、昔いじめられてたんだ。中学生の頃ずっと」

「……え?」

 聞き逃しそうになった言葉の意味が理解できず、漫画を一週読み飛ばしてしまったような感覚にとらわれる。本当に会話が繋がっていたのかと自信が持てなくなる。

「なに、いじめ……?」

「いわゆるカーストの高い女子たちがね、休日まで私のこと呼び出して、体育倉庫で寄ってたかって服を脱がせたの。上も下も、下着まで全部ね。それで羽交い絞めにして写真を撮って、指さして笑うの。そんな貧相な体じゃサキュバスとして生きていけない、お前とヤるやつは全員仕方なくヤってるんだって」

「…………」

「それで私、その時泣いちゃったんだ。……変だよね」

「……変ではないだろ」

「変だよ」

 人の心に土足で踏み込むな、という言い回しがあるけれど、踏み込むどころか、こんなにも前触れもなく招かれることがあるとは、俺は知らなかった。

 まくしたてるように語られるカチリカのことに頭が追い付かない。俺に出来るのは、彼女の髪の感触を確かめながら困惑することくらいだった。

 困惑の中から、言葉は、全て反射的に出る。

「だってサキュバスなんだよ。裸を見られることの何が嫌なの? 人間じゃあるまいし」

「でも、そのサキュバスとしての部分を貶されたんだから、仕方ないんじゃないか……? それに裸を見られるにしたって、悪い見られ方っていうのは色々あるだろ」

「……そうなんだよね。今日、お兄さんのおかげで分かったんだ。たぶんあれが尊厳ってやつだったんだなって。今はもうあんまり分からないけど、子どもの私には、自分から脱ぐのと無理やり脱がされるのは別だったんだと思う。サキュバスとして生きていけないなんていうのが、嘘だってことも分からなかったし」

「……そうか」

「うん。だからよかったねお兄さん、いじめられっ子を抱く経験だって、ちょっとは貴重なんじゃない?」

「かもな……」

 仮にこの先の俺にカチリカ以外の誰かを抱ける機会がやって来たとして、その人にいじめを受けた過去があったとして、俺なんかにそれを話そうとはしないだろうから。そういう意味では、確かに貴重ではあったように思う。自分が、こういった時に何も気が利いたことを言えない人間であるということへの気付きなんて、一生無いままでいられるならその方がよかったに決まっているのだけれど。

「お兄さん、明日になったら帰っちゃうんだよね」

「ああ」

「やり残したことはない?」

「……山ほどあるんじゃないかな。未体験のことなんてたぶん無限にあるだろ」

「あはは、そうかもね。……もっといろいろさせてあげられたらよかったんだけど」

「いや、十分すぎただろ」

「どこがー。この体を好きにさせるってだけで与えられる物なんて、高が知れてるよ」

「そんなわけがない。人間界には今頃も悶々とした男がいくらでもな……」

「そんなのは些細なことだよ。だってそうじゃなきゃ、みんな私をいじめることに飽きたりしないでしょ。休日まで呼び出すくせに、卒業してからは一度も呼ばれなかった。その後の人たちだって……」

「……その方がいい」

「いじめに関してはね」

「…………」

 壁掛け時計の秒針の音が、妙に目立ち始めた。カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ……と、さも意味ありげに、俺の頭の中に無意味な音が響いてくる。俺は昔から、余裕がない時ほど雑音が気になってしまう性分を背負っていた。

 音が響いたって、それが何度鳴ったか数えようだなんて思わなかった。どれくらいの間悩んでいたのかは分からない。体感としてはひどく長かったように感じる思考の末に、俺はそれを口にすることを決意する。

 悪意はないということが、はたして彼女に伝わるだろうか。

「なぁカチリカ。もしかしてそれは、心に土足で踏み込んでほしいってことなのか?」

「え?」

「俺には、気の利いた言葉をかけるなんて無理だ。土足で心に踏み込んで、そのまま踏み荒らされたいってわけじゃないなら、……もう寝よう」

「…………」

 それが彼女の耳にどのくらい冷たく聞こえたのか、俺には分からない。いじめられた経験なんてないからだ。現実のそれを目にしたことさえない。その上、相手のかけてほしい言葉を見抜くだけの気遣いのセンスもない。だから俺に出来るのは、気の毒なカチリカを冷たく突き放すか、理解のない言葉をかけて彼女の心を踏み荒らすかのどちらか一つだった。

 内心、どうせ明日には別れるのだから、どうしてそんな話は心の内にしまっておいて、上っ面だけでも楽しげにしていてくれなかったんだと、そんな風な逆恨みをしてしまう人間に、本当にどうして彼女はそんな話を打ち明けてしまったのだろう? 今までのやり取りの中で俺がいつの間にか、俺という人間の性質を彼女に勘違いさせてしまったとでもいうのだろうか。痛みはなくて明日には治ると分かっている怪我と引き換えに、好き勝手に欲の限りを貪っていただけなのに?

 それともやっぱり、そうやって好き勝手しているだけの人間が、上っ面だけでも楽しくなんてことを望むのは、高望みというやつなのだろうか。

「お兄さんはどうしたいの?」

 彼女の声から震えは消えていた。元々それは僅かばかりのことだったから、気のせいだったのかもしれない。

「どうしたいって?」

「いじめられっ子の話を、根掘り葉掘り聞いてみたいんじゃないの? きっと二度とないよ、そんな機会。……それにそれは別に、お兄さんの尊厳を傷つけないんじゃない? よく分からないけど」

「君が傷つくだろ」

「そんな風に見える?」

「……見える」

「嘘つき」

 目が慣れてきたせいか、カチリカの瞳だけが薄っすらと輝いてこちらを睨んでいるように見えた。けれどそれは違った。その瞳の中に見えるぼんやりとした光には見覚えがある。それは俺が彼女を抱く時に、まるで当然の権利であるかのように俺が彼女の裸体をこの目に映す時に、いつも見ていた淫紋の光と同じ色だった。

「お兄さんは変な人だね。未体験のことがしてみたいのに、本物のいじめられっ子から話を聞き出そうともしないし、セックスは普通すぎるし」

「もうセックスの件はほっといてくれよ……」

「だって、変なんだもん。お兄さんの尊厳を傷つけなくて、なおかつめったに出来ないようなプレイなんて、それこそ無限にあるでしょ? なんで気を遣ってるの?」

「そりゃ多少は遣うだろうに。やめてと言われたらちゃんと、真っ昼間から無理やりひん剥いて外に連れ出そうなんてことはしない程度に……」

 口に出してみて、はっとする。彼女の過去を聞かされた今なら当然振り返り、考えてしまうことだ。あの時彼女は「裸で外に連れ出される」という行為についてどう思ったのだろう……と。実行こそしていないとはいえ、それは彼女のトラウマに触れる発言ではなかったのか。

「それはお互い捕まっちゃうからでしょ。部屋の中でなら何をしても大丈夫だよ。お兄さんも私の裸を写真に撮ってみる? あぁでも羽交い絞めにする役の人がいないのか」

「……じゃあまた質問に答えてくれ、今」

「いいよ」

 にこにこと、ぼんやり光る瞳が機嫌良さそうに細められる。その目に映っている男が彼女にとっては、扇情的な怪我だらけの理想の存在に見えているのだろうか。

「俺が犯罪者だったらどうする? 嫌いになるか?」

 意趣返しのつもりでそう聞いた。その手の試みが徒労に終わることはつい最近学習したはずなのに、やめられなかった。

「全然。お兄さんのことは好きだよ」

「じゃあ俺がいじめの加害者だったら? 君みたいな人のことを自殺に追いやっていたら?」

「……そんなことしたの?」

「してたらどうする?」

「…………その人のかわりに私がいじめられてれば、全部丸く収まったのにって思う」

「……あぁ、そう」

 俺も、彼女も、「嫌いになるか?」と聞かれているのに、質問にちゃんと答えることは出来ないものだった。

 その気持ちは痛いほど分かる。簡潔な答えを口に出来るほど事が単純ではないことが、なんとなく雰囲気で察知できてしまうのだ。

「俺にはカチリカのことがよく分からないよ」

「難しく考えすぎてるの? 単純な話でしょ」

 包帯やギプスの上から、動かない左腕をさすられる。触れられている感覚はあっても痛みはない。きっと寝返りを打った拍子に下敷きにしてしまっても気付かないだろうなというくらい、そこに痛みという感覚は欠如している。

「どうして人の腕をこんなにしちゃう女なんかに、気なんか遣うの? お兄さんの方がよく分からないよ」

「……それは手段と目的が逆なんじゃなかったか?」

「なにが?」

「怪我をさせるために、罪悪感を出させるために、まずは自分が痛い目に遭うんだろ。すでに怪我をさせ終えた相手まで挑発してどうする」

「さぁ、どうするんだろうね? なんでそんなことするのか、考えたら分かると思うんだけどな」

「…………」

 この世界がもしもエロ漫画の中だったら、その答えはきっと「彼女は本当はマゾで、暴力的なセックスをしてほしいから」になるんだろう。それで、もちろん現実はそうじゃない。だから考えたところで分かるわけがない。おかしなことを言う相手の心なんて、いや、他人の心なんて全て、考えたところで分かるわけがないのだ。……だから、分からなければ質問をするに限る。それが可能である場合は、だけれども。

 けれどそのわりには、カチリカは俺のことをよく理解しているようだった。未体験を埋めていこうという魂胆に気付いているだけではない。俺という人間が、分からなければとにかく聞いてしまえばいい……というスタンスで生きていることに彼女は気付いている。「なんでもしていいというのは、どんな質問にでも答えてくれるという意味か?」なんて確認してしまったものだから、それを見透かされたのかもしれない。

 ……そうやって、すでに見えている物だけで、カチリカのことも理解できるというのだろうか? もしかしたらそうなのかもしれないけれど、俺にはそれが出来そうもない。

 一方で、俺は彼女に心境を問うことも出来ない。「カチリカはこんな時、どういう言葉をかけてほしいんだ?」なんて聞くのは、女性に年齢を尋ねることとは比べものにならないようなことだ。いくらなんでも出来やしない。

 彼女が俺に何を求めているのかは分からない。例えばそれは刺激的なセックスなのかもしれないけど、具体的にどういう風にすれば「刺激的」になるのかも分からないし、どうしようもない。つらい過去を打ち明けて、かと思えば挑発をして、彼女はいったい俺に何をどうしろというのか……。

 何の手がかりもなく、思考は堂々巡りになる。段々と考えること自体が面倒になってきて、つい、俺は目を閉じてしまった。視界の暗闇は一層深まり、秒針の音が余計に耳に触る。

「もう!」

 突然の鋭い声が鼓膜を刺した。掛け布団が勢いよく取り払われる。何事かと思い目を開くと、膝立ちになったカチリカが不満とも怒りとも取れない目つきでこちらを見下ろしていた。

「私ばっかりお兄さんにひどいことして良心が痛むから、お兄さんも私にひどいことしてって言ってるの! なんで分かんないの!?」

「……は?」

 日本語の文章として、その言葉の全てを理解出来たわけじゃない。しかし要所要所の単語を脳が自動的に拾って、その拾った単語をきっかけに、俺の認識には天変地異のような激変が起こった。

 ……今、もしかしてカチリカは、自分の罪悪感の話をしたのか? 相手に植え付ける罪悪感の話ではなく……?

「殴ったり蹴ったりすればいいのに。爪でもなんでも剥がせばいいのに。今からでも私をひん剥いて外に連れ出してくれたらいいのに。他のことだってなんだっていいのに……。お兄さんもどうせそうしたいんでしょ……? みんなそうなんだから」

「な、なんて言いぐさ……」

「ひどいこと言われたと思ったなら、ひどいこと言い返してよ! じゃないと私が悪いことしてるみたいでしょ……!?」

 パンチの利きすぎた台詞からは信じがたいことに、彼女はその瞬間泣いていた。

 なぜ泣く? なぜこのタイミングで? 罪悪感があるから? 二日間、ずっとあんなに楽しそうにしていたのに……?

 わけが分からなくなって、俺の口からは本心が漏れ出てしまった。

「じょ、情緒不安定すぎて怖い……」

 カチリカが潤んだ瞳をにやりと細めたことで、俺は自分の失言を自覚する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……冗談みたいに、外から雀の鳴き声が聞こえてくる。スマホで時刻を確認すると、朝食の時間までにはまだ余裕があった。

 一睡もできなかった。

「ん、おはよう……」

 ショートスリーパーを自称するだけあって、昨晩散々嬲られたカチリカは、それでも俺の動きを察知したのか起き上がってくる。服は着ていない。

 カチリカのショートスリーパー……あるいは不眠症。浅い眠りの彼女が、悪い夢を見ていなければいいのだけれど……と願うのは、どの口が言うんだという話になるのだろうか。

 昨日、カチリカの涙を見たあと、俺は全面的に彼女に流されてしまった。一時的に全ての怪我を治してもらい、彼女の体で確かめてしまったことがたくさんある。

 例えば、挿入したまま首を絞めたり腹を殴ったりすれば、締まり具合にどんな変化があるのかだとか。例えば、男の本気の力で何度も何度も平手打ちをし続けたら、彼女の肌……例えば尻や、背中や、顔は、どんな風に変色してくのかだとか。……そういう知識を、知見を、俺は一晩で大量に得てしまった。

 それらは全て、昨晩のたった数時間のうちのことだ。解除した実績の数で言えば計り知れないだろう。けれどそれは名誉などとは真逆の、倫理的な負債であるように思う。俺が今後ずっと心の中に背負っていかなければならないものだ。罪悪感なんて物ではなく、それこそ前科のように。

 ……けど正直に言うなら、高揚感については今までの人生で一番かもしれない物があった。自分が人でなしの変態であることを自覚させられてしまったことになる。二十年と少しを生きた経験上、自分の性格的に、それを隠して生きていくことがそこまで苦になりそうではないことが、唯一の幸いではあるけれど。

 行為中、カチリカが泣いていたのは初めだけだった。むしろプレイが激しくなればなるほど、彼女は愉快そうに笑っていたように思う。まぁ魔法で痛みは消しているのだから余裕はあって然るべきなのかもしれないけれど……。それにしたって特に印象的だったのは、一度休憩を挟んだ時のことだ。

 俺はその時、すでにハイになっていた。全てのことは、己の振るった暴力が呼んだアドレナリンのせいだったのだと思いたいけれど、きっとそうではないのだろう。

 

「その気になればこんなことが出来るなら、最初からそうしてくれたらよかったのに」

 半ば手違いで出てしまった鼻血をティッシュで受け止めながら、顔の片方だけを真っ赤に腫らした彼女はそう言った。

「出来るかよ。通報されるわ」

「しないってば。……でもさお兄さん、相変わらず言葉の方は全然だよね」

「言葉?」

「散々私につまらないセックス~とか言われてるのに全然言い返さないし。今とかちょうどいい機会なんだから、「このメスブタ!」とか言いながらヤってくれたらいいのに」

「それ、実践したら笑うだろ」

「笑うね! ……私は笑いたい時に笑うし、言いたいことは言うよ。だからお兄さんもそうして?」

「してるつもりなんだけどなぁ。……あぁでも一つだけ、さすがにひどすぎると思って言わなかったことがある」

「お、聞いてあげよう」

「後悔しない?」

「するわけないでしょ。やっぱり話さないとか言ったらまた泣くからね」

「勘弁してくれ……。……じゃあ言うけど、これは質問だ」

「なにかな?」

 その時の俺は、正常な判断が出来なくなっていた……というわけでは、残念ながらないように思う。「正常な判断」という物が何なのか、頭の中では理解出来ているのに、なぜだかそれを突っぱねてしまったのだ。同じ風に同じような物を、その数時間の間に何度も突っぱねていたせいで、一時的に抵抗がなくなってしまっていたのかもしれない。

「……いじめの内容にレイプはあったのか?」

「あったよ」

「へぇ……」

「サキュバス相手じゃそれはいじめに入らないと思った?」

「そんなわけないだろ。服脱がされてる時点で分かる」

「あぁそっか。そうだなぁ、あの時は大変だったよ。なんでか知らないけど小心者の男が来てさ、今思えばいじめでレイプするならもっと厳つい人が来るんじゃないのかよーって話だけど、小心者は小心者で怖いところあるよね。取り巻きが私の体押さえてるから心配ないのに、なんか刃物とか見せびらかして脅してきてさー。カッターナイフで」

「カッター……」

 彼女が服のポケットに忍ばせていたような、俺の体にいくつかの傷を付けたような、例のそれを思い出す。

「そうそう。で、当時は私もバカでさ。それにびびって、いつも以上に嫌だ嫌だってじたばた暴れちゃったんだよね。そしたら偶然、近づけられてただけの刃が肌にかすって、血が出て……。あれはたぶん私だけじゃなくて、その場の全員が焦ったと思う。血が出て、痛くて、怖くて、さらに必死に抵抗する私と、それをどうにか押さえつけようとするいじめっ子たちとで、もう半狂乱……。それである時、私を黙らせようとした誰かが本気で殴ってきて、一人が殴ったら二人三人って……。ボコボコにされたんだ」

「……それ、その頃はカチリカの魔法はまだなかったってことか?」

「うーん、どちらとも言えないかな。だってその瞬間に魔法を覚えたんだもん」

「え、そんなことある?」

「全然あるある。まぁそれで事なきを得ましたってわけ。あの時魔法を覚えてなかったらいろいろやばかったね。隠しようがない箇所までアザになってたんだから」

「事なきを得たって、レイプは……?」

「されたよ? けどまぁ、些細な問題でしょ。サキュバスだし」

「そんなわけはないだろ……。でもそうか、そんな経緯で魔法がなぁ……」

「へぇ〜、お兄さんはこのあたりの話に興味があるの? いいよーもっと詳しく聞いてくれても。どんな体位でされたのかとか」

「いや、ていうかさ、……確か後悔しないって言ったよな?」

「ん? あぁ、うん、言ったけど、なんでもう一回聞くの?」

「なんでって、…………ごめんカチリカ、もう一回だけ」

「えっ!? えっ、ちょ、なんで勃ってるの!? 今の流れで!? えっちょっめっちゃ変態じゃ……あっ、ねぇっ! もう~! さいて~!」

 罵るような言葉とは裏腹に、彼女はけらけらと楽しそうに笑っていた。本当に楽しそうに……。それが虚勢である可能性についての思考なんて、もう金輪際かなぐり捨ててしまいたくなるほどに。

 

 ……振り返ってみれば、本当に最低なことをしたように思う。彼女の魔法は精神攻撃から身を守ってくれるものではないのに。

「おーい、お兄さーん」

 物思いに耽っている間に、気が付くと目の前を骨ばった手のひらがヒラヒラしていた。

「あぁ、ごめん、何? 昨日の夜のこと考えてたわ」

「ん、したりなかった? 最後にもう一回しとく?」

「いや、いい。満足した」

「そっか」

 カチリカはほんの少しだけ肩透かしをくらったような顔をして、けれど別にそれ以上迫ってくることもなかった。

 彼女の魔法はいい物だ。昨日はいろいろとやりすぎてしまって、彼女の体にも本来一日二日では治らない痕をつけてしまったけれど、それらはすでにすっかり面影もなく消え去っている。確か昨日の最後に、そっちの体の傷は全て治しておいてくれと俺が頼んだのだ。……そうでないと、翌朝罪悪感に苛まれるだろうことが、アドレナリンでおかしくなった頭でさえも容易に想像できたから。

 人の罪悪感につけこんで性癖を満たそうとするカチリカの扱う魔法が、実際のところは他人の罪悪感に対して優しい物になっている。そしてカチリカ自身も罪悪感を操る側になるどころか、その手口の自家中毒に陥っていたりもする。……どこかで聞いたことのある話だと思った。例えば悪口を言う人は、自分が言われると一番傷つく言葉を選んで相手にぶつけるのだ……とか。

「あーあ、今日でお兄さんともお別れかぁ」

 服も着ないまま、再びぐでーっと布団に伏したカチリカが言う。

「せっかく楽しくなってきたのになぁ」

「俺もだよ。帰りたくない」

「なら!」

「言っただろ、金がないんだ。帰るんだよ」

「ぶー」

 わざとらしく唇をとがらせる彼女に、初めからそんなに可愛らしいコミュニケーションをする人だったっけ? と違和感を覚えたりする。でも可愛くなるのはいいことだ。

 俺だって帰りたくはない。別に昨日好き勝手したらなおさらそう思うようになったというわけではないけれど、でもいくら好き勝手が許されたところで、例えばカチリカは俺を養ってくれたりはしないだろう。

 金銭の絡むこと……。それは法律と同じで、彼女一人の意思だけではどうにも許してやることの出来ない、とても大きな事柄なのだ。無理だと分かりきっていることをわざと突きつけるような意地悪は、さすがに二度もしなくたっていいだろう。

 それから朝食の時間までの間、俺たちは何の魂胆もなく雑談をして過ごした。もう俺の方に、未体験の試みをするような体力は残っていなかったからだ。過激なことだらけだった旅の中にあってエピローグのようにおとなしいそのお喋りでは、主に人間界のことについてを語り合った。

 カチリカは一度も人間界に行ったことがないらしい。今度は俺が質問に答える番だった。

「今の人間界で、サキュバスはどんな感じなの?」

「どんな感じって言われても……。あぁ、そういえば最近、ゴールデンタイムのテレビに出てくるサキュバスが増えた気はするかな」

「へぇー。テレビかぁ。熱湯風呂に落とされたりとか?」

「いや、まだそういうお笑いに参加するところまでは来てないから……。無駄にエロくなりそうだし」

「私もやったことない」

「俺も別に見たいとは思わない」

「えー、なんでー」

 布団の上に座って話しながら、俺は意味もなくカチリカに触れる。彼女はその必要性を感じていないのか、いつまでたっても服を着ようとはしなかった。

 無防備な彼女の、頭を撫でて、頬に触れて、未成年かと見紛うような小さな体をこれみよがしに背中から抱きしめてみる。それ以上のことをたったの二日で腐るほどやってきたからか、彼女はそれらのスキンシップにいちいち反応するということはなかった。

 昨晩、行為の邪魔になるからと一度治された俺の怪我は、事が終わったあとにカチリカの要望で全て戻されている。再度全く同じ怪我をさせられたのだ。不便がないようにきちんと服を着てから一思いに……。

 期待のまなざしを向けながら、人間離れした力でポキリと彼女は俺の腕を折り、俺は俺で期待通りのうめき声を上げた。一度や二度で慣れられる感覚ではなかった。……けど、どうしても嫌だとゴネるほどのことでもない。それにこれはおかげで新たに知れたことだけれど、片腕だけでも、人を抱きしめるということはそれなりに出来るものだ。

 彼女の小さな体に触れていると、もうすぐこの旅が終わって夢が覚めてしまうと分かっている時でも、心なしか少し安心できる気がした。けれどそれはきっと、言葉の聞こえほど美しいことではないのだと思う。俺はたぶん、……自分より弱そうなものに触れることで安心しているのだろう。

「お兄さんって、仕事は何してるの?」

 人間界の話になった時から、その話題が来るだろうとは身構えていた。

「ピッキングのアルバイト。プラモデルのパーツを扱ってる。……フリーターなんだ」

「へぇ、プラモデル好きなの?」

「そうでもないけど……。でもホワイトな職場だし、場所も家から近くていい仕事だよ。朝八時三十三分の電車に乗ってたったの二駅、しかも座れる」

「座れるって二駅じゃん」

「そうなんだよな、逆なんだよ。ピッキングってずっと立ってやるんだ。足を棒じゃなくて飾りにしてみたいもんだよ俺も。……って、この台詞わかる?」

「知ってる、ガンダムでしょ」

「お詳しいことで」

「好きな人多いから」

 サキュバスたるもの、男が好きそうな話題の知識は仕入れておいて損はないのかもしれない。しかしそれはどこか仮面ライダーについて学ぶ幼稚園の先生に似ていた。

「カチリカは? 何の仕事してるの?」

「私? 私は、先月まで事務やってたよ」

「先月まで?」

「そう、先月まで。……ちょっといろいろあってね」

「いろいろか。サキュバスも大変なんだな」

「私が社会不適合者なだけだよ。向いてないんだよね、集団ってやつが」

「あー……。まぁそれは俺もそうだが」

 集団行動が苦手だということも、社会不適合者だということも、全く同じだ。だから彼女とは気が合ったのかもしれない。

 ……いや、どんなに幼く見えてもどんなに寿命が長くても、カチリカは俺より十個も年上なのだった。サキュバスの成長ペースは途中までは人間のそれと同じで、当然魔界の社会もそれに沿って成り立っている。……先月まではどこかの会社の事務員として働いていた彼女と、俺みたいなやつが同じであるわけがない。

 それでも気が合うというなら、むしろそちらの方が救いにはなるけれど。

「あっ、そうだ」

 何かを思い出したカチリカが脱ぎ捨てられっぱなしの衣服の小山を漁る。彼女がそこから最後に取り出した物はスマホだった。最後の最後で、ようやく自然な物が出てきたように思う。

「お兄さん、写真撮っていい?」

「写真?」

「今のお兄さんの姿、とっても素敵だから。残しておきたいな」

「写真はあまり得意じゃないけど……、まぁいいか。確かにこんな写真撮れる機会二度とはないだろうし……というか二度目があってもらっちゃ困る。俺は魔法が使えないんだから」

「あはは、それはそうだ。痛いのは誰だってね」

 とはいえ二十四年の人生で、自分の写真写りという物は嫌というほど理解しているから、本当は気が進まなかった。しかしその気持ちは無理やり見ないふりをして、全裸のまま立ち上がってスマホを構えるカチリカに対して、俺ものろのろと起き上がり渋々直立する。

「ほら、お兄さん、ピースピース。動かせる方の腕でピース!」

「はいはい」

「あっ、いいね~その物憂げな表情、最高、興奮しちゃう……」

「早く撮ってください」

「はーい、いくよー」

 その撮影アプリは、どうやら無音でシャッターを切るらしかった。彼女はしばらく真剣な顔つきで画面を眺めてから、憎たらしいくらい満面の笑みでこちらを向く。

「完璧!」

「よかったね」

「うん! じゃあそろそろ朝ごはんの時間だし、一旦解散しようか。私またこの部屋で待ってるから、ちゃんと見送りまでさせてね。お兄さんが人間界に帰るその時まで」

「ああ。今度はちゃんと部屋の中で待っててくれよ、別に何も思わないから」

「じゃあ貴重品も置いていく?」

「……いいとも、サキュバスは人間に危害を加えないらしいからな」

 考えてみればそのルールは、何かしらの犯罪を行う悪人の立場からしても厄介な物なのかもしれない。濡れ衣を着せられる相手が限られることになるから。

 宿の用意した朝食は昨日とほとんど同じ物だったけれど、別に飽きたということはなかった。そして腹を満たしてから部屋に戻ると、さすがにカチリカも服を着ていた。さっきまで脱ぎ捨てられていた、昨日と同じ白い服。俺を見送り終えたら家に帰って着替えるのかもしれないが、なんとなく、着替えた後もそのカラーリングが大きく変わることはないように思えた。

 不意に、血が映えそうな色だな……と思う。どうして自分がそんな物騒なことを考えたのかは、コンマ数秒後には分からなくなっていた。

「お兄さん、この後の予定は?」

「昼までは自由。だけど、特にすることも思いつかないな……」

「散歩にする? さすがにもう奢ってはあげないけど」

「それは残念だなぁ。……まぁ適当にぶらぶらするか」

「ついて行っていいよね」

「当然」

 セックスと同じくらい、ロクな目的も無しに女性を連れ歩くなんてこと、元の生活に戻ったら二度と出来やしないんだから。……あるいは普通に一人だと寂しいから。

 全てリュックサック一つに収まるような、まとめるほどの量でもない荷物をまとめて、先に宿をチェックアウトする。カチリカの救急箱も、とりあえず今はその中に入れておくことにした。

 来た時に比べて左腕は折れ、右目には眼帯が付いており、右腕や顔にも絆創膏が貼ってあるけれど、受付の人は愛想の微笑みを浮かべるくらいで、何も首を突っ込んでくることはなかった。それが非常にありがたい。適当に話をでっち上げることは得意だけれど、得意だからといって疲れないわけではないのだ。

 外に出て光の下に晒されると、なんだかものすごく久しぶりにそうしたような気がした。朝食スペースにあった大きな窓からも日の光は感じたのに、ずいぶん長い間外に出ていなかったような錯覚があった。実際はこちらへ来てから毎日散歩に出ているというのに。

 昨日一昨日と違って、今日の日差しは少しだけジリジリとしていて暑かった。

「どこ行く?」

「行ったことない道」

「ふふ、いいよ」

 今日のカチリカは腕を組んでくる。なぜか真っ昼間からそういうノリで街を歩いている人って人間界にもいたよなぁ……と俺はしみじみ思いだした。

 適当に歩いていくうち、迷路じみた住宅街に迷い込んでしまった。とはいえカチリカいわく帰り道は分かるらしいので、時間の心配はない。どこを曲がっても同じような景色の、不思議のダンジョンを歩いているような気分で、何か面白い物はないかと探しているとそのうち滑り台とブランコだけがある小さな公園がポツンと出てきた。

 拳銃程度の小さな水鉄砲を持った子どもが数人、そこで走り回っていた。夏にはまだ少し早いが元気なことだ。

「あっ、くそ、弾が切れた!」

「今だー! やれー!」

 水鉄砲の中身が空になったらしい子が一人、ここぞとばかりにピシュピシュと集中砲火をくらっている。しかし次の瞬間、

「ひっかかったな!」

「うわっ、それズルだってお前! 無しだよ!」

 集中砲火をくらっていた少年は、鉄砲を持っていない方の手から、何も持っていなかったはずの左手から、打ち水のようにまとまった量の水を放った。不意打ちを受けた他の少年たちはそれをもろにくらいビショビショになる。

「へぇ、すごい」

 それを眺めて驚いていたのはカチリカの方だった。不審者にならないように、その場を自然に後にしながら聞く。

「あれも魔法なのか?」

「うん。でもあの歳で使えるのはすごいよ」

「小学生っぽかったもんな」

 カチリカが魔法を覚えたのは中学生の頃のことだった。魔法を扱えるようになる年代が平均でどのあたりなのかは知らないけれど、さっきの少年が天才に近いそれであったことはなんとなく分かる。

 しかしそれはそうと、さっきの少年たちには例えば角だとか、三原色そのままの肌の色とかはなかった。見た目は人間と変わらなかった。サキュバスも服を脱がなければ見た目は人と変わらないから、さっきの少年たちはその男性版……インキュバスだったのだろうか? あるいは魔法を使っていた少年以外は移住してきた人間か。

「さっきの子どもたち、見た目人間っぽかったけど、インキュバスとかなのかな」

「さぁねぇ。分かんない」

「えっ、分かんないの……?」

 現地民からの思わぬ回答に意表を突かれる。

「魔界にはいろいろな種族の人が暮らしてるけど、見た目でコレって分かる種族と、そうじゃない種族があるんだよ」

「へぇー……」

「明らかに日本人じゃないと分かる人間と、そうでもないけど日本人じゃない人間みたいな」

「あぁ、今すごい納得した」

 コンビニ店員の名札を見て、あっ日本の人じゃないんだ……と、だからどうしたというわけではないけれど驚くことはよくある。

 しかしそういう風に例えられるくらいなのだから、俺が知らないだけで、魔界は魔界で種族間のことがいろいろと大変なのかもしれない。多国籍国家ならぬ多種族籍世界なんて、ロクでもないいざこざがあちこちで起こっていそうだから。

 適当に歩くうちに住宅街から抜け出すと、今度は本当にまったく知らない大通りに出てきてしまった。そろそろ引き返して帰るべきか……と思い始めたところで、見たことない名前のコンビニが目に入る。魔界特有のチェーンだろうか? ……それにしても本当に、概念自体はあらゆる物が人間界と同じで、逆に不安になってくる。自分が今どちらにいるのか、ふとした時に忘れてしまいそうで。

 コンビニの入り口の横には野良猫が寝ていた。人間界の猫に比べて、その猫の両耳は明らかに大きかった。

「何か買うの?」

 常時腕を組んだままのカチリカが不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。

「ソフトクリーム。君も食べるだろ」

「……いいの?」

「飯と違って安いからな……」

「わーい!」

 やや気の早さを感じるとはいえ水鉄砲で遊ぶ子どもが現れるような日差しに晒されて、ちょっと冷たい物を食べたくなっただけだ……と言えたらよかったのだけれど、さもこれで奢りの件はイーブンだ……みたいな気持ちがなかったといえば嘘になる。イーブンになるわけがないのに。

 イートインコーナーに入って二人でバニラソフトを舐める。ソフトクリーム特有のねじれたような形は、舐めとられることによってあっという間にただの円錐形になっていく。経験したことはないけれど、陶芸を連想した。

 カチリカも同じような感覚でいるのだろうか、時々視点を引いてアイス全体の形を調整しながら食べているようだった。

「……昔な、豆乳ソフトっていうのを食ったことがあったんだ」

 んぇ? と舌先を白くした彼女が聞き返してくる。

「豆乳で作ったソフトクリームが近所のコンビニにあったんだよ。小学生だった俺は親にそれをねだった。いいの? バニラじゃないよ? と何度も確認する母親にな。……だって明らかにバニラみたいに白いのに、バニラとは違うって言われたら気になるだろ?」

「へぇ、その頃から好奇心旺盛だったんだ」

「それは……どうなんだろう? アイス食ってただけだし。……で、その時食べた豆乳ソフトはかなり美味しく感じたんだ。むしろバニラより好きかもしれないってくらい。でも大人に……高校生になってからもう一度食べたそれは、なぜか全然美味しくなかったんだよな……。あれはなんだったんだろう」

「豆乳っていうのが何なのかを理解していたからとか?」

「いや、それは小学生の時点で注文する前に母親から教わった」

 先入観の説はない。味覚が変わったという説は、しかしそんなことがあるだろうか? 苦手だった物が食べられるようになるとか、濃い味や油にそこまでのありがたみを感じなくなるとかはあるだろうけど、昔の記憶が何かの間違いだったのではないかと思えてくるほど同じ物が全然美味しくなくなるなんてこと、そんなことあり得るのか……?

 手元のソフトクリームを舐めると、これといって問題なくおいしいバニラ味がする。魔界特有のコンビニで食べるソフトクリームは、人間界のどこでも食べられるそれと同じ味がした。

「とにかくそれから俺は、豆乳ソフトを二度と頼まなくなったんだ」

「それはそうだろうね」

「……ごめん、何の話だったのかは俺も分からなかった」

「思い出話でしょ」

 コーンの上に盛られたアイスがほとんどなくなってしまうと、カチリカはコーンの下、先端から残りを食べ始めた。中に残っているアイスがこぼれることを考えるとコーンの向きを変えられないので、必然的に剣を飲み込む手品みたいなポーズになっている。

 昔、チョコ味のソフトクリームでそれをやって大失敗したあげくに服を汚して、母親にめちゃくちゃ怒られていた友達がいたなぁ……と思い出す。それはたしか幼稚園の頃の記憶だった。

 あっという間に全てのコーンをかじり終えたカチリカは、自分の指にアイスが付いていないかを確認して、それから言う。

「あのさ、お兄さん。私の勘違いだったら謝るけど」

「うん?」

「……向こうで生きるの、つらくない?」

 ほんの少し舌先について溶けただけの甘い汁が、それでも喉に詰まったような感覚に陥った。……一瞬だけ息ができなくなって、意味もなく大声を上げそうになる。

 もちろんそれらは、全て一瞬後には治まっていた。

「向こうって、人間界?」

「そう」

「なんで。つらそうに見えるか」

「うん」

「どのあたりが。……言っとくけど誰でも旅行の終わりなんてものは」

「誰でもそういう時は、センチメンタルになるもの?」

「……俺がそう見えるのか?」

 センチメンタル。感傷。……コンビニのソフトクリームを食べただけで昔の思い出を語る男は、そういう風に見られるものなのだろうか。

「いや、気のせいかも。ごめん」

「……なぁ、それってあれだろ。センチメンタルとか関係なくさ、今までの俺の君に対する態度が、ちょっと社会的に見て好ましくなかったからっていう」

「それもある。ご飯奢ってあげた人は何人かいたけど……」

「いや、待て、それ以上言わなくていい」

 出来ればその見解はあと数時間だけ丸ごと心の内にしまっておいてほしかったけれど、言えた立場ではない。

「あ、別に悪口言いたいんじゃないよ? でも、なんかそんな気がしただけ。……帰らなくたって、いっそこっちで暮らしちゃえばいいのにって」

「ふふっ」

 変な笑いが出た。初めて、カチリカがむっとした顔でこっちを見る。

 もうすぐお別れをして、今後二度と関わることは出来ないのだと思えば、悲しい一方で冗談を言うことも出来るのだと、俺は最後の最後にまた新しいことを知った。

「俺と離れたくないってこと? 寂しいよ~って?」

「うん」

「……それは俺もそうだけど、でも言った通り、そんなことをする金は」

「頑張ってこっちで仕事探してみない? 二人で住んだら生活費だって安く済むだろうし、私お兄さんとなら」

「カチリカごめん」

 謝罪の言葉が反射的に口に出ていた。冗談を言って茶化すつもりでいたのに、彼女の目を見ることが出来ない。

 手元に残ったコーンをかじれば口の中がひどくパサついてしまう気がして、俺はそれを握ったまま、それに向かって話しかけるように、彼女に謝るしかなかった。

「俺は、嘘をついた」

「嘘?」

「働いてないんだ、俺。高校卒業してからずっと、ニート生活ももうすぐ六年になる。ピッキングのバイトなんて全部嘘だ。八時三十三分の列車は電車通学をしていた頃の話だよ」

「……そうなんだ」

 抑揚のない声。怒っているのか驚いているのか、顔を見なければ分からない声。……その声が、続けて俺に質問をする。

「働きたくない?」

「…………」

「どうしても?」

「……信じてもらえないかもしれないけど」

 唾を飲み込む。こんな時に、俺は別の女性のことを思い出していた。あの人もカチリカと同じことを言っていた。俺がその人に童貞を卒業させてもらったのは、高校を卒業したあとのことだったから。

 まるで自分で自分にとどめを刺すみたいで恐ろしかったけれど、それでも言わずにはいられなかった。

「俺が働きたくないことと、カチリカのことが好きって気持ちは、別なんだ」

「どういうこと?」

「君のために働けないからって、君のことを軽く見ているわけじゃないってこと…………だけど、でも、ごめん……」

 握りっぱなしだった、まだ一口もかじっていないコーンが、小さな手にひょいと取り上げられる。いらないならもらっちゃお、と、おどけた声で。

 思わず彼女の方を向いた。カチリカの顔を見た。

 ……彼女は怒っているわけでも、驚いているわけでもなかった。……ただ俺の目を見ながら、寂しそうな顔をしているだけだった。

 けれど、それも一瞬のことだ。まるで思い違いだったんじゃないかというくらい、カチリカがそういう顔を見せたのは一瞬だけだった。

「でも、すごいね。それなら二泊三日の旅費なんてどこから出したのさ」

 彼女はまた先端の方から逆さにコーンをかじる。自然、天井を見上げる形で話しかけてくる。少し時間が空いていた分、コーンの中に残っているアイスは溶けだしていて、油断すればその一滴一滴が下に落ちてしまいそうだった。

「あぁ、その話はちょっと面白いぞ」

「へぇ」

「……小学生の頃から貯めてあったお年玉を使って来たんだ。笑えるだろ?」

 カチリカが、天井を見るのをやめる。

「笑わないよ。大事なお金だったんでしょう?」

 さっきの表情が、思い違いなどではないことを思い知らされた。

 俺はとっさに、テーブルの上にポタポタと落ちるアイスクリームを指摘した。すると彼女はすぐにそれを拭き取って、残りのコーンを全て小さな口に押し込んだ。

 今まで、いつも、くだらないことで笑っていたカチリカが、こんな時には少しも笑ってくれなかった。……たぶん誰でもそうなのだ。人も、サキュバスも、同じ状況になれば誰でもそうなる。暴力を振るわれて笑っているような、痩せた女でも例外なく。

 ……二人ともが食べ終わったのだから、それから普通に、店の外に出た。

「そろそろ時間やばかったりしない?」

 その一言を合図に、カチリカの案内で俺は元通りの知っている道まで戻ってきた。あとは真っ直ぐ進むだけで駅にたどり着ける。来た電車に乗って、暗いトンネルの中を二時間ほど通り過ぎれば、それで人間界に到着するだろう。

 ……うっかり、身に馴染みすぎて忘れるところだった。

「カチリカ、これ、そろそろ怪我を」

「あっ! ごめんごめん、忘れてた」

 ちょっとしゃがんで、と言われてそれに従う。カチリカは念入りに俺の頭を撫でたあとに、全ての「跡」を取り払った。

 両目が見える。両腕が動く。顔にも腕にも切り傷なし。あとなんかついでに、全体的に体が軽やかな感じがするのは気のせいだろうか? とにもかくにも、ものの数秒で俺の体は無事に全快した。

 救急箱もこのタイミングで返しておく。カチリカはそこや服のポケットに、俺から剥がして不要となった諸々を無理やり詰め込んだ。人体を固定するためにある程度硬いはずのギプスが、新聞紙みたいにグチャグチャと丸められていく光景には多少の恐怖を覚えたが……。

「そうだお兄さん、連絡先交換しとこうよ」

「えっ」

 いいの? と本当に間抜けな声が出る。逆に交換しない理由がないでしょ……と、ものすごく呆れた顔で言われた。

 両腕が解放されたことで素早く操作できるようになったスマホを使って、彼女とメッセージアプリのアカウントを教えあう。……なんというか、そんなことが出来るとは思っていなかった。二泊の間だけ続くような夢の世界での出来事を、現実に持ち帰るだなんて真似は、どうせ出来ないのだろうとばかり思っていた。

 適当なテストメッセージを送り、しっかりお互いの連絡先が知れたことを確認してから、俺たち二人は連れ添って駅に向かう。付き合いたての恋人みたいにカチリカが腕を組んでくるのは俺の怪我が治ったあとも同じだった。

 駅で時刻表を見ると、もうあと五分ほどで人間界へ向かう列車が来るらしい。

「じゃあね、お兄さん。向こうに行ってもたくさん話そうね」

「もちろん。……あーでも、その頃にはカチリカは別の男と寝てるのか……」

「そこはサキュバスだから。嫌なら働いてこっちで暮らせー」

「へいへい、そうですね……」

 そういえば知り合いの女性が自分以外の誰かとセックスしているところなんて見たことがないなぁ……と、ぼんやりどうでもいいことを考える。現実逃避なのかもしれない。

 ICカードをかざすと改札の入場ゲートじみた小さな扉が開く。一昨日ここへ来た時と同様、それはどうしようもなく世界の境目に見えた。

「じゃあね」

「うん、じゃあ」

 それだけ行って改札の向こうへ行く。ホームへ向かうためには少し離れた場所にある階段を利用する必要があるけれど、その道中に後ろを振り返ろうとは思わなかった。……もしもそこにカチリカがいなかったら、本当に夢が覚めてしまうような気がするから。夢は、少しでも長い方がいい。

「お兄さーん」

 遠くからそんな声が聞こえた気がして足が止まる。そしてそれは、次はもっとはっきりと聞こえた。

「伊古田くーん!」

 俺が振り返るのと、ちらほらと周囲にいた他人が何事かと振り返るのは、ほとんど同じタイミングだったように思う。

「まだ二十四なんでしょー! 若いんだから全然大丈夫だよー!」

 寿命が五百年あるうちの三十四歳であるカチリカが、長くても百年ちょっとしか生きられない人間の三十四歳みたいなことを言っていた。周囲の他人がじわじわと「伊古田とは誰なのか」ということに気付き始めたようで、明らかに俺の方に視線が集まってくる。……なんだか面白おかしい気持ちになってきた。

 遠くへ聞こえるように大きな声を出すだなんて、何年ぶりだろう? そう過去の記憶を漁ってしまうこともまた、彼女に言わせればセンチメンタルなのかもしれない。

 ……大きく息を吸い込む。

「それ、十八の頃からずっと言われてますよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 元の生活に戻ってから、カチリカが手加減をしてくれていたことに気が付いた。彼女は足には一つも怪我をさせてこなかったのだ。

 俺が、観光に来たと言ったからだろうか?

「伊古田~、お前魔界に行ったんだってなぁ」

 深夜、家族が寝静まった頃。俺は自分の部屋で糸原と通話を繋げながらゲームをしていた。ソフトはバトルロワイヤル制のFPSゲームで、俺が優勝するか糸原が優勝するか、それともそれ以外の人が優勝するか、決着の形は三種類と決まっている。

 すでに狙撃を受けて死亡した糸原は、完全に雑談モードに切り替わっていた。

「あぁ、行ったよ」

「誘えよ!」

「嫌だよ……。一緒に行ってどうするんだ、3Pか?」

「いや、それはなんか嫌だけど。でも、なんかこう……、一人だと緊張するだろ……!」

 本人の言葉を信用するなら、糸原は童貞である。その原因はたぶんそういう、緊張とか何とか言っているところなんだろうな……とは思う。というのも、彼は言ってしまえば普通の社会人だけれど、しかし欠点らしい欠点を持ち合わせていないのだ。……俺なんかより良質な人間なのだ。

 だから、あと彼に足りない物があるのだとすれば、それはネットで知り合って仲良くなった女性とオフ会をする勇気だとか、そういう物なのだと思う。緊張していたら童貞のまま狙撃されて死ぬというわけだ。

「……で、どうだった? 魔界は。 やっぱりサキュバスだらけなのか……?」

「だらけだったかは、なんとも言えないけど……。でもそうだな、まずセックスには困らなかった」

「し、正気か……。……それで? どうだった魔界のサキュバスは」

「どうだったって? そりゃ、「最高だった」としか言いようがないけど、それだとあんまり伝わらないよな……。ちょっと待て、いい表現を考える」

「いや、別にそんなレポしてくれとは言ってないが」

「思いついた! 糸原、日本人男性の平均寿命は知ってるか?」

「はぁ? あー、なんだっけ、八十とちょっとだろ」

「じゃあまぁ八十歳だと考えて、それって日数に直すと何日だ?」

「日数? 三百六十五をかけろってことか。相変わらず話が見えてこないな……」

 と言いつつ、通話先で彼が電卓をいじる雰囲気が漂う。スマホの電卓機能を使っているだろうから、カタカタと音が鳴ったりはしないけれど。

「あー、約三万日だな。二万九千二百日だ」

「ってことは、俺たちの寿命ってあとどれくらいだ?」

「はぁ? 面倒くせぇなぁ……。えーと二十四に三百六十五をかけて……。……まだ二万ちょっと残ってるみたいだな、寿命。……意外と短くないか? 人間って三万日くらいしか生きられないのか……」

「どこで感傷に浸ってるんだ……。で、それを踏まえて言うけど、あっ!!」

 会話に集中していたら、曲がり角で鉢合わせた敵との撃ち合いに負けてしまった。生き残りの人数が一桁になる段階にさえたどり着けず、この試合はここで終わる。

「あ、死んだか。……で、それを踏まえてなに?」

「うん、俺たちの寿命が残り二万日ってことを踏まえて言うけど、魔界っていう場所はな、…………あと一億五千万回くらい行きたい場所だった」

「うわ~! もうおれ絶対行くわ。金貯めて、今年のクリスマスに二十四・二十五と二泊で行ってやる」

「せいぜいがんばれ~」

 自分の魔界旅行は結果としてまるで再現性のないものになったけれど、そんなことをつらつらと話しても仕方がないだろう。糸原には素直な感想を伝えておいた。あと一億五千万……というか、寿命を全て捧げたいという気持ちは嘘じゃない。決して嘘ではないのだ。それが俺にしか分からないことだったのだとしても。

 ……と、俺の言い方が気に障ったのか、別にそんな風ではなさそうな声で糸原は話題を変えた。

「そういえば伊古田さぁ、お前就職はどうすんの?」

「どうすんのって?」

「いつまでもフリーターってわけにいかないだろ」

「分かってるよ。……正社にでもならないと魔界に通えないなって実感し始めたら本気出すって」

「そうか……?」

「あぁ、今年中には決心つけるさ」

 言いながら、モニターの中で次のバトルロワイヤルへの参加を決めた時のことだった。スマホが震えた。

 通話中の糸原ではあるまいし、こんな夜中に誰からの連絡だろう?

 確認してみると、それはカチリカからのメッセージだった。

『これあげる』

 その一言と共に送られてきたのは、一枚の写真。パッと見た時の背景の雰囲気で、それが何であるのかを瞬時に理解する。記念写真だ。宿を出る前、カチリカが撮らせてくれと言いだしたあの写真。今記憶を振り返ってみれば、あの時はスマホを構えるカチリカが全裸だったことがものすごい非日常感を醸し出していたように思う。

 その写真を表示して、俺が真っ先に見たのは足だった。あれやこれやと彼女の趣味を施された上半身に比べて、いっそ不自然なくらい健康体な両足。カチリカは本当は、怪我をして松葉杖を突いている男を……、いや、両足を怪我して車椅子に乗っている男を見たかったのかもしれない。その車椅子を自分が押して、散歩をしてみたかったのかもしれない。二泊三日の間に見てきた彼女の趣味なら十分あり得ることだ。それを我慢してくれていたのかと思うと、その気遣いが心に沁みる。

 続けて、一番目立っている腕を見た。左腕はまさに「骨折した人」そのものであり、残る右腕にも絆創膏を貼りながら、その手でなんとも言えず覇気のないピースサインを作っている。それは見る人の大抵が気の毒さを感じさせられるような、カチリカが好きそうな絵面だった。

 そして最後に、俺は眼帯をつけられた目の方を見る。

 ……それをまじまじと見た瞬間に、頭の中にはハッキリと、カチリカの声が帰ってきた。

 

「あっ、いいね~その物憂げな表情、最高、興奮しちゃう……」

 

 口元を緩ませながらそんなことを言っていた少女の姿が、それこそ写真のようにハッキリと思い浮かぶ。……カチリカは、この目を見てそう言っていたのかと。俺はその時初めて、彼女の趣味の本質を理解した気がした。

 同時に、不安のような、諦めのような気持ちに全身が包まれる。今まで「写真は苦手だ」と言って、なんやかんやと避けてきたせいで、今の今まで分からずにいたことだ。

 自分ではこれまで上手くやってきているつもりだった。けれど糸原は、あるいは俺に関わる全ての人は、とっくに俺の本性に気付いているのかもしれないなと、その写真に写る目を見て思う。眼帯を、付けていない方の目だ。

 その写真に写る俺は、本当にひどい顔をしていた。

 

 


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