寒凪の中、窓の向こうで枯れ木に留まる名も知らぬ鳥の歌を聞きながら、温かい部屋にて冷めてしまった珈琲に口を付ける。
目を覚ます目的に淹れた訳だが冷ますつもりはなかった。
提出されたレポートに目を通していたらいつの間にか時が過ぎていた為だ。
一つ一つ読むこと自体は面倒ではないが、何しろ量が多い。
だからと蔑ろにして評価を付けるのも宜しくない。
幸い成績を決める期限はまだ先の為こうして朝の日課ということにした。
「……おはようございます、センセイ」
寝ぼけ眼を擦りながら、寝間着のまま教え子が扉から顔を覗かせた。
教師と教え子が一つ屋根の下で生活するというのは如何わしい想像をする人間もいるかもしれないが、生憎そういう乱れた関係は無い。
同居するのも年末年始の寮が締め切られる僅かな期間だけだ。
寮生は実家に帰るのが基本だが彼女は色々と事情があってそうすることができない。
「おはよう、よく眠れたかい?昨日は夜遅くまで部屋の灯りが点いていたけど」
視線を画面に映る文章の山から、キッチンへと向かう彼女の方へと移動させる。
「それを知ってるってことはセンセイも随分遅くまで起きていたんですね」
彼女はそう言いながら、自分のカップにアイスコーヒーを注いできて作業する僕の隣の席に座った。
「まあ、私は課題の締切が近かったので頑張ってました。逆にセンセイの方は何やってたんですか?」
「今日の為に準備してたら……思った以上に掛かってね。寝る前にお手洗いでも済ませておこうとしたら灯りが見えた、とそんな感じだね」
軽くカップを持ち上げて珈琲を飲む。
少しずつ飲んでいたが、殆ど残っていなかった。
今日はこの辺りで切り上げようとパソコンを閉じておもむろに立ち上がる。
「私は朝食でも作っておくから君はその寝癖を整えてくるといいよ」
わかりましたー、とアイスコーヒーを一気に飲み干して洗面台の方に向かっていく。
年末年始以外一人で暮らす僕の冷蔵庫の中身はなかなかにスカスカだ。
料理をしない訳では無いが、量を作らない為必要なときに買うタイプなせいだろう。
取り敢えず、食パンをトースターに入れて、ボウルで卵を溶きフライパンでスクランブルエッグを作る。
手短に出来るから朝にはもってこいの料理だ。それらを皿に載せた後、冷蔵庫からハムを二枚添えて朝食は出来た。
どうやら寝癖を整えるのにはそこそこ時間が掛かるようで、テレビの天気予報でも見て時間を潰すことにした。
「そういえば、さっきの続きなんですけど。何処か出かけるんですか?」
しっかりと寝癖を直し、髪を整えた彼女がトーストにかぶりつきながら聞いてくる。
「ん、ああ……星を見に行こうと思ってね」
からになった自分のカップに飲み物を入れていなかったことに気づき、水道で軽く濯いでお茶を注ぐ。
「なかなかロマンチストなんですね、センセイ。でも、綺麗な星空は見てみたいのでご一緒させてもらってもいいですか?」
片手で足りるような街の夜空とは違う、両手両足の指を使っても足りない程の星が半分欠けた月と共に静かに地を照らす。
真っ黒のペンキで塗り潰した夜とは比べ物にならない、繊細に水彩絵の具で塗ったような澄み切った空。
夜風が露出した肌に寒さを与えてくるがそれ以上に美しさが勝る。
「……凄い、普段見る空とは全然違ってなんだか輝いて見えます」
悴む手に白い息を吐きながら空をくるりと見渡している。街から離れた山には二人を除いて周りには誰もいない。
「冬は乾燥した空気で空の透明度が上がるからね。それに、少し寒いけど風が吹いている今だと揺らぎで瞬きがより一層綺麗に見える」
「なるほど、流石センセイです。詳しいですね」
「ん、……昔教えてもらったからね。それを覚えていただけだよ」
無意味にも伸ばした手は空を切る。
ポケットからクシャクシャになった煙草の箱を取り出し、一本手に取り、口に銜えた。
カチカチと安物のライターに苦戦しながら火をつけ、一度深い息を吐く。
「センセイって、煙草吸うんですね。吸ってるところ見たこと無かったので吸わないものだと」
「偶に吸うくらいだよ、身体にも良くないし何より……うん、不味いからね」
わざとらしくケホケホと咳をして苦笑いを向ける。
「不味いのに吸うなんて変わってますね」
「全くその通りだと思うよ。でも、不味いから良い」
それで、と話を変えるべく一度立ち上がり吸い終わった煙草を車内の灰皿に捨てに行き、彼女の側に戻る。
「ただ眺めるのも良いけれど、一つ聞いてみようか。例えば……今見ているあの星が既になくなっていて過去の光を見ているとしよう。しかし、それを見上げている私達には分からなく、専門家だけしかなくなったことが分からない。そうだとして見ている物は同じと言えるかい?」
「……どうなっていたとしても見ていた、そしてそれを知っているということは大切だと思いますよ。全員が見ているわけじゃないですから」
「なるほど、悪くない回答じゃないかな」
なぜこんな事を聞いたのか自分でも分からない。誰かと一緒に星を眺めるのが久しぶりだったからかもしれない。
「私を試したんですか?」
「少し気になっただけさ」
ちらりと此方を見てくる彼女から目を逸らすように夜空の照明で腕に巻いた時計を見る。
時計の針は来たときから既に二周ほどしていて十一と十二の間になっていた。
「……さて、日も変わりそうだしそろそろ帰るとしようか。夜も遅いし君は車で寝ておくと良い」
「もうそんな時間なんですね、じゃあセンセイのお言葉に甘えさせてもらいます」
深夜の道路は山道からの帰路なこともあってか通る車は殆ど無い。
バックミラー越しに映る教え子は後部座席ですやすやと寝息を立てている。
教師なのだから彼女達からセンセイと呼ばれるのは当たり前だ。
けれど僕自身は先生だと思えていない。
あくまで自分の中ではセンセイだ。
安全運転を心掛けようと思うが、フロントガラス越しに見える星空に視線は移っていく。
この歳になって過去のことを引き摺るのは如何なことかと思うところもある。けれど、
──じゃあ、そうだ。私が退院したらまた一緒に星でも見に行かない?ちょっと遠いけどあの山から見る景色なんてすごく綺麗だから。
僕はまだ先生との約束を待っている。