私は、ケーキのフィルムについたクリームを食べる人を見るのが嫌いだ。
 自分が食べるのも、もちろん嫌だ。
 思い出すからだ。大学時代の、苦い記憶を。
 私の(いや)しさを思い知らされた、あの苦い記憶を――。


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ケーキのフィルムについたクリームを食べる人を見るのが嫌いだった話

 私は、ケーキのフィルムについたクリームを食べる人を見るのが嫌いだ。

 

「ちょっと、芽生(めい)! やめなさい」

 ケーキのフィルムについたクリームをべろっと舐める娘を、私はとっさに叱った。

「えー、なにがー?」

「何がって、フィルム舐めるの。みっともないでしょ」

「えー。でも、クリームついてるんだもん」

「それはしょうがないの。とにかくみっともないから、フィルムは舐めちゃ駄目。わかった」

 娘は納得がいかない様子で、小さな頬を心なしか膨らませているように見える。

「まあまあ、(うち)なんだから。そのくらい、いいじゃない」

 向かいに座る旦那が優しい笑顔と声で言う。旦那は優しいけど甘い。

「――でも、芽生。お外ではやっちゃだめだよ」

「……なんで?」

「そうやってべろーって舐めるのを、見たくないなって、気持ち悪いなって思う人もいるから。だから、そういう人を嫌な気持ちにしちゃわないように、気をつけようか」

「……うーん」

「芽生も、給食の時に……何君だっけか? お友達がくちゃくちゃ食べるの、嫌だったろ? たしか」

「うん。さとうくん、いっつも口あけて食べるから、すごいきたないんだよ」

「そっか。じゃあ芽生は、誰かにをそういう気持ちにさせないように、気をつけようか?」

「うん! ――お母さん。わたしがなめるの見て、いやだった?」

「えっ。ああ、まあ……」

「ごめんなさい」

「……お母さんもちょっと、言いすぎちゃったね。ごめんね」

 娘に謝った後、ちらっと見た旦那の顔は、優しく微笑んでいた。

 

     *

 

 私は、ケーキのフィルムについたクリームを食べる人を見るのが嫌いだ。

 自分が食べるのも、もちろん嫌だ。

 思い出すからだ。大学時代の、苦い記憶を。

 私の(いや)しさを思い知らされた、あの苦い記憶を――。

 

 大学生の時、一年半ほど付き合っていた彼氏がいた。

 別れたのは、ほんの些細なことで私が怒って、しばらく口もきかなくなって、それが引き金になった。私は昔から、変なところで少し気が強い。

 でもそんな感じだったから、私はその後もしばらく彼のことが好きで、未練タラタラで……。早い話、復縁を狙っていたのだ。

 別れた後も友人関係は続いていたし、彼はとても優しかったから、きっとまた私を受け入れてくれると、心のどこかで安心していた。少し距離をとることがいい刺激になるはずだなんて、都合よく考えていた気もする。

 でも、彼は私と分かれて少し経った頃、同じサークルの愛美(あいみ)を好きになった。愛美はすごい美人で人当たりもよくて、私なんかとは大違いで。

 彼がああいうタイプを好きになるなんて、ちょっと意外だった。

 彼はああいう、女優とかモデルみたいな華やかなタイプより、もっと普通の落ち着いた子が好みなんだと思ってたから。むしろああいうタイプは苦手だと。だから、私みたいなのとも付き合ってくれたんだと、そんな風に思っていたから、本当に意外だった。

 でも、どうせ顔でしょ。男なんて単純だから、美人の愛美にちょっと思わせぶりな態度とられて、それでその気になっちゃっただけでしょ。愛美は誰にでもいい顔するから。なんて安易に考えていた。いや、あの時の私には、そう考えるしかなかったんだと思う。

 だって、あんな顔も性格もいい子に私なんかが敵うところ、一つもなかったから……。

 

 そんな私の耳に、ある時一つの噂が舞い込んだ。

「愛美は風俗で働いてるらしい」

 ――そんな噂だった。

 今思えば、美人で人気者の愛美にやっかんだ誰かが流した嘘とか、馬鹿な男たちの妄想が独り歩きしたとか、そういうのだったんだと思う。

 でも、愛美を心の奥底では敵わない恋敵だと思っていたあの時の私は、その噂に飛びついて信じ込んでしまった。色んな事を飛び越えて、愛美は卑しい女なのだと都合よく信じ込んでしまったのだ。

 彼は愛美に騙されている。教えてあげなきゃと思った。チャンスだとも思った。都合のいい正義感に、たちまち私は酔ってしまったのだ。

 そして私は、適当な理由をつけて、彼の家で二人きりになる機会を手に入れた。

 久しぶりに彼の家で二人きりになって、私は少しドキドキしていた。やっぱり、距離をとることがいい刺激になるんだなんて、都合のいいことを感じていた気もする。

 私はそこで、彼に言った。

「――愛美のこと、好きなんでしょ?」

「なんだよ、急に」

「みんな気づいてるよ。愛美だって気づいてるんじゃない? わかりやすいもん」

「……で。話って、何?」

「もー、はぐらかさないでよ。好きなんでしょ、愛美のこと」

 ――でも、愛美はやめといた方がいいよ――。そう言おうとした私は、気持ちが大きくなっていたのか、それとも臆病になっていたのか、少しだけ遠回りをした。

「ねえ、なんで愛美のこと好きになったの?」

「いや、別にいだろ。そんなこと……」

「いいじゃん、教えてよ。ああいうタイプ苦手だと思ってたからさ。愛美のこと好きになるなんて意外だなーって、ずっと気になってたんだよね」

「……絶対、笑われるから言わない」

「ええ、笑わないよ。何? 何か変なことなの? もしかして、エッチなこととか?」

「違うよ! そういうんじゃなくて……、違うけど……」

「じゃあなに?」

「……」

「いいじゃん。教えてよー。一度は付き合ってた仲じゃん」

「……いや、さ。ケーキのフィルムについた、クリーム、食べてるの見て、さ」

「え? それ、幻滅するところじゃない? てか、意外。愛美、そんなことするんだ」

 私はちょっと、笑ってたと思う。やっぱり愛美は卑しい女なんだって。隠れて風俗で働いてるし、ケーキのフィルムについたクリームを舐めるような、卑しい女なんだって。私は勝ち誇った気分になっていた。

 そんな私に、彼は言った。

「うん。いや、フォークでケーキのフィルムをすーってさ、綺麗にクリーム取って食べるの見てさ。なんて言うか、その動き? 自体は、なんて言うか……、洗練? って言うの? すごい綺麗だったんだけどさ。でも、俺もそういうことするなんて意外だなと思って、思わず言っちゃったんだよね。意外って」

「ふーん。で?」

「いやさ。そしたら、――ごめんね。私、いやしんぼだから。もったいないなーって思って、食べちゃうんだよねー ――って、イタズラっぽく笑ってさ。

 その後、ちょっとだけ切なそうにさ。――それに、なんか悲しいんだよね。フィルムについたクリームが、誰にも食べられずに捨てられちゃうの――って、言ったんだよね。

 それ聞いてさ。愛美はあんなケーキのクリームにまで優しいんだなって。ああ、本当に優しい人なんだなぁって思って。俺はやっぱり愛美のことが好きだって、思ったんだよね」

「……」

 私はもう、笑えなかった。

 卑しいのはどっちだって、それを聞いて思い知らされた。

 私は愛美には敵わないと思った。

 本当かどうかもわからない噂を都合よく信じて、愛美のことなんにも知らないくせに都合よく決めつけて、陰で愛美を(おとし)めて彼の心を奪おうだなんて、卑しいのはどっちだろう。卑しいのは私じゃん。彼にふさわしいの私じゃないじゃん。卑しいのは、私の方じゃん。

 私は自分の卑しさを思い知らされて、もう泣き出しそうだった。

 そんな私に彼は言った。

「ごめん」

「……何が?」

 必死に作った笑顔を顔にはり付けて聞く私に、彼は少し迷ってから、軽い調子で笑い飛ばすように言った。

「いやー、なんかさ。久しぶりに家に来て貰ったし、ケーキでも買っておけばよかったよなぁと思って。気が利かなくてごめん」

「いいよ別に。ケーキなんて好きじゃないし」

「えーでも、チョコケーキ好きだったじゃん。あっ、もしかしてダイエット中?」

 ――いや、私が好きなのはショートケーキだし!――。心の中で、私は言った。

 彼のわざとらしい間違いと、彼には似合わないデリカシーのない発言に、私は彼の不器用な優しさを感じてもう全部諦めた。

「……ばか」

 

     *

 

 私は、ケーキのフィルムについたクリームを食べる人を見るのが嫌いだ。

 自分が食べるのも、もちろん嫌だ。

 思い出すからだ。大学時代の、苦い記憶を。

 私の(いや)しさを嫌と言うほど思い知らされた、あの苦い記憶を。

 彼にもう未練はないし、あの後何人か別の人と恋をして、もうときめいたりはしないけど、今は大事な旦那と娘がいる。

 それでも、私が卑しい人間だと思い知らされたあの記憶は、今も捨てられずにいる。それを久しぶりにまじまじと思い出して、ふと思う。

 今の私はどうだろうか。あの時の彼にじゃなくて、今の旦那と娘に、少しでも誇れる私でいるだろうか。優しい私でいるだろうか――。

 

「珍しいね。どうしたの?」

 特別な日でもないのにケーキを買って来た私に、旦那が言う。

「さっきも言ったでしょ。なんか急に、どうしても食べたくなったの」

 そう答えて席につく私の前には、真っ赤なイチゴの乗ったショートケーキがある。昔は大好物だったショートケーキ。

「そっか。――うれしいなぁ、芽生(めい)

「うん! お父さんのは芽生がえらんだんだよ?」

「これ、芽生が選んでくれたのか。え、これは何のケーキ?」

「うーんとねぇ……、忘れちゃった!」

「ははは。フルーツがいっぱい乗ってるなぁ」

「うん! お父さんフルーツ大好きだからそれにしたの」

「ありがとう。芽生がちゃーんと考えて選んでくれたの、すごい嬉しいよ」

 楽しそうに喋る旦那と娘に私は言う。

「じゃあ、食べようか」

「そうだね。いただきます」

「いただきまーす!」

 私も二人に続いていただきますを言うと、ショートケーキのフィルムをはがす。そこには白い生クリームが少しだけこびりついていた。

「……」

 私は意を決して、それを舐めてみる。

「お母さん……?」

「何?」

「それなめるの、きらいじゃないの?」

「うん、嫌いだったけど、芽生が舐めてたの見て、お母さんもちょっとやってみようかなって思ったの」

「……そうなの? じゃあ、芽生もなめていい?」

「いいよ。ただ、お(うち)でだけね。外ではやっちゃ駄目だからね」

「うん!」

 娘は嬉しそうに返事をすると、嬉しそうにクリームがついたフィルムを舐めた。それを見ていて、不思議とあんまり嫌ではなかった。

「……何かあったの?」

「何かって?」

「いや、ケーキのフィルム舐めるの大嫌いだと思ってたから……」

「嫌いだったけど……、なんとなく、ね。そんなに驚くこと?」

「いや。だって、俺、それ聞いて舐めるのやめたから。ケーキのフィルム」

「えっ、何それ。初耳なんだけど」

「いや、まだ付き合う前にさ。たしか、たまたまそういう話してるの聞いて、それまで舐めるの大好きだったんだけど、きっぱりやめたんだよ」

「なにそれ」

「はは。じゃあ、俺も久しぶりに舐めていいかな?」

「いや、それタルトだよ。クリームついてないじゃん」

「いや、でもちょっと、シロップみたいの付いてるし」

 そう言ってフィルムを舐める旦那を見て、私は笑った。

「やっぱ甘いよ。ちょっとだけ」

「はいはい」

 そう言ってから、私はもう一度自分のフィルムを舐めてみる。

 生クリームのついたケーキのフィルムは、生クリームの味がした。




二〇二一年一一月一四日 構想
二〇二一年一一月二五日 脱稿


 読んで下さった方、ありがとうございます。
 不快だった方、申し訳ございません。

 貴方はケーキのフィルムについたクリームを食べますか?

 ――私は基本、フォークで取って食べます。
 私のような奴が舐め取る様は誰が見ても気持ちが悪いと思いますし、自分がそれをすると考えたらはしたないなと思うので基本は舐めませんが、もったいないので出来る限り全て食べたいなと思います。

 みなさんはどうでしょう?
 何を考え、何を思い、どうしますか?

 近年、ハスの葉の汚れにくい構造を模した、クリームなどの付かないフィルムが発明されたそうです。
 もう何年もすれば、「ケーキのフィルムにクリームがつく?」となる日もくるのでしょうか。
 もったいない食べ物がほんのわずかにでも減って、汚れたゴミを扱う煩わしさや、舐める人とそうでない人の小さな亀裂なんかがなくなると思えば、それはとても良いことだと思いますが……。
 それはそれとして、見慣れた光景がなくなると思うと、どうしてもさみしい気持ちにもなってしまいます……。

 改めまして――。
 読んで下さった方、ありがとうございます。
 不快だった方、申し訳ございません。

 皆様の人生が、どうか幸せなものでありますように。

二〇二一年一一月二五日


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