アクセル・ワールド・アナザー 曼殊沙華には祈らない 作:クリアウォーター
第四十一話 案じ見守る親心
林の中に、一軒の
カコン、と音が周囲に響く。庵のこじんまりした中庭に設置された、小さなししおどしによるものだ。
傾いた竹筒に水が注がれ、満杯になると竹筒が反対側に傾いて水を流し、空になって元の向きに戻った竹筒の尻が石を打つ。音自体はさほど大きいものでもないが、その小気味よさから確かな存在感を主張していた。
その音を聞いているのは、庵内にいる二人のみ。それもそのはず、ここは現実世界ではなくVR空間。他には誰もいない。
一人は何世紀か前の欧州の法服のようなローブを着込み、肩まで伸ばした黒髪を一つに纏めている少女のアバター。隣には元は被っていた、縦に長い帽子を置いている。
もう一人は、姿勢よく背筋を伸ばして正座する少女とは対照的に、いかにもリラックスした態度で胡坐をかいている人物。藍染めの浴衣の先から出ている手足や首は肌色なのに、首から上は暗い青色、しかも目も鼻も口もないつるりとした球体という、異様な頭部をしたアバターだった。
二体は座布団に座る両者の間を挟む形にある、ちゃぶ台に置かれた湯呑みをそれぞれ持ち、熱い緑茶を一口すすった。行儀よく両手で湯呑みを持つ少女が、ふぅと一息吐いた後、湯呑み片手に「あちち……」と呟く球体頭に向かって、不思議そうに訊ねる。
「……貴方のそのアバター、昔何度か見る機会がありましたけれど、その頭で本当に飲めているのですか?」
「うん? まぁ、支障はないな」
球体頭改め、数珠をイメージした頭部のアバター──大悟はどうでもよさそうに答えた。
ここは大悟の用意したプライベートVRスペース。数年前に祖父が旅行土産にくれたオブジェクトセットをベースに、大悟が所々をカスタマイズしたものだ。
用意した緑茶は、元々の基本データにおまけ扱いで入っていたもので、凝った人間なら各種のフレーバーを独自に調整したドリンクを作成したりもする。だが、生身ではなく一般のフルダイブ用アバターの体では、基本的に飲み食いはさほど重要なものではないと考え、大悟はそこまで頓着しない。
「それで話というのは?」
「おう、さっさと本題に入るか」
客人の少女アバター改め晶音に促され、大悟は湯呑みをちゃぶ台に戻して、顔のない頭を晶音に向けた。
晶音のアバターは大悟とは異なり、現実の彼女の顔にかなり似通って作られている。このようにフルダイブアバターを自身の人相に寄せるのは、割合よく見られる傾向だ。
「今回お前さんをこうして呼んだのは、メールで先に伝えていた通り、宇美とゴウ、俺らそれぞれの《子》についてだ」
「あの二人に何かあったのですか?」
「いやいや、別に深刻な話じゃない」
晶音が眉をひそめるので、大悟はゆるりと片手を挙げた。
「ちょっとした報告だよ。実は昨日、宇美から相談を受けてな──」
それはほぼ二十四時間前、昨日の夜のこと。宇美からの着信が大悟に届いた。今回同様、ブレイン・バースト絡みの話だと言うので、ただの通話やメールではなく、フルダイブを用いた会話形態を取った。
聞けば、ゴウが日曜日に対戦の聖地であるアキハバラBGで惨敗したことを始め、通学時のマッチングリストにも載っておらず、他にも諸々の手がかりから推測するに、彼が何やら悩んでいるという。
この時点で宇美もその原因に心当たりがあるような口振りだったが、その点は大悟も詳しくは聞いていない。問題は訊ねたとしても、当人のゴウが素直に口を割るかは分からず、その場合に自分はどうしたらいいのだろうか、という内容だった。
話を聞いた末に、大悟は宇美にこう言った。「そういうときは、真正面からぶつかり合うのが一番だ」と。
「──ギャラリーを排除しただけの通常対戦でもよかったろうが、せっかくリアルを知っている間柄だしな。直結対戦の方が気兼ねなくできるだろうって言っておいた」
「それで結果は?」
「メールによれば実際に対戦まで漕ぎつけて、とりあえずは納得したってところらしい。ゴウの奴も、ひとまずは自分の力だけで解決してみようとあれこれ奮闘しているらしいが、後々ちゃんと説明はするって約束したんだと」
メールの文面だけだから宇美の感情までは読み取れなんだが、と付け加えた大悟は苦笑気味に晶音へ訊ねた。
「聞いたよ。心意システム、もう宇美に教えてたんだって?」
「やっぱり御堂君との対戦に使ったのですね。必要なくバーストリンカー相手に使わないようにと口を酸っぱくして言っておいたのに、あの子ときたら……」
「そう言うない。俺が焚き付けたところもあったし、それこそ必要なときだったんだろうよ」
この場にはいない宇美に助け舟を出す大悟だったが、晶音はしかめ面で嘆息する。
「土曜日の夕方に心意の修行をつけるよう頼んできた宇美は、どこか焦っているように見えました。おそらくは御堂君との間に実力差が開き始めているのではないかと感じたのでしょうね」
「俺にもそんなふうに見えた。要は対等な間柄でいたいんだろうな。ましてや、レベル1や2の時からの知り合いともなれば尚更だ」
ゴウも宇美も互いに《親》を除き、リアルで初めて対面したバーストリンカー同士。付き合いが長い分、友人としてもライバルとしても、他の者とは関心度合いが一線を画していても不思議はない。大悟にも似た経験をした覚えはある。
最近のゴウはバーストリンカーとして、バーストポイントとはまた別の意味合いでの経験値を得る機会が多かった。その手のチャンスを逃さなかった者は、時に一定以上の成長をすることがあるものだ。
そうして土曜日にフリークスなるレギオンと行った高尾山で、ゴウの成長具合を目の当たりにしたことが、今回宇美が行動した発端なのだろうと大悟は見ている。
「それでも、あの二人は憎しみから心意技をぶつけ合っちゃいないはず。お前さんだって、教えたのは正の心意技だろ?」
「無論です。ですが、正の心意も負の心意に比べればわずかであっても、《穴》に引き込まれることに変わりないでしょう」
心意システムの源泉が《心の傷》である以上、扱った分だけ《心の暗黒面》に近付いていくのは事実。人にもよるだろうが、その比率は対エネミーに使用するよりも対人、つまりバーストリンカー相手に使った方が大きくなる。最悪の場合、精神に悪影響を及ぼしてしまう可能性もあることから、晶音は宇美を心配しているのだ。
「まぁ、そうだな。でもあいつらなら大丈夫。ゴウの奴は心意の危うさを体で理解しているし──」
大悟は以前、ゴウが心意の原理も碌に知らない段階で引き出してしまい、暴走していたことを思い出す。いざとなれば自分が引導を渡してやらなければならないと、少しばかり肝を冷やす部分もあったが、幸いそうはならずに済んだ。
ゴウの性格上、危険性をその身を以て体感したことで、正しいアクセルとブレーキの踏み方は学んでいるはずだ。その点だけは怪我の功名だったのかもしれない。
「その相手の宇美にしてもそう。俺は彼女のことをそこまで深くは知らないが、心意技まで使ったとしたら、ゴウはきっちり正面から向き合ったはずだ。対戦自体に後腐れを残すような結果にはなっちゃいないよ。それくらいの誠実さはあるさ」
「随分と御堂君のことを買っているのですね」
「そりゃあな。あいつは良い奴だ。……もっとも、ブレイン・バースト絡みの困り事があったなら、俺にも相談の一つくらいはしてもらいたかったが」
大悟がそう言うと、晶音は一瞬だけきょとんとした表情になってから、口に手を当てて小さく笑いだした。
「子離れを寂しがる親そのものではないですか。大悟君にも可愛らしいところがあるのですね」
「……うるせぇ。あと、『にも』ってなんだ、失敬な。あ、ゴウには言うなよ?」
「はいはい。秘密にしておいてあげますよ」
悔しいが晶音の指摘に反論できず、大悟はごまかしながら釘を刺す。
返事をする晶音は尚も愉快そうな視線を向け、先程よりも幾分か険しさが取れた表情を見せた。
「まぁ、いいでしょう。とりあえず宇美に今度会った時には、小言程度で済ませておきます。鬱陶しがられるでしょうが……」
「それくらいが妥当だな。《親》の俺らは手の届く位置で見守って、たまに口なり手なり出してやればいい。心意に限った話じゃなくてもな。アウトローの連中だっている。どん詰まりの状況から助けてくれる存在がいるありがたさは、俺もお前さんもよく知っているだろう?」
「……そうですね。その通りだと、私も思います」
晶音が噛み締めるように呟きながら頷いた。
かつて失意の中にいた自分を、経緯は異なれど仲間達に救ってもらったことのある二人の間に、しばし無言の、しかし嫌ではない時間が流れる。
カコン。
しばらくしてからししおどしが鳴ったのを皮切りに、大悟が咳払いをしてから口を開いた。
「……時に晶音、お前さんの学校ももうすぐ夏休みか?」
「え? えぇ、はい。週末からですね」
「そうか。やっぱり大体どこも同じタイミングだよな」
うんうんと頷いてから、大悟は数珠頭の後頭部を掻く。
「それで、あー、なんだ……。お前さんがよければ、どこか都合の良い日に出かけにでも行かないか?」
「……? 構いませんが、次の集会の時じゃ駄目なのですか?」
「あー、いや違う」
「違う? あぁ、次の土曜日だと貴方の都合が悪いのですね。もう他にメンバーの誰かを誘っていますか?」
「いや、だからぁ……ブレイン・バーストの話じゃなくてリアルで。現実世界の話で。夏休みにどっか遊びに行きませんかねって。二人で」
「…………あっ!」
──変なとこで鈍いというか、察し悪いとこあるなコイツ。何の為に休みがいつからか聞いたと……。
『二人で』の部分を強調した補足で、ようやく理解した様子の晶音は気恥ずかしさからか、途端に俯いて髪を指でいじくりだした。
「そ、そうですね。この前は途中から宇美達と一緒になっちゃいましたものね。せっかくの夏休みですから……う、海にでも行きますか?」
「海!?」
大悟は突然の衝撃に襲われた。晶音の発言にではなく──だけにではなく。これは物理的な振動だ。
いきなり暗くなった視界の中心に点状の光が発生し、放射状に伸びていく。続いて大声。
「──ぃ! 大兄ぃってば!!」
現実の自室に戻った大悟の見る景色は、ぐわんぐわんと揺れていた。妹の蓮美によって、肩を思いきり揺さぶられているからだ。その振動でニューロリンカーのセーフティが作動し、フルダイブが強制解除されてしまったのである。
部屋に敷いた布団に仰向けになったまま、一向に返事のない兄に業を煮やしたか、遂には蓮美がべしべしと叩き始めたので、大悟はじろりと睨む。
何故だか蓮美は脱ぎかけの学生シャツがはだけ、スカートは着けておらず、色気のない(兄としてはあった方が嫌だが)上下の下着が丸見えという装いだった。
「……なんつう格好してんだ。しかもニンニク臭え。ラーメン食ってきたな。いや、それよか蓮美ぃ、フルダイブ中の奴を無理に起こすなんてどういう了見だ。いくら家族でもマナー違反もいいとこ──」
「それはごめんだけどそれどころじゃないよ! お風呂入ろうとしたら『アレ』が出たんだよぅ!」
「アレだぁ? ……あぁ、そういう……そういや去年は出なかったっけか」
半裸状態で蓮美がうろたえている理由を、大悟はようやく理解した。
どうやら洗面所に、夏によく出る『黒くて速いあの虫』が現れたらしい。
大人達が言うには、建造物の衛生環境の改善により、昔よりだいぶ見かけることは少なくなったそうだが、この二〇四十年代においても完全には駆除し切れない存在だ。たとえ地球上から人類が滅んだとしても生き残る、と言われているだけのことはある。
「お願い大兄ぃ、何とかしてよぉ。今日まだパパもママも帰ってないし……ママがいてもどうにもなんないけど」
「お前も母ちゃんもリアクションがオーバー過ぎんだよなぁ。そりゃあ、俺だって好きじゃないけどよ。ばあちゃん見習え。顔色ひとつ変えないで園芸バサミで青虫ちょん切るぞ」
「だってぇ、無理なものは無理だもん……」
蓮美と母、それに伯母も、如月家の女性陣は祖母を除いて虫が苦手だ。
特にアレの姿を見ると皆一様に悲鳴を上げる。中でも蓮美は、その名前を口に出すだけでも大げさに嫌がる。その為、この家では自ずと退治は男の──大概は父よりは家にいる時間が長い、大悟の役目となる。
ともあれ半泣き半脱ぎ状態の妹は放っておけず、仕方なしに大悟は起き上がった。
「洗面所の扉は閉めてんだよな?」
「うん」
「じゃあ玄関の棚からスプレー取ってこい」
「分かったぁ……」
二つ返事で蓮美が部屋から出ていってから、大悟は低く呻きながらメーラーを起動する。
「ったく、間の悪い。よりによって今じゃなくても……」
ぶつくさと文句を言いながら、自分の回線切断と同時にVR空間から締め出してしまった晶音に宛て、あとでまた連絡する旨を書いたメールを送信した。
──我ながら、ただ遊びに誘うのも他の用件と一緒にしてるようじゃ、先が思いやられるな……。
加速世界でどれだけ過ごそうが、所詮は思春期の十五歳かと、大悟は自嘲気味に鼻を鳴らす。
大悟は先月の経典の墓参りにて、半ば喧嘩別れに近かった晶音とようやく和解できた。またいろいろと水を差されたものの、長らく抱いていた感情を有耶無耶にしておきたくはなかったので、その日の内に改めて正直な気持ちも伝えていた。
──それにしても、いきなり海ときたか……いや妥当なのか。うーむ……。
この手のことは女子の方が断然早いと聞くが、蓮美はどうなのか。前に剣道部の練習試合で杉並に行った時に、相手校の長身で二枚目、ついでに眼鏡の男子部員がどうのこうのと話していたような気がする。
──まぁ、部活帰りにニンニクたっぷりのラーメン食っといて、口臭ケアもしないで帰ってくるあたり、そういうのはまだまだ先の話か。
些か偏見気味な考えを抱きつつ、大悟は当の蓮美に呼ばれて自室を出ていった。
その後すぐに、一件のメールが大悟に届く。
ゴウからのそのメールを大悟が確認したのは、冷凍殺虫スプレーの噴射から逃れようと死中に活を求めたか、こちらめがけて飛来するアレの姿に蓮美が鼓膜を破らんばかりに絶叫するという、ひと悶着があってからのことであった。