アクセル・ワールド・アナザー 曼殊沙華には祈らない   作:クリアウォーター

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第九話

 第九話 この身に涙は流れない

 

 

 近接系アバターが基本的に相手へダメージを与えるには、何をするにもまず相手に近付かなければ始まらない。たとえその相手が、強大なエネミーであろうとも。

 バジリスクが何発か吐き出した黒い塊を避け、大悟は接近していく。

 見るからに粘っこいコールタールに似た物体は床に落ちるなり、ジュワワ……と音を立てながら煙を上げていく。最低でも触れた部分が、腐蝕なり溶解なりすることは明白だ。

 

「喝!」

 

 まずは挨拶代わりにと、バジリスクの真正面、鱗のない蛇腹に大悟は掌底を打ち込んだ。走る勢いが加算された、大悟にとっては渾身の一撃にもかかわらず、結果は体力ゲージ一段目の一割にも満たない欠片程度を奪うだけに終わる。

 ──さすがにこうも肉が分厚いと(とお)りが悪いか。まともにダメージ与えるにはやわそうな目玉か口の中だな。となると……。

 分析をする大悟をバジリスクの六本肢の内、手前側の二本が襲う。鉤爪には紫色の汁がじわりと滲んでいて、明らかに有害なものが含まれている。どうもこのエネミーは、やることなすこと全てに毒系統の追加効果を加えてくるらしい。

 

「着装、《インディケイト》」

 

 大薙刀を召喚し、そのリーチを生かして大悟は迫る毒爪を打ち払い、体に近付けさせない。そうして隙を見て一度下がってから、切っ先を地面に突き立てる。

 

「《(シン)》」

 

 そんな短いコマンドを唱えた瞬間、薙刀の柄は如意棒よろしく伸び上がり、柄を握る大悟の足が床を離れた。

 この薙刀《インディケイト》はコマンドを唱えて必殺技ゲージを消費することで、最大十メートルまで柄の長さを伸ばすことができる。これにより中距離での戦闘もある程度は行えるので、取得以降は大悟の戦闘の幅はかなり広がった。

 

「《(シュク)》」

 

 棒高跳びの選手さながらに、空中の大悟はたわんだ薙刀を元の長さに戻すと、同じ目線に位置するバジリスクの頭に照準を合わせ、もう一度コマンドを唱える。

 

「《伸》!」

 

 閃光のような速度で伸びた薙刀が、バジリスクの右眼に突き刺さった。

 

「ギャラララララァ!」

 

 首を激しく振り乱しながら、バジリスクがさかんに吼え立てる。

 今度は初撃よりもやや多めにゲージを削るも、すでに目玉から薙刀を引き抜いていた大悟はこの成果に納得がいっていなかった。

 

「……おいおい、一番やわそうな部位で半分も刃が刺さらねえってのはどういう了見だよ」

 

 握る薙刀の刃渡りおよそ八十センチの厚い刀身、先端側から三分の一ほどが少しだけ濡れている。この部分のみがバジリスクの目玉に刺さった箇所ということだ。

 ダメージこそ与えたものの、それ以上に相手を怒らせた気がしてならない。着地した大悟が思っていると、案の定怪物は空気を裂くようにシューシューと喚きながら、肢をばたつかせていた。しかもそれだけでは終わらない。

 大悟が何もしていないのに、六本肢の手前二つの肢が太い胴体の根元から取れたのだ。肢の付け根がぼとりと音を立てて床に落ちると、すぐさま変化が訪れる。

 取れた肢が二回りほど大きくなり、四本指の爪先がヘビの頭に変化していった。数秒後には四つの首を持つヘビ型エネミーが二体できあがる。その姿は大悟をここまで運んできたエネミーやここの出口を塞いでいるエネミーとそっくり同じ姿。

 

「そういうことか……」

 

 大悟は自分が誤解していたことに気付いた。これまで見た四つ首ヘビのエネミーは、別のエネミーではない。バジリスク自身から分離されたものなのだ。

 つまり、バジリスクの縄張りはこの地下空間だけではない。現実でのこの施設の敷地内──全体ではさすがに広すぎるので、おそらくはその何棟かまでが縄張りなのだろう。

 縄張りの範囲外から他のエネミーが獲物を運んでいるよりも、切り離した肢である分離体が外を徘徊し、侵入した獲物を捕らえて本体の元に持ってくるという方が、まだいくらか納得がいく。

 それにしても、兵隊が元は自分の体の一部というのは、頭に冠(らしき突起)をつけた王にしては、少しむなしいものがあるが。

 ともかく、よりまずいのはこれから戦っていく内に、少なくとも肢の数からして、あと四体は注意をしなければならない対象が新たに増えるということ。もしかすると、外で徘徊している分離体もまだ複数いて、それらが参戦してくるかもしれない。

 ──悠長に戦っていたら手詰まりになる。隙を見てズラかりたいところだが……。

 バジリスクの分離体達が床を這い、二体が挟み込む形で大悟へ襲いかかる。

 計八つの口から剥き出た毒牙を、大悟は薙刀で捌いて応戦していく。

 レベル6になったボーナスで選択した強化外装は、最初の頃よりだいぶ扱えるようになっていた。それはそうだ、無制限中立フィールドに数週間、時には数ヶ月間籠ることで、手足同様に扱うべく腕を磨いたのだから。持て余す強化外装など、荷物も同じだ。

 そうして分離体と戦っている内に分かったのは、分離体にダメージを与えることで、バジリスク本体にもわずかながらダメージが入るということ。体の一部であるなら当然だろうが、これは防御力の高い本体のみを相手取るよりも、いくらかやりやすいかもしれない。

 

「……?」

 

 大悟が分離体を相手取りながら、バジリスク本体の肉弾攻撃が届かない位置に距離を取って戦っていると、離れている本体が俯き、えずくように腹の肉を上下させている仕草が目に留まった。

 直後に胴体部分に繋がる首元が膨れ上がる。その膨らみが上へ上へとせり上がっていき、バジリスクが下に向けた口を百八十度近くまで開いた瞬間──。

 

 ボシュウウウウウウゥゥゥゥ!! 

 

 噴射音と共に、凄まじい勢いで薄紫の煙が吐き出された。地下空洞全体を包み込んでいく煙を避けることなどできるはずもなく、もうもうと立ち込める煙が大悟に触れた直後、体力ゲージが減少を開始した。

 窓などあるわけもない、空気が流れない空間での毒ガス攻撃。この環境下では悪辣極まる戦法だ。さほど視界を遮るわけではなく、体力の減少速度もかなり遅いものの、体力回復の手段がほぼ限られるブレイン・バーストでは非常に深刻なものとなる。

 アイオライト・ボンズの《恒常性(ホメオスタシス)》アビリティも、すぐに毒状態から回復をしたところで、原因であるガスが残留し続けているこの状況では、再び毒状態になってしまうので効果は薄い。

 しかも分離体は体力が減ることなく、ガスの充満する中でも構わず攻撃してくる。自身の毒に耐性があるのは当然か。

 

「いよいよタイムアタックじみてきたな。こうなったらもう……ん?」

 

 大悟を攻撃する分離体が一体。前方の奥に本体確認できる。では、目の前にいる一体と一緒に攻撃してきていた、もう一体の分離体はどこにいるのか。

 ──しまった……! 

 大悟が慌てて振り返るとガスの中、距離がある分さすがに鮮明には姿が見えないデューの元へと、分離体が一体向かっていた。

 やはりと言うべきか、バジリスクはこの場にいるもう一体の獲物を忘れてはいなかったらしい。

 

「その場で伏せろ、デュー!」

 

 大悟は命中精度の底上げに《天眼》を発動し、下手に動いて狙いがずれないように、デューへその場に留まるようにと指示を飛ばす。

 

「おおぉ──らあっ!!」

 

 もう《インディケイト》を伸ばしても間に合わない距離にいる分離体に対し、大悟が下した選択は投擲だった。数歩の助走をつけてから、握りしめた薙刀を全力で投げつけると、一直線に飛んでいって分離体の背中へと突き刺さる。

 

「デュー、前言撤回だ! そいつの相手を頼む!」

「えぇ!? そ、そんな無茶な、俺……」

「それを貸す! 丸腰よりかは心強いだろ! ただし俺以外が使っても伸びないから、そこだけ注意しろよ!!」

 

 問答無用で分離体一体の相手を押し付けられたデューに迷う時間はない。暴れる分離体の背中に突き立てられた《インディケイト》を引き抜くと、デューは戸惑いながらも戦闘を開始した。

 大悟としても本意ではないが、このような状況になってしまってはデューにも戦ってもらわなければならない。幸い薙刀と普段扱う馬上槍では勝手が違うとはいえ、同じ長物という共通事項があることから、デューの動きはある程度の水準に達しているように見えた。

 デューの闘志はまだ残っている。それがやむを得ない状況に置かれたことによるやけっぱちなのか、はたまた大悟の戦闘がいくばくかの発奮材料になったのか。何にせよ、それに応えなければならない。

 そう《天眼》を維持し続ける大悟が、改めて気を引き締めようとした矢先。

 分離体が大きく後退した。初めはたった今、頭の一つを蹴り飛ばしたからだと大悟は思ったが、そうではない。

 バジリスク本体がこちらに額を向けている。まるでこちらに(こうべ)を垂れているかのように。ただし、先程までと大きく違うところが一点。

 ひび割れた瘡蓋(かさぶた)に似た赤黒い鱗と鱗の間を押しのけるように、巨大な乳白色の半球がせり出てきている。不意に半球が下方向に回転すると、半球の中心に縦長の黒線が入った濃い黄色の円が現れ、ぎゅるぎゅると動き出す。

 その正体を大悟はすぐに理解した。形は違えども、自分も毎日鏡で目にするからだ。あれは──眼球だ。黒い線と黄色い円の部分は、瞳孔と虹彩だ。

 

「……額に眼って俺と被って──」

 

 そうぼやきながらも、ここに立っていたら死ぬと大悟が反射的に右に跳んだ直後。

 直径一メートル近い巨大な(まなこ)から、赤い光線がキィンと音を立てて発射された。

 爆発は起きない。発射音も小さいものだ。

 ただ、結果として一直線に進む光線の軌道上にあった大悟の左手――人差し指から小指までのほぼ付け根より先の感覚が消えていた。消し飛んだのではなく、石になっている。

 それも何年も風に晒されて風化寸前の石よりも脆い。触れてもいないのに体から取れ、床に落ちた衝撃で更に細かく砕け、すぐに光となって消えた。

 ──……発射の直前で目玉が動きやがった。多分防御もできないな、回避しかないがこれは……。

 体力ゲージが削れても大悟にはほとんど痛みはなく、それ以上に欠損時特有の喪失感に加えて不気味さの方が強かった。

 今の発射時間は一秒そこそこだったが、これでもっと長く発射し続けられたり、発射中に目玉を動かすのは無理だとしても、首を動かしてこちらを追えるのであれば、もう《天眼》で先読みしても避け切れない。

 あの額の眼は一刻も早く無力化しなければならない。

 未だこの場に残る毒ガスも相まって、もう大悟とデューに猶予は残されていなかった。切り抜ける方法は一つ。大悟は《天眼》を止め、精神を集中させる。

 

「──《天部(デーヴァ)風天(ヴァーユ)》」

 

 静かにそう唱える大悟の両脚に蒼い光が瞬き、足の下駄の歯が二本からやや太く長い一本のものへと形が変化した。

 これは必殺技ではない。ブレイン・バーストにはごく限られた者しか存在を知らない、とある力が存在する。

 通称《心意(インカーネイト)システム》。心より()ずる、意志の力。

 原理はデュエルアバターにおける、人体には存在しない部位や特異な体を十全に動かす為の補助機能、《イマジネーション回路》に己のイメージを押し付けることで、ブレイン・バースト内にて《事象の上書き(オーバーライド)》を引き起こすというもの。

 一言で表せば裏技、又はバグ技。

 いずれにしても真っ当なものではなく、何故プレイヤーの精神がゲームのプログラムに干渉できるのかも、徐々に(そして密かに)技術体系まで確立され始めているのに、運営側が何の対策をしないのかも大悟には分からない。詳しい原理だってほとんど理解していない。

 それでも大悟は、この心意システムを利用した心意技の修得にもこれまで時間を割いてきた。

 強くなる。手に入れられる力は全て修める。それは経典がこの世を去る前に、結果的にバーストリンカーとしての経典に引導を渡す形になった者として、大悟が己自身に課した責務でもあった。

 現実でも加速世界でも、弟の分まで生きると決めたのだ。そして、ブレイン・バーストでは強くなければ生き残ることはできない。

 一度下がっていた分離体が再度攻撃を開始した。二つの頭からは毒液が吐き出され、もう二つの両端に位置する頭は口を開けて左右から迫る。

 エネミーの攻撃が届く寸前、大悟はその場から消えた。《過剰光(オーバーレイ)》と呼ばれる心意技の証明でもある光の残像だけがその場に残り、それもすぐに消え失せる。

 攻撃が届く前に、大悟はすでに分離体の横を通り抜け、バジリスク本体の元に辿り着いて小山のような背中を駆けていた。

 本来、アイオライト・ボンズの基礎能力では出せるはずのない速度での走力は、心意技の《第一段階》である基本能力の拡張の一種、《移動速度拡張》によるものだ。

 大悟が自らの体の上にいることをバジリスクが気付いた頃には、大悟は長い鎌首を登り切って跳躍していた。跳躍力も強化された大悟は地下空間の天井まで到達し、体を反転させて天井を足場にする。

 重力によって地面に引き戻されるより先に、大悟は深呼吸をしてから全身に力を込め、一本下駄の両足で強く天井を踏み締めてから、バジリスクめがけて矢のように落下していった。足が天井から離れた瞬間、大悟が吼えるようにして叫ぶ。

 

「《天部(デーヴァ)火天(アグニ)》!」

 

 両脚に纏っていた光が消え、一本下駄から通常のものへと戻り、入れ替わるように両腕から蒼い炎が噴出する。

 

「喝!!」

 

 気合と共に大悟の二つの掌が、バジリスクの額の眼に叩き込まれた。

 眩い炎は熱を持ってはいない。これもまた心意の過剰光(オーバーレイ)によるもので、先程とは異なる《攻撃威力拡張》の技である。

 だが、大悟が《風天(ヴァーユ)》で強化した脚力と重力を加算した、全体重を乗せた攻撃を繰り出しているのにもかかわらず、バジリスクの魔眼は最初に掌底を打ち込んだ蛇腹よりも硬く、潰すことができずにいた。

 ──くそ……まだ技を切り替えて間がないと、技の完成度が落ちるか……! 

 心意技の発現とは容易なものではなく、大悟も複数の技を持ってはいても、どれも大悟自身が思い描く完全な修得に至っているわけではない。

 求められるイメージは単なる想像力程度ではなく自分に断言できるほどに、世界(システム)を騙すほどに強固なものでなくてはならないのだ。

 そして、そこまでして繰り出した技も、エネミーが高位になるほど効きは薄くなってしまう。

 

「あ、あぁ……ああああああああ!!」

 

 それでも今の大悟には、これが最大威力の攻撃。バジリスクは倒せなくとも、石化光線を発射する眼だけは潰そうと、大悟は限界以上に両腕に力と心意を込めた。

 衝突から数秒。とうとう頭上から降ってきた衝撃を受け切ったバジリスクが、首を振って無情に大悟を払いのける。

 大悟はどうにか受け身を取りながら、地面を転がってダメージを最小限に留めるも、心意の炎は両腕から消えていた。

 休んではいられない。大悟がどうにか次の手を考えようとしていると、心意技を受け切ったバジリスクが体を捩じらせた。

 続けて痙攣をし始めると同時に頭部から砕けた破片が飛び散り、バジリスクの体力が大きく削れる。乳白色の欠片はバジリスクの額の眼だ。大悟渾身の心意技はしっかりと届いていたのだ。

 ──よし……逃げるなら今だな。デューを連れてさっさと──…………? 

 実際のところ、大悟は己の力を試そうとしてはいたものの、元より神獣(レジェンド)級エネミーを単独で倒せるなど露ほども思っていなかった。

 数十人規模のパーティーを組んでようやく対等。一つミスをすれば、その均衡も容易く崩してしまう相手。レベル6が一人で勝てると考えるのは只の驕りでしかない。

 それでも、かの難攻不落の《帝城》を守護する最強の《超級》エネミー達に比較すれば、いくらかマシだ。そう認識していた。

 今が好機とデューの元へ行こうと振り向きかけた大悟は、その直前にバジリスクの額から発生した赤い柱を見て、それもまた驕りであったと認めざるを得なかった。

 

 ッギュオオオオオォォォォン!! 

 

 勢いよく水を出すホースが人の手を離れた時のように、先ほどより十倍は太い光線がバジリスクの額から放出された。

 

「ギャジャイイイイィィ!!」

 

 更には絶叫するバジリスクが滅茶苦茶に首を振り回す。

 額の眼は石化光線の発射装置であると同時に制御装置でもあったのだと、周りがスローモーションになる感覚に陥りながら、心意技による無茶な動きをした反動で即座に動くことができない大悟は分析していた。

 バジリスクの首が下を向いた状態から、角度を変えて上がっていく。その軌道上にいる自分は間違いなく即死だ。大悟がそう観念した次の瞬間──。

 

「うっ!?」

 

 横から強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。

 そのまま床を滑り、止まってから体に何かが乗っかっているのを感じて上半身を起こす。

 

「デュー!?」

 

 その正体はデューだった。《羽歩法(フェザー・ステップ)》による高速移動のタックルで、光線の軌道上から逃がしてくれたらしい。だが、その行動により腰から下を失い、石化して砕けた下半身の残骸が大悟の立っていた場所に落ちていた。

 

「へへ……よかった間に合った……。ごめん、貸してくれてた薙刀……石になっちゃってさ」

「デュー……おま──」

 

 弱々しく笑うデューに大悟が口を開くと、デューは腕を動かして出口を指し示した。

 地下空間全体が石化光線によってそこかしこが石化し、出口を塞いでいたバジリスクの分離体は全身が光線に呑み込まれたのか、出口には散らばる石の塊しか残っていない。

 残る二体の分離体も、デューが戦っていたものは四つの首が無い状態で倒れていて、大悟が心意技を発動する直前まで相手をしていた方は、胴体が二つに分かれた状態でのたうち回っている。

 そして、バジリスク本体ももう光線は出していないが、未だに狂乱状態で大悟達に意識を向けるどころではないようだ。

 この場を支える柱の一部も、石化により倒壊するものが一部見られ、どの道この場にいては危険である。

 大悟はデューを右肩に担ぎ上げ、怪物の住処から急いで逃げ出した。

 薄暗い坂を駆け上り地上に出ると、空は薄青色から濃い灰色へと変わっていた。饐えた匂いがたちまち霧散していくほどの風の強さからして、おそらく《砂塵》ステージ特有の砂嵐が近くまで来ている。

 

「待ってろデュー、すぐにポータルに──おい、お呼びじゃねえよ……」

 

 デューに呼びかけながら、記憶ではここからだと一番近いポータルがあるはずの、《目黒駅》を目指そうとする大悟に近付くものが一つ。

 大悟達を捕らえて本体の元に連行した、バジリスクの分離体だ。意識が独立しているのか、本体が操っているのかは不明だが、せっかく捕らえた獲物を逃がすまいと追いかけてくる。

 ──とにかく縄張り内から出れば、もう追いかけて来ないはず……。

 だが、戦闘で負傷した体でデューを担いでいては、普段の全力疾走と同じとはいかない。

 

「……《天部(デーヴァ)風天(ヴァーユ)》」

 

 大悟が動かし続ける脚に強く意識を集中させると、先程よりも弱々しい光と共に下駄の形が変わる。今の大悟には長時間継続して心意技を発動することは難しく、無理に発動する分だけ質も落ちるが、この状況では背に腹は代えられない。

 走る速度がやや上がった大悟が縄張りを抜けても、尚も諦めずに分離体の吐き出す毒液が完全に届かなくなったところで、ようやく一安心と思ったのも束の間。

 

「ったく、次から次へと!」

 

 風がどんどん強くなる中、とうとう砂嵐が後方から姿を現した。巻き込まれればさすがにただでは済まないのか、バジリスクの分離体は猛烈な速度で本体のある神殿の方へ逃げていくのが見えた。

 本来なら大悟もどこかの巌窟に飛び込んで避難するところだが、デューの息遣いは苦しそうだった。まだ食らった毒ガスの効果が消えていないのだ。

 やり過ごす時間も迂回する時間もない。大悟は最短距離でポータルを目指し、引き寄せられまいと必死に脚を動かして砂嵐から逃げる。

 

「ボンズ……師匠……」

「集中しているから後にしろ」

 

 元から大悟の進行方向と同じではなかった砂嵐が徐々に逸れていくも、未だ油断のならない状況、掠れ声を出すデューを大悟は見もしない。万が一にも何かに足を取られて転倒するわけにはいかないからだ。

 

「その光る技……凄いね……。俺にもできるかな?」

「……そう良いことばかりの技じゃない。まぁ……そうだな、その内に教える機会もあるだろうよ」

「…………俺さ、少し前まで対戦でも……エネミー相手でも……ちょっと不利になると、すぐビビっちゃって……」

 

 口を閉じずにデューは勝手に喋り続ける。

 

「……それで負けが込んでてさ……。でも師匠に会えて、鍛えてもらうようになってさ……エネミー相手でも……師匠が後ろにいてくれるだけで怖くなくなって…………。性格は全然違うのに、兄ちゃん……兄ちゃんがギャラリーで見ててくれた時みたいで……」

 

 デューの独白が続く中、とうとう砂嵐が巻き込まれる心配のない距離まで離れたところで、両脚の蒼い光は大悟の意思と関係なく消えた。それでも走り続けて断崖の角を曲がると、ようやく目黒駅と思わしき横に広く伸びる巌窟が見えてくる。

 

「よし、もう少しの辛抱──!?」

 

 少し安堵して右肩に担ぐデューをちらと横目に見た瞬間、大悟にバジリスクの魔眼を目にした時以上の戦慄が走った。

 デューの体からアバターカラーと同じ、水色に光る長い帯が立ち昇っている。その光を、大悟は今までに何度か見たことがある。

 所有するバーストポイントがゼロになったデュエルアバターが、リボン状の微細なバイナリーコードに変換されていく、デュエルアバターの《最終消滅現象》。ブレイン・バーストを強制アンインストールされる、永久退場の証

 状況は異なるのに、何故かその姿が半年前に《カナリア・コンダクター》──経典を倒した時と重なった。

 

「──駄目だ」

 

 肩にかかる重さが急速に軽くなっていく。言葉は口を突いて勝手に出ていた。

 

「駄目だ! 駄目だ駄目だ!!」

 

 すでに限界であることも頭から吹き飛び、大悟は死に物狂いで足を進める。消滅現象が始まっている以上、もうどうにもならないと分かっているのに。

 

「ダフネには……世話になったって、それと……いろいろ迷惑かけてごめんって…………謝っておいて──」

「うるさい黙れ、そんなこと言うな! これからだ。レベル4なんてほんの入り口だ、お前さんはこれからなんだよ! もっといろんな景色が見られる! すぐそこのポータルに入ればまだ……」

「……────」

 

 砂嵐が離れていなかったら、絶対に聞こえていなかった声量での呟きが最後に聞こえた。

 その一言を残してデュー・ウッドペッカーは、大悟を師匠と呼んだ少年はブレイン・バーストから去っていった。

 右肩にかかる重さと腕が触れていた鎧の感触が、完全に消えても走り続けていた大悟がようやく足を止めたのは、遥か後方から鳴り響く鐘か、いくつもの薄い硝子が砕け散るような音がした時だった。まるで、とうに時間切れだとシステムが大悟へ、現実を無慈悲に伝えているかのように。

 無制限中立フィールドで数日おきに発生し、フィールド属性を変化させる現象、《変遷》が起きている。

 音はどんどん大きくなっていき、やがて棒立ちのまま振り返らない大悟を揺らめく七色のオーロラが包むと、景色が一変した。

 天も地も深みのある青に染まっている。

 これは《塩湖》ステージ。建物は軒並み内部構造の存在しない、白い岩塩に変貌するかなり珍しいステージで、大悟もまだ数度しか目にしたことがない。今はそんなことに何の感慨も湧かないが。

 地面を覆う深さ十センチ程度の浅い水も塩水で、尋常でない反射率が鏡のように空を映しているので、一面が青一色。更には地形全体の高低が平均化され、見渡す限りの水平線に岩塩の山が立ち並ぶ。

 そんな風景を、微動だにせず眺め続けていた大悟はその場で俯いた。

 水面に映っているのは己の分身、アイオライト・ボンズだけ。当然、他には、隣には誰もいない。

 大悟はおもむろに右脚を頭上高くまで上げてから、水面に映った自分を思いきり踏み付けた。衝撃が半径数メートルにまで及び、発生した水柱が全身を包む。

 立ち上った水柱は重力に逆らえず、地面と大悟に降り注いだ。

 

「……何がオリジネーター。……何が《荒法師》…………」

 

 全身に塩水を被って大悟は一人、ぽつりと呟く。

 デュエルアバターの体は生物としての生理的欲求を持たない。故に排泄も発汗も行わない。

 

「何が……………………師匠だ」

 

 だから今こうして頬を滴り流れ落ちているものも、《塩湖》ステージの塩水に過ぎない。

 照りつける太陽によって体にかかった塩水が蒸発し、塩の結晶へと変わっても、大悟はその場を一歩たりとも動かず、胸中で自分にそう言い聞かせ続けた。

 

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