勇者にはなれない   作:高円寺南口

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15 もし世界から雨が消えたなら

 いつものように仕事を終えて、宿屋へ戻ってくると、突然女将に話しかけられた。

 何でも、ギルド経由で手紙が届いているという。差出人の名は、エルレイン・ガーフィールドとなっていた。

 

 すぐさま部屋に戻り、慌てて開封した手紙には、見覚えのあるエルの字で、こう綴られていた。

 

 

「親愛なる友へ

 

 ようニケ。元気でやってるか? ロクに挨拶もせずに、ずいぶんせっかちな門出だったじゃないか。

 そもそもこの手紙がお前の元に届くのかもわからないが、クラインには流れ者の冒険者に配慮して、親族や友人からの連絡を取り繋いでくれるメッセンジャーシステムなるものがあると聞いて、早速やってみた次第だ。

 

 いくら強情者のお前でも、クラインの力を借りずに、西方まで辿り着くことは困難だから、いつかお前の元にこの手紙が届くんだろうと信じて、今はペンを握っている。

 

 まあ何だ、振り返れば色々あったが、お前をもっともよく知る友人として、お前の旅路に幸あらんことを心より願っている。

 こう言っちゃなんだが、お前の顛末(てんまつ)を親父さんから聞いたとき、特段驚きはなかったんだ。むしろ、ようやく収まるべきところに収まった、という安心感の方が強かった。ホントだぜ?

 

 お前は本当ならもっと早く、ガキの頃憧れたノルンみたく、世界を股にかけて旅する魔術士になっていたはずなんだ。少なくとも、俺はそう信じていた。今頃はどこぞの宮廷魔術士として名を馳せていたかもしれない。

 それが運命のいたずらで、歯車が狂っちまった。でも、結局は元の鞘に戻った……振り返れば、それだけのことだったんだと俺は思っている。

 

 それだけ――なんて言われ方をすると、お前としては心中複雑な気持ちだろうけど、なりたかった自分になるのに、遅すぎることなんてないんだぜ。

 胸を張って、世界を旅してこい。お前という人間を受け入れるだけの広さが、きっとそこにはあるから。

 

 あと、親父さんのことは心配しなくていいからな。

 俺も時間が許す限り、宿屋のことは手伝おうと思っているし、親父さんのことは常々気に掛けておくつもりだ。その方がお前も安心できるだろう? まあ肝心の親父さんはお前と一緒で、あまのじゃくなところがあるから、このことは二人だけの秘密で頼むよ。

 

 そうそう、剣も受け取ってくれたって親父さんから聞いたぞ。

 魔法だけでしのいでいくのは中々険しい旅路になると思うから、相棒として使ってくれれば幸いだ。

 

 長くなっちまったが、この手紙を受け取ったなら、返事をくれると嬉しい。

 クラインの支部は、今やアヴァロニア中にあるから、今後向かう先を教えてくれれば、色々手助けもできると思う。

 

 幸運を祈る。

 

 エルレイン・ガーフィールド」

 

 

 最後まで読み終えると、俺はテーブルの上のワインを手に取り、グラスに注いだ。一息に飲み干すと、窓を開け、もう一度手紙を最初から読み返した。

 

 変わらないな。やっぱりアイツは昔から、根っこの部分は何も変わってない。

 

 アイツが昔と変わらず俺に接してくれているのは、ガキの頃の恩返しのつもりなのかなと、ふとそんなことを考えてしまう。今度は俺がお前の背中を押す番だぜと、この手紙はそう言ってくれているようにも感じた。

 

 心強い限りだ。どうやら俺には、最強の後方支援が付いているらしい。

 

 俺は早速女将にペンと便箋を借りて、エルへの返事をしたためることにした。

 モンフォール家で家庭教師をやっていること、この仕事が終わればアルルに向かい、ゆくゆくはガラテア方面から陸路で西方を目指すこと……

 

 そういや、借金のことは、親父はエルに伝えていないのかな……

 親父の性格上、あえて知らせなかったのかもしれない。つまり最終的には、俺の言い分を信じてくれたのだろう。やれやれ。

 いつかきちんと、落とし前をつけないとな……

 

 グラスにワインをつぎ、一口つけると、俺は手紙の末尾に、追伸としてこう書き記した。

 

「エルにもらった剣なんだが、走るたびにガチャガチャして股間に響くんだ。申し訳ないが、背中に背負うタイプの鞘を用意してくれないか? 俺の股間を揺るがす由々しき問題なんだ。実際揺れてるしな。よろしく頼むよ」

 

 

   *

 

 

 それからも、モンフォール家に足を運ぶ日々は続いた。

 俺としては、演習はそろそろいいだろうと思っていたのだが、意外なことに、ソフィー自らが申し出たのだ。炎以外の魔法についても教えてくれと。

 

 そんな風に言われたら、俺としても断る理由がない。

 振り返ってみれば、アイツがお勉強に関して、自ら進んでリクエストを出してきたのはこれが初めてだった。少しは魔法に興味持ってくれたということなんだろうか……うーむ。

 

 とりま、氷や雷は上級者向けなので除外するとして、基本属性である四属性、すなわち火・風・水・土の魔法を一通り体験してもらうことにした。

 

 風や土は、二・三日レクチャーしてやると、あっさり扱えるようになった。

 そもそも風や土は、他の属性と比べて制御が容易であり、初心者向けの属性と言われている。炎を三日程度で、簡易な操作ができるレベルまで昇華させたソフィーの素質を考えると、特段驚くべき成果でもないだろう。

 

 一方、水は予想通り、制御がままならなかった。

 

「やっぱりソフィーは、炎が一番相性良いみたいだな」

 

 木陰に腰掛け、呼吸を整えているソフィーの様子を見ながら、俺は言った。

 

「相性とかあるの?」

「もちろんあるよ。属性はそれぞれ、人間の性格に喩えることができるって話は、こないだしたよな。術者の性格や気質によって、合う合わないは当然出てくる。友達作るときと同じだよ」

 

 俺友達エルしかおらんから知らんけど、と心中で付け足す。

 エルは属性で喩えると、どう見ても風ないし水タイプの人間だからな……別に俺じゃなくても、誰とでも友達になれるから。

 つまり全然参考にならない。哀しいけどこれ、事実なのよね。

 

「その説って、根拠あるの?」

「学説としてはマイナーだな。だから将来は、そういう研究を本格的にやりたいと思ってた」

「……どうして過去形なの?」

「え? あ、いや……まあ色々あって」

「ふーん。私、炎みたいな構ってちゃんタイプとは、友達になりたくないのだけれど。一々面倒くさそうだし、相性が良いとも思えないわ」

「……さっき友達と言ったが、術者自身の気質とリンクする部分があるかも重要だぞ。むしろそっちの方が大事って言うか……」

「何それ。つまりオマエは、私が面倒くさいタイプだって言いたいの?」

 

 言いたいもクソも、お前一人を除いてみんな多分そう思ってるよと言いたかったが、言った瞬間「ムキー!」とゲンコツ食らいそうなので、沈黙を貫くこととした。

 そもそもそうやって、本心を探られるのを嫌う所が、いかにも炎タイプなんだよなあ……無駄に警戒心が高いというか。メラメラしてるせいもあって。

 

「ふん。別にいいわよ。私、炎って嫌いじゃないし。ずっと見てると心が落ち着くっていうか、良いところだってあるし」

 

 いやさっき、おもっくそこんな面倒くさいヤツ嫌だって言ってなかったか? 何だこのアツい掌返しは。

 ハイ。こんな風にコロコロ言うことが変わるのも炎の特徴です。

 

「ねえ。オマエは六属性の中で、どれが一番得意なの?」

「…………炎」

 

 三秒くらいの沈黙を経て、そう答えると、案の定ソフィーは吹き出した。

 口元を抑えて、必死に笑いをこらえている。

 

「何それ……結局私と同じ系統って……ヘンなの……」

 

 うるせえな。だから言いたくなかったんだよ。

 俺だってビックリしてるよ。闇より昏き影の者。陰キャラオブ陰キャラみたいなこの俺が、陽キャラの象徴みたいな属性背負わされてることに、他ならぬ俺自身が一番驚いてるよ。

 

 まあアレだ……

 確かに面倒くさいヤツかもしれんが、そいつはある意味、心根がまっすぐってことの裏返しでもあるからな。何だって疑ってるのは、信じたいって気持ちが人一倍強いから。冷めたようなツラをしていても、心の中は誰よりも熱いんだよ。

 

 それが俺たち、TEAM炎。

 

「でもオマエの言う説って、わかりやすくて面白いわね。風や土が扱いやすいのは、自然界にあるものをそのまま使えることが多いから、工程が少なくて済むっていうのが、これまでの定説だったけれど……風や土の特性を、人になぞらえて理解するのは、言い得て妙だと思うわ」

「風はともかく、土はそうでもないけどな。一見クセがないように思えるけど、深いところまで掘り下げると、メチャクチャこだわり出してくるタイプだぞ」

「そうなの?」

「うん。土の上級魔法って、下手すりゃ氷や雷より難しいからな。土って不人気属性だの守り専用属性だのよく言われるけど、アレは中級以上になると、急激に難易度が跳ね上がるせいなんだ。そこで挫折してしまうヤツが多いから、結果としてそういうレッテルを貼られてしまう」

「ふーん。じゃあライラって、土タイプなのかしら。掃除とか結構こだわるし……滅多に怒らないけど、怒らせるとすごく怖いってセバスチャンが言ってたし……」

「ハハハ……ライラさんが地味な土タイプって、そんなアホな――」

 

 と思ったが、待てよ。

 彼女の持つ類い希なる美しさは、言うなれば高嶺の花。凡夫では到底到達できぬ、俊嶺の頂に気高く咲く、一輪の花だとすれば……

 

 さらに言うなら、大地は慈しみの象徴。母なる大地という言葉が示すとおり、大地は豊穣をもたらし、万物の根幹をなす。同じ慈しみでも、水だの風だのとは、慈しんでるレベルが違うのだ。その優しさで、星ごと包み込んでるレベル。私自身が優しさになっていると言っても過言ではない。

 

「ソフィー、お前……見る目あるな」

「え? そう?」

 

 二人でずっとジロジロ見ていたせいか、離れた場所で見守っていたライラが、不思議そうな表情で小首を傾げていた。

 

「ねえ。オマエはどうして旅をしているの?」

 

 唐突に、ソフィーがそんなことを口にする。

 柔らかな風が吹き付けて、木々がさらさらと揺れた。

 

「どうしたんだよ急に。興味あったのか」

「い、いいでしょ別に聞いてみるくらい……何となくよ何となく」

「ほーん……」

 

 ボリボリと頭を掻き、あさっての空を見つめてから、俺は言った。

 

「世界に一冊しかないと言われている、究極のグリモワールを探してるんだ。そこに、どうしても知りたい魔法の術式が書いてあるから」

 

 ソフィーはブチブチと草の根を引っこ抜いていた。

 十秒くらいの沈黙のあと、彼女が言った。

 

「……オマエって、魔法使いとしては優秀なんでしょう。ライラから聞いたわ。今の私くらいの年で、飛び級でアカデミーに入ったって」

「優秀かどうかは知らんが、十三の年にアカデミーに入ったのは事実だな」

「そんなオマエでも、思いつけない魔法が、そのグリモワールには書いてあるってこと?」

「ああ。古代魔法(クローズド・スペル)って言ってな。いにしえの大魔導師ノルンは、その一生をかけてこの世の森羅万象を解き明かしたという。その秘訣を記したのが、禁断のグリモワール『アルス・ノトリア』なんだ」

「禁断?」

「一息で大陸を消し飛ばず破壊魔法とか、死人を蘇らせる蘇生術とか、天候を自在に操る魔法とか、大規模な空間転移とか時間遡行とか……まあそんなデタラメとしか思えん魔術すらも、彼女は完成させたと言われている」

「……ホント?」

「ホントだよ。少なくとも、俺の中ではな」

 

 ソフィーは黙ったまま、しばらく動作を止めていた。

 考えるような間を一拍置いてから、彼女が言った。

 

「もう一つ訊いていい? オマエはどうして、魔法使いになろうと思ったの?」

「きっかけは……じいちゃんの蒐集癖(しゅうしゅうへき)だな」

 

 落葉してすっかり寂れた大樹の上枝(ほつえ)に、未だしぶとくしがみついていた黄色い葉が、風に吹かれて揺れていた。

 ソフィーの隣に腰掛けると、俺は続けた。

 

「とにかく本が好きな人で、古ぼけた書物をそこかしこから大量に集めてた。じいちゃんが死んだ後、全部捨てるのももったいないから、興味あるやつだけ持って行けって母さんに言われて、適当に選んだ本の中に、たまたまグリモワールが混じってた……」

「その本をきっかけに、魔法に興味を持ったってこと?」

「ああ。次から次へと似たようなグリモワールを読みあさってるうちに、いつの間にかのめり込んでいた。魔法のことを考えている時だけは、どこか別の世界へ行けるような気がしたんだ……そのうち読むだけじゃ満足できなくなって、使う側を志すようになった。まあそんなとこかね……」

 

 きっかけなんて本当に些細で、入口がどこかだったなんて、正直よく覚えていない。入口らしい入口なんてなかったって言った方が、あるいは正しいのかもしれない。

 だから、あれが必然なのか偶然なのか、あるいは運命なのか自分の意志だったのか、それは未だにわからない。

 

 そこから先に起きたことも、全部含めて。

 

「ふーん……いいなあ。素敵じゃない」

 

 大樹にもたれ、茫洋たる空を仰ぎ見ながら、ソフィーは独り言のように呟いた。

 

「誰に言われるでもなく、自分の意思で自分の道を選んで、しかも実現したんでしょ。それってきっと、誰にでもできることじゃないわ。うらやましいとさえ思う」

「……どうかね。一応言っとくけど、俺はそんなに大した人間でも何でもないぞ。だって結局、天才にはなれなかったから」

 

 ソフィーと目が合う。

 少し驚いたような彼女を見て、俺は半ば自虐的に、口角を緩めた。

 

「ガキの頃は神童だのなんだの騒がれてたヤツが、大人になるとただの凡人になる……よくある話だよ。とある事故がきっかけでな。俺はもう、自分の中にほとんど魔力が残っていないんだ。全身に流れる魔力の経路(パス)のうち、九割以上が壊死して、使い物にならなくなってる。座学の上では一流になり得ても、実戦じゃどうあがいても二流以下の魔術士。それが今の俺なんだよ」

 

 述べた言葉に、偽りはない。

 全ては過ぎ去ったことであり、今さら取り返しのつかない昔話だ。

 

「だから、教える側に回ったの?」

 

 時間にすれば数秒の出来事だったと思うが、その言葉が耳元に届いて神経を伝い、胸中に響くまで、ずいぶん長い時間を要したように感じた。

 

「……え?」

「え? って……ん? これって、そういう話じゃないのかしら」

「いや……自分では全く全然これっぽっちも、そんな発想はなかったから……」

 

 俺が教師?

 ファファファ……いいですとも! いやよくねえよ。

 

 どう考えても、俺は人の上に立つ器じゃないだろ……。

 己の果たせなかった夢を、次世代を担う若者たちに託すべく教鞭を振るうなんて、そんな生き様「激ダサだな」と、鼻で笑うような男だぞ。むしろ教師なんて人種は、この世で一番信用がならない人種だと思っているまである。

 

 そんな野郎が、いつしか心変わりして、「よしみんな! あの夕陽に向かって走るぞ!!」とか言ってるのか? 想像しただけで世界が滅びそう。「そこで今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます」とか言ってる方が、まだ現実味がある。

 

「なに一人で笑ってるのよ……キモ」

「いや、その……ソフィーに教えてるのは、一時的というか臨時というか……別にこれを仕事にしてる訳じゃないんだ」

「そうだったの? ふーん。もったいないわね」

「もったいない?」

 

 ソフィーはうなずいた。

 

「だって、貴方は確かに天才にはなれなかったかもしれないけど、今後誰かを天才に育てることなら、できると思うから……そもそもオマエ、教えるのは向いてる方だと思うケド。少なくとも、黙って座って、ただ教えられてるだけの立場よりは向いてるでしょ?」

「うるせえな」

 

 俺がぼやくと、ソフィーはクスクスといたずらっぽく笑った。

 しかしまあ、うん……意外と人に教えるの向いてるのか、俺? 

 

 強いて言うなら、比較対象は師匠だが、あの人は見た目は理知的な雰囲気醸し出してるくせに、実はメチャクチャ感覚派の人だったからな。

 だって、「炎は暴ッ!! 水はザブンッ!! 風はフンッ!! 土はドッカーン!! 氷はドスッからのパリーン!! 雷は轟ッ!!」だぜ? エキセントリックすぎて、逆に鳥肌立ったのを今でもよく覚えてるわ……

 

 なんで師匠から学んだのは、技術というよりむしろ精神だな。ハートですよハート。真っ白なハートに、虹のように鮮やかな色を付けてもらったのさ。

 まあそれも今やすっかり錆びついて、ドス黒くなった訳ですが。このまま発酵が進むと、いつか魔王にでも進化できそう。

 この腐り具合がね……たまらんのや! ブルーチーズかよ俺は。

 

 すまんな師匠。いつまで経ってもこんな弟子で。

 

 今後誰かを天才に育てることならできる、ね……

 ワンチャンそんな生き方もありかもしれんなと、俺は風に吹かれて、一人ハナクソをほじった。

 

    *

 

 あれれ~? と言う間に二週間が過ぎ、長いようで短いこのご奉公にも終わりが見えてきた頃、雨が降った。雨は雨でも、ドンガラガッシャンゴロピカーンの雷雨だ。

 早い話が季節外れの夕立なんだが、こんな土砂降りの中、麓の町まで帰るとか何の罰ゲームだよと物憂げに窓の外を見つめていると、慈悲深きソフィーお嬢様から、

 

「雨宿りしていきなさいよ(ムッツリ)」

 

 とのお言葉を賜った。

 ずぶ濡れの犬畜生がお似合いの小生ごときに、何と言う有り難きお心遣い……

 

 この機を逃さず、ライラのお手伝いでもして、ガッツリポイントを稼いで好感度上昇! むぎゅっとハグで急接近な二人の恋の序章とするかと思った矢先、お嬢様に首根っこを掴まれた。

 

 ぐえっ。

 

「ちょっと付き合いなさいよ……どうせヒマでしょ。ね?」

 

 どう見ても人にモノを頼む態度ではない。

 嗚呼、終わった。俺はこれから、屋敷の地下深くの迷宮に連れていかれて、ソフィーお嬢様のペットであるグリフィンちゃんの餌にされるのだ。

 

「オーッホホホ!! どこまで逃げ切れるかしらねえニケ……さあ、せいぜいあがいてみせなさい!」

「そんな……おいどういうことだよソフィー! 騙したな! 俺はお前を信じていたのに!」

「いいわいいわ、その顔よ~。信頼が裏切りに、裏切りが絶望に変わるその瞬間がたまらないの~」

「ぐわあああああっ……うぼえああああああーーーーーっ!!」

「は~♪ いいわ、グリフィンちゃん……もっと痛めつけてあげて。甘美~♪ ビイ甘美シャ~ス♪」

 

 アホなことを考えているうちに、窓際のテーブルに座らされ、目の前に紅茶が出されていた。

 

「飲みなさいよ」

 

 前後不覚に陥っていたため、確信が持てないのだが、察するにこの紅茶はソフィーが入れてくれたらしい。「ティーポットから直飲みすれば? 庶民にはそれがお似合いよ」とか言われてた初日に比べると、まこと偉大な進歩である。

 いやそんなこと一度も言われてないんだけどな。

 

 ……。

 まさかとは思うが、毒とか入ってないよネ……

 

「ねえ」

 

 カップをソーサーに置くと、俺は窓の外の雨をじっと見つめているソフィーの横顔を、じっと見つめた。

 窓の外の雨は煙る町をじっと見つめて、町は限りなく黒に近い灰色に渦巻く空をじっと見つめ返す。そして俺だけが、誰にも見つめられることがなかった。

 なるほどこれが世界の真理か。

 

「オマエに一つ、頼みがあるのだけれど」

「頼み?」

「私をこの屋敷から、連れ去ってくれない?」

 

 光が瞬いて、数秒後に雷鳴が轟いた。

 雨はいっそう激しさを増し、風は唸るような音を立てて、水滴の張り付いた窓硝子を幾度となく叩き付けた。

 

 もし世界から雨が消えたなら、空と大地は永久(とわ)に結びつくことがないという詩人の言葉が、その時不意にリフレインした。

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