「……それはアレか? 俺に誘拐しろって言ってるのか?」
降りしきる雨のせいで、部屋の中はほの暗く、燭台のろうそくの明かりが、床の上に影を落とす。雨音が二人の間に染みこむように響いた。
数秒の間を置いてから、ソフィーは言った。
「違うわよ。私は一人で外の世界を歩いてみたいの」
「俺がいる時点で一人じゃないと思うが……」
「細かいことはどうでもいいのよ。私ほら、お嬢様だから……」
「知ってるよ」
ソフィーはくすりと笑った。
「お屋敷の中にいても、たまに町へ出ても、いつもセバスチャンやライラが側にいて、本当の意味で一人で何かを選んで、何かを成し遂げたってことがないのよ。だから……自由っていうものに、ずっと憧れがあった。どこか遠く離れた、私のことなんて誰も知らない場所で、見たことない景色に出会って……時間なんて気にせずに、一人で自由気ままに、生きていく……そういうものに、ずっと憧れてた。そしてたぶん、これからも……」
「そうか」
「だからお願い! 私の夢を叶えて。こんなこと、オマエにしか頼めないのよ……一晩だけでいいの。ほんの少し、少しの時間だけでいいから……」
「おう」
「ホント?! だったら早速――」
「断る」
雨脚がわずかに弱まって、木々の枝先から雫が滴り落ちる。
ソフィーが眉根を寄せた。
「……どうして?」
平素の俺なら、「うるせえクソガキ。四の五の言わずにメシ食ってうんこして寝ろ」で
どうして?
どうしてなんだろうな。色んな言葉が出てきた。
俺にはそんな能力も権限もありません。俺じゃなくて他の奴に頼んでください。今忙しいんで。何で俺なんですか? 俺じゃなきゃいけない理由を教えてください。何かあったら責任持てませんよ。今忙しいんで。そんな仕事は給料に含まれてないと思います。それをやることで俺のプラスにつながりますかね? 今忙しいんで。できる限り協力したいのは山々なのですが、そちらの要求に応えきれる自信がございません。代わりにセバスチャンさんはいかがでしょうか? 確認してみます。今忙しいそうです――
さすがは世の中のありとあらゆる束縛やしがらみ、責任感やプレッシャーから全力
俺の言い訳スキルを舐めるなよ。一度に十の話を聞くことはできなくとも、一度に十の断る理由をそらんじることならできる。
しかしそんな俺が、十の言い訳を封印してまで、あえて口をつぐもうとする、その意味は……
「ソフィー知ってるか。自由と孤独はセットで一つなんだぜ。自由だけを単品で注文することはできない」
ソフィーの目を見て、俺は言った。
「お前はもう少し、自分の立場を知るべきだ。お前はお前が思っている以上に、みんなに大事にされて、みんなに守られているんだよ。それがわからない奴に、自由をどうこう語る資格はないし、まして孤独を望む資格なんてない」
あれほど激しかった雨音が、耳元から少し遠のく。積み上げてきた何かが、崩れ去ったような音がした。
ソフィーはうつむき、弱々しく肩を震わせた。
「……意味わかんない」
「今はわからなくてもいい。いつかわかる日が来れば――」
「そうじゃない!」
ソフィーが叫んだ。
語気の強さとは裏腹に、その眼差しには
「……貴方の口から、そんな大人じみた言葉は聞きたくなかった」
それはきっと、紛れもない彼女の本音だったのだと思う。
他の誰に否定されようと、お前にだけは否定されたくなかった――そんな風に言っているようにも聞こえた。
ソフィーが席を立ち、部屋から出て行こうとする。俺は両腕を組み、一度軽くまぶたを閉じる。
そして言った。
「結局、一人じゃ何もできないんだな」
ぴたりと、ソフィーの足音が止まった。
「お前が本気でそうしたいと思うなら、俺の助けなんざ借りずに一人でやってみろよ。都合良く俺を使うな……この際だから、はっきり言ってやろうか? 大人がみんな、お前のことを子供扱いしかしないのは、事実お前が自分の与えられた立場すら理解していない、甘ったれたクソガキだからだ。以上でも以下でもない……それだけだよ」
「……」
ソフィーは黙したまま何も言わず、やがてバタンと音を立てて、部屋を出て行った。
窓の外では、なおも雨が強く降り続けている。俺は頭をボリボリと掻き、カップに残った紅茶を飲み干した。
紅茶はすでに冷めていて、以前よりもずっと渋い味がした。
*
「……体調不良?」
翌日、いつものように屋敷に赴くと、玄関先でライラにそのように言われた。何でもお嬢様の体調が優れないので、申し訳ないが今日の授業はお休みにさせてほしいと。
ふむ。そう来たか。
しかし突然の体調不良とか、昔の俺を思い出すな。
これまでの人生で百五十回くらいその言い訳を使ってきた俺からすれば、それが九割方嘘であり、真実を偽装するための杜撰なカモフラ―ジュにすぎないことくらい、容易に看破できる。
言い訳のプロの看板は、決して伊達ではないのだ。
「昨日からですか?」
「ええ……ニケさんが帰られてから、何を言っても上の空という感じで……少しお疲れのご様子でした」
わかりやすいやっちゃな……
ライラの話から察するに、彼女は昨日の俺とのやり取りを、誰にも話していないのだろう。
事実、ソフィーが嫌だと言えば、俺のクビなんざ一瞬で跳ね飛ばされる。積み上げるのに時間はかかっても、崩れるのは一瞬。人間関係なんぞ、所詮その程度のものなのだ。
だが、彼女があえて、その未来を選ばなかったのは……
俺の賭けは成功したと。
たぶん、そういうことなんだろうな……
「わかりました。そういうことなら、今日は帰ります」
「申し訳ありません。わざわざお越しいただいたのに。もっと早くお知らせすることができればよかったのですが……」
「とんでもない。ではまた」
昨日の激しい雨がまだ尾を引いているのか、曇天の空からはポツポツと雨が降り出していた。
余計な仕事を自分から増やしてちゃ世話無いよなと、半ば自虐的にそう思った。
*
同日夕刻。
小雨が上がり、太陽が地平線へ沈もうとするころ、俺は再び屋敷へと赴いていた。屋敷は屋敷でも正面玄関ではなく、裏手の方だ。
ニケ知ってるよ。こういう大きなお屋敷には、非常用の脱出経路が、正面玄関とは別に設けられてるってこと。
モンフォールの本邸は丘陵の頂上部に位置しているが、頂上へと続くなだらかな起伏の一角に、地形上不自然に削られた崖がある。
おそらく地下道だろう。
緊急時に、要人を逃がすために作られた地下道の出口が、その一帯にあるに違いない。
ライラと別れたのち、俺はその仮説を裏付けるため、疑わしき地点を捜索した。
客観的に見ると、疑わしき不審者はどう見ても俺なのだが、そこは気配遮断に定評のある俺である。茂みをコソコソしているうちに、ほらあなを探り当てることに成功した。
ほらあなの奥には、篝火が見えた。意図的に入口を隠蔽したとも思える周囲の植生に、ほらあなから数十セクト行くと小川が流れていて、水脈に沿って進むと街道へ出られる点といい……
ここだ。間違いない。どう見ても人の手が入ってる。
脱出地点を捕捉した以上、後は役者の登場を待つのみ。
宿で仮眠を取ったのち、夜半に再びこの地へ赴いたという訳なのだが……
「…………」
ホントに来るのかな?
かれこれもう、五時間くらい待ち続けてるんだけど……
まあ、あれほどわかりやすく焚き付けてやったんだ。アレは凹んでも、タダで凹まされるような器じゃない。
お嬢さまの性格上、「そこまで言うならやったろうじゃねえか」と、俺に吠え面かかせるべく、行動に移してくるだろうと計算した上での、あの発言だったのだが……
当てが外れたかな。
さすがに五時間も待たされると、色々頭の中が冷めてきて、もっと他のやり方もあったんじゃないかと自責の念に駆られる。
ソフィーは大人びていると言ってもまだ子供だし、ひょっとしたら俺の発言に、本当に深く傷ついてしまったのかもしれないとか、もっと諭すような優しいやり方だってできただろう、よりにもよってどうしてこんなショック療法みたいな方法しか選べなかったんだとか、答えのない堂々巡りがずっと続いて、頭の中がワンダラーズ・ハイみたいな訳のわからん状況になってる。
一つだけ確かなことがあるとすれば、答えなんてないってことだ。
そりゃ、結果から逆算すれば、正解・不正解の判断はできるよ。そんなのは猿でもできる。
俺が言いたいのは、結果の読めない状況の中で、確実に正解を導くことができる人間なんていないってことだ。数学解いたり、魔法の術式組んだりするのとは訳が違う。
ましてこれが現実という名の奇々怪々ならば、短期的に見れば不正解でも、長い目で見れば正解だったということもある。あの時の失敗があったから、今の自分があるなんてのはその最たる例だろう。
だから、本当の意味での正解なんて、誰にもわからない。これが正解だったんだと信じることくらいしかできない。
正解・不正解なんて、その程度の脆弱な基盤の上で成立している、後付けの判断に過ぎない。
やれやれ。ソフィーも言ってたとおり、それじゃ学校のお勉強なんて、何のためにあるんだろうな。
こういうときに答えが出せないから、意味がないとか言われるんじゃねーの……
とかなんとか考えてるうちに、さらに一時間が経過した!!
「…………」
もうダメだ。
きっとあの人は来ない、Silent tonight.
「エスコートいたしましょうか、お嬢様? こんな夜更けに独り歩きは危険だぜ」
なんて出会い頭の台詞まで考えてきたのに、何てザマだ。
そもそも冷静に考えると、「危険だぜ」とか言ってるお前が一番危険だよって話だしな。今何時だと思ってるんだよ。
どうしよう。
もう帰ろうかな……
と、心が折れかけたその時だった。
ほらあなの奥から、
「…………!」
あれほど待ち望んだ瞬間だと言うのに、心の臓はドギマギしている。一度ならず二度、三度と目をこすって、ようやく俺は確信した。
ソフィーだ。ソフィーに違いあるまい。
俺はすぐさま茂みから抜け出し、そそくさとほらあなの入口脇へ身を潜める。反響する足音が、一歩・二歩と、確実にこちらへ近づいてくる。
頭の中でカウントダウンを始める。
5・4・3・2・1――
ゼロと唱えると同時、入口を塞ぐように飛び出す。刹那、延びた影がぴたりと動きを止める。
「エスコートいたしゅ――」
喉が潰れるような衝撃が走り、気づいたときには、視界が天を向いていた。
墨で染まったような夜空には星々が瞬き、夜更けの風が木々をさらい、囁くような葉擦れの音が耳元で残響する。
背中が地面を打ち、両腕で首元をロックされると同時、柔らかい弾力のある何かが顔に押しつけられた。
「ムゴゴゴ……ムゴ」
息ができない。身体が微動だにしない。力を入れようとしても、入れることすら許されない。
同じ体術でも、拳闘士のそれとは訳が違う。相手を「落とす」ことに特化した、シーフやアサシンのそれ。いわゆるCQCだ。それも相当熟練した、使い手の……
相手が何か喋ったようだが、両耳を塞がれており、何を言っているか判然としない。
てかヤバい。このままじゃ意識が……
「貴様……何……」
「……どうしたのよ……! 一体何が…………」
「…………お嬢様。……怪しげ…………ので」
「…………それ、…………じゃない?」
「…………!!」
ぱっと両腕が離されて、身体が解放される。
ゴホゴホとえずくように咳き込んで、呼吸が激しく乱れる。肺が全力で酸素を欲しがっているせいか、胸から上がいやに熱を帯びている。
地面に寝転んだまま、立ち上がる気力さえ湧かない。
息も絶え絶え、おぼろげな視界の先に、ふと見覚えのある二つの輪郭が映った。
「ちょっと。おーい。大丈夫? 生きてる?」
「ああ、私ったら何てことを……」
「……割と本気で殺しに行ってなかった?」
「いや、もし、お嬢様の身に何かあったらと思うと……」
「こわ……セバスチャンも恐れる訳よね。あー怖い怖い」
「うぅ……」
何のこっちゃら、霞がかかったように頭がボンヤリとして、話が上手く飲み込めない。
やがて、ペシペシと頬を叩かれた。
「こら。いい加減起きなさいってば」
「んほぅ……」
支えられるようにして上半身を起こすと、目と鼻の先に、お嬢さまの顔があった。
ソフィー? そうソフィーだ。ばっちり目が合う。
これがライラだったら、このままマウストゥーマウス不可避と思ったあたり、俺もどうやら正気を取り戻してきたようだ。いや取り戻してないのか。
やがて、ソフィーが言った。
「オマエ、どうしてここにいるのよ」