紅く色づいていた木々も少しずつ落葉し、街には木枯らしが吹いて、草原を駆け回る野兎や狐たちは、来たる冬支度を始めていた。
モンフォール家でのご奉公の日々も、いよいよ今日をもって最後となり、俺はこの三週間に対する労働の対価として、20万フランを手に入れた。
お恥ずかしながら、これが生涯初めて己の努力で稼いだ金になる訳だが、特別な感情とかはなかった。形容するのが難しいんだが、妙な気分だ。きっと、無職喪失の哀しみが大きすぎたせいだろう。
無職一度去りて、また還らず。
俺もまた染められちまったよ、社会の色ってヤツに……哀しいかな、もう
「ニケさんが明日からいなくなると思うと、寂しくなりますね」
最後の授業を終え、着替えを済ませてから、いつものように玄関先の馬車へと向かっている最中、ライラが不意にそんなことを口にした。
「だから最後に、お別れのキスをします。二人だけの思い出に」と言われて、目の前が真っ暗になるのかと思いきや、そんなことは全く全然これっぽっちもなかった。
「ニケさんがこの屋敷に来るようになってから、お嬢さまは楽しそうでしたから。できればもう少し一緒にいてほしかったです」
理由は本当にそれだけなのかな?
そのモヤモヤこそが、これから始まる一冬のアバンチュールのプレリュードと言いたかったが、冷静に考えなくても気持ち悪いのでやめておいた。
「お互い生きてりゃ、またどこかで会えますよ。人生そんなもんです」
間の抜けたような返事を返すと、ライラは少し儚げに微笑した。
玄関に到着すると、燕尾服に身を包み、皺一つないシャツに蝶ネクタイが印象的な、すらっとした体躯の老人が立っていた。
目元の片眼鏡に、白髪のオールバック。綺麗に整えられた髭は、いかにも執事長といった感じだ。
ん? 執事長……?
「ご苦労。ライラ」
「あら、セバスチャンさま。珍しいですね。どうしてここに……」
「ソフィーお嬢さまのご慧眼にかなう人物と訊いたものでね。ぜひ、最後にご挨拶をと思いまして......お初お目にかかります、ニケさん。当家で執事長を務めておりますセバスチャンと申します」
老人改め執事長のセバスチャンは、俺の前に進み出て、
おお、これが噂のセバスチャン……名にし負うモンフォール、神をも畏れぬ一族の
なるほど確かに、あと2回くらい変身を残していそうな顔をしている。
セバスチャンは黙ったまま、じっと俺の目を覗き込むように見つめた。
「ニケさん。貴方、不思議な雰囲気の持ち主ですね。まるで遠く離れた異世界から来たような……浮世離れしているというか、まるでこの時代の人間ではないような、違和感を覚えます」
「……へぇ。どうしてそう思ったんですか?」
「目を見ればわかりますよ。言葉では言い表せないのが残念ですが……そこはまあ、亀の甲より、年の功ということで……」
適当なこと言うなよジイさん……悪いが俺は、「目を見ればわかる」とか言うヤツは、基本的に信用しないことにしてるのさ。
それが中途半端に当たってるなら、なおさらな。
ガキの頃起こした事故が原因で、十代の後半のほとんどを、意識がないままベッドの上で過ごしていたのは事実なだけに、けったいなことを言うジイさんだなという印象はますます強くなった。
率直に言うと、気味が悪い。
「残念ながら、ロゼッタ生まれの22歳、癖っ毛が特徴の一般男子です。特別な生い立ちなんて、別に何もないですよ。俺にはむしろ、貴方の方が独特な雰囲気の持ち主に感じますがね」
「左様ですか……いやはや、お褒めに預かり光栄です」
そう言うと、セバスチャンはふっと紳士的に微笑してみせた。
食えない老人だな……世間で言う苦手なタイプの象徴的存在である俺が言うのもなんだが、苦手なタイプかもしれん……
「さてニケさん。準備が整いました。どうぞこちらへ」
セバスチャンが会釈をすると同時、玄関の扉がゆっくりと開き、光が射し込んだ。
見れば入口から噴水を通り抜けて、銀杏並木の先にある出口の門まで赤絨毯が敷かれ、石畳の道沿いに、左側にメイドさん、右側に執事がずらっと一列に並んでいた。
脇の方には管弦楽器を抱えた、音楽隊みたいな連中がいる。指揮者がタクトを振るうと、どこかで聞いたことのある荘厳なテーマが流れ始めた。
ようわからん花吹雪みたいなのが宙を舞って、光の反射できらきら輝いている。
「……えぇ」
「お嬢さまからは、盛大に送り出せと特命を承っておりますので。これくらいせねば、モンフォールの名が廃るというものです」
「俺はこれから死ぬんすか? 石化されて、海に沈められるんですか?」
「はて、どういう意味でしょう?」
それから左側がライラの部下で、右側が私の部下だと、セバスチャンは教えてくれた。
いや、この屋敷の総戦力を教えてくれとは一言も言ってないし、「圧倒的だな、我が軍は」とかやりたい訳でもないんだが……
俺としては、紅葉舞い散る道の上で、ライラと手を繋ぎながら別れ際に、
「ニケさん……私やっぱり、貴方と離れたくないです」
「よさないかライラ。急に抱きつくなんて、誰かに見られたらどうするんだ」
「そんなのもう、どうでもいいんです。私はこれからも貴方とずっと一緒にいたい。それだけなんです」
「ライラ、お前……」
「ニケさん……愛しています」
とかいうロマンティックが止まらない展開を期待してたんだが……
現実はかくも無情也。
力は山を抜き、気は世を覆う。時、利あらず……ライラやライラや、汝をいかんせん……
「おーい! こっちこっち!」
魂が抜けた人形のように噴水の側で佇んでいると、空から声がする。振り返ると、二階のテラスに、お嬢さまと愉快な仲間たち(メイド)がいた。
硝子細工をちりばめた礼装に身を纏い、頭の上には見るからに高級そうな宝石が埋め込まれた純銀のティアラ。いつもよりお姉さんぽく感じるのは服装もさることながら、少し化粧をしているからだろうか。
彼女が喋るのに合わせて、音楽がぴたりと鳴り止んだ。
「驚いた? 『来る者拒まず、去る者追わず』がうちの家訓だから。恐縮しなくてもよくてよ」
ただし、追わないのは搾り取った後という但し書きをお忘れでは? それが俗に「薄汚い金貸し」と非難されてる君らのやり口なんだよなあ。
えーと、右膝突くのであってるのか? 左膝は大陸式だから……あー、俺昔からこういうの覚えるの、からきしダメなんだよな……
「達者でね。もう、会うこともないかもしれないけど」
「……」
秋風吹いて、木々は落葉す。
これだけ多くの人に囲まれているはずなのに、心は妙に静かで、波紋のない水面のよう。
こういう時、何を言うべきなのかわからない?
いいや違うな。
たぶんきっと、このまま何も言わずとも、別れの時は訪れて、俺たちはまた元の他人同士に戻る。そんなものだ。
大人になって初めて、親友だとか師匠だとか、十代の頃にしか経験できない劇的な出会いや別れがあるってことに気付かされた。
誰だってそうだろう。まるで大樹の根みたいに、大人になっても未だに消えず、たぶん死ぬまでずっと根付いている言葉や情景の一つや二つ、誰にだってあるはずだ。
人生のある時期にしか触れることのできないモノってのは、きっと確かにあって、ある時期にしか出会えないからこそ、それはいつまでも価値を持ち続ける。
何が言いたいかって、つまり今度は俺が与える番なのさ。
誰かは言った。こういうのには順番があるって。たぶんそのとおりなんだと思う。
やれやれ。タダ働きはポリシーに反するのだが、今日だけは仕方ないか……
「お嬢さま。少し前、お屋敷の庭で、魔法の演習をした際に話したことを覚えていらっしゃいますか。世界一周を成し遂げた、カトブレスの冒険家の話です」
地面に膝を突いたまま、テラスのソフィーを見上げて、俺は言った。
「貴方はあの時、こう仰った……彼等はきっと、最果ての景色が見たかった。それなのに、色んな代償を払って、ようやく辿り着いた景色が最初の景色って、そんなのあんまりじゃないかと……。私はそうは思いません。なぜなら、彼等にとっての最初の景色は、自分が生まれ育った大地であり、大事な家族が待つ故郷であり、いつか必ず帰ると誓った場所だったからです」
夜にはまだ遠い昼の真ん中で、止まっていた時間が動き出したような感覚を覚えた。
見開いたままのソフィーの瞳から視線を逸らさず、俺は続けた。
「いつか帰るべき場所を持つ人間は強い……それは決して、誰もが持っているものではないから。今のお嬢さまなら、それがわかるはずだ。それがどれだけ尊くて、掛け替えがなく、世界に一つしかない場所だと……失うものが何もない人間の強さを闇だとするなら、いつか帰るべき場所を持つ人間の強さは光だ。貴方の未来に光あらんことを、影ながらお祈りしています」
俺は立ち上がると、右腕を水平に、握った拳を心臓の前にトンと当てる。
そして深々と礼をした。
言うべきことは告げた……
俺は傍らのセバスチャンとライラを促し、用意された馬車へと乗り込もうとする。そのときだった。
「オマエのくせに、かっこつけてんじゃないわよバカーーーーーーッ!!!!」
暴風雨の如く、並木さえもなぎ倒しそうなその声量に、思わずズッコケそうになった。面食らったのは、俺だけでなく周囲も同じだったようで、誰もが目を丸くして、同じ方向に視線を向けている。
乱れた呼吸のまま、やがてソフィーが俺の目を見る。
言葉はない。
けれど不思議と、透き通るような彼女の気持ちが理解できた。
人間ってのは、つくづくおかしな生きものだ。
互いに何万字言葉を費やしても理解から遠ざかることもあれば、こんな風に言葉なんてなくても、不思議とわかり合えてしまうことがある。
二人にしか読めない行間に火を灯すように、ソフィーは静かに、それでいて気高くこう告げた。
「いってらっしゃい、ニケ。いつの日か必ず、また会いましょう」
フフンといつものように鼻を鳴らして、彼女は笑う。
するとそれまで鳴りを潜めていたバイオリンやホルンの音が高らかに響き渡り、万雷の拍手がこだまする。
何のこっちゃらホイホイ、にわかに騒がしさを取り戻した周囲をよそに、俺は小さくため息をついた。自然と口角が緩む。
それからセバスチャンと最後の握手を交わし、俺を乗せた馬車は屋敷を出発した。
空の太陽は眩しくて、穏やかな光を街に降り注いでいた。
黄色く染まった銀杏並木の道を抜け、門をくぐり抜けたとき、馭者席に座るライラが、こちらを一瞥して言った。
「ニケさん。お嬢さまのこと……重ね重ね、ありがとうございます」
「俺は大して何もしてないですよ。魔法を教えただけです」
しゃあしゃあとそんな風に言ってみせると、ライラはくすりと微笑し、視線を正面に戻した。
「そうですね……貴方は確かに、お嬢さまに魔法をかけたのかもしれません」
馬車は長い坂を下り始め、眼下にルナティアの美しい街並みと海が広がる。
水平線の果てに見えた空と大地は、前よりほんの少し、寄り添っているようにも映った。