ルチア曰く、それは突然の出来事だったという。
逆鱗を射貫かれたはずのドラゴンがあろうことか蘇り、ブレスによる強襲を受けたが、ガイラルとテレサの張った守護結界により、その場は凌ぎ切った。
そこまではよかった。
「ドラゴンの目が、紅く光ったんだ」
黒煙が失せ、晴れゆく視界の中で、ルチアはそれをはっきりと見たという。
「まるで吸い込まれるような、神秘的な光だった。見る者を惹きつけるというか……おそらく、ヌシがおかしくなったのはアレが原因だ」
時の隊列から鑑みるに、ヌシはその光を真っ向から浴びてしまったのではないか、とルチアは言った。
己が巨体を活かし、咄嗟に味方を庇おうとしたのかもしれない。
やがて、異変が収まる。
最前線に突っ立ったまま、微動だにしないヌシに、近くに居合わせたクルーガーが声を飛ばす。
しかし、応答はない。不審に思った彼が、ヌシに馬を寄せた瞬間、それは起こった。
ミシリと潰されるような鈍い音が、静かに響いた。
最初は何が起きたのかわからなかった。馬の死体が近くに
鉄製の遮眼革を被り、あり得ない方向に身体が曲がったその馬は、どこからどう見てもクルーガーの愛馬だった。それに乗っていたクルーガーの行方は、誰にもわからない。
そこから、ヌシがδ隊へと襲いかかった。
オーウェンとベアトリクスが応戦するも、相手はついさっきまで一緒に戦っていた仲間だ。反撃していいものか戸惑い躊躇し困惑し、自然と防戦一方になる。数の利も活かすことができないまま、ヌシの圧倒的なパワーに押し切られ、二人はあっけなくやられてしまった。
バフによる支援を試みていたテレサも、流れ矢を受けるような形で、前線の攻撃に巻き込まれ、そこから先の行方は知れないという。
瞬く間にδ隊が壊滅し、万策尽きたかと思われたが、そこでγ隊が現れる。
異変を察し、いち早く現場に駆けつけた彼等の支援により、前線は最悪の事態を免れたが、γ隊は本来全員が後衛のバックアップ専門部隊だ。
肝心の前衛不在では、デバフで敵を拘束して、時間稼ぎすることくらいしかできない。
「今はコウメイとシセルを中心に前線を立て直し、何とか遅滞防御に努めているが……それも時間の問題だ。はっきり言う。この戦いは、僕たちの負けだ」
ルチアは、俺たち三人の目を見て言った。
「全軍撤退する。これは決定事項であり、ガイラルの命令だ。異論は認めない」
まさかの急展開に、さすがの俺たちも動揺を隠しきれない。
微かに声音を震わせつつ、アルタイルが言った。
「そんな……俺たちはまだ、戦ってすらいないんだぞ……?」
「そう言うと思ったからこそ、僕がわざわざここに来てる。繰り返すようだが、これは決定事項だ。無傷のβ隊には、撤退時の
心の臓が締め付けられるような緊張が走った。
ここでの決断が、自分ないし全員の命を左右することは、ここにいる全員が理解していた。
迷っている余裕などないという焦りが、余計に迷いを生む。
「ソレハツマリ……ヌシヤクルーガー達ヲ、見捨テルトイウコトカ?」
沈黙を破り、ヒョードルがそう言った。
数瞬の間を置いてから、ルチアが応じた。
「……δ隊のメンバーは、スタッフが回収に向かっているはずだ。おそらく救出できるだろう。もっとも、クルーガーに至っては、回収すらままならない可能性が高いが……たぶん、もう……」
「ダガ、ヌシハ……アイツハ……」
「ヌシとガイラルは、種族こそ違えど、互いに気心知れた親友のような間柄だと、俺は思っていたんだがな。そんなガイラルがヌシを見捨てるなんて、冗談だろ。おいルチア、お前その命令本当なんだろうな。耳が長すぎて聞き間違えたんじゃないのか」
エアーブレイカーの自称よろしく、お得意の空気ぶち壊し発言をかますと、ルチアは眉間に皺を寄せ、俺を激しく睨んだ。
「ふざけるなよニケ……その舌引き抜かれたいのか」
「ふざけてなんかねえよ。至って大真面目だ」
「ならお前だってわかるだろ!! ガイラルはその気心知れた親友一人の命よりも、全員の命を優先したんだよ! アイツがどれだけの覚悟で、この決断を下したか……こんなこと、一々言葉にしなきゃわからないのかよ……」
珍しく頭に血が上ったのか、感情を露わにしたルチアが、ばつ悪げに振り返る。指笛を鳴らし、馬を呼び寄せた。
やがて、アルタイルが俺の肩をポンと叩く。
「ニケ。気持ちはわかるが、ここはガイラルの意を汲もう」
「もちろんだ。ガイラルの命令には従うさ。撤退戦の殿も引き受ける。ただし、やり方は俺たちの自由だろう」
「やり方?」
「ああ。戦いはまだ終わってなんかいない。むしろ本番はこれからだ」
その一言に、傍らのアルタイルとヒョードルが、ハッとした表情を浮かべる。
「ルチア。俺たちの作戦に協力してくれ。あのクソッタレドラゴンに、一矢報いよう」
馬上のルチアと視線が交錯する。
不敵に口角を上げると、俺はこう告げた。
「ヌシを諦めるのは、それからでも遅くないだろ?」
*
脇目も振らずに馬を飛ばし、林道を抜けると、視界が一気に開けた。
開けた谷底平野のど真ん中に、デバフで拘束されたドラゴンとヌシの姿を捉える。
事前に示し合わせたとおり、アルタイルとヒョードルとはそこで別れ、俺とルチアは後方で指揮を取るガイラルの元へ急行する。
到着するや否や、ガイラルに作戦の要諦を伝える。というのも、俺が立案したこの作戦には、ガイラルの協力が必要不可欠だからだ。
「なるほど……幸い、それくらいの魔力ならまだ俺にも残っている。しかし――」
ガイラルが眉をひそめる。言わずとも、彼の懸念は察した。
成功の確率と失敗に終わったときのリスクを天秤にかけると、これは余りにも大きな賭けだ。白か黒か、すなわち逆転勝利か全滅かの二択で、その中間はない。
実際問題、これで仕留め損ねたら、ルチアはともかく俺は、
「うおおおおおおおおおおお!!!」
ご支援ありがとうございました! ニケさんの来世にご期待ください!!
――になることは必定だからな。
「むろん、これ以上損害を出す前に撤退という選択肢も間違っちゃいない。最終的な判断はお前に任せるが……俺は捨石になるつもりなんざ毛頭ない。お前がやれと言うのなら、必ず成功させてくる。そこは俺を信じてくれ」
「……」
そのとき、氷が砕け散るような、派手な音が鳴り響く。
ハッとして目をやると、数十メルト先でシセルが白目を剥き、精魂尽き果てたかの如く、どさりとくずおれる。イケルが「おいジジイ!」、「しっかりせんかクソッタレ!!」、と声を張り上げているのがここまで伝わってきた。
ついにデバフが破られたのだ。
それと同時、ズシンズシンと地面を揺らし、紅く瞳を滾らせたヌシの姿があらわになる。
万事休す。右手に握りしめた斧が、上空で弧を描く。そしてゆっくりと、振り下ろされる――
もうダメかと思ったその刹那、大地を削り取るように、衝撃波が蛇行して迸る。ヒョードルの格闘術だ。
練り込まれた気が拳から大地へと伝い、ヌシへとぶつかる。
それとほぼ同時、ふっと剣閃が煌めき、上空の死角から、ヌシの脳天目がけてアルタイルが打ち込んだ。
兜割り――
叩き付けた
予定通り、アルタイルとヒョードルがヌシと交戦を始めたのを確認すると、ルチアがドラゴンの方を見て言った。
「頃合いだな……コウメイとチュウタツの符術も、じきに破られるだろう。僕はもう行く。あとは頼んだぞ、ガイラル。ニケ」
そう言い残すと、ルチアは馬にまたがり、γ隊が陣取る方へと向かっていった。
後には俺とガイラルだけが取り残される。
喧騒は鳴り止まない。
撃剣が衝突する音に、ドラゴンの唸り声と、相も変わらず、やかましい戦場とは対照的に、ここだけは妙に静かだった。空は雲一つなく、腹立たしいまでに青白い。
遠く向こうでは、行方知れずとなっていたはずのテレサが、スタッフと共に負傷者の介護に当たっている姿が見えた。
手当をしているのは、オーウェンあるいはベアトリクスだろうか。クルーガーの姿が見当たらないということは、やはり……
イケルのじいさんが、魔力切れで意識を失ったシセルを担いで、スタッフと共に戦線から離脱しようとしていた。その奥ではアルタイルとヒョードルが、未だ正気を失ったままのヌシと交戦を続けている。
二時の方角では、コウメイとチュウタツが符術で具現化した鎖によってドラゴンを束縛。懸命に押しとどめている。
万全を期したはずだった。
一体誰が、ここまで苦戦を強いられると予想しただろうか。
いや、一人だけ居たか。
今俺の目の前にいる、銀髪の男だ。
「参ったな。まさかあの時お前と交わした与太話を、こうして実行に移さねばならん局面にまで追い詰められるとは……」
そう言ったガイラルの衣服は切り傷でほつれ、顔には煤がこびりつき、瞳は虚ろによどんでいた。
俺のあずかり知らないところで、彼は彼なりに副官として仲間を指揮し、前線を支え、死力を尽くしてきたのだろう。
「なあニケ。俺の判断は、一体どこまでが正解で、どこからが間違っていたんだ?」
「最初から最後まで正解し続ける人間なんていねぇよ」
俺の即答に、ガイラルは目を丸くする。
やがてうつむき、吹っ切れたかのように、声を出して笑った。
「君みたいなタイプの方が、存外指揮官は向いているのかもしれないな」
「俺が? 冗談きついね」
「別に冗談ではないんだが……まあいい。決めた」
ガイラルが俺の目をまっすぐ捉えて、言い放つ。
「ニケ。俺はお前に賭ける。お前に全てを託す。あの馬鹿を、何としても救ってこい」
半笑いを浮かべた後、ガイラルが詠唱を開始する。俺は静かにうなずいた。
チャンスはただの一度きり。
ヌシがドラゴンに操られているというルチアの仮説が正しいのだとすれば、ドラゴンを殺せばヌシは必ず正気を取り戻す――それが俺の計算だった。
そのためにはまず、アルタイルとヒョードルがヌシの注意を引き、その間に俺とルチアが連携してドラゴンを仕留める。
まったく何の因果だよ。こんな話聞いてねえぞ。
後ろからチマチマ魔法撃つだけの簡単なお仕事だと思ってたのが、あろうことかこのザマだ。俺は一体いつから物語の主人公になったんだ?
言いたいことは他にもまだまだたくさんあるが、とりあえずこれだけは言っとく。
ククク……ドラゴンさんよォ、アンタついてないぜ。俺という
「汝が深淵を覗くとき、深淵もまた汝を試すであろう。時の回廊。螺旋の理。因果の鎖を解き放ち、彼の者を約束の地へと運びたまえ」
ガイラルの詠唱と共に、足下に円環の魔法陣が展開し、眩い光が全身を包み込む。
空間が歪み、〈
そして、俺は言の葉を紡いだ。
「悠久の空を渡る風の妖魔よ。汝が安寧を妨げる者に裁きを。その御姿は猛きこと刃の如く、刹那の惨事を逃れる術はなし――」
閉じたまぶたを開いた瞬間、視界の先に映ったのは、ドラゴンの背面。
ドラゴンの背中に降り立った俺は、次の瞬間、両手を正面に掲げて、全身に纏いし風を解き放った。
「ぶったぎれ――
刹那、風が唸って哮って牙を剥き、超高速の斬撃が飛び交って、目標をズタズタに切り刻む。
「うおおおおおおおおおおお!!!」
ご支援ありがとうございました! ニケさんの来世にご期待ください!!
じゃない。勝手に人の人生打ち切るな。
狙いはドラゴンの頸椎、ただ一点のみ。
有体のアンデッドを駆逐するには、まず炎。
それが叶わないなら、脳か脊髄、あるいは心臓をぶち抜く。
いかなドラゴンゾンビといえど、元が一個の動物ならば、運動を司る中枢神経系さえ破壊すれば、奴はもう動くことができない。直に機能を停止する。
中でも脊髄、それも頸椎部分に狙いを絞ったのは、目で追える脳や心臓と異なり、首の後ろは身体の構造上、完全死角となるからだ。
ましてドラゴンのように首が長く、人間より両腕の可動域も狭いとなれば、一度後ろを取られたが最後、相手はどうすることもできない。
ロートルの無職が社会復帰できる可能性と同じくらい、状況は絶望的だ。
いける……いけるか? いやまだもう少し――
返り血を浴びて、すでに全身血塗れだが、構うものか。明日から本気出すが信条の俺に、今日本気出させた貴様の罪は重い。
勝負だクソッタレ。俺の魔力が尽きるが先か、てめェの首が落ちるが先か――
すると突然、ドラゴンが最後の力を振り絞るが如く、凄絶な叫び声を上げた。断末魔にも近いその叫びに、聴覚が麻痺して意識がぶっ飛びそうになる。
「おい……嘘だろ……」
かすかに捉えた視界の合間。
アルタイルとヒョードルを退けたのか、ヌシがこちらへ向かって来ていた。
呼び寄せた……のか?
異変に気付いたルチアが牽制せんと、ヌシの足首めがけて弓矢を放つ。命中するも、ヌシの勢いを留めることはできない。
雄叫びを上げ、脇目も振らずにこちらへ突進してくるその様は、さながら北方神話に出てくる
まさか、アイツも痛覚を失っているのか……?
心臓の鼓動が加速する。
音を失った世界の狭間で、視界が揺れる。
ヌシが右手に握りしめた斧を投擲せんと、大きく振りかぶる。
絶対絶命、俺の命運もここまでかと思ったそのとき、影が割り込んで、ヌシの動きが中途で止まる。
見ればそこには、見覚えのある派手な大剣を装備した、屈強な戦士の姿があった。
あれは――
クルーガー!!
「おらヌシてめェ、よくもやってくれたじゃねえか。俺を差し置いて、どこへ行こうってんだ……あァ?!」
みんな大好きウホウホオラつきマン自慢の大剣と、ヌシの大斧がつばぜり合いを起こし、目と鼻の先の距離で、クルーガーとヌシの視線がかち合う。
頭部を裂傷しているのか、クルーガーの額からだらりと血が流れ、滴り落ちる。
明らかに戦える状態ではない。全身を奮い起こし、気力でその場に立っているのは、誰の目にも明らかだった。見る見るうちに、剣が押されていく。
「この馬鹿力が……とっとと目ェ覚ましやがれってんだ……!」
「グググ……ガガ……」
「ニケェ!! 俺に構うな! さっさとやっちまえ!」
「ウウ……アア……!」
するとどういうことか、剣が勢いを盛り返し、斧が押され出す。
真っ赤に染まっていたヌシの瞳が、にわかに陰り始める。
「狂化の効果が弱まっている……? ニケ、今だ! 畳みかけろ!!」
わかってるよトンガリ。お前に言われるまでもない。
底が見え始めた魔力を振り絞り、出力を限界にまで引き上げると、俺は掲げた両手を下ろし、ふっと笑みを浮かべた。
「
鋭い衝撃と共に、頸椎が砕け、ドラゴンの首が落ちる。
魔力を限界まで使い果たした反動か、俺の身体も、支えを失った人形のように、地面へと墜ちる。崩落に呑み込まれる。
すべてのシーンが細切れに網膜に投影され、やがて静かにブラックアウトしていく。
意識が落ちる寸前、喜びに沸く仲間の声が微かに伝ったのは、たぶんきっと、俺の気のせいなんかじゃないと思う。