酒場を後にした俺は、その足で教会へ向かった。
神に祈るためではない。酔いを覚ますためだ。
マスターが出してくれた酒は、ことのほか美味だったが、度数が強く、俺がそれほどアルコールに耐性がないということもあって、すぐに酔いが回ってしまった。
こういうときは、教会に寄って酔いを覚ますのが、俺のお決まりのおさんぽコースとなっている。
夜更けの教会というのは、中々に乙なものだ。
窓から射し込む淡い月光が、女神イリヤの彫像を穏やかに照らし出す。
重厚な扉を開くと、彫像へ祈りを捧げていた
「こんな夜ふけに何の用……って、あら? あなたは」
俺はわざとらしく両肩をすくめてみせる。
「こんばんは。アリシアさん」
一拍置いてから、彼女はくすりと微笑した。
「おやおや……またいらっしゃったのですね。名も無き敬虔な信者さま♪」
「ええ。恥の多い人生を送ってきたものですから……一日の終わりには、こうして神に感謝を捧げておかないと、心が安まらないんです」
心にもないことを口にして、身廊を進み、俺は最前列の席へと腰掛ける。そしておもむろに目を閉じ、両手を組んで祈りのポーズを取った。
念のため言っておくが、俺は神など露ほども信じていない。
そもそも両手が塞がるこのポーズが、「私は無力でアホで自分で自分のケツも拭けないうんこ野郎なので、どうか守ってください」と、全世界に降伏宣言しているようで情けない。俺が神の立場だったら、そんなうんこ野郎を進んで助けたいとは思わない。
えーと、それで何だっけ……天にまします我等が女神官よ。違うか。
「ねえ。今日こそは、あなたの名前を教えてくれますよね?」
目を開くと、そこには小首を傾げたアリシアがいた。
印象的な、口元斜め下のほくろ。
紫色の瞳に、腰元まで届く青みがかった銀髪。
そして見事なおっぱい。
俺はゆっくりと首を横に振る。そして前屈みに、両手を顔の前で組んでみせた。
「名乗るほどの者ではありません。しがない町人Aです」
「も~う! またそうやってごまかすんですから」
「すみません」
「迷える子羊の悩みを聞くのが私の仕事なのに、あなたときたら、自分の身の上をほとんど話してくださらない……これでは私の立場がないではないですか」
「すみません」
「それとも何です? どうしても、イリヤ様とお二人だけの秘密にしたいということなのですか? 私ではダメなのですか?」
「すみません」
「も~う! すみませんばっかし!」
子供みたいに怒るアリシアをよそに、俺の眼差しは彼女の豊満な胸元をつかんで離さなかった。
敬虔なるイリヤ教徒である彼女には申し訳ないが、正直教団の教えなんざどうでもいい。
諸君、良きことを教えてしんぜよう。禁断の果実とは、林檎でもなければ葡萄でもない。
おっぱいである――
「でもあなた、いつも決まって夜に教会を訪れますよね。日中には一度もおいでになったことがない……何か理由があるのですか?」
「そういう職業なんです」
「職業? 職業……えーと……わかりました! あなたは漁師さんですね!」
ぐいっと身を乗り出して、吐息がかかるくらいに顔を近づけて、彼女は俺に言った。
「昼間見ないのは、仕事が終わった後だから。夜見かけるのは、仕事の無事を祈りに来ているから。ね? イイ線いってるでしょ~♪」
人差し指を、前屈みになっている俺の鼻にぴっと向けて、にこにこと微笑む彼女。
見事だ。
身を乗り出した瞬間、たゆんと揺れた禁断の果実を、俺の
「確かに……日々思索の海を駆け巡り、あてのないフロンティアを探しているという意味では、俺も漁師なのかもしれない」
「何ですかそれ? 哲学的ですねえ……」
アリシアは不可解な表情を浮かべる。そりゃそうだ。そもそも俺無職だし。
この世界に意味のないことなど何一つないとの立場を取れば、そういう言い方もできるというだけの話である。人はそれを詭弁と言う。
前から思ってたけど、この世界に意味のないことは何一つないなんて大嘘だよな。よしんばそうだとしたら、無意味や無価値という言葉に意味がなくなるじゃねえか。
ほら、意味のないことあった。Q.E.D.
「でも、そういうアリシアさんこそ、自分の過去は一切お話しになりませんよね」
アリシアの視線が、こちらを向く。
「あなたがロゼッタに赴任してすでに一年が経つというのに、誰一人としてあなたの素性を知らない。これまでどこで何をして、どうしてこの街に流れ着いたのか……街ではもっぱら噂になってますよ。実は凄腕の
目が合うと、俺は続く言葉を述べた。
「
窓から射し込んだ月光が、足下に暗い影を落とす。
そのとき、アリシアのクロッカスの花のような綺麗な瞳が、わずかに光沢を失ったように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
ふっと口元を緩めて、アリシアが言った。
「やだなあ。街ではそんな噂が流れているんですか。過去を語らないのは、語るほどの過去を持ち合わせていないからです……それに、女性の過去は気安く詮索すべきものではありません。なぜかというと」
人差し指を口元のほくろに重ねるように合わせると、彼女は俺にウインクをした。
「年がばれてしまうからです♪」
相変わらずな彼女の受け答えに、俺は微笑で応じる。
これ以上は、カマをかけても無駄か……
「ああ、そうそう。以前あなたに頼まれていたモノが、見つかったんです。ちょっと待っててください」
待つことしばし。
彼女は一冊の古ぼけた書物を抱えて、奥の部屋から戻ってきた。
「『オリヴィエの歌』。究極のグリモワール『アルス・ノトリア』を完成させるべく、世界中を旅した魔導師ノルンを描いた古代の叙事詩……これでしょう。あなたが求めていたものは」
俺は受け取った書物をペラペラとめくる。
活版印刷の技術が普及した現代では、もはやロストメディアと化しつつある、羊皮紙独特の手触り。間違いない。
「魔導師ノルンと言えば、第一次東征で勇者シリウスの右腕として活躍した人物……奔放な人柄で知られ、戦後は弟子と共に世界を回り、各地に多くの伝説を残したという。その足跡を垣間見れるのが、『オリヴィエの歌』でもある訳ですが……どうして今さら、こんな古い書物を?」
「実を言うと、ノルンはガキの頃の憧れなんですよ。魔王討伐後、あらゆる褒賞や仕官の類いを断り、自分の好きなことだけ突き詰めて、やりたいことやって天寿を全うしたっていう彼女の生き様が好きで……いや~、懐かしいな……どこで手に入れたんですか?」
「ああ、教団内の伝手です」
アリシアはそれ以上を語らなかった。
振り返れば、
「どうぞ。持ち帰っていただいてかまいませんよ」
「ありがとうございます。子供の頃を懐かしみながら、じっくり読ませていただきますよ」
「イリヤ様は、常に私たちを見守ってくださいます。あなたの前途に、ご加護のあらんことを――」
にっこり笑った彼女の顔を見て、俺は再度礼を言い、その場を後にした。
*
翌日。
俺は珍しく日中から活動を開始し、鍛冶屋町にある武具屋へと向かった。
そこにはかつての無職仲間がいる。今やそつなく稼業を継いで、五代目鍛冶職人として日々精進しているらしいのだが。
まあ要するに、俺からすれば無職の誇りを捨てて、俗世にドロップアウトした裏切り者である。
「え? ニケ、お前どうして――」
店先にツラを出すと、彼はまるで得がたい汚物を見たように、ぽかんと口を開けていた。
俺は無言でうなずき、クイクイと人差し指を動かして、話があるとのサインを出す。
ちなみにニケというのは、ガキの頃からの俺のあだ名だ。本名とはさして関係がない。
「……わかったよ。ちょっと待っててくれ。お袋に店番頼んでくるから」
そう言って、エルは店の奥へと引き下がる。
やれやれ。コイツのこういう生真面目な所は、昔から全く変わりがない。
城壁の外を探検していると、夕暮れが近づくや、「ねえ、もう帰ろうよニケ……」、「お母さんに怒られるよ……」とか、ブツブツ言ってたからな。
三つ子の魂なんとやらということか。あのときアイツもう十歳過ぎてたけど。
二分くらい待つと、エルが再び姿を現した。
「ここで立ち話もなんだ。あそこに行こう」
俺は首肯する。お互い言わずとも、行く先は知れている。
大戦士アレクの巨大な石像が屹立する南の城門を出て、二十分ほど歩いた所にある、小さな丘。ガキの頃から、二人で語らうのはそこと相場が決まっていた。
「エル。どうなんだ最近」
「俺はまあ……ぼちぼちやってるよ。まだまだ親父の域には到底及ばないが、それでも近頃やっとこさ、褒められるようになってきたんだぜ。いやはや、鍛冶の世界は奥が深い……一歩進めば進むほど、これまでの未熟さを思い知らされるような心地になる。けど、最近はそれが面白いと感じるようになってきてな。世界が開けたっていうかね」
思いも寄らぬ旧友の言葉に、俺は目を糸のように細める。
なんということだ。
これが元無職の発言か。お前ともあろうものが、いつの間にか労働に対してポジティブな意見をのたまう人間に堕落しちまったなんて……
無職ひとたび去りて、また還らず。
時の流れは残酷だ。物語はいつだって、俺一人を置き去りにしてハッピーエンドを迎えやがる――
「お前こそどうなんだよ、ニケ」
「俺か。俺はまあ、相変わらずだ」
久方ぶりに浴びる午前の陽光は、今の俺には眩しすぎた。
「思索のフロンティアをさまよう、孤高の魔導師。今までもこれからも、俺は俺のあるがままを突き進むだけだ」
「お。懐かしいな、その言い回し。久々に聞いたような気がするよ」
「お前を失った世界は少々息苦しいが、ここで折れるつもりはない。孤高の魔導師ニケは、亡き戦士エルの意志を受け継いで、今日も元気に最前線だ」
俺の言葉に、エルは「ははは」と微笑する。
失礼な奴だ。俺の神聖にして不可侵なる決意の、一体どこがおかしいというのか。
俺は無職であることを誇りに思っている。
依るべき場所を持たず、何物にも染まらず、道なき道を、ただ一人ソロプレイで歩み行くマージナル・マン――それこそが無職である。
世界が無職に厳しいのは、ひとえに俺たちが穢れなき存在、つまり無色であるからだ。真っ白なものは汚したくなるのが世の道理だからね。
同胞たちに告ぐ。
俺は世界には屈しない。たとえこの世界の全ての無職が職に就こうとも、俺は最後の一人になるまで戦い続ける覚悟だ。
「戦士エルと、魔導師ニケか……まったく。今となれば、何もかもが懐かしいな……」
訳のわからん決意を固めている俺の隣で、エルがぽつりとそう呟いた。
そよ風が頬を撫で、草原がさらさらと揺れている。
遙か地平線の果てまで海が見渡せる、見晴らしの良い吹きさらしの丘の上に到着すると、エルは石の上にどかっと腰を下ろした。
「で、ニケ。本題はなんだ。まさか昔話をするために、俺に会いに来た訳じゃないだろう?」
そのとおりだ。
俺は両腕を組み、ここぞとばかりに語り出した。
「エル。勇者クロノアが決起するのは、いつだか知ってるか?」
「三次東征だよな。クロノアが成人に、つまり十六歳の誕生日を迎えてからだから……来年の春とか夏じゃないか?」
「うむ。そのせいか、ロゼッタには最近やたらと見知らぬ連中が増えている。勇者の仲間集めのせいもあるが、クロノア見たさの観光気分の輩が増えたのも事実だ。俺は居酒屋の
エルは口元に手を当て、わずかに目線を下げた。
細めたその瞳には、「ただしお前は働いてないがな」とのメッセージが込められているように思える。
「ニケ……俺とお前の仲だ。前置きは要らない。結論から話そうぜ」
「ならば単刀直入に言おう。俺は、アルス・ノトリアを探している」
エルが
「アルス・ノトリア、だって……?」