「――そうか。何はともあれ、無事でよかったよ。人狼を仕留めてくれたことは、村を代表して感謝する。お疲れ様だったね」
「……はい」
囲炉裏の炭火が、音も無く紅く灯っている。
向かいに座る親父さんの目を見ながら、俺は言った。
「申し訳ありません。まさか、一晩の間にあんなことになっているとは思わず……」
「人狼……人狼なァ」
ジジイの呟きに、親父さんが反応した。
「どうした、親父?」
「いや。ワシも七十年近く生きてきたが、イカルガの周辺で人狼が出ただなんて話は、一度も聞いたことがなくてな。なぜ、唐突に……」
「そのことなんですが……。あれはたぶん、人間が変異したものだと思います」
俺の一言に、この場に居合わせた三人の目が一斉にこちらを向く。真っ先に反応したのはトルフィンだ。
「おいおい、何言い出すかと思えばニケ……人間がバケモノに変化するなんて、そんなのお伽噺の世界だろ。満月の夜、呪いによって人間が人狼へと変貌するってのは、確かに有名な迷信だけどさア……人狼はあくまで狼の変異体だ。恐れ多くも人間様に、怪物に生まれ変わる力なんてねえさ」
「確かに。トルフィンの言うとおりではあるが……」
親父さんは口元に手を当て、ジジイの方を見る。意を合わせたかのように、ジジイが口を開いた。
「ニケ。なぜそう考えた?」
「一つ目は、山賊の死体です。死体の一つに、明らかに刀傷と思われる損傷があった。人間同士の争いが起きた証拠です。変異体が変異に苦しみ、暴れるのを抑えようとした時に、受けた傷だと考えれば……。
そして、もう一つは、死体の数です。昨日探った情報だと、山賊は全員で16人いた。ところが、昨日見つけた死体の数は15……足らないんですよ。ちょうど一つ。逃げ延びた奴がいるのか、あるいは……」
ジジイは俺の説明にうなずきもせず、ずっと渋い表情を浮かべていた。
逡巡を断ち切るように深く息を吐き出すと、やがて彼が言った。
「なるほどな。だが、仮にお前の言うことが正しいのなら……」
面を上げ、ジジイが俺の目を見る。
「イリヤ教団の教理に反する。魔族のルーツは、人間であるという思想に結びついてしまう……わかるよな? それが、アヴァロニアでどれだけ危険な主張であるか」
どこからともなく隙間風の音が聞こえた。囲炉裏の土瓶がぐつぐつと煮え、炭火が爆ぜる。
平素はお喋り好きなトルフィンが、いつになく真剣な面持ちを浮かべて言葉一つ発さない事実が、この沈黙の重さを雄弁に物語っていた。
わかってるよジジイ。言われんでも、そんなことはわかっとる。
魔族を絶対悪とみなす教団の教理からすれば、人間と魔族が生物として結びついているなど、言語道断の危険思想だ。
仮に公の場で堂々とそんなことを主張したら最後、異端審問官――一般には暗部と呼ばれている連中に目を付けられ、一週間後には、耳鼻を削がれ、爪も剥がされた死体が、ヴェルダン河辺りに浮かび上がっているのがオチだ。
「なあニケ。ふと思ったんだが……」
ぽつりと、親父さんが口を開いた。
「君の主張は、魔力泉の暴走とは関係ないのか? イカルガ鉱山は、かつて大規模な魔力泉の暴走が起きた場所だ……君の主張と、決して無関係ではないような気がしてね」
「そうとも言えるし、そうでもないとも言えます」
「どっちなんじゃ」
ジジイの一声に、俺は努めて中立的な笑みを浮かべた。
「濃度の高い魔力は人体に有害で、場合によっては死に至るケースもある。現にイカルガ鉱山の奥深くでは、そのような瘴域が残っている可能性は高い。けれど、その事実だけをもって、人間が怪物に変異するとは考えがたい。
濃度の高い魔力に曝されることは、人間が怪物に変異する条件の一つかもしれないが、他に何らかの決定的なトリガーがあるはず――というのが俺の見解です」
「トリガー? 満月の光でも浴びるのか? 狼男だけに」
そう言うと、トルフィンは「ガハハ! ガハ……」と笑った。
いつもの「ガハハ!」とは違い、残尿感のような「ガハ……」があった分、この男もこの男なりに空気を読んだのだろうが、あながち間違いとも言い切れないのが何とも……。
魔術の界隈だと、月光が神秘的な力を秘めているというのは通説だし。大規模な魔術を決行するにあたって、魔術士がわざわざ満月の深夜午前二時を選ぶのは、一応それなりの理由があるのだ。
まあ個人的には、あんなの願掛け程度にしか思ってないんだが……
「わかった。この件に関しては、四人の胸の内に留めておこう」
「いいのか親父? 騎士王には……」
「確証もない今の段階では、余計に話を広げない方がいい。どこで何が繋がっているかわからん以上、沈黙を貫くべきだ。身の危険を防ぐ意味でもな」
俺と親父さんが同時にうなずく。
トルフィンは「余計なこと聞いちまったな……まあ酒飲めば忘れるか! ガハハ!」と言っていた。
おっさん……
「して、ニケ……ドロシーの容態はどうなんじゃ」
ジジイの言葉に、俺は顔を上げる。
実を言うと、ドロシーはあの後すぐに気を失ってしまったのだ。
呼吸こそあるが、呼びかけても返事はなく、永久に目を覚まさない眠り姫のように、彼女は意識を失っていた。頬をペチペチしても、脇腹をくすぐっても、反応はなかった。
キッスをすれば目覚めるかなとも思ったが、さすがにやめておいた。俺は王子様ではない。
やむなく、彼女を背負って村まで引き返し、今に至るのだが……
「人狼との戦闘で、力を使いすぎたんでしょう。目立った外傷はないから、そのうち意識を取り戻すと思います」
「……そうか。ならいいのだが」
囲炉裏の炎が揺らめいて、影が揺れる。
ジジイの眼差しに何か探るような意図を感じたが、俺はあえて気付かないフリをした。当然、戦闘中に起きた彼女の異変については、何も語らなかった。
いや、言えるはずがない。
だってあれは、どう見ても魔族だけが持ちうる瞳の輝き……
魔眼にほかならなかったから。
*
魔族の中でも高位に位置するものは、瞳に秘められた特別な力で、他の生物を意のままに操ることが可能だという。心の支配。強制的な隷属。
それが魔眼だ。
直接見たことがない人間からすれば、何とも滑稽な話だが、現に二次東征――
古くは一次東征の書物を紐解けば、高位の魔族が持つ魔眼の力によって、味方同士が傷つけあったり、指揮官が突如乱心したりと、人類側が大いに苦戦させられた記録が残っている。
こんなん勝てる訳ないやんけと、俺も子供心によくハナクソをほじったものだが、師匠に聞いた話によると、付け入る隙はあるという。
まず、これほどの魔法である以上、術者にも相当な負荷がかかることは間違いない。ゆえに、効果は一時的かつ限定的であることが多い。
次に、というかこれが一番重要なのだが――同じ人間でもかかりやすい状況と、かかりにくい状況が存在する。
ある種の催眠術のようなものなのだろう。強烈な憎悪や恐怖心に苛まれると、即座に魔眼の虜となってしまう一方で、折れない精神や挫けぬ心は、魔眼に立ち向かう強力な楯となる。
要は「強く正しい心」があれば、魔眼など恐るるに足らない、と師匠は言った。
現にシリウスやローランのような聖剣に選ばれし気高き精神の持ち主は、魔眼の邪気を退けて、幾度となく勝利を収めたそうな。また、魔石の加護により、邪気を弱めることは可能だとも師匠は言っていた。
とまあ、つらつらと魔眼について述べたが、俺が語りたいのは魔眼の必勝法・攻略法などではない。
ドロシーのことだ。
どうして人間であるはずの彼女が、魔族にのみ与えられし特別な力を宿しているのか。
二晩考えてみたけれども、結局答えは出なかった。
当然の話だ。俺はドロシーについて多くを知らない。知らなさすぎた。
ドロシーは二年前、ロゼッタにやって来たと言っていた。
ロゼッタに来るまでの間、彼女がどこで生まれ、何をしていたのか。どうしてロゼッタにやって来たのか。どのようにして、魔法の才覚に目覚めたのか。彼女の圧倒的な才覚は、魔眼の特殊性に起因しているのか……
俺はあの子について何も知らない。知らない以上、答えなど出るはずもない。そもそも俺は……
どうすべきなんだ?
その気になれば、一国の王さえも意のままに操れる力だ。教団にでも嗅ぎつけられたら最後、ただでは済まないだろう。
クロノアやトラヴィスはこのことを知っているのか?
いや、知らないのだろう。知っていたら、これほどの力を、連中がみすみす手放すとは思えない。使いようによっては、魔族に立ち向かう切り札にもなり得る力だ。だったらなおさら、己が目の届く範囲に置いておくはずだ。クラインの脱退など、認める訳がない。
第一ドロシーは、あの力を制御できていないように思えた。もし街中で暴走でもすれば、ジョーカーは一転して死神にもなり得る。
早い話が、その辺に野放しにしておいていいような力ではないのだ。教団、いや魔族にでも利用されることがあれば……
何にせよ、考える事は多すぎた。
そして考えれば考えるほどに、俺には到底手に負えない力であることがはっきりしてきた。
手に負えない?
おいおい何を勘違いしてるんだニケ。お前とドロシーは元々他人同士だろ。仕事上、偶然巡り会ったパートナー。それ以上でも以下でもない。ならば当然、お前が取るべき選択肢は一つだ。
何も知らない振りをして、さようなら。
それだけだ。お前はいつだってそうしてきたじゃないか。
一々言われなくとも、そんなことはわかっていた。厄介事は嫌いなんでね。俺はもう大人なのだ。良くも悪くも、周りが見えていなかったガキの頃とは違う。
それが賢い大人の選択などと嘯きながら、そうやって自分さえも欺いて、いつしか欺いてたことすら忘れてしまった進化形――それが今の俺だ。らしくもない選択肢に頭を悩ますなど、俺らしくもない。
なのに……
だというのに、踏ん切りがつかないのは、心の底がわだかまっているのは、きっと……アイツがああ言ったせいだ。
私、アルス・ノトリアを探してるのって。
咄嗟のことで聞き流してしまった言葉の真意を、その理由を、知りたいと思ったから、たぶん俺は――
「いてっ!!」
頭に鈍い衝撃が走って、ハッとして我に返る。
振り向いた視線の先で、ミーチャとワーニャがけらけら腹を抱えて笑っていた。どうやらガキどもに雪玉をぶつけられたしい。
「お前ら……」
ミーチャとワーニャは「悔しかったら、報復してみろー!」と叫んで、スタコラ逃げだしていった。
先週、二人が「軟弱なネウストリア人風情が、俺たち北方人に雪合戦で勝つなど百年早い」と調子こいていたのに腹が立ったので、魔力を駆使した弾数無限・変幻自在の早撃ちサイキック・スノーボールで、フルボッコにしてやった腹いせなのだろう。
やれやれ。これだからガキは嫌いなんだぜ。
俺は世の中の厳しさについて、身をもってレクチャーしてやっただけだというのに……
報復する気も起きなかったので、その場からやおら立ち上がり、家の方に向かう。
雪道をざくざく進んでいくと、もくもく煙が立ち上っているのが見えた。ジジイとアリョーシャが焚火をしているようだ。ゴミでも燃やしてるのだろうか。
アリョーシャが俺に気付いて、こちらに手を振った。
「お茶でも持ってくるよ」
そう言って、アリョーシャがぱたぱたと勝手口に走って行った。
さすが、末っ子は気が利く。ろくでもない姉貴やしょうもない兄貴の失敗を、この目で見届けてきた教訓が生きているのだろう。
縁側に腰掛けていたジジイの隣に、よっこらしょういち……じゃなかった。失礼しますと言って腰掛ける。沈黙が流れた。
男は信頼に足る人物が相手だと、おのずと黙ってしまうものですよと昔誰かが言っていたが、そいつはいささか綺麗に表現しすぎではないかと思った。
俺はどうでもいい奴が相手の時でも黙るぞ。むしろ、誰とも口利かないまである。
「採掘、近いうちに始めるってトルフィンから聞いたぞ」
ジジイが口を開いた。俺は肩を丸め、腿の上に頬杖をつきながら応じた。
「らしいっすね。政府にも報告して、許可が下りたら動き出すようです。発掘隊の数も、段階的に増やしていくって言ってましたよ。この村も賑やかになるんじゃないですか」
「……お前はカトブレスに帰るのか?」
「はい。ドロシーが目を覚ませば、直に……」
「そうか。寂しくなるな」
本当にそう思ってるのかよと思ってしまう辺り、やはり俺はアレだ。アレといえばアレだよ。察しろよ馬鹿野郎。
クソお世話になりましたと男らしく頭でも下げるべきかと思ったが、何かそんな雰囲気でもない。気付けば、自分でもよくわからんうちに口を開いていた。
「あの、ロイドさん……」
「ん?」
「以前……俺とドロシーのことを、師弟の関係だと勘違いされてましたよね。あれって、何か理由があったんですか」
沈黙が流れる。
ジジイは縁側に腰掛けたまま、背筋を伸ばし、じっと両腕を組んでいたが(相変わらず姿勢の良い男だ)、やがてうつむき加減に静かに息を吐き出した。
「妙な所を覚えてるんだなお前は……そう感じたからだよ」
「Just feel it ってことですか?」
「何を言っとるんかよくわからんが、ワシにはそう映ったんだよ。お前とドロシーの間には、何年も前からずっと一緒にいたような気配を察したんじゃ。
燃えかすの山から灰が立ち上り、こげついた匂いが鼻腔をつく。
俺は小鼻をぽりぽりと掻いて、「ムウ」と唸った。
「そう言われても、俺とドロシーはこの仕事で初めて知り合った仲なんですけどね」
「ああ。だから、おかしなこともあるもんだと思うてな。ワシの勘も衰えたかのう……」
そこで、アリョーシャが二人分のお茶を持ってきた。床の上に湯飲みをことりと置くと、彼はにこりと微笑み、「ごゆっくりと」と言い残して、お盆を携えて奥へと消えていった。よくできた書生のような振る舞いであった。
さすが、末っ子は気が利く。柄の悪い姉貴や子供じみた兄貴に囲まれて育つと、色々と感じる所が多いのだろう。
ついこないだまでの晴天が嘘のように、空はどんよりと薄暗く、灰色に染まっていた。冬が再び訪れて、このまま永遠に春が来ないんじゃないかと疑うような空色だった。
「ニケ。お前、これからどうするつもりなんじゃ」
ぞぞぞと緑茶を啜っていると、唐突にそんなことを訊かれる。
「そもそもお前は、どうして旅を続けているんだ。一体何が目的で、故郷から遠く離れたこんな所にまでやって来たのか……お前と来たら、しょうもない冗談はペラペラしゃべるくせに、肝心な所は一向に手の内を明かそうとせん。たとえば、半端な実力を隠している所とかな」
ハッとして、俺はジジイの横顔を見る。
「気付いていたんですか?」
「当然じゃ。あれだけ一緒に修行をすればな……ワシは魔術に疎いからようわからんが、何らかの理由でお前の能力が大幅に制限されているような印象は受けた。隠していても、それくらいわかるさ」
「……」
「なあニケ。何だかんだ、二、三週間同じ釜のメシを食うてきた仲じゃろ。いい加減、お前の口から、お前の話を聞かせてくれてもいいんじゃないかのう……」
言葉とは裏腹に、無骨というか、ぶっきらぼうなその口調は、何ともジジイらしくて内心少し笑ってしまった。
裏を返せば、それは偽りのない本心なのだろう。
「いいですけど……旅に出たのは、極めて個人的な理由ですよ」
「どんな大層な理由も、掘り下げれば全部極めて個人的な理由じゃろ。みんなのためにとかこれ見よがしにほざく
確かに……後半の部分は全面的に同意ですわ。
ワンフォアオール、オールフォアワンとか、イカれた洗脳以外の何物でもないと幼少時から思ってました。
なるほどだから、俺もジジイも友達少ないんだな。納得。
「なくした魔力を取り戻したいんですよ。そのための方法を探してる」
湯飲みを床の上に置くと、俺は両手を組み、続けた。
曇天の空に浮かぶ、山の稜線をじっと見つめながら。
「自分で言うのも何ですけど、俺は子供のころ将来を嘱望された魔術士だったんです。王立ロゼッタ魔法学士院って、歴史ある魔術士の養成機関に、史上最年少で入って……実際、神童だの何だの騒がれた時期もあった。順調にいけば、君は将来魔王を倒す勇者の右腕になれるって、周りからそんな風に言われていて……それが、十五の時に、事故に遭ったんです」
「事故?」
「死んだ母親を蘇らそうとして、禁術に手を出したんですよ」
隣にいる老人の顔付きがこわばるのを、肌で感じた。
目で見ずとも、それくらいは伝わった。
「その結果、失敗して……俺は五年ほど、ずっと意識を失っていた。医者からは、このまま一生目を覚まさないかもしれない、と言われていたそうです。それが奇跡的に、二年前に回復して……まあそこまではよかったんです。問題は、意識を取り戻したあと、俺は魔力の大半を失っていたということです」
その身に雪を纏った枝葉が、そよ風に吹かれて微かに揺れていた。
努めて淡々と、俺は語り続ける。
「もはや出涸らし程度の魔力しか残されていない魔術士に、魔術士としての価値などありません。天才は凡人になった……まあ控えめに言って、絶望しましたね。それまで魔法しか生き甲斐のなかった人間が、その生き甲斐を失ったんだから当然です。
しばらくは何も手につかず、生きてるんだか死んでるんだかよくわからない日々を過ごしていました。でも結局、あきらめきれなくて……」
自然、組んだ拳に力が入った。よせよと思ったが、無理だった。
それは怒りというより、怒りに耐えるための痛みだった。
「魔法とは違う、全く別の世界で生きていくという選択肢もあったんでしょうけど、できなかった。頭でそうしろと言っても、心が納得しないんです。どれだけ離れようとしても、結局ここへ帰ってきてしまう。ありもしない可能性にすがりついてしまう。だから……
俺がやろうとしていることは、傍から見ると、ひどく諦めの悪い、馬鹿げた行為なのかもしれません。でも。それでも、俺は……」
そこまで話すと、俺は大きくため息をついた。
興ざめ以外の何物でもない、クソみたいな自分語り。心底気持ち悪い。
ありがちな不幸、ありがちな絶望。同情が欲しいなら壁にでも話してろ?
そのとおりだ。ホールドアップ。どうか撃ち抜けるものならその銃で、俺の頭をぶっ放してくれ。
しかし、それでも伝えたかった。わかってほしかった。
「ありがち」だなんて言葉で括られてたまるかよという想いを伝えるのが、これほど難しいということだけは、理解してほしかった。
「馬鹿げてなんかいないよ。お前は間違っていない」
不意に、ジジイが言った。
「どれほど月日が流れても、どれだけ理屈をこねても、それでもあきらめきれなかったんだろ? 成し遂げたいと思ったんだろ? ……だったらそれは、紛れもなくお前自身の本心だ。お前の選択が正しかったかどうかはわからんが、少なくとも間違ってはおらん。俺はそう思うがな」
俺はジジイの横顔をじっと見て、やがて湯飲みの底に視線を落とした。
「なんすかその予防線張ったみたいな言い回しは……俺みたいな答え方しないでくださいよ。おじいさん、俺に似てきたんじゃないですか」
そうぼやくと、ジジイは珍しく声を出して笑った。
やがて湯飲みを口元に運び、音も立てずに茶を啜る。
「して、ニケ。それは、一人でも叶えられる夢なのか?」
「……え?」
ジジイと目が合う。
その目に平素の厳しさはなく、しんしんと穏やかに降る雪のような静けさが潜んでいた。
「一人でやるということは、失敗も成功も全て自分に跳ね返ってくるということじゃ。これが二人や三人なら、成功は倍に、失敗は分け合うことだってできる。それがわかっていたから、あのクロノアでさえ、あれほど手間暇かけて仲間を集めたんじゃないのか? ここまで言えば、もうワシが何を言いたいかわかるよな?」
重なった視線の先、逸らすことを許さないその眼差しを見て、俺は呟いた。
「人を、頼れと……」
「そのとおりだ」
ジジイはうなずき、静かに茶を啜った。
きっと、この男は全てを見抜いていたのだろう。だから、具体的に誰を頼れとは言わなかった。理由付けに利用されることをよしとしなかった。
「人様にそう言われたから、そうやりました~♪ 別に俺が選んだんじゃないし~。チース!」とかいうクソしょうもない逃げ口に俺が逃げ込んで、またぞろ物事の本質から目を逸らすことを、許しはしなかったのだ。
つくづく嫌な性格してんのはお互い様だが、そういう男なのだ。それがこの男なりの優しさなんだということは、俺もいい加減理解はしていた。
「わかってはいるんです。あてがない訳じゃない。というか、今の俺が置かれた状況を考えれば、頼る相手はアイツしかいない……そんなことはわかってるんです。でも……」
時間にすれば三秒。一瞬とも永遠とも思える間を置いて、俺は言った。
「俺に、その資格があるんでしょうか。つまりその、ドロシーの隣に立つ資格が……」
軒先の氷柱から、ぽたりと雫が垂れ落ちた。遠くからは村の子供達がじゃれ合う声が聞こえた。
「俺も同業者として、彼女の才能については理解してるつもりです。アレは十年に一人とか言う次元じゃない。間違いなく後世に名を残すような……いや。名を残さなければならない器だと思います。はっきり言って、こんな所でフラフラしていていいような人間じゃないんです。クロノアや騎士王のように、表舞台に立ち、正当な栄誉に与るべき人間なんです。それをわかっておきながら、俺の一存でどうこうするのは……」
そこまで言うと、俺は押し黙った。押し黙った理由は、むろん魔眼のこともあったからだ。
言葉の切れ端は宙に浮かんだまま、その続きをたぐり寄せることはできなかった。
「難しい問題じゃな……天才には二種類いる。周囲を触発し、与え、引き出すことのできる者と、周りからひたすら奪っていく者の二種類だ。あの子がどちらに転ぶかはまだわからんが、あれほどの器と並び立つとなれば、相応の覚悟が求められる……お前の迷いは必然だろう。でもな……」
ジジイは湯飲みを床の上に置くと、やがて口を開いた。
「対等でなければ、隣に立ってはいけないなんて決まりはどこにもないよ」
俺はジジイの目を見る。
目が合うと、奴は口の端を上げた。
「資格なんて哀しい言葉を使うなよ……人が誰かの手を取るのに、資格なんて要らない。それに、お前は気付いていないんだろうが、ドロシーにはなくて、お前にはあるものだってたくさんある」
「俺に、あるもの……?」
「ああ。たとえば、お前は挫折を知っている。大切なものを失うことがどれだけ辛いか、お前は知識ではなく、経験としてそれを理解できる。さらに言えば、天才と呼ばれている人間の孤独や苦労にだって、共感できるはずだ。お前だって、かつてはそいつらと同じ天才だったんだから」
「……」
「ドロシーはいくら天才とはいえ、まだ十代前半の女の子だ。傷つくことだってたくさんある。そして、そのことに気づくことができる人間は、意外にも少ないだろう。子供が大人の世界に身を置くとは、そういうことだ……
だから、ドロシーが弱っているとき、お前のような人間が隣にいてくれることは……あの子にとって、何より大きな支えになるんじゃないか」
俺は膝の上で両手を組んだまま、しばし黙していた。
考えたこともなかった。
当然だ。向き合うことからずっと逃げていたのだから。
見えるはずもないモノばかり見ようとしていたのだから、足下の小さな明かりに気づけるはずもない。
「ニケ。お前はまだ若いから、己の挫折や失敗と冷静に向き合うことは難しいだろう。理不尽な面にばかり目が行ってしまうのも、仕方ないと思う。でもな……もう少し時間が経てば、その経験をプラスに変えられる時が必ず来る。巡り巡って、今のお前を突き動かす原動力にだってなり得るはずだ。
そしてそれは……陽の当たる道を歩いているだけでは、決して手にすることのできない類いの力だと、俺は思うよ」
そこまで言うと、ジジイは腰を上げ、棒きれで庭先のゴミの燃えかすをいじくり始めた。灰の山から、死にかけた最後の残り香のような煙が上がる。
「元天才と、現天才。いいコンビだと、ワシは思うんじゃがのう……」
しんみりした口調で、ジジイはそう独りごちた。
曇天の空は未だ薄暗く、晴れそうにない。しかし、明日は晴れるかもしれない。
俺は迷いを断ち切るように、大きく息を吐き出す。
「ありがとうございます。おかげで腹は決まりました」
「……そうか。そいつはよかった」
そう言った彼の背中が、いつもより小さく、年相応に見えたのは気のせいだろうか。
湯飲みを手に取り、口元に運ぼうとしたところで、ジジイが俺に告げた。
「ニケ。大事なのは、どうすべきかではない。自分自身がどうしたいかだ――そのことだけは、ゆめゆめ忘れるな」
口に付けた緑茶は、さっきより少し冷めていたけれど、その分温かく、心の奥まで染み渡った。
振り向くことのないその背中に向けて、俺は深々と頭を下げた。