勇者にはなれない   作:高円寺南口

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50 一陽来復

 翌朝。

 俺は朝食の場で、ローウェル家一同にこの村を去ることを告げた。案の定、反応は様々だった。

 

 親父さんは黙ったまま小さくうなずき、お袋さんは一瞬哀しそうな顔を浮かべたあと、「でも仕方ないわよね」、「ピロシキたくさん作るからね」と、優しく微笑んだ。子供たちもはじめはシュンとしていたが、次第にいつものようにおかずを巡ってぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた。

 子供という生き物は、良くも悪くも切り換えが早い。時としてそれに救われることもあるのだが。

 ジジイはジジイで、物言わずミソスープを啜っていた。

 

 それからトルフィンに挨拶すべく、ギルドが集う村の集会所へと向かう。

 近日中にいよいよ騎士王から許可が下りるということで、一向は発掘に向けて忙しなく動き始めていた。働くと決めたらあくせく働き、酒を呑むと決めたらとことん呑む。

 なるほどいかにもドワーフらしい性分ではある。

 

 五分ほど待たされたあと、トルフィンがようやく顔を出す。

 

「ニケェ!! 何だよドロシーが目ェ覚ましたんだって? よかったなァオイ!!!! ってこたァ、お前らもうカトブレスに帰んのか?」

「ああ。そのつもりで、挨拶に来たんだ」

「ンだよ、もうちょっとゆっくりしていきゃあいいのによう……人間ってのは、つくづくせっかちな種族だよなァ」

 

 それは俺たちがせっかちと言うより、お前らがのんびりしてるだけなんでは……と言いたかったが、トルフィンの毎度お馴染みガハハ笑いを眺めていると、次第にそんな気も失せた。

 

「あァ、そうだニケ。せっかくだからこれ持ってけ」

 

 トルフィンは後ろ手でズボンの中をまさぐり、俺にぴかぴかのブツを差し出す。

 ちょ、お前……どこに仕舞ってんねん。一瞬ケツから生まれたのかと思ったじゃねーか。

 

「これは……魔石か?」

「おうよ。昨日、鉱山の視察に行ったときに、モノは試しで発掘したら、偶然上等なのが取れてよ。お前にやる」

「いいのか? これ、市場に流せば結構な値が付くラピスラズリだと思うが……」

「いいっていいって! ほれお前、せっかく鉱山に来たから魔石の一つくらい持って帰りたかったって、こないだボヤいてたろ。土産と思え土産と」

「マジか、わざわざ覚えててくれたのかよ……」

「たりめェだろ! お前と一緒に過ごした時間、中々悪くなかったぜ!!」

 

 そう言うと、トルフィンは屈託のない表情で「ガハハ!」と笑った。

 おっさん……

 

「ありがとう」

 

 その言葉に偽りはなく、実際嬉しかったのだが……うん。

 やっぱ匂うな、この魔石……

 

 トルフィンの元を去ると、今度は鍛冶屋へ向かった。

 

 以前ドロシーと一悶着起こしたモーリスが番頭を務めている鍛冶屋で、俺もつい最近まで知らなかったのだが、実はこのオッサン、ノルカ・ソルカでは知る人ぞ知る、名うての刀工らしいのだ。

 元々は首府ハバネロフスクで軍属の刀工として活躍していたそうだが、戦後のあれやこれやで宮仕えに嫌気が差し、故郷のイカルガに帰って来た……つまり、ジジイと同郷でかつ、似たような経歴の持ち主なのである。

 

 人狼の討伐が終わり、ドロシーが目覚めるのを待つまでの間、ひょんなことをきっかけにモーリスと話す機会があり、

 

「その刀は、てめェの筋力じゃ分不相応に過ぎる。なんでそんなモンぶら下げてんだ。そいつの身の丈に合った武具を提供するのも、刀工の仕事の一つなんだよ。てめェにそれを売りつけた刀工をぶん殴ってやりてェ」

 

 と、すごまれたのだ。

 

 股間にぶら下げているブツも、個人的には分不相応と思っているのだが、それはさておき、実は幼馴染みの鍛冶見習いが俺のために云々……と事情を話すと、モーリスは「チッ」と舌打ち。

 「貸せ」と一言、俺の剣を奪って、奥の工房へと消えていった。

 

 これぞ本当の火事場泥棒……などとしょうもない冗談はともかく、偶然用事でその場に居合わせていた宿屋の姉ちゃん曰く、意訳すると、「お前が使いやすいように加工してやるから、時間をよこせ」ということらしい。

 いや、略し過ぎだろ……もはや意訳の範疇を超えて、超訳のレベルじゃねえか……

 

「ああ見えてあの人、意外と優しい所あるのよ」

「わかりづらすぎません? 手先は器用なくせに、口先は不器用すぎるでしょ」

 

 この国のオッサンどもは、自分不器用ですからの一言で許容できるレベルを超えていると俺が嘆くと、宿屋の姉ちゃんが声を出して笑った。

 

「男どもがあんな感じだから、北国の女は我が強くなるのかもね-。言いたいことは口に出さなきゃ伝わらねえんだよオラァ! ってさ」

「はぁ。言われてみれば、もの凄く腑に落ちるな……」

「アレでモーリスさんは、酸いも甘いも噛みしめてきた人だからねえ。あの人、最初はロイドじいちゃんと同じで軍人だったのよ」

「ああ、そんな雰囲気ありますよね。目元の傷とか……コワモテだし」

「そうそう。実際、めちゃくちゃ勇猛な戦士だったらしいわよ。それが従軍中に一度大怪我して……満足に歩けなくなったんだよね。未だにびっこ引いてるような所あるのは、そのせい。結局戦士としては引退せざるを得なくなって、それをきっかけに刀工の道に進んだんだってさ」

 

 宿屋の姉ちゃんは煙管をふかし、ふーっと煙を吐き出した。

 

「刀工って、アタシはよく知らないんだけど、十代から弟子入りして、十年以上修行してようやく独り立ちできるような世界らしいのよね。それをあの人は、三十やそこらで始めて、この国じゃ名うての職人と呼ばれる所まで駆け上がったんだから……大したモンよ。でも、そうやって鍛冶の道を極めたら、今度は戦争で子供を亡くしちゃって……人生って、ホントつくづくままならないわよね。神様はどうして、頑張ってる人には平等に報いてあげないのかしら……」

 

 そこまで言うと、宿屋の姉ちゃんは煙管を片手に、思い出したような顔付きで俺を見た。

 

「ああごめんね。なんか急に語っちゃって」

「いえ……お構いなく」

「まあアレよ。何が言いたいかって、人は見掛けによらないってこと。気難しそうに見える人も、心の底を叩いてみると、どこか哀しい音がする――って、昔どっかの偉い作家が言ってたでしょ?」

 

 そんな作家がいたかどうかは知らんが、まあ言わんとする所は理解できた。

 人はみんなそいつなりの地獄を抱えて生きているのだ。俺のような陰気な人間には、こっちの言い回しの方がしっくり来る。

 

「性格は不器用でも、想いは真っ直ぐだから、あの人は優秀な刀工たり得るのかもね……きっとそんな気がするわ」

 

 工房からは、トンテンカンテンと金属を打ち鳴らす音が聞こえてきた。その一定のリズムは、よくよく聴いてみれば、どこか心地よくすらある。

 さもありなん、と俺は思った。

 

 ――とまあ、前置きが長くなったが、そんなやり取りがあって、俺は本日モーリスの元を訪れている。

 俺の顔を見るや、モーリスは無言で工房に戻り、俺の剣を携えて姿を現した。

 

「おらよ。とっくに仕上がってんぞ」

 

 受け取った剣を鞘から引き抜き、「ふむ……中々どうして、悪くない」とあらかじめ用意しておいた台詞を呟くより早く、異変に気付いた。

 

「リーチが……短くなってる?」

磨上(すりあげ)しといた。てめェの身の丈、腕力じゃ、それくらいが分相応だろ」

 

 確かに、刀身がそれまでの3分の2くらいの長さになっていた。

 短くなって軽くなった分、ずいぶん扱いやすくなったような気はする。実用性が増したというか……

 

「剣ってのは、長くはできねえが、短くなら調整できる。てめェは基本が魔術士だから、自分から近接戦に持ち込んだりはしねェだろ」

「しないっすね」

 

 我ながら清々しいほどの即答だったが、モーリスは意に介さず、続けた。

 

「早い話が、リーチなんざあっても無用の長物でしかねえんだよ。いざという時の打ち合いに耐えられる強さがあれば十分。かといって、短くしすぎても意味がない」

「どうしてですか?」

「てめェがチキンだからだよ。相手の懐に飛び込んで首元掻っ捌くなんて真似、お前にできる訳がない」

 

 全くもってそのとおりなので、何も反論できなかった。

 そんな物騒なのは、最近都会で流行りのストライダーとやらにでもやらせておけばよい。

 

「それと……てめェも魔術士なら、ある程度魔法剣は嗜むんだろ。短刀はリーチがない分、魔法剣での応用の幅も狭まるからな。その辺の戦闘スタイルも考慮して、やや大きめの脇差しくらいがちょうどいいんじゃねえか。大体そんなとこだ」

「なるほど」

 

 剣を短くしたのに合わせて、鞘も短く加工してくれたようだ。鍔やグリップも新調されており、匠の気遣いが随所に息づいている。

 宿屋の姉ちゃんが言っていた「意外と優しい所あるのよ」は、まんざら嘘でもないらしい。

 

「あの、お金は……」

「あァ?!」

 

 すごまれた。

 相変わらず導火線がどこにあるのかよくわからんオッサンだが、あなたはノルカ・ソルカじゃ指折りの刀工と聞いてる。これほどの仕事ぶりに対価を払わないのは気が引ける云々と講釈を垂れると、モーリスは「チッ」と面倒そうに舌打ちした。

 

「俺が好きでやったんだよ。金なんざ要らん」

「いや、しかし――」

「あァ?!」

 

 すごまれた。

 このままでは永遠に「あァ?!」のループから抜け出せそうにないので、しぶしぶ折れることにした。俺も二十年と幾許生きてきたが、こんなよくわからん折れ方をしたのは俺史上初ですよ……「おれ」だけに。ごめん何でもない。

 

「……それ、てめェの幼馴染みが打ったんだろ?」

「ああ、はい。そうですけど」

「んじゃ伝えとけ」

 

 それまで頑なに目を合わせようとしなかったモーリスが、初めて俺の目を見て言った。

 

「まだまだ荒削りで不器用だが、今自分のできる全力で、心を込めて打ったことは伝わる。俺も久しぶりに自分の拙かった頃を思い出して、何だか目が覚めた。おかげで、大人しく後進に道を譲り渡す気などさらさら失せた、とな」

「……」

 

 ひょっとして……

 

 色々理屈を垂れてはいたが、結局短刀にしなかったのは、エルが打った剣の原型がほとんどなくなってしまうから。それではエルが、拙いなりにこの剣に込めた想いまで失われてしまうようで、それをこのオッサンなりに汲み取ってくれたからなんでは……

 よく見れば新調された部分も、原形の意匠を可能な限り尊重してくれているように感じるし……

 

 だがしかし、そんなことを口にすると、またぞろ「あァ?!」の無限ループから脱出できなくなるので、大人しく黙っておくことにした。

 何とも面倒くさいオッサンである。かくも世界は、面倒くさいオッサンで満ちあふれているのだ。

 

 モーリスに改めて礼を言い、俺はようやくローウェル邸への帰路につく。

 すると、遠景に縁側でお袋さんと談笑しているドロシーの姿が映った。

 

「お」

 

 

    *

 

 

「あらニケさん。挨拶回りはもう終わったのかしら?」

 

 お袋さんに声を掛けられて、俺はうなずく。

 ニコニコと微笑んでいる彼女のそばで、ドロシーは唇をもにょもにょ動かしながら、うつむいていた。

 

 ……。

 髪型が、ツインテールになっていた……

 

「イメチェン?」

「そうなのよー! ドロシーちゃんって人形さんみたいに可愛らしい顔立ちしてるから、こういう可愛い髪型の方が絶対似合うって思って! ロングのストレートは、もう少しお姉さんになってからの時に取っておきなさいって。お母さん張り切っちゃった! うふふ」

 

 ドロシーに聞いたつもりが、お袋さんから怒濤のコメントが返ってきた。

 

 耳の少し上くらいの位置で、紺色のリボンで束ねられた二つのお下げは、確かによく似合っている。ちょっと子供っぽい気はするけど、実際子供だもの……仕方ないよね。たまに忘れちゃうけど。

 

 ドロシーはお下げの片方を指でいじりながら、上目遣いで俺を見た。

 

「ど、どう……? 似合ってる?」

 

 どうと言われましても。

 

 ドロシー! ドロシー! ドロシー! ドロシーぃぃいいいわぁああああああああああああああああああああああん!!! あぁああああ…ああ…あっあっー! あぁああああああ!!! ドロシードロシードロシーぃいいぁわぁああああ!!! あぁクンカクンカ! クンカクンカ! スーハースーハー! スーハースーハー! いい匂いだなぁ…くんくん……んはぁっ! 

 って、したくなるくらいには似合ってると言おうとしたが、さすがにキモすぎるのでやめておいた。

 

「そうだな……俺も思い切って丸刈りにしようかと思うくらいには、似合ってるよ」

「は? 何それ褒めてるの?」

 

 ドロシー的には三十点のコメントだったらしい。残念。

「要するに、とっても似合ってるってことよ」とお袋さんが言い足すと、ドロシーは「ムゥ……」という顔をしていた。

 

「そろそろ出発するんでしょ? みんな、呼んでくるわね」

 

 お袋さんがその場から立ち去る。俺はドロシーの隣に、よっこらしょういち……と腰掛けた。

 空は昨日の曇天が嘘のように、春らしく澄み渡っていた。雪解けの季節が訪れたのだ。

 

「なあ、一つ訊いていい?」

「おん?」

「お前、自分のことは名前以外記憶がないって言ってたよな? 自分の年齢は知ってるのか?」

「十五歳」

「十五?」

「たぶんそれくらいじゃねって、アリシアが言ったから。じゃあそれでいいかってなった」

「なんじゃそれ。じゃあお前は十二歳の可能性もあるし、十八歳の可能性もあるの?」

「なくもないんじゃない。知らんけど」

 

 おいおい何てこった……これは由々しき問題ですよ。

 特にドロシーファンクラブ会員を語る全国の紳士諸君にとっては、進退を揺るがす非常に由々しき問題……

 

「そういや、私も一個訊いていい?」

「おん?」

「あなた、本名はヴィクトルでしょ。なのに何で、ニケって名乗ってるの? 全然関係なくない?」

「ああ、ニケってのはガキの頃からのあだ名で……名付け親の幼馴染み曰く、メテオラ神話に出てくるニケって女神のネウストリア語読みが、ヴィクトリアらしい」

「ああ、ヴィクトリアを男性名に直すとヴィクトルだから……」

「そう。由来が女神なら悪くないって思って。野郎の神ならお断りだが」

「じゃあこれからも、本名じゃなくニケって呼んでいいの?」

「ああ。俺的にもその方がいい。ヴィクトル・サモトラという魔術士はもう死にました……今ここにいるのは、ヴィクトルの弟なんです」

「ごめん。何言ってるのか意味わかんない」

 

 そうこう話しているうちに、親父さんがやって来た。

 声を掛けられ、立ち上がると、彼はすっと俺に右手を差し出した。握手を交わすと、お互い、自然と口元に笑みが浮かんだ。

 

「ニケ、君とは有意義な時間を過ごせたと思う。短い間だったが、楽しかったよ。山賊退治の件といい、本当にありがとう。どうか元気でな」

 

 俺がうなずくと、子供たちが一斉に駆け寄ってきて、俺の尻だの腰だの足だのをベシベシ叩いた。

 

「そうだ、元気でな!」

「たまには顔見せに来るんじゃぞ!」

 

 ミーチャとワーニャが、ジジイの口調を真似ながらそう言う。

 すると、アリョーシャが俺の服の袖を引っ張る。そして耳打ちした。

 

「兄ちゃん。次会う時は、アリシア姉ちゃんを連れて帰ってきてね。楽しみにしてるから」

 

 それは一体どういう意味なのか図りかねるポーズを取ったものの、なんかもう面倒くさくなったので、「任せておけ」とうなずくことにした。

 男に二言はない。そんな時代はもう終わったのだ。

 

「そうだニケ。お前さえよければ、我が村に伝わるヤーレン節で二人を送り出したいんだが」

「いや、大丈夫です親父さん。気持ちだけで十分ですから」

「遠慮するなよ。みんな呼んでくるから」

「いや、本当に大丈夫です。俺たちのために来てもらうのも悪いんで」

 

 親父さんは「そうか……」と、ショボンとした様子だった。

 気持ちはありがたいが、オッサンたちの舞いなんぞ一度見れば十分。いつぞやの激励会の時のように、辛い思いはしたくないんでな……

 

 親父さんがドロシーに感謝の意を述べている最中、唐突にジジイが姿を現した。

 目が合うと、さも当然の如く視線を逸らされる。何だよ。今日はうんこしてないのかよ。残念だな。

 

「ほらお父さん! 最後なんだから」とお袋さんに背中を押され、ジジイはしぶしぶといった様子で俺とドロシーの元へ歩み寄った。

 

「やれやれ。ようやく収まるべき所に収まったというか……ニケ」

 

 ジジイは顔を上げると、すっと俺の眼差しを射貫くように見た。

 

「お前はもう舞台の上に上がったんだよ。簡単に降りることはできんぞ。その意味がわかっておろうな」

「もちろん」

 

 首肯すると、ジジイは微かに笑ったような納得したような安堵したような、そんな仕草で何度か小刻みにうなずいた。

 

「まあ、これが今生の別れという訳でもあるまい。またどこかで会える日を祈っておるよ……二人とも、どうか達者でな」

 

 この人物らしいのからしくないのか、簡潔な物言いではあったが、たぶんらしいんだろうなという結論に落ち着いた。想いを伝えるのは言葉だけではない。

 

「また会える日までくたばるなよジジイ」と内心ぼやきつつ、俺は言った。

 

「ロイドさん。俺、昨日オーロラ見ましたよ」

「あん?」

「前言ってたじゃないですか。一生に一度は見とけって。なるほど確かに、一生に一度は見ておく価値があるものだと思いました」

「……」

 

 ジジイはしばしの沈黙ののち、嘆息した。

 

「お前、最近の若いヤツにしては珍しく、人の話をよく聞いてるんだな」

「それ、最近の若いヤツ関係あります?」

 

 ジジイは答えず、鼻で笑った。

 

「北方の伝承だと、オーロラは死者と生者の世界をつなぐ炎の架け橋とされている」

「死者? よくない前触れってことですか」

「いや、その逆だ。先祖がこちらの世界へと帰ってきて、我々子孫を守護してくれる……つまり、吉兆じゃよ。旅立ちを前にオーロラを見られたのは、旅人にとってこれ以上ない僥倖といえるだろう」

 

 ほーん……なんとも都合の良い言い伝えではあるが、まあ何だ。たまにはこういうの信じてみてもいいだろう。

 

「わかりました。縁起のいいものとして、胸に留めておきます。それじゃ……」

 

 一同を見渡して、俺は告げた。

 

「いってきます」

 

 そのやり取りを最後に、俺とドロシーは振り返ってその場から歩き出す。

 

「いってらっしゃーい! 元気でねー!」

「幸運を祈る!」

「絶望の中にも焼け付くような強烈な快感がある――兄ちゃんよ。決して屈するなかれ!」

「何言ってるの? ミーチャ」

「アレだよ、いつものエエカッコシイだよ」

 

 後ろから送られる声援に、俺は右手を上げて応じる。

 

 何も言わない。振り返らない。一度歩き出したが最後、そうすると決めていた。

 別れを愛おしむ権利は、見送る側の人間だけにあって、離れる側の人間にはないと思うからだ。

 

 例外は死ぬ時だけだ。

 ジジイも言ったように、生きている以上、またどこかで会える可能性は消えないのだから、潔く去り行くのは、離れる者の最低限の礼儀だと思う。その内に秘めた想いがどうあれ――

 

「ニケ」

 

 低く、それでいて強く響いたその声に、俺はぴたりと足を止める。

 一々振り返らずとも、声の主が誰であるのかはわかっていた。

 

「うちの孫娘に会うことがあれば……こう伝えてくれないか。『お前はお前の現実を生きろ、俺もそうするから……』と」

 

 てめぇの口で言えよと思ったが、それができるならとうにしているということなんだろう。

 俺たちは物語の登場人物ではない。まして然るべき機会に、言いたい言葉が自然に浮かんでくるほど器用な人種でもない。

 そして大抵、後悔する。言えずに終わった言葉の墓守に勤しむことになる。

 

 まあ色々世話になった手前、これくらいの頼みに応じなければ、男が廃るというものだ。将来の家族になるかもしれないしな。誰が家族やねん。

 

 振り返り、ジジイと目が合うと、俺は言った。

 

「伝えておきますよ――離れていても、心は繋がっているとね」

 

 白亜の山脈の果てには抜けるような青空が続き、庭先に植えられた木々はその身に蕾を宿している。

 

 老人は笑っていた。

 俺たちが見上げた空に、もう雪は降っていない。

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