「そうだ。ずいぶん久しぶりに聞く名前だろう? いにしえの魔導師ノルンが完成させた、禁断のグリモワール。その書物には、今の世には出回っていない
驚きと戸惑いを五分で煮詰めたような表情を浮かべるエル。
構わず、俺は続けた。
「各国の強者が勇者の仲間にならんとロゼッタに集い、お前の鍛冶屋が繁盛していることは、俺も小耳に挟んでいる。客の中には、アルルやガラテア、エフタルといった異国の人間も大勢いて、そいつらはロゼッタの人間が知り得ぬ情報を有しているはずだ。鍛冶屋の番頭でもあるお前の立場を見込んで、是非教えてほしい。商売のやり取りにおいて、アルス・ノトリアに関する情報を耳にすることはなかったか? 真偽は問わない。些細なゴシップでも構わない。とにかく、今は情報が必要なんだ」
「…………」
エルは沈黙した。眉間にしわを寄せ、記憶の糸を必死でたぐり寄せようとしている。
その姿を見て、変わらないなと思った。間違いない。彼がゾーンに入ったときの顔だ。
大丈夫。
親譲りの聞き上手で、子供の頃から損ばかりしてきたコイツなら、きっと――
俺の期待に応え、エルがすっと顔を上げる。そして言った。
「すまん。わからんわ」
「そうか……って、は?」
沈黙が流れる。
よくできた石膏像のように凍り付いた俺がいたたまれなくなったのか、エルが弁明を始めた。
「いや、言い訳になるんだけど……俺の店に寄るのは、戦士や拳闘士の連中が多くて、そいつらはほとんど、勇者か魔王の話しかしないんだ。例えば、ローランは本当は生きているが、魔王に精神を侵食され、ダークサイドの傀儡となってしまったとかなんとか、そんな眉唾モノのウワサばかりで……」
盲点だった。
そりゃそうだわ。戦士や拳闘士の連中が、魔法にまつわるエトセトラなんぞに興味があるはずがない。あいつら暇さえあれば、酒と女と筋肉とあと筋肉のことしか考えてないような連中だからな。
端的に言えば、マジ低脳。
どうでもいいけど、マジ低脳って言葉がマジ低脳。
「そ、そうだ。刀工ギルドの連中はどうだ? 商売柄、接することも多いだろ?」
「ああ、そっちがあったか……でも、刀工はみんな、その辺の世情に疎くてなあ。職人肌って言うか、『たとえ明日世界が滅ぼうとも、俺は今日も剣を研ぎ澄ます』みたいな人ばっかりで……うーん」
俺のテレパスが届いたのか、エルは力強く膝を打った。
「そうだ……思い出した! エフタルだよ!」
エフタルといえば
中つ国で現存する最古の王朝と言われており、絶世の美女と謳われる、アイリス7世が治めることで有名な国である。
「王国の考古学者チームが、旧時代の遺跡から石碑の断片を発掘したらしくてな。解読した結果、遙かいにしえに失われた魔法の術式であることがわかった。つまり、アルス・ノトリアの一部ではないかと推測されている」
ハッとしたような俺の顔を見て、狙い澄ましたかのように、エルが微笑する。
「ニケも知っているとおり、魔導師ノルンは生前、十三の章からなるアルス・ノトリアを分冊して弟子に託し、世界のあらゆる場所に隠すよう遺言したという伝説がある。今回のエフタルの発見は、それまでただの迷信だと思われていたアルス・ノトリアの実在を裏付けるものとして、にわかに注目が集まっているそうだ」
不揃いな点が、俺の中で一つの線を結ぶ。
なるほど……こいつはいいことを聞いた。何はともあれ、大陸に渡り、西方に行かないことには、話は始まらねえか――
「ありがとう、エル。やっぱりお前に相談して正解だったよ」
差し出した手のひらを、エルが握り返す。そして、はにかんだように笑った。
その笑顔は、ガキの頃からちっとも変わらない。
「でもニケ。お前が子供の頃の夢を未だに覚えていたなんて、正直驚いたよ」
「ん?」
「あれから色々あったけどさ……やっぱりお前は、魔法の話をしているときが一番お前らしいよ。生き生きしているっていうかさ。昔を思い出しちまった」
「……そうだな。夢を職にすると書いて、『むしょく』と読むからな。まだ色の無いキャンバスと呼んでくれ。俺もう二十二だけど。いつまでも白で許される年頃じゃなくなったけど。そういう意味では、白というより黒なのかもしれんけど」
アホなことを言うと、エルは声を出して笑った。
その昔、こんな風に他愛もないことを話しては、笑い合っていた時代があったことを、少し思い出してしまった。
「西方も、最近は情勢が不安定だからな。魔物が凶暴化していることもあるが、帝国の専横には、いっそう拍車がかかっていると聞く。気をつけろよ、ニケ」
「お、おう……」
「行くんだろ、エフタル? 子供の頃からの夢だったアルス・ノトリアを手に入れて、
俺は答えなかった。答えられなかったと言った方が正しいかもしれない。
海風が頬を撫で、地面に延びた影が揺れる。
エルは何かを噛みしめるように小刻みにうなずき、俺の無言を肯定と解釈したようだった。
「すまん、あまり触れてほしくないことだったかもしれないけど……うん。何にせよ、目標が見つかったのはいいことだ。頑張れよ。俺は応援してるから」
「……ああ……」
言うべき台詞なんていくらでもあったはずなのに、俺は聞き分けの悪い子供みたいに、ただうなずくことしかできなかった。
快晴の空から射し込む陽光が、いやに眩しい。
季節は秋で、丘の下に広がる一面の麦の穂が、風に揺らいでいた。
「おっと、ゆっくりしすぎたな。悪いがそろそろ行くよ。これ以上店番サボると、親父にどやされるんでな……いつ旅立つつもりなんだ?」
「まあ、冬が厳しくなるまでには……親父にはまだ何も話してないし」
「そうか。まあ何だ、また今度時間を取って、ゆっくり話そうぜ」
「……そうだな。気が向いたらな」
相変わらずな俺の受け答えに、エルはにっと笑った。
「ニケもなるべく早く戻れよ。最近は、こんな街の近くにも魔物が出没するようになってるからな。昔のお前ならともかく、今のお前なら……じゃあな」
手を振り、丘を下って街へと帰っていくエル。その背中が遠のいて、やがて完全に見えなくなる。
深く息を吐き出すと、俺は地面に延びた自分の影を見つめた。そしてハナクソをほじる。風がないで、金木犀の香りが漂った。
わかってはいた。
失った魔力を取り戻したところで、失った時間までは返ってこないってこと。
時間は誰の前にも平等に流れると言うが、果たしてそれは本当だろうかなんて、ひどくくだらないことを俺は考えていた。
*
夕陽が地平線に沈もうとした頃、俺はロゼッタに程近い小川のほとりに一人佇んでいた。
二人で語らうのが丘の上なら、一人で黄昏れるのは川辺。ガキの頃から変わらない、俺の習慣だ。
幸いにして、有力な手がかりは得た。
あと必要なのは、目的に
諸説あるが、魔法の起源は、エルフと魔族にあるとされている。
俗に白魔法と呼ばれているスペルの起源がエルフ、黒魔法と呼ばれているスペルの起源が魔族だ。
「エルフは光を、魔族は闇を、ドワーフは工芸を、獣人族は交易をこの世界にもたらした。そして人間は、それらすべてを略奪した」――『オリヴィエの歌』に出てくる、人間の強欲さ・狡猾さを端的に表す象徴的な一文だ。まあ、種族論議はこの際どうでもいいさ。
問題は、魔法が人間に過ぎたる技術であるということだ。
一概に魔力と言っても、それは自然界に存在するマナと、生物が生まれつき保有するオドのニ種類に分類される。
外部のエネルギーであるマナを過剰に取り込むと、十中八九、人間のカラダは異常をきたす。肉体の機能が壊死したり、精神錯乱を起こして廃人と化したり……まあ色々だ。
なぜこういった現象が起きるのかというと、人間が保有するオドには生まれつき個人差があるからだ。すなわち、魔力を収める「器」には、個々人の資質に応じた許容量がある。専門的には、これを魔力耐性と言う。
個々人の魔力耐性を超過し、限界まで膨らんだ風船は、いずれ必ず破裂して、先述した「暴走」や「中毒」といった症状を引き起こす。
諸刃の剣と言ってもいいだろう。「魔法は効果に見合うだけの対価を求める」と言われる由縁だ。
古代魔法は人体蘇生や大規模破壊など、安易な行使を許せば、一国の秩序や安寧が崩壊しかねない、危険な技術の結集だとされている。
それほどの技術だ。外部からのアシストを借りないことには、発動は限りなく不可能に近い。もう何が言いたいかはわかるだろう。
仮にアルス・ノトリアを見つけても、そこに書いてある古代魔法を「安全」に行使できる魔法使いが、この世界にどれほどいるというのか――
俺は深くため息をつく。そして目を瞑り、天を仰いだ。
「…………」
秋風蕭々として、行く川の流れは暗し。
君は一人悠久の草原にたたずみて、暮れなずむ空を仰ぎ見る。
そして虚しく放屁せん――
感傷的なポエムを詠み上げ、予定調和的に屁をこくと、俺はすっくとその場から立ち上がった。
物思いにふけっているうちに、辺りはすっかり夜の気配が立ちこめていた。焼けたように紅く染まっていた空も、いつしか漆黒のそれへと色を変えている。
闇が下りた草原は、昼間と打って変わってほの暗く、不気味ですらあった。
少し、長居をしすぎたか。
エルも言っていたが、最近は街のすぐ近くにも魔物が出没するようになっている。まして夜は、連中が殺気立つ時間帯だ。
昔は人を襲う事なんてなかった獣たちが、理性を失って凶暴化し、魔物という名前を与えられたのは、そう遠い昔の話じゃない。
俺も学者じゃないんで詳しくは知らんが、大気中に占めるマナの割合が昔より増えているのが、その最たる要因らしい。
現にネウストリアでも、魔力泉の噴出という事例は、ここ数年で爆発的に増加している。
要は、「魔力泉の活動の活発化→マナの濃度が局地的に高まる→魔力耐性が低い獣たちが理性を失い始める」というカラクリらしい。知らんけど。
ちなみに南洋の陰陽道という学問の見解では、自然が寒冷期と温暖期を繰り返すのと同じで、世界は「陽」の気と「陰」の気が交互に出現し、今俺たちの生きている時代は、「陰」の気が色濃く出ている時代なんだとか。知らんけど。
どおりで俺みたいな陰気くさい人間が、ここぞとばかりに跳梁跋扈してるワケだ。やれやれ。つくづく嫌な時代だな。
ロクに装備も整えていない今の俺では、魔物に遭遇した時点で確実に詰みだろう。
そんな装備で大丈夫か? オーケー、むろん大丈夫じゃない。
俺は「
が――
微かに伝った葉擦れの音。
歩みを止めた瞬間、前方十メルトほど先に、俺はそいつを視認した。おぼろげだった輪郭が、はっきりと浮かび上がる。
ウィル・オー・ウィスプ。
俗に言う鬼火だ。アンデッドの一種で、霊体である彼等は自在に姿を消すことができる。その性質を使って、しばしば人里に現れては、悪さを働くという民間伝承がある。
俺もガキの頃、ある日突然家の保管庫からチーズがなくなって、「わあ! ウィスプのしわざだね!」と言ったら、問答無用で親父に尻をぶたれた思い出がある。
大人はいつだって理不尽だ。いやまあ俺が食ったんだけどよ。
ウィスプはこちらから仕掛けない限り、基本的には大人しい魔物だ。
幸い、向こうは俺の気配を察していないようだし、このままどうにかやり過ごせそうだ。
しかし、幽霊にも存在を認識されない俺って一体……これじゃどっちが生きてるんだかわかんねえな。いや、ひょっとしたら、本当に死んでるのは俺の方なんじゃないか?
なにこのホラー。確かに社会的には死んでるも同然だけどよ。
十分に距離を取って、迂回。
ここまで行けば大丈夫だろうというポイントに達し、俺はウィスプの方へ振り返る。そのときだった。
青白い光をふっと明滅させて、ウィスプが忽然と姿を消す。
同時に、低く、獰猛なうなり声が聞こえてきた。
「グルル……ガル……」
ダイアウルフ。
マズいのが来たな、と俺は思った。
連中は足も早いうえ、夜目も利く。おそらく気付かれた瞬間、アウトだろう。
押し寄せる現実の波から逃げ続けて、逃げ足にはすこぶる定評のある俺でも、さすがに連中を撒くのは困難だ。城門までは、まだかなり距離がある。
ならば戦うか?
言うてワンコだし。今の俺のカスみたいな魔力でも、先制攻撃上等で一発ぶちかませば、どうにかなる相手ではあるが――
「グルルルル……」
「?」
「ガルル……ワゥ!!」
「んだようっせえなって……あ?」
振り向いた瞬間、そいつと目が合った。
ダイアウルフ。三メルト先。
二匹目のお利口さんなダイアウルフは、俺を視界に捉えるや否や、「ウオーーーーーン!!」と遠吠えをした。
すると四方八方から、それまで草むらに伏せていたのであろうダイアウルフたちが、次々と姿を現した。
「え、ちょま……へ?」
刹那、獲物を見つけた狼たちが、一斉に殺到する。
前方のダイアウルフが、牙を剥き出しにして、飛びかかってくるのが網膜にスローモーションで映し出される。
指先に意識が集まって、心臓がとくんと脈を打つ。
(ダメだ、やるしかない――)
突如、稲光のような剣閃が走り、目の前のダイアウルフが真っ二つに切り裂かれる。
そして瞬きする暇も与えず、後方から押し寄せてきた二匹に、さらなる一閃が放たれた。血しぶきが
いずれも一撃。
見るも鮮やかな剣撃に恐れをなしたのか、残りのダイアウルフたちは、我先にと一目散に逃げ出していった。
事を成し遂げた人物は、何事もなかったかのように、平然と言い放った。
「こんな時間に、一人で外を出歩くのは危険ですよ」
「……お前は」
振り向いたその人物を見て、俺は言葉を失う。
護拳の付いた曲剣が腰元の鞘へと仕舞われると、小気味の良い金属音が響いた。
「勇者、クロノア……」