長い夜だった。
何度寝返りを打ったかわからない。眠れと脳に強く命じても、一向に言うことを聞いてくれない。いっそ開き直って考えごとに耽ってみるも、状況は改善しない。
こんなのいつ以来だ。
もう眠るのはあきらめて、外の空気でも吸ってくることにした。
用意された部屋を抜けだし、階段を下りて、扉を開く。
虫の音に、鳥や蛙の鳴き声、滝のせせらぎが遠くから聞こえる。
夜の樹海は昼間よりいっそう薄暗くて青白く、木々の合間からわずかに射す月明かりが、小川の水面にささやかな光を落としていた。
木組みの欄干にもたれて、大きく息を吐き出す。ため息をついた所で何かが解決する訳ではないが、そうせざるを得なかった。
結局あの後、湖の乙女は仔細を明らかにせず、姿を消した。
オラシオン曰く、乙女は未来を見通すことができても、経緯は伝えてくれない。否、伝えることができないのだと。
「乙女に映るのは、断片的な未来に過ぎない。仮に見えたとしても、彼女は結論しか伝えない。なぜなら、お前がそこに辿り着くまでの道のりを知ることで、未来が変わってしまう恐れがあるからだ」
彼女はそう言った。
だが俺としては、そんな風につかみ所のない真実だけを告げられても、困惑するほかない。それが自分でも思い当たる節があって、それまで不揃いだった点を一つの線で結んでしまうような一言だったなら、なおさらタチが悪い。
そうだ。自分でも、とっくに気付いていた。
禁術に手を出して、ずっと意識を失って……再びこの世界に戻ってきてからというものの、俺はずっと奇妙な感覚を抱えて生きてきた。
本来、あの時死ぬべきだったはずの命が、誰かのいたずらでつながってしまったかのような違和感……
自分の命なのに、そこにいることが不自然である形容しがたい感覚が、ずっと腹の底に居座っていた。その感覚を、端的に言葉で表すならこうだ。
お前は誰なんだ?
ヴィクトル・サモトラは、確かにあの時死んだ。
死んだのだ。
息をしてるとか脈があるとか、そういう話じゃない。本能的にわかるからわかるとしか言いようがない。間違いなく、俺はあの時死んだはずだった。
ならば、今ここにいるお前は誰だ?
あの日を境に、まるで影をなくしてしまったかのような、自分の魂が剥離してしまったかのような、自分が自分じゃないような違和感が、ずっと頭の片隅を支配し続けている。
今ここにいるお前は、少なくともあの日までのお前ではない――
そこまで考えて、我知らず舌打ちした。
馬鹿馬鹿しい。俺は俺であって俺ではない? アホかお前は。俺は俺だよ。この調子だと、もう一人の俺がこの世界のどこかにいるんだとか、そのうち言い出しそうな勢いだ。
欠けた二人が一つになるとき、僕は本当のヴィクトル・サモトラを取り戻す――
寝言は寝て言え。想像力旺盛な十代男子でも、もう少し理性的な妄想をするってもんだ。さっさとメシ食ってうんこして寝ろ。
だが、今日の出来事で、あの時俺の命がつながった理由は判然とした。
指輪だ。確証はないが、確信はある。
俺は母さんから譲り受けた指輪の加護で、あの日あの時死なずに、こうして生き長らえることができたのだ。
俺は左手人差し指にはめた指輪を外し、まじまじと眺めた。
月の光を受けて、リングにはめ込まれた魔石が淡く儚く、白い光を放っていた。
確か……ダークマターとか言ったか?
まるで魔王でも呼び出しそうなネーミングだよな……この魔石を用意したのは、エルフの伝承だと魔族だから、いかにもアイツらが好みそうなセンスではあるが……
しかも、湖の乙女は、コイツは光の指輪ではなく、闇の指輪だと言いやがった。すなわち、コイツはエルフでなく魔族が造ったということ。
訳がわからん。
クロノアたちや、あるいは教団上層部だって把握していないであろう天のお告げを突然授かって、無力な俺は立ち尽くす以外に術を持たない。
こんな曰く付きの代物を、母さんはどこでどうやって手にしたって言うんだ……?
月が陰る。奇天烈な猿の悲鳴のような鳴き声を持つ鳥が、こんな時でも空気を読まずに鳴いていた。
ため息を大きく一つ。そろそろ部屋に戻るかと思い、顔を上げたそのときだった。
正面に、ドロシーがいた。
一体いつからいたのか、ツリーハウスの扉の前にもたれるようにして、彼女は腕組みしながらじっと俺を見つめていた。
「あー……そのなんだ、うん。ちょっと話さんかね」
*
前後を要約すると、俺の様子が気になったらしい。
むろんシードロちゃんのことなので、言葉で直接伝えたりはしなかったが、会話の端々や何気ない仕草から、それは読み取れた。不器用というよりは、単純に気恥ずかしいのだろう。年頃の女の子だから仕方ない。
木々の合間からちょうど月が見えるデッキに身を移すと、俺はよっこらしょういちとその場に腰掛ける。
そして、隣に佇むドロシーを見た。
「少しは落ち着いた?」
俺は両肩をすくめた。
「ここだけの話、深く傷ついているよ。自分がこの世界に存在してはいけないと言われたような気がして……今すぐにでも消えてしまいたい気分だ」
「アホな冗談抜かす余裕があるみたいだから、大丈夫そうね」
嘆息混じりに、ドロシーがそう言った。
繊細な演技派として鳴らした俺でも、ドロシーが相手だと分が悪い。物の見事に見抜かれていたようだ。
「青二才の頃ならまだしも、幸か不幸か年の功か、傷つくことには慣れてしまったから、今さらね……落胆と言うより困惑の色が強い。どんな時でも一心不乱に落ち込める奴が、最近はうらやましくて仕方がないぜ」
「嫌な年の取り方してんのね」
「ほっとけ」
「困惑したってのは、指輪のこと? それとも、自分のこと?」
「両方かな」
俺は言った。
「指輪に関しては、その道の人間に聞いてみても、みんな口を揃えて『見たことのない魔石だ』としか言わなかったからな。むしろ今日の一件で、腑に落ちたくらいさ。そりゃわからなくて当然だよなって……だから問題は、母さんが一体どこでどうやって、コイツを手に入れたかだ」
無数のグローワームが放つ水色の光が、苔むす小川の岩の上で明滅を繰り返していた。星空のような景色が、眼下に広がっている。
しばらくして、ドロシーが言った。
「貴方のお母さんって、もう亡くなってたのね……私、知らなかったから」
「ああ、お前にはちゃんと話してなかったよな……俺が十五の時にな。ギルドの仕事で、遭難事故にあって……そのまま」
「その……こんなこと聞いていいのかわからないんだけど」
ドロシーは右手で左腕の肘を押さえながら、俺の方を見た。
「貴方のお母さんが亡くなったことは、貴方が事故を起こしたことと、何か関係があるの?」
目が合ったまま、沈黙が流れた。
青色の羽を持つ蝶が辺りを舞い、暗闇にほのかな光の軌跡を描いた。
「その、答えたくなかったら別にいいんだけど……なんて言うかさ。貴方って、こっちから訊かないと、自分の考えとかあんまり話してくれないから。教団のことだってそう」
「教団?」
「うん」
ドロシーはうなずいた。
「こないだ騎士王やクロノアと会ったとき……貴方本当は、最初から教団が黒幕だってことに気付いてたんじゃないの? 話を合わせてるように見えたけど、きっと違う。本当はずっと、たぶん私と会う前から、その可能性を察してた……」
俺は顎を上げて空を向き、眉間に皺を寄せる。
ふむ――
「ほら、そういうとこだよ」
ドロシーの一言に、俺はおもむろに顔を上げる。
「『ふむ。コイツ、どうしてそのことを……勘の良いガキは嫌いだね』とか、どうせ思ってるんでしょ」
「……」
「ほら、図星だ」
ドロシーが口元を微かに綻ばせる。
ばつ悪げにハナクソでもほじろうかと思ったが、「お前のハナクソをほじるポーズは、本当にハナクソをほじってるんじゃなくて、話を逸らすために相手の気を引くサインだ」とか分析されると、死にたくなるのでやめておいた。
「すまんな。草木や花、あと寝室の壁以外とのコミュニケーションは苦手なもんで……どこまでを話すのが正解で、どこまでを話さないのが間違いなのか、お恥ずかしながらいい年こいてよくわからないんだ」
「正解とか間違いとか、そんなこと気にしながら言葉選んでる人の方が少ないよたぶん」
「……そうか?」
「そうだよ。相手が信用のおける人ならなおさらね」
俺は両腕を組み、無情なる心で天を仰いだ。
「そのロジックでいくと、俺は草木や花、寝室の壁しか信用していない男になるんだが」
「実際そうでしょ。別に間違ってないじゃん」
グサリと突き刺さったその言葉。
確かにそのとおりなので、ぐうの音も出なかった。しかし屁の音は出ないように我慢した。
いやまあ、たぶんそういうとこなんだろうなきっと……
「まあなんだ、要するに私が言いたいのは、もう少し周りの人を信じてみてもいいんじゃないかってこと」
ドロシーはローブの裾を直し、俺の隣に腰掛ける。
「別に、何もかも包み隠さず話せとまでは言わないよ。伝えたいこと、伝えたくないこと、それは貴方が選べばいい。でも……貴方が思ってる以上に、貴方の言葉を待っている人は多いんじゃないかな」
ドロシーは両膝を抱え込むように座り、両腕の上に顎をのせて、ぽつりと言った。
「……少なくとも、私はそう思ってるよ」
「……」
俺は両手を組み直し、意味もなく指先を上下に動かした。
「少し前、ロイドのじいさんにも同じようなことを言われたっけな……」
「うん?」
「いや、独り言。で、さっきの質問だけどな……話したいか話したくないで言えば、話したくない。しかし改めて問われると、なぜ話したくないかの理由をちゃんと考えたことがなかった。俺は今までその理由を、言葉にして上手に伝えるのが難しいからだと思ってたけど、たぶん違う。当事者ではない傍観者ごときに、俺の地獄がわかってたまるかという思いが、腹の底にあったからだ。わかり合おうとかする以前に、あきらめてるんだよ俺は。他人はどこまでいっても他人でしかない。そうやって周りを遠ざけて、ハナから触れられることすら拒絶してしまえば、自分がこれ以上傷つくこともない。このだだっ広い空の下で、俺一人しかいない世界の完成だ。だから、自分の過去に関しては、これまで上っ面を撫でるような情報しか他人には与えてこなかった。他人と他人以上の関係になることを恐れていた。認めたくないが、これが罪深き我が正体だ」
「……」
ドロシーは眉間に皺を寄せ、無情なる心で天を仰いだ。
「急に早口でめっちゃ喋るやんコイツ……とか思っただろ」
「いや、思ってない。思ってないけど……ただ、その」
「その?」
「そこまで冷静に自分のこと分析できるのを、少し不思議に思っただけ」
「何事も理屈を付けないと納得できない性分なんだよ。それに、自分と向き合う時間は腐るほどあったからな。探しすぎて逆に見失ったまである」
「でしょうね。確かに自分の殻に閉じこもれば、傷つくことはないのかもしれないけれど……そこから前に進むこともない。どれだけ時間が経っても、ずうっとゼロのままよ」
「そうだ。そのとおり。だから、俺はお前に助けてもらうことにした」
そう言った瞬間、ドロシーが顔を上げて、俺をまじまじと見る。
視線はむろん、逸らさなかった。
「他人は他人の勇者にはなれない。この愚かな男を支配するクソみたいな
青色の羽を持つ蝶が、淡い輝きを放ちながら、欄干の淵に止まる。
短いようで長い沈黙を挟んで、ドロシーがぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「や。何言ってるのか、正直よくわからんのですが……」
「要するに、俺の話を聞いてくれということだ」
「……」
二秒後、ドロシーがどっと声を出して笑った。よほど可笑しかったのか、笑い止むまでずいぶん長い時間を要した。
「なんでそんなカンタンなお願いが、そこまで回りくどくなるのよ……意味わかんない……」
ドロシーが目頭をこすりながら、そう言う。
慣れてない状況のせいか、どういう表情をしたらいいのか難儀した。ハナクソはほじらないよう頑張ったから許してほしい。
やがて、ドロシーが口元に微かな笑みをたたえて、俺の目を見て言った。
「いいよわかった。ちゃんと聞く」
ダークブルーの彼女の瞳の奥に、未だかつて会ったことのないほど情けなく、それでいて新鮮な自分を見た。
俺はうなずき、そして言の葉を紡ぐ。
「結論から言う。俺は死んだ母さんを蘇らそうとして、禁術に手を出した。そしてその結果、魔力の大部分を失った……
今からほんの、五年ほど前の話だ――」