俺が手にした魔導書は、ノルンの弟子を語る者によって著されていた。
ノルンの開発した転移術に関心を持った彼は、その術式を拡張し、過去や未来へ跳躍することが可能なのではないかと問題提起した。
結論から言うと、未来へ飛ぶことについては、師弟の見解は概ね一致したようだ。
少々強引ではあるが、空間魔法により人物Aを時間の流れを遅くする特異点に閉じ込めることで、Aの内なる時間では三年しか経過していないが、外の世界では百年が経過している状況を作り出すことで、擬似的ではあるが、未来へのタイムリープは可能だとする理論だ。
この点については、理論的には可能でも、技術的には可能なのかという疑問はあるにせよ、俺も概ね同意だった。
というか、ノルン式転移術の理論の柱となっているのがこの考え方なのだから、異議を唱えようがない。ノルン式転移術は特異点の創造により、時空の流れを操作するという行為を、秒単位の極めてミクロな世界で実現しているに過ぎないからだ。
一方で、過去へ遡ることについて、師弟の見解は割れた。
ノルンの弟子の主張はこうだ。世界はあくまで一本の巨大な流れに支配されており、Aが過去に遡って歴史を改変した場合は、当然今ここにいる私たちの世界にも影響を及ぼす。しかし、これではタイムパラドックスが生じる。
例えば、Aが過去に遡って、自身の祖父を殺してしまうと、未来のAは誕生しない。するとAの自我はどうなるのか?
弟子の出した答えはこうだ。
答えはない。
なぜなら、Aは存在すると同時に存在しないという矛盾をはらんだ存在になるからだ。
そのような論理的破綻、すなわちリスクとリターンが比例するという魔術の原則に反する以上、過去への回帰は不可能だと弟子は結論づけた。
これに対し、ノルンは、世界が枝分かれするというパラレルワールドという説を唱えた。
人物Aが過去に飛んだ時点で、Aは元の未来とは異なる時間軸の世界に移行し、自分が元いた世界の未来には何ら影響を及ぼすことができない。
したがって、先ほどの例で言うと、Aが過去に遡って、自身の祖父を殺しても、それはAが移行した世界の未来にこそ影響を及ぼすが、彼が元いた世界は、彼が忽然として消えたという事実のみを残して、変わらず時を刻み続けているというロジックだ。
結局、師弟間のこの論争は、決着が付かなかったらしい。
というのも、過去への回帰を肯定したノルンの方が、「よくよく考えてみたら、私自身に過去に戻って未来をどうこうしたいという欲望が全くないから、ぶっちゃけ興味なくなった。どうでもいい」と、術式を作るだけ作って、肝心の検証の部分は放り投げてしまったからだ。
この辺り、熱しやすく冷めやすい、後ろを一切振り返らないノルンの性格が如実に表れているなという印象は受ける。
その後、弟子は過去への回帰は不可能だとする自説こそ曲げなかったが、ノルンが亡くなった晩年、彼女の一連の研究を後世に残し、未来の後進に検証を委ねてみるのも一興ではないかという着想に至ったようだ。
そして彼はこの本を起こした。それが事の真相。あえて特殊なカモフラージュを施したのは、然るべき人物の手に渡ってほしいという彼なりの配慮だろう。
ちなみに、本の最後には、彼の本名が記してあった。
エメ・ボードワール。
王立ロゼッタ魔法学士院の創設者だった。
おいおい……そういやウチの学校は確か、ノルンの死後、彼女の弟子によって創設されたんだったっけな。なるほど、だから学士院の図書館に、こんなアルス・ノトリアの外伝のような書物を紛れ込ませることもできたのか……
ちなみにこの本は「正式」に起動すれば、三日で消滅するよう仕掛けを施しているとエメは記述していた。
つまり、生かすも殺すも、お前の好きにしろということか……
本を閉じると同時、俺は自らを落ち着かせるように深呼吸した。
幸いなことに、術式はノルンが残してくれた。
ノルンの弟子であり、学士院の創設者でもあるエメが詳細に記述を残してくれたおかげで、ノルンが途中で放り投げた検証の部分を補えば、大凡それで事足りる。
ざっとなぞった術式は、さすが転移術の祖であるノルンというべきか、破綻があるようには全く見えない。
俺がその負荷に耐えきれるかという課題はあるが、これも二週間程度の時間遡行であるならば、さほど支障にはならないだろう。机上で組んだ計算だと、俺の魔力を限界までつぎ込めば、十年前までは遡れるとの答えを得たから、万一失敗したとしても、過度に精神汚染が進行したりするリスクはほとんどない。
ならば問題は――本当にやるのか、やらないのか、その二択。
仮に成功して過去に戻ることができたとしても、ノルンの主張したとおりパラレルワールドに移行するならば、俺が今いるこの世界で母さんが死んだという事実は覆せない。
だとすれば、リスクを背負ってまで過去に戻り、母さんを救い出す行為に意味があるのか?
もしだ。もしその願いが成就できたとしても、そこからまた、元の世界に帰ってこられる保証があるとは限らない。未来へ飛ぶことは、過去に戻るより理論的には容易だが、俺にその決断が下せるのか?
俺だって人間だ。過去の世界に居座る俺を抹殺して、奪い取った場所で安寧を見出すという悪魔の囁きに耳を傾けない可能性がゼロとは言えない。
どれほど考えたところで、答えは出なかった。当然の話だ。所詮は自己満足の話に過ぎないのだから。
うさんくさい奇跡に焦がれるくらいなら、死んだ人間は死んだものと受け入れて、前に進む方がよほど建設的だ。それが大人の割り切り方だ。そんなのはわかっていた。
でも……
それでも、俺はもう一度母さんに会いたかった。
過去を改変できるとかできないとか、そんなのはどうだっていい。生きている母さんにもう一度会って、ちゃんと最後の言葉を交わしたかった。俺はあなたのいない世界でも、ちゃんと上手くやっていくよって、それだけでいいから伝えたかった。
あんな唐突な終わり方はあんまりだ。その気持ちだけは、どれだけ理屈をこねたって消すことはできなかった。
ならばもう……
一々問わずとも、答えなど最初から決まっていた。
*
決行は午前2時。
真円の月が浮かぶ空の下、俺はロゼッタ郊外の母さんの墓場の前にいた。
俺自身の魔力のバイオリズムと、今回行使する術の相性などを考えて、この環境がベストだと判断した。魔法
母さんを救うために過去へ戻るという目的を果たすためには、死者の因果がより強く感じられるこの場所がふさわしいと考えたのだ。
母さんが眠る墓の前で、陣の構築を終えると、俺は目を閉じて深々と息を吐き出した。
辺りには小雪が舞っていて、吐く息は白い。薬指には、母さんの形見である指輪をはめていた。願掛け程度にはなるだろうと思ったからだ。
大丈夫。何度も何度も何度も、これでもかというくらいに検証は繰り返した。
必ず成功する。必ず……
両目を見開くと、俺は全神経を研ぎ澄ませて、持ちうる全ての魔力を解放する。
「汝が深淵を覗くとき、深淵もまた汝を試すであろう。我もまた然り。時の回廊。螺旋の階段。円環の理。因果の鎖を解き放ち、彼の者を定めの地へといざないたまえ……
マハ トラーナ ソテミシア レギダントラン ヒガンテ パラシコロヒーア――」
詠唱に合わせて、あらかじめ構築した魔法陣が不気味に光を帯び始める。
瞬間、衝撃が走った。力を込めた両腕はミシミシと奇怪な音を立て、今にも血管が破裂しそうな痛みが全身を駆け巡った。だが……
想定内。
一瞬でも気を緩ませたら、すぐにでも呑み込まれそうな底なしの闇を感じるが、これしきで音を上げるつもりもない。歯ぎしりをしながら、俺は掲げた両手にさらなる力を込める。
「くそったれ……負けてたまるかよ……!」
増幅していく魔力に比例して、時空を象徴する円環の理が複雑に絡み合った紋様に次々光が迸り、陣が完成していく。白い光芒が空へと舞い上がって、周囲の大気がひび割れんばかりに激しく震える。
そして、
稲妻のような轟音が鳴り響き、魔法陣が光に包まれ、空間が歪み、
いける。ここまで来たら、もう成功は目の前だ――
痛みを堪えて、俺は最後の力を振り絞る。噴き上がる魔力の圧で、身体が裂けそうなくらいに熱く、髪はなびき、舞う雪がかき消される。
その、刹那だった。
《……誰だ? 我が眠りを妨げ、摂理に抗う愚か者は》
聞こえるはずのない声が、確かに耳を伝った。
《身の程を知れ。私は誰の指図も受けない》
はっとして、これはまずいと、今すぐ術を解除して逃げろと、本能が激しく警鐘を鳴らすとほぼ同時、それが
得体の知れない黒い物体が俺の全身に纏わり絡みつき、両手は縛られ、口元は塞がれ、身動きが途端に取れなくなった。
じたばたともがくも、どろりとぬめった蛇のような黒いソレは、さらに拘束する力を増して、締め付けるようにして、じわじわと中へ侵食してくる。そして、全身が脱力していくような感覚に襲われた。
まるで一つ残らず、力を喰らい尽くすような……
「やめろ……」
おぼろげな視界の先で、脳裏をよぎったのは、遙か昔の記憶だ。
実家の一階。いつも騒がしかったそこには、陽気なローランに、無愛想に切り盛りする親父。そして、それを笑って見つめる母さんがいた。
そしてその隣に……俺が……
「やめろやめろやめろ!!!! やめてくれええええええええええええええええ!!!!!!!」
瞬間、指先で強烈な光が放たれて、俺の身体が解放されて地面へと投げ出される。
全身を蝕んでいた黒い物体は、光に驚いたのか、シュルシュルと〈門〉の奥へと引き返す。そして鈍い音と共に、
まるで何事もなかったかのように、辺りには静寂が戻る。
「…………」
地面にうつぶせた俺は、残された力を振り絞って、弱々しく雪を掴む。呼吸は乱れ、意識こそ朦朧としているが、目立った肉体的損傷はない。
だが……今までとは明らかに違う感覚があった。その違和感が意味するところが何であるのか、魔術士である俺にわからないはずがなかった。
ない。
魔力が、ない。
一時的な損耗などではない。消失だ。どれほど呼びかけても、全身の魔力の経路はぴくりとも反応しない。呼応しない。活性化しない――
「……んだこれ……ざっけんなよ……!!」
怒りに任せて地面を殴った瞬間、心臓がとくんと跳ねた。
全身を焼くような痛みに、頭が真っ白になる。魔力の経路がズタズタに切り裂かれた鋭い痛みを自覚して、たまらずのたうちまわった。
「ああ……ああああああァアアアアアアアッ…………!!!!」
口から泡を吹き、呻き声をもらして、芋虫のように地面を這いずる。痛みと悲しみと絶望と怒りがぐちゃぐちゃに混ざって、もう何が何だかわからない。
いっそ夢なら醒めてくれと、そう願えば願うほどに、これは現実なんだと思い知らされた。
降る雪の白さも、焼け焦げたような全身の痛みも、胸を締め上げる後悔と絶望の念も、紛れもなく現実だった。
もう、受け入れるしかない。
俺の、時間遡行は失敗した。
そしてその代償として、
「ちくしょうちくしょうちくしょう……ちくしょおおおおおおおおおお!!!!!! どうしてだよ!! 魔術に不可能はないんだろ!! なあ! どうして、どうして……あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
まぶたからぼろぼろと涙がこぼれ落ち、もはや声にもなっていない絶叫が、辺りに虚しくこだました。
わからない。
一体どこからが間違っていて、どこまでが正しかったのか、わからない。
唯一わかっているのは、俺にはもう、奇跡も魔法もないということだけ……
降る雪は儚く、周囲の視界を白く染めていく。
落ちていく意識の中で、灯火を見た。揺らめいていた炎はやがて翳り、小さくなり、周囲が闇と同化していく様を、ただただ呆然と見届けることしかできない……そんな心象風景だ。
残された世界には、もう何もない。
あるのはただ、深淵の闇だけだった。
***
長い物語を終えると、俺は視線を上げ、月の光で長く延びた自分の影を見つめた。
「そこから先の顛末は……正直語るに耐えないんだが、まあ話さない訳にはいかないよな。意識を失った俺は、町の人に救出されて、何とか凍死は免れた。だが、どれだけ待っても、意識が戻ることはなかったそうだ。どれだけ話しかけても、『あぁ……』とか『うぅ……』としか応えない廃人になっていたらしい。転移術の失敗で、精神汚染が重度に進行したんだ。
そんな風に廃人と化した俺を、親父はエルの手も借りながら、辛抱強く介護してくれたらしい。あの二人には感謝してもしきれないというのが正直な所だ……まあ、その恩をちゃんと返せてるのかと言われると、甚だ疑問だが」
「……そう。そう、だったんだ……」
うつむき加減にそうこぼしたドロシーを見て、俺はふうと息を吐き出した。
「廃人生活は、結局五年ほど続いたんだが――ある日突然、自我を取り戻すことができてな。最初は上手く喋れず、人の手を借りないとどうにもならない状態が続いたが、二ヶ月ほど経てば、ほぼ一人で生活できるレベルまで回復できた。
理由は正直よくわからない……色んな医者に診て貰ったが、『こんなケースは見たことがない』と、異常者みたいな扱いしか受けなかった。いわゆる奇跡ってヤツらしい。そんな安易な言葉で片付けるなよと言いたいが、かといって真相は、自分で探ってみてもさっぱりわからん……そんな感じだ」
「うん……」
「まあ問題は……その後だよな。意識が回復していくにつれて、自分がやらかした事の重大さや、失ったものの数に気付いて……有り体な言い方をするなら絶望したね。五年という歳月を失ったショックよりも、自分が魔術士として再起できないという事実の方に打ちのめされたよ。
結果、ロクに働きもせず、一人塞ぎ込んでは部屋に引きこもる日々が続いた。あの時大人しくくたばっていた方がマシだったと、何度思ったかわからん」
「……でも」
視線を上げ、ドロシーが俺の目を見た。
「貴方はまだ魔法が使えるじゃない。それはどういう理屈なの?」
「ああ、そこなんだが……たぶん、コイツのおかげだ」
そう言うと、俺は自分の左手を広げて、銀色の指輪をまじまじと見た。
「俺が魔力を全て失わずに済んだのは、おそらく指輪の加護のおかげだ。この指輪の魔石には、邪気を退ける強力な力が秘められているのだと思う。実際、ほとんどが壊死した俺の魔力の経路の中で、唯一生き残ったのが、左手薬指から心臓へと結ばれる経路だったからな。ここだけはどういう訳か無傷だった。そう考えると、指輪の加護以外に、腑に落ちる理由が見つからない」
「なるほど……だから貴方は、おいそれと魔法を発動することができないのね。身体の負荷を考えると、使える魔力量や発動回数に制約があるから――そしてその制約を解く術として、貴方はアルス・ノトリアを求めている」
「そういうこったね」
「けれど、どうして失敗したのかしら……ノルンの残した術式は、結局間違っていたということ?」
「さあな。失敗したときの記憶は断片的だから、何とも言えんが……誰かの声が聞こえたような気がしたんだ」
「声?」
「要約すると、調子乗んなアホボケカスみたいな……いずれにせよ、どこかで聞いたことがあるような、ないような、そんな声だった」
「へえ……」
「まあ、それはともかく、術式の構成や術者の負荷云々の前に、もっと大きな破綻があったのかもしれない。あるいは、ノルンではなく、エメ・ボードワールの主張の方が正しかったのか……」
「つまり、魔法で過去に遡ることは不可能ってこと?」
「ああ」
ドロシーはうなずき、口元に手を当てる。
視界の外、小川の側では、青色の羽を持つ蝶が舞っていた。
「ねえニケ……貴方はその……たとえわずかな一本の
俺はドロシーの目を見る。
目が合って二秒、俺は頭をボリボリと掻き、視線を逸らしてから言った。
「えらい残酷なこと訊くんだな」
「え? あ、いや……ご、ごめんなさい」
「いや、いいよ……そうだな。少なくとも、『一縷の希望が見つかったぜ! 最高にハッピー!!』なんて風にはなれなかったよ……それも全くないことはなかったが、正直、こんな奇跡起こらない方がよかったって思った方がずっと多かった。魔術士として完全に命を絶たれた方が、色んな現実と誠実に向き合うことができたんじゃないかって。中途半端に希望の余地を残されたせいで、かえって迷走する結果になったというか……。ずっとそんな風に思ってきたけど……」
「けど?」
「最近はそうでもなくなってきてるな」
「最近? どうして?」
「お前と会えたからだよ」
俺は言った。
「魔術士としての道をあきらめて、ロゼッタで大人しく過ごす日々を選んでたら、お前と出会って、こうして何かを分かち合うことだってなかった訳だろ。草木や花、寝室の壁以外と心を通わすことができなかった哀れな男が、ようやく一歩進んで、人間様を信用してみる道を選んだんだ――
それだけで十分、意味はあったんじゃないか。性懲りもなく、魔術士として再起を図ろうとするこの生き方にも、捨てたモンじゃない部分はあったんじゃないかって、今ならそう思う。知らんけど」
「……言い方」
「ほっとけ。それに、お前だけじゃない。旅に出て、色んなヤツと出会って、どうやら俺だけじゃないんだということがわかったんだ。人はみんな、銘々に後悔だとか哀しみだとか自責の念だとか、多かれ少なかれ、面倒なモノを抱えながら生きてるんだってことが、頭ではなくて経験として理解できた。
そして何の因果か、昨日まで他人だったヤツと、時としてそういう感情を分かち合うこともできるって学んだ。こういう教訓は、ロゼッタの外の世界に出てみないことには、得ることができなかったモノだと思う」
「……ふーん。よかったじゃん。色々回り道もしたけど、貴方は変わろうとしてるってことでしょ。いい傾向だと思うよ」
「……だといいけどな。こうも長く付き合ってると、昔のこじらせた自分にも愛着があって、隙あらばそっちに帰りたくなることが……」
「言い方」
「すんません」
貴方が捨てたのは金のニケさんですか? それとも銀のニケさんですか?
いいえ、薄汚くて灰色の、煤けたこじらせ男子ことニケさんですと、どうでもいい空想に思いを馳せていると、隣のドロシーが立ち上がった。
「ねえニケ。たとえ失った魔力を取り戻すことができなくても、あなたはきっと変われると思うよ」
不意を突かれたその言葉。
にわかに思考が停止して、呆けたようにドロシーを見ていると、やがて彼女が言った。
「あなたが自分自身に胸を張って、俺は変われたって言える瞬間があるとしたら……たぶんそれはね。失った魔力を取り戻した、その時じゃないと思うの。たとえなくした魔力が帰ってこなくても、そのままの身体で、そのままの姿で、この世界を生きていくのも悪くないって、心からそう思えた時なんじゃないかな。
……上手く言えないんだけど、あなたの本当のゴールはそこにあると、私は思うよ」
真っ直ぐなドロシーの言葉に、俺は黙したまま、しばしまばたきを忘れていた。
やがてうなずき、うつむき加減に口を開く。
「……なんつーか、お前と一緒で上手く言えないんだが」
不意に熱くなった心のずっと奥の方を、隠すように握りしめて、俺はこう言った。
「ありがとう」
ドロシーは微笑を浮かべ、「じゃあ私は寝るから。また明日ね」と告げて、その場を去って行く。
こんな風に自然に「また明日」と言える仲間が見つかっただけ、俺も少しは前に進めているってことなんだろうか。隙あらば悶々と思索に耽るのが好きな性分のくせに、大事なことはいつも誰かに気付かされてばっかりだなと、らしくもない想いが脳裏をよぎる。
俺が本当に、自分が変われたと思えるその瞬間か……
木組みの欄干に蝶が一羽、美しい青の羽を広げて
やり直しなんて、今の俺には必要ない。
何もかも失ったようで、それでいてほんのわずかな小さな灯火が残されたこの身体で、それでもどうにか何とか、下手くそなりにちゃんとやっていけてるよって、いつか母さんに伝えることができたなら……
なるほど悪くない未来だなと思い、俺はハナクソをほじろうとしたが、結局やめた。そして一人で笑った。
もう、一人じゃないから。
残された世界には、微かな温もりがある。
目の前に広がる景色はもう、深淵の闇だけじゃない。