「ご命令どおり、エルマを連れて、二人を森の出口まで案内いたしました。三日ほど経てば、エフタルの領土に到達するでしょう」
「そうか。ご苦労だったな、ヴェルギリウス」
酋長のオラシオンがそう告げると、ヴェルギリウスは深々と頭を下げ、謁見の間から退出する。
入れ替わるように、エルマの祖父であるソロンが進み出た。
「本当によろしかったのですか、奥方。あの者を野放しにして……」
「乙女の神託に従ったまでだ。よいも悪いもなかろう」
「ですが……我々の伝承によれば、彼は神託に背きし者。神託から逃れることのできない我々と異なり、因果律の呪縛から解き放たれ、運命を自ら切り開くことを許された者。奥方とて、そのことはご存じでしょう」
「……知っておる。魔族の世界では、それを『魔王』と呼ぶこともな」
オラシオンは指先でコツコツと肘掛けを叩く。
深い沈黙が訪れた。
「……個人的には、どこまで信じるべきなのか疑っている部分もある」
「乙女の神託が、ですか?」
「神託そのものの是非ではない。巫女であるエルマの方だ。あの子は素質こそあるが、如何せんまだ幼い。乙女の神託を、どこまで正確に受け取ることができたのか……ルチアがここにいれば、左様な疑義を呈することもなかっただろうが」
ソロンはぴくりと眉根を寄せると、オラシオンの目を見て、深々と頭を下げる。
「申し訳ありませぬ。ルチアについては、我が一族の完全なる失態です」
「よい。過ぎたことを問うても仕方あるまい。ただ……」
「ただ?」
「ニケと一緒にいた、赤髪の少女。あの娘も、決して無関係ではないような気がしてな。ニケが背負わされた業に、あの娘も深く関わっているような、そんな印象を抱いた」
「……」
「いずれにせよ、世界はこれから大きく動くだろう。その中心に、神託に背きし彼がいるとなれば、魔族とて黙ってはおるまい」
そこまで言うと、オラシオンは小さく息を吐き出し、両目を瞑った。
「我々もそろそろ、身の振り方を考えねばならぬ時期に来ているのかもしれんな」
*
ルナティア、モンフォール家屋敷、会談の間――
ティーカップに注がれた紅茶に口をつけると、執事のセバスチャンは愛用の片眼鏡に手を当てた。
「ライラ。今日の茶葉は?」
「エクヴァターナです」
「いつもと少し、味わいが違うように感じるな」
「質の良い品が手に入ったんです。今年は豊作だそうで」
「ほう」
「それに、今日の客人は私と同じ、中西部出身の方と聞いているので」
「……。紅茶よりも、酒ばかり飲んだくれてるような奴だがな」
そこで、コンコンと扉を叩く音がする。
「どうぞ」とライラが言うと、案内役のメイドが頭を下げ、客人が通される。
新雪のような白い髪に、アンバーの瞳。かのクラインの元締めであり、今や勇者の仲間の一人でもある男。
トラヴィスだった。
「よお、
「……」
「息災だったか? しつこげにまだ生きてたようで、何よりだよ」
「それはお互い様だろう。掛けろ」
セバスチャンが顎で着席を促すと、トラヴィスは幾何学的な紋様があしらわれた瀟酒なソファーに腰掛ける。
遅れて、従者らしき人物が入ってきた。美しい翡翠の瞳に、中性的な顔立ち。背中には弓を背負っている。鋭く尖った耳から、エルフであることは明らかだった。
初めて見る顔だな、とライラは思った。
「紹介するよ。俺の優秀な部下だ」
「ルチアと申します。初めまして」
「セバスチャンだ。今はモンフォール家の執事長を務めている」
「あれ? お前の上司の元上司だ、とか説明しねえの?」
「お前を自分の部下と思ったことなど、一度もない」
「おいおい。久々に会ってその言い草はねえだろ」
「お前が私の命令をまともに聞いた試しがあったか?」
「……言われてみればほとんどなかったわ」
話には聞いていたが、今や世に名を馳せているあのトラヴィスがその昔、執事長の配下であったことは事実だったんだなとライラは再認識する。
ネウストリア王家から私掠船の免状を与えられ、最後の海賊と謳われた、カルヴァドス海賊団副船長。セオドア・セバスチャン・エイヴリーの懐刀、トラヴィス・クローバーか……
ライラが紅茶を勧めると、トラヴィスは「気が利くねえ」と一言。片やルチアは、これを固辞した。
「お構いなく。私は立ったままで構いませんので」
傍らのセバスチャンとトラヴィスは、先日行われたソフィーお嬢さまの結婚式、すなわちモンフォール家とバルザック家の契りについて、話の花を咲かせているようだった。
思ったより世間が好意的に受け入れて安堵した、これを機に大陸と本土の結びつきが強まるといいが、それにはまだ少し時間が掛かるだろう等々……
ライラは部下に命じてトレイを下げさせると、セバスチャンの右斜め後ろに立つ。
それが合図だった。
「で。本題は?」
セバスチャンは膝の上で、両手を組み、トラヴィスを真っ直ぐに見つめる。
空気が一変したのを察したのか、トラヴィスは一度視線を落としてから言った。
「アイゼンルート魔導帝国、皇帝クラウス・フォン・クラウゼヴィッツ――」
わずかな間を置いてから、トラヴィスはおもむろに視線を上げる。
「奴の暗殺を実行に移す」
セバスチャンは無言。ティーカップを手に取り、紅茶を一口飲んでから言った。
「本気なんだな?」
「本気じゃなかったら、わざわざ東征に乗り遅れてまで、こんな物騒なハナシしに来ねえよ」
「……そうか」
ことりとティーカップをソーサーに置くと、セバスチャンはトラヴィスの背後に立つルチアを見た。
「彼女が実行者か」
「ああ」
トラヴィスはうなずいた。
「クロノアにも相談の上、最終的には俺が決めた。本来なら俺が出向くところなんだろうが……色々と事情が変わっちまったのは、あんたにも先日話したとおりだ」
「苦渋の決断という訳か」
「違うね。最善の決断だ」
「最善の決断が最良の結果をもたらすとは限らない。俺とお前が、どういう訳か生き残ったみたいにな」
「……まどろっこしいな。単刀直入に言うぜ」
するとトラヴィスは立ち上がり、床の上に膝を着いた。
そして両腕を曲げ、額をぴたりと床に着ける。
「頼む。元仲間のよしみとして、俺たちに力を貸してくれ。何度も言うが、失敗は許されない。許されない以上、もうアンタに頼むしかないんだ。ルチアには、アンタの右腕を務めるだけの技量はある。それは保証する。今は亡き
「……」
沈黙が流れた。
セバスチャンは片眼鏡の縁を上げると、小さくため息をついた。
「なあトラヴィス。昔、カルヴァドスの阿呆がこう言ってたんだ」
突然降り出した秋雨のように、セバスチャンが語り始めた。
「俺もお前も、船長とか副船長とか偉そうな肩書きが付いてしまった以上、そろそろ舞台から下りる覚悟を決めなきゃいけねえって。どういうことだって聞いたら、アイツは笑ってこう言ったよ。次を託せる主役を作んなきゃいけねえ。次の時代を切り拓くのは、俺たち名のあるオッサンじゃない。今は名も無き、若い連中だって――」
トラヴィスは顔を上げ、セバスチャンの横顔をまじまじと見つめる。
二人の目が合った。
「お前はともかく、俺はもう老いたんだよ。物語の主役じゃない。未来を切り拓くのは、俺じゃなくて、次の時代を生きる人間でなければならない」
紅茶を一口飲むと、セバスチャンが告げた。
「ライラ」
「はい」
前に進み出ると、ライラは両手でスカートの裾をつまみ、右足の膝を軽く曲げ、左足を斜め後ろに引いて、会釈をした。
「ライラ・サイード。セオドア・セバスチャン・エイヴリーに代わって、皇帝暗殺の任務。謹んでお受けいたします」
言葉のないトラヴィスとルチアをよそに、セバスチャンはカップをソーサーに置き、白い手袋をはめた両腕を、顔の前で厳かに組み直した。
「この子は筋が良い。故に、俺の持てる全ての技術を叩き込んできた……なに、そう呆気に取られた顔をするなよ。主役の座こそライラに譲るが、俺も脇役として同行して、二人を支えるつもりだ」
「副船長、あんた……」
「自慢じゃないが、俺もお前と同じかそれ以上に賭け事が好きな性分でね」
指先でモノクルを押し上げると、彼は静かに言った。
「くたばり損ないの老人にとって、これほど本気で挑戦しがいのある