肉に埋もれた足場がほころんだ瞬間、どうしようもない浮遊感に包まれる。
落ちている。
先の戦いで、淫界において内部の空間を自由に弄ることができるのは解っている。偽仏を隠すために肉植物を天井に張り巡らせたように、俺達の足場もまた肉植物によって偽装されていたのだろう。
主人公が決死の覚悟で戦っていた場所は、巨大な落とし穴だったというわけだ。
悔しい、とは思わない。
ここまで警戒に警戒を重ねられ、こちらの消耗を待ち続けられてはどうしようもない。淫界がこれほど慎重な存在であったのなら、最初から逆転の目はなかっただろう。
奇襲有りのラスボス二体同時戦闘を潜り抜けただけでも大金星だ。
「あー.........」
落下に身をまかせて目を閉じる。
流石に限界だ。
身体中の痛みがエライことになっている。
アラカワールドの霊力が使えれば何とかなるのかもしれないが、こっちは一般世界の一般人である。巨人に踏み潰されて全力疾走やっただけ大したもんだろう。
しかしどこに落ちてるんだろうか。
主人公が全力を出し尽くし、淫界にこちらの手の内をすべて把握された以上、ロクでもない場所に落とされていることは間違いがない。
思いつく候補としては、最有力が下級妖魔による逃げ場のない物量地獄、次点で原作の脱出不能の肉歯車地獄だろうか。
他の行き先候補を考えようとして______面倒臭くなって止めた。
うーん、無理。
何が来ても無理。
三番目は流石にないと思うが、何が来ようとどのみち淫界の核が見つけられないので話にならない。どこに逃げても淫界の腹の中だ、完全な離脱ができないのだから、主人公は消耗し続けるしかない。
というか、伊早瀬アラカさんはどこにいったんですかね。
まさか序盤ボスの夜陰明神と戦ってすらいないとは思わなかった。
おそらく複雑怪奇に捻じ曲がった淫界の中で迷子になっているか、最悪の場合は妖魔に敗北して苗床になってしまっているかなのだが、どちらにしろ合流するのは不可能だろう。
救助や援護は期待できない。
「ん.........? あれ、なんか忘れてるような______あヴっ!?」
なにか思い出しそうだったが、突如横合いからの衝撃に思考が飛ぶ。
「ク、ぅ........ッ!!」
見れば主人公だった。
落下中の俺を左腕に引っ掛けるようにしてキャッチ、そのまま空いた右手で肉壁に指を食い込ませる。肉を素手で引き裂くものすごい異音が響き落下の速度がガクリと落ちる。
だが完全には停止は出来ない______勢いのままに底に叩きつけられた。
「ごぼ.........っ!?」
衝撃でバシャァンと粘り気のある水を散らす。
そして背中で何かをぶちぶちと潰す悍ましい感触に慌てて跳ね起きる。
幸か不幸か墜落死だけは避けられたようだ。
主人公の必死のあがきと、なにより着地場所が良かったらしい。
なにせ淫界の最奥、壁から床に至るまで肉一色、クッション代わりになったのは異様なほどに生えている肉触手と______
「______蛆虫、か?」
ザバリ、水面を揺らして立ち上がる。
膝まで浸かるほどの粘液に
奈落の底にある広大なプールの一面を泳ぐそれらを見て生理的嫌悪で皮膚が粟立つ。
一瞬だけ取り乱しそうになるが、自分を助けた主人公の存在を思い出して我に返った。素早く辺りを見渡し、肉壁にもたれ掛かるように蹲る少年の姿を捉えて慌てて駆け寄る。
「大丈夫か.........!?」
大丈夫なわけねェだろ、と自分に突っ込む。
淫界に入ってからの休息のない妖魔との連戦、加えて偽仏の攻撃が直撃している。
消耗に次ぐ消耗、なにより伊早瀬アラカの奥義を行使できてしまっている。つまりは他者の真髄を再現できるほどに同調しているという事だ。
限界だ。
ゆっくりと壁に呑み込もうとする触手を払いのけ、少年を片手で抱き上げる。
顔色が青を通り越して白くなっている。視線が定まらず、そして呼吸が異様に浅くはやい。明らかにヤバい状態だ、これで末期じゃなかったら嘘だ。
問答してる暇はない。
右手に嵌まった、妖しく輝く手袋を引き抜こうとして______
「ぁ、あァ!」
「っ!?」
バシ、と手を払いのけられる。
「誰!? 大丈夫です! あ、アラカを、助けないと.........!」
「わかってる、落ち着け」
名前もわからない少年は立ち上がろうとして、それでも立ち上がれない彼を支える。
あまりにもすり減っている、あらゆるものが擦り切れている。
この状況は、たぶんもうどうにもならない。
だが、少年が伊早瀬アラカの救出を諦めないのなら、やはり彼自身が立ち直らなければならない。幸い、まだ脅威になりそうな妖魔は近くにはいないようだ。原作ではボスとして位置付けられる偽仏、夜陰明神という強力な個体の妖魔を撃破している。
今のうちに主人公が自我をはっきりと保てるまでに回復してくれさえすれば、もうしばらくは戦うことができるはずだ。
___a......La___Aa...Ua
「.........あ?」
遠くから音が、聞こえた気がした。
いや、確かに聞こえる。
主人公が暴れてそれどころではなかったから気付かなかったが、耳をすませばどこか規則的な音が暗闇の中から響いている。
La......AAAa___LaUa____
違う、
呪歌、とでもいうのだろうか。
聞こえる音の意味は解らない、だが幼子をあやすように、或いは眠りに誘うように、底知れぬ悪意を含むナニカの歌声が、この広い蛆の奈落に満たされていた。
嫌な予感がする。
蛆、歌、この二つのキーワードに関連する原作の物語は一体何だったか。
「まさか、な」
静かに流れる邪悪な歌の方向に、薄暗い奧殿の中で目を凝らす。
暗闇に慣れた目が、流れる絹のような白髪、シミ一つない白い女体を捉える。
ソレは巨大な美しい女性の姿をしていた。
二十メートル近かった偽仏ほどではない。だが数メートルはあるその妖魔は、瞳を閉じ大きく膨らんだ腹を愛おしそうに抱えながら、肉壁にもたれ掛かるようにして座っている。
それは聖母とさえ思える様な美しさと、神々しさを纏っていた。
La_____.........。
歌が止んだ。
気付いたのではない。
ただ単に歌いきったというだけだろう。
淫界に落とされた以上、最初から奴はこちらを認識していた。
だから、先ほどの歌は奴の余裕に他ならない。
微笑を湛えた聖母が閉じた瞳を開く。
赤と黒で構成された人外の瞳が、ぎょろりと獲物を捉えた。
「La、AaaaaAAAAAAAAAAA!」
妖魔が歓喜の声を上げる。
呼応するように周囲の触手がざわざわと蠢き、蛆たちが狂ったように跳ね始める。
「おいおいおいおい.........!」
ぐったりとした少年を抱え上げる。
身体が軋み悲鳴を上げるがそれどころではない。
相手にしなければならない妖魔が予想していた数倍はヤバイ。
憎悪と暴威で構成された夜陰の魔狼とは違う。
愉悦と嗜虐に満ちた偽りの神仏にも類しない。
淫界に君臨する最上位二種とは全く異なる性質をもつ、淫界の最奥に隠されたもう一体の最上位。
______あの妖魔に名前はない。
サブストーリーでしか存在が確認されていないが故に、原作において明らかに最上位としての格を持ちながらボスとして扱われず、またエネミーとしてもついぞ登場することはなかった。
だが訓練された『淫界人柱アラカ』のプレイヤーたちの
最凶さでいえば最上位レベルの妖魔との遭遇。
だがそれ以上に本来出会うことはなく、また敵として戦うこともなかった存在と向かい合っているという事実に頭が痛くなる。
理由なんて明白だ。
「
原作に存在しない未知の領域への介入。
つまりは原作情報なしの状態で、ユーザーに
助けが来ることはない、そんなものは淫界がとうの昔に断っている。
主人公の消耗も相まって、あまりにも行き詰った戦いが幕を開けた。