赤い赤い夕暮れの下、夏の熱が残った坂道を登って帰路へと歩んでいた。
他愛のない一日だった。
僕と■■■は二人で街に繰り出して、あてもなくぶらぶらと遊び回って、長く伸びている足元の影に目を落として、もう夕方なんだという事に気が付いた。
少し惜しい気持ちはあったけれど、また明日があるからと自分を納得させて帰ったことを覚えている。
「______?」
今日は楽しかったと、彼女は笑って言った。
その後に瞳から涙が零して、驚いた僕にすこし怖くて泣いたのだと彼女は話した。
自分なんかに、こんなにも楽しい日が来るなんて思わなかったのだと。
人並みの幸福も
ありふれた平穏も
誰かからの救いの手も、自分には縁がないものだと思っていたから。
「______!」
それは違うと、思わず大きな声が出た。
幸福も、平穏も、救いも、■■■みたいな女の子にこそあるべきなのだと、君がそうなれるなら僕はなんでもすると一心に話した。
本当? と彼女は問うて。
本当だよと、僕は返した。
その後に自分より強い彼女に何ができるんだ、と自分の矛盾に気付いて慌てていると、彼女に唐突に抱きしめられた。
普段の彼女らしからぬ態度に驚いたけれど、肩を震わせて、押し殺すように泣いていることに気が付いてそっと僕も抱きしめた。
本当に少しの時間だ。
強い彼女はすぐに落ち着いて、僕から離れるとありがとうと微笑んだ。
けれど後になって恥ずかしくなってきたのか、「また明日」と坂道を駆けていった。
「______また明日」
彼女がいなくなった坂道でぽつりと呟く。
そうだ。
こんな時間が続けばいいと、心の底から僕は願った。
彼女が幸福と平穏を享受できる日々を、また明日と笑い合える日が続きますようにと。
そして、世界がそれを許さないなら僕が彼女を守るのだと心に刻んだのだ。
いつかの誰かの、僕だけの誓い。
もう自分の名前もわからないけれど、それでも■■■を守りたいという気持ちは、まだ心に焼き付いている。
◆◆◆
「く、ぉ、おォ!?」
とっさに少年の腰に手を回して抱え込み、死ぬ気で跳躍する。
______瞬間、さっきまで足があった場所を、凄まじい速度でしなる触手が駆っていく。
着地しながら触手を目で追うと、いままでとは打って変ったように肉壁で激しく猛る触手群が目に映る。とっさに飛んでいなければ捉えられていたであろう事実に背筋が寒くなる。
主人公がダウンしている現状、俺が捕まってしまえばそこで終わりだ。切り返すように伸縮する触手群から逃走を開始する。
殺到する触手の追撃を紙一重で逃れ、危険な肉壁からなるべく距離を取ろうとして______
『LA、LA、LA、LA________!』
ビキリ、と脳がナニカに侵食される。
墨汁に白紙を浸すように意識が吞まれそうになって______頬の肉を噛み切って踏みとどまる。
「............ああクッソ!」
飛びそうになった意識を、痛みでかろうじて保持する。
だが頭が割れるように痛い。口に溢れる血液を吐き出して、意識を飛ばそうとした相手を睨みつける。
『LA、aa.........A?』
妊婦のような腹を抱えた聖母______堕落聖母とでも呼ぶべき妖魔が首を傾げる姿を見て舌打ちする。
______精神干渉できるのかよ!
一瞬で意識を持って行かれそうになった。
おそらく妖魔の歌に呪いが乗っているのだろう、さっきから護符がなにかに反応してやたら光っていたのはこれが原因か。護符は光の膜を展開してくれてはいるが、当初に比べてその光の輝きは弱い。たぶんそろそろ使えなくなる。
気を緩めると終わりだ。
わかっていたが、やはり状況は悪い。
目の前の妖魔がどの程度脅威であるのかは定かではない。
戦闘向きではなさそうだが、しかし呪歌による精神攻撃が飛んできたあたり油断ができない。というか、他にどんな攻撃をしてくるのか想像もつかない。
ないのだ、情報が。
それもその筈、この妖魔は原作において戦闘行為を一切しなかった個体。
エネミーとして現れることはなく、サブストーリーである『如月ヨミ編』で登場し、そしてたった一人の退魔士に邪悪の限りを尽くしただけの無名の妖魔であるからだ。
そのくせ格は明らかに偽仏や夜陰明神と同等だ。
いや、人間を一切の無駄なく消費するという性質だけを評価するなら、仏や狼よりも明らかに格が高い。
淫界とは女性に対し凶悪な特攻性能を発揮する領域______というだけではない。
捕らえた獲物を取り込み、作り変え、淫界を維持するための一部とする性質を持つ。
犠牲者が決して死ぬことがないように肉体を作り変え、想像を絶する快楽を与えながら異形の世界を維持させる柱として永久に利用する。改造し、変成し、やがて独立した
言ってしまえば「完結した世界の構築と隔離」ことが淫界の理想なのだ。
そして、目の前の邪聖母は
だからこそ、出会う事も想定していなかったのだが、上位個体を投入してくるあたり、どうやら淫界は余程主人公を潰したいと見える。なんなら即座に淫界に取り込む準備も出来ていそうだ。
もはやあきらめ気味に状況分析をしていると、薄暗い体液溜まりから跳ねたナニカが腕に張り付いた。
「.........あぁ!?」
身体から力が抜ける感覚に、とっさにナニカを叩き落とす。
飛沫を散らして跳ねまわるソレは巨大な蛆だ。
おそらくは淫界で産み落とされた異形の蟲、その一匹が邪聖母の命令で襲ってきたのか。
現状、大した影響はない。
だがこれは、その少ない影響を積み重ねてくるタイプの攻撃。
もちろんその攻撃をするのは、淫界の底で無数に生み出され続けている生物に決まっている。
「.........クソがよ!」
______原作によると、この邪聖母が生まれて少なくとも十年、下手をすれば数十年の時間が経っているらしい。
その膨大な時間の中を、際限なく限界なく眷属の生産に当て続けている妖魔がいるとするならば、その眷属の全容は果たしてどれほどのものなのか。
淫界の暗がりから地鳴りのような音が響く。ばちゃばちゃと飛沫を上げ、凄まじい勢いで迫ってくる蛆を見た瞬間、回れ右をして走り出す。
いや無理だこれ。
ほとんど津波だ。
飛び越えるとか、気合で踏ん張るとかそういうレベルじゃない、全力で退避する。大量の眷属を保持するためか、やたら空間に奥行きがある方向に走っていく。
見た目通りというべきか、邪聖母は眷属を生み出し、形成した群れを操るタイプだ。振り返れば、邪聖母の丸い腹がパクリと切れ目が入り、その隙間から巨大蛆が這い出しているのが見える。
攻撃は手下に任せ、自身は安全な位置から呪歌で削ってくる戦法。直接攻撃力は狼や仏に劣るが、消耗しきった自分たちを
オマケにあのバケモノの腹には、おそらく______
「.........妖魔、風情が」
思考を遮るように、手袋に腕を押し込む音が聞こえた。
「は?」
言い訳をさせて欲しい。
恐怖、疲弊、緊張、理由はいろいろあるが、考えていたせいで気付くのが遅れた。まあ気付いても止められなかっただろうが。
腕の中の少年が、振りほどくように飛び出すのを視界にとらえる。
「邪魔をするなァァァァアアアアアアア!!」
「それはマジでヤバいって!!!!」
怒りの咆哮を上げて、妖魔の津波に特攻する女装少年を、俺は慌てて追いかけた。
◆◆◆
浄化の焔が淫界を斬り裂いていく。
これまでに幾度となく行った白焔の放出。
狙うは邪聖母本体。
少年の有する「伊早瀬アラカ」の経験も、あの本体を討てと叫んでいる。
この手の妖魔は動きが遅く、自身の戦闘能力は低い、自衛能力があってもたかが知れている。親を潰しさえすれば、低級妖魔などどうとでもなる。
短期決戦だ。
速攻で本体を叩く。
邪聖母に向けて撃ち放った焔は、しかし親を守るように集まった妖魔の津波に呑まれて消えた。火力が足りていない。だが蛆の量が多少は減った。
それで十分だ。
「............っ!」
霊力を循環し、性能を高めた肉体を蟲の津波にぶちかます。
轟音が響く。
爆弾を打ち込まれたかのような威力に、蟲が肉片の飛沫と化し、妖魔の海が拓かれる。
低級妖魔など有象無象だ。
ゴミ掃除と同じ、邪魔なら排除するのみ。
サイコメトリーの反動で脳の中をぐちゃぐちゃと掻き回されるような感覚に襲われるが、構うものか。目の前に姿を晒している敵の親玉を見据え、勝利を確信する。
高揚、狂気、優越、嗜虐、愉悦があらゆる感情が少年を突き動かす。
一足で距離を詰め、邪聖母に拳を振りかぶる。
眷属共が慌てて集まってくるが、すべてが遅い。
見知らぬ男も、必死の形相で何かを叫んで走ってきているが、どうでもいい。それよりも自分に盾突く妖魔に復讐をしたい。その果実のように膨らんだ腹を潰してやりたい。
なにより、自分は
だから少年は拳を振り抜こうとして______
「______たすけて」
邪聖母の腹から、誰かの声が聞こえた。